はてなキーワード: 日本家屋とは
昔の日本家屋でも今の夏は乗り切れないよ。
かつての日本家屋は猛暑を気持ちよく乗り切れるように下記の特徴があった。
「軒が深い」
「壁が少なく開放部が大きい」
「畳、土壁、板の間などの湿気を吸収する素材」
現在の日本家屋は同じ木造であっても暑さへの対応の思想が伝統的な日本家屋とぜんぜんちがう。昭和56年の新耐震基準法を境に日本の住宅はそれまでのものとは全く違う。猛暑への対応についてのみ着目した場合、連続性がない。特徴は下記の通り
「建ぺい率の影響で軒が短い」
「石膏ボードなどの断熱壁」(断熱性にすぐれているが熱がこもりやすい)
「壁を多く確保することが義務付けられ開放部が旧来の半分以下である」
「風の通り道などの考慮がない。空調をエアコンや換気扇に頼っている」
とにかく、夜間に涼しい空気を取り込んでおくことが快適にすごせるポイントになる。どんな暑い日でも夜間は25℃ぐらいまでは下がるのでこれで室温を下げる。そして壁を冷やす。石膏ボード製の壁は冷気を溜め込んでくれる。壁が冷えていると同じ室温でも人間から体温を奪ってくれるので快適にすごせる。
現在の住宅に「軒がない」というのがかなり致命的。これに対処するためには、日中は雨戸を締めるしかない。雨戸、または、シャッター、断熱性カーテンを閉じて直射日光を遮る。窓は熱風が吹き込んでくるだけなので締めておく。とにかく夜間にためた冷気をキープするようにつとめる。
上記の方法を方法を取り入れた結果。日中の気温を34℃以下にたもつことができた。エコに貢献できてうれしい。そして。原発を停止させた民主党は滅んでほしい。
うちは普通のサラリーマン家庭なのですが、父方の祖母は、占い師か拝み屋みたいなことをしていました。とはいえ、謝礼にお金はもらっておらず、食べものばかりだったようです。それも手をつけることはなく、近所のお稲荷さんにお供えしていました。
私が大学の時、先輩と出会いました。先輩はゼミのOGで、就活の相談で知り合いました。色白で、黙って座っていたら良家のお嬢さんという印象です。しかしどこか掴みどころがない人でした。
祖母が先輩と会ったのは、相談の時に私が忘れ物をしたのがきっかけでした。
春先だったか梅雨だったか、よく覚えていないのですが、雨が続く時期だったと思います。
友だちからもらった、ディズニーのお土産のタオルハンカチでした。大事なものだったので、同じ沿線だから駅まで持っていって渡そうか、という先輩の言葉に甘えました。
出掛けに、祖母も駅前へ花を買いに行くというので、一緒に向かいました。
先輩を見るなり、祖母は「とら」と言いました。ハンカチを渡してもらいながら、何を言い出したかと、私はポカンとしていました。
「お嬢さん、ごおうのとらでしょ。お母さんとお父さんの干支は何?」
「母はひ(き?)のえうまです。父はごおうのとらです」
先輩はちょっと驚いていましたが、割と平然と答えました。
「昔、古いおうちに住んでた?」
ここで根掘り葉掘り尋ねる祖母をたしなめようとしましたが、「色々聞いちゃってごめんなさいね」と、自ら質問を切り上げたので空振りになりました。
後から聞きましたが、先輩は育ちが西の方で、昔住んでいた家が、さるお屋敷の離れを一戸建てに改築したものだったそうです。訛りが全くなかったので驚きました。
その時はそれで解散となり、おばあちゃん何なんだろな、と思いつつも、それで終わりでした。
祖母と先輩が次に会ったのは、夏になった頃です。祖母はこの時期に、一番拝み屋的な仕事をしていました。とはいえ、詳細はよく知りません。謝礼のお供えものをもらってくるので、そうと知れただけです。息子の父が何も言わないのはともかく、嫁の立場の母は、こういうのどう思っているんだろうと思っていましたが、母は全く咎めませんでした。祖母と母は、仲良しとまではいかないものの、ごく普通の関係でした(それが実は大変なことだというのは今はわかっていますが)。
7月の中頃だったと思います。先輩と連絡を取りたいと祖母に言われ、私はびっくりしました。拝み屋絡みか、と訊いたら否定しませんでした。しつこく粘られ、「先輩が承諾したら」「私にも詳細を教えてもらう」という条件でしぶしぶLINEしました。先輩は祖母が拝み屋ということにもさして引かず、むしろ面白げにあっさり了承しました。
手伝いというのは、祖母の指定する家に一晩泊まるという内容です。孫の私でも、かなり怪しい話です。
「心配なら、W(私)ちゃんも泊まりなさいな」と祖母は言い、私もそうすることに決めました。
向かった先は、有名な温泉街の駅でした。交通費は先方持ちとのことで、温泉に入った後、駅からタクシーで向かいました。山坂のある道で、結構距離はあったと思います。
途中、神社にお詣りし(なんという神社か失念しましたが、たぶん八幡様だったと思います)、着いた先は、ごく普通の一軒家でした。
祖母は入る前に、先輩に「和室で待ってる人がいるので、やってもいいと思うなら、肩を叩いてあげて」と言いました。それから、二階には上がらないこと、全員一階の和室で寝ることを言われました。
インターホンを押すと、奥さんらしき人が、扉を開けてくれました。少し疲れた印象でした。二階に上がる階段は、入って正面の突き当たりにありましたが、赤ちゃんやペット用の柵みたいなものが塞いでいたので、うっかり上がることもなさそうでした。
和室には祖母の言ったとおり、高校生ぐらいの男の子がいました。背の高い、いかにも運動部という感じの男の子です。集団でいたら避けたいタイプかもしれません。しかし妙に落ち込んでるように見えました。歳や見た目割りに、大人しいというか。先輩は、特になんともなく、その子と叩きました。
その泊まりは何もありませんでした。
ラップ音とか、怪しい影とか、変な声とか、何も。
というか、実はこの話、最後までそういうのはありません。
まあ、私も先輩もいわゆる霊感などなく、先輩に至っては、夢で幽霊や化け物が出たら、怒り狂って殺しにいくとのことでした。だから怖い夢が怖くないと言っていました。
夢占いだとそういう化け物殺しはストレスの兆候らしいのですが、今となってはどうかはわかりません。
夜のご飯は弁当(高いの)を持ち込みましたが、朝はおにぎりと味噌汁を出してもらい、そのまま帰りました。帰り際に、祖母は封筒(おそらく交通費や弁当代)と、お菓子か何かをもらっていました。
私と先輩は訳がわからなかったものの、温泉・高級弁当・タダということでラッキーという感じでした。当初の怪訝さはどこへやら、うまい話ヤッターみたいな感じになりました。
結論として、この手伝いは数年続きました。夏が多かったものの、季節関係なく、先輩のスケジュールが空いていれば成立しました。
色々なところに行きましたが、大体条件は同じでした。
温泉があれば寄る。
先輩が居間の人の肩を叩く。
二階や特定の部屋には入らない。
祖母・先輩・私は同じ部屋で寝る。
ほぼ、先輩は肩を叩きました。
時折、臭う不潔な人や、ずっとうめいてるような露骨に変な人もたまにいましたが、普通に叩きました。
しかし、数回だけ、叩かないことがありました。
その時はその家には泊まらず、謝礼も貰わず、祖母持ちで、ビジネスホテルや空いている旅館に泊まりました。
叩かなかったいずれの時も、先輩がものすごく機嫌が悪くなりました。本当に、露骨に触るのも嫌という様子でした。普段飄々とした先輩が、突然牙を剥くみたいになるのです。
先輩の声は女性にしては低い方なのですが、「叩けません」という声にはドスがきいて一層迫力がありました。はたから見ていても、とても怖いのです。
叩かれない人は、ずっと呆然としていたり、逆にニヤニヤしていたり、やはり変な様子でした。しかし、叩かれた人にも変な人はそこそこいたので、正直私には差が分かりませんでした。
先輩に後で訊いてみると、先輩も理屈はわからないものの、とにかく本当に触れない、触りたくもない、汚らわしい、腹が立つ、という気持ちになったそうです。
今思えば、そういう不思議なことは間違いなくあったのに、直接的に怖い訳ではないと、存外平気なものなのだな、と思いました。
この手伝いがなくなったのは、突然でした。祖母が「今までお手伝いありがとうございました、これで最後になります」と、宣言したのです。秋か、冬のことでした。
最後のおうちは、特に印象はありません。そこの人は、肩を叩かれました。白い猫ちゃんがいて、私にも先輩にもゴロゴロいってかわいい子でした。
先輩は「役に立ちました?」と訊き、祖母は「大変助かりました、ありがとうございました」と言って、先輩にお礼は何がいいですか、と尋ねました。
「それじゃ最後にWちゃんも含めてお食事しましょう、それがうれしいです」ということで、祖母の奢りで3人でふぐを食べました。祖母は奮発してくれ、一番いいコースで食べました。
その後、先輩は引っ越して県外に行ってしまい、私も仕事に慣れて忙しくなり、疎遠になりました。
結局あの手伝いはなんだったのか。
その時、祖母は、私が先輩から借りっぱなしにしているものはないかと訊き返しました。先輩とはものの貸し借りはなく、お金などは代わりのものを奢ったりして都度トントンにしていたので、そういうものはありませんでした。
それを聞くと、祖母は話してくれました。というかメールですが。
「K(先輩)さんはね、とらです。悪いものには、ものすごく怖いとら。動物のとらみたいに、いるだけで怖い。巡り合わせもありますが、滅多にいないひとです」
「泊まりの都合が、合わなかったひとは、もう最初から、助かるご縁がなかったんです。来てもらって、肩を叩いてもらえたひとは、許されてもいいってこと。叩いてもらえなかったひとは、だめ」
「強いと因果も色々あるんだけど、Kさんは、絶対大丈夫。あのひと、甘やかされてないから、馬鹿みたいに運がいいとかはない。だから負ける時は負けるけど、それはそれで、怖いことなんです。自分を負かした相手の運を、埋め合わせに、根こそぎ持っていってしまう。貸し借りのことを聞いたのはね、それと同じで、借りっぱなしで泥棒するのが、とても良くないことだから。ちゃんと謝って返すか、許して譲ってもらうかしないと、持ってるものぜんぶ無くなるまで、持っていきます。自分からは、どうこうしないけど、ずうずうしいとか、わきまえないひとに、容赦しない」
祖母がこのことを言うのは、たぶん私と先輩のご縁が切れたからで、でも忠告でもあるんだろうな、となんとなく思っています。
コロナが本格的に流行り出す前に、祖母は脳梗塞で亡くなりました。
お稲荷さんへの謝礼のお供えの話は、葬式の後に父から聞きました。
父も詳しくは知らないそうですが、他人様の不幸せを、自分の稼ぎにしてはいけない、ということでお供えにしていたようです。
母が嫌がらなかったのも、たぶん金儲けじゃなくて人助けだと思っていたからなのかもしれません。
先輩は、人づてに聞いたところ、普通に元気で、バリバリ仕事をしているそうです。
お手伝い中、会社でパワハラで有名なお局さんに嫌がらせされている、とボヤいていたのですが、結局そのお局さんが部署をたらい回しにされ、会社をやめたそうです。
たぶん、そのお局さんはこの先いいことはないんでしょう。知らないとはいえ、恐ろしいことをする人もいるものです。
もう一つ、昔の友人にCDを借りパクされたという話を聞いたのも、今書いていて思い出しました。それもどうなるのでしょう。
特にまとまりのない文章になってしまいました。まあ、別に怖くもないでしょう。
こんな話は誰もリアルには信じないと思うのですが、やはりこうも変な体験だと誰かに話したくて(フェイクも混ぜてますが)、ここに投げています。
唯一怖いといえば、都合のつかなかった人、叩いてもらえなかった人のことがあります。
どうなったんだろう、とふと思います。
気にはなりますが、出来もしないことに深入りしないのも大事でしょう。
私は虎のように強くもないし、祖母のようにそれを見極めることもできないので。
そうそう。また書いていて思い出しました。そういえば、タオルハンカチを届けてもらった時に「親切にしてもらうのだから、お礼を持っていかなきゃ」と、祖母はゼリーを用意してくれました。あれは今思えば、なかなかファインプレーだったのかもしれません。
オチのない話で申し訳ないですが、あなたの暇潰しにでもなれば幸いです。
***
虎の威を借る狐だった。
こんなこと何度もないですよ。これが初めてです。
皆さんもお気をつけて。
***
だから気をつけてと言ったのに。
まだ気付いてないんですね。
これはとらの話なんですよ。
残念です。
***
縁がなかった、許された、許されなかった。
その差は?
だって良かれと思ったことが、こちらは些細と思ったことが、向こうを怒らせてずっと恨みを買うなんて、よくある話じゃないですか。人間相手ですら。
びっくりするぐらい真反対の考え方の人って、実際いるでしょう?
私は間違えない?
私は正しい?
本当に?
信じるって、そんなあっけらかんにしていいことなんでしょうか。
***
急に寒くなりましたね。
狐よ、肥えろ肥えろ、どんどん肥えろ。
***
黄質黒章、鋸牙鉤爪。
のこぎりの歯とかぎづめを持つ、黒いすじを持つ黄色の化け物。
訳が分からなくて、怖いですよね。
でも、それに「虎」と名付けたら?
だから「とら」にした。
少しでも縁のある器に注いで、形を捉えた。
そういうことなんですかね。
でも、名前が付いたからって、虎は本質的に虎のままじゃないですか。
ましてや「とら」だなんて、図々しいじゃありませんか。
そういうものの名を、人の分際で決めて、しかも領するなんていうのは。
定義付けるべきじゃなかったなら、せめて、よくある作り話とみんなが思って、薄まらないかなって思ったんです。
これも、いまいちでした。
あんまり詳しく正しく書いて、道理を通そうとするのは良くないんですよ。この手のは。
言うじゃないですか、ラテン語か何かの格言で「神秘は秘匿されるが故に神聖也」って。
でも今時って、皆さん考察したり、伏線や矛盾を突いたり、暴くのがお好きでしょう?
かえって、あちこちに細く尾が走っていってしまってね。申し訳ないことに。
***
これで手打ちにしてくれるそうです。皆さんどうも。
***
長らくお付き合いありがとうございました。
こちら出張の片手間に推敲もせず書いたもので、始末に困って貼ったのですが、存外見ていただけたようで、驚いております。
それでは、本当のお開きでございます。
皆様、余さず頂戴し、骨の髄まで堪能させていただきます。
ご機嫌よう。
母親の知り合いであるEさんが食事をおごってくれると言ったので、高校時代の友達であるNちゃんとYちゃんを誘って一緒に行くことにした。
Nちゃんが卒業した大学の附属病院を待ち合わせ場所にしたが、Nちゃんは「診察を受けてくる」と言って私たちを残し、病院のいちばん奥の診察室に入ってしまった。
異様に大きいトイレの看板とソファーしかない廊下で、Yちゃんと一緒に立ち尽くしていると、看護婦さんがやってきた。
「当院では、スタッフ以外は全ての衣服を脱いでいただく決まりになっています」
「でもNちゃんは脱いでませんでしたよ」
「そうなんですか……」
そんな会話の後、看護婦さんに連れられてしぶしぶ更衣室に入った。ドアもなくカーテンで仕切られただけの狭いスペースで、床に直置きされたカゴには誰かの服が脱ぎ散らかされていた。
面倒くさいことになったな、と思いながら私も服をカゴに放り込んで全裸になった。今まで何もしゃべらずボーッとしていたYちゃんも、いつの間にか全裸になっていた。
よく見ると、部屋のすみっこの方に固まっていた5,6人ぐらいの女性のグループは、全裸にならず水着に着替えていた。彼女たちはどうやらグラビアアイドルで、健康診断に来ているようだった。
「この病院はトイレがいっぱいあっていいね」とか「何でみんな全裸なのかな」とか、そういう会話をしていた。こっちが訊きたいよ、と思った。
Nちゃんの診察が終わると、やっと病院を出られた。私とYちゃんは何故か全裸のままだった。恥ずかしくはないけれど、なんだか貧乏臭くていやだった。
「何の診察受けてたの?」
「私、鼻の血管が一本足りないらしいんだ」
「怖いね」
そんな会話をしながら歩いた。Yちゃんは相変わらず何も喋らないし、ボーッとしていた。
Eさんの家は古い日本家屋で、玄関がどこにあるか分からなかったので窓を叩くと、Eさんが顔を出してくれた。
「ご飯おごってください」
Eさんは私に一万円札を三枚渡し、「元気でね」と言って窓を閉めた。確かに奢りといえば奢りだな、と思った。
お腹が空いていなかったので、小さな民宿で昼寝をすることにした。畳に布団が三枚敷いてあるだけの質素な部屋だった。
Yちゃんはさっさと寝てしまい、Nちゃんは「珍しい同人誌を見つけたんだよ。レアなんだ」と一冊の本を見せてくれた。
B5判で、クリアファイルみたいな素材の黄色いカバーがかかったそれは、どのページを見てもボディコン服を着た女の人(多分アメリカ人)の単調なイラストが載っているばかりで、セリフもストーリーもなくてつまらなかった。
私が「英語の教科書みたい」と言うと、Nちゃんは怒ってしまった。何とか機嫌を直して欲しかったけれど、その本には褒めるところが見つからなくて困った。
いちかばちかで思いついたギャグを言ったら、笑ってはくれたがやはり怒っていた。どうしようと思っているうちに、室内にはグルグルと赤い光が回り、サイレンが鳴り始める。
近くの駅の電車の時刻に合わせて鳴るサービスらしく、若い男の人が妙に嬉しそうな声でアナウンスをするが、強烈に音割れしていて不快だった。
物騒で暴力的な赤い光のもとで、私は呆然として、Nちゃんはまだ怒っていて、Yちゃんは安らかに眠り続けていた。
おわり。
現実のEさんの家は普通の一軒家で、Nちゃんの出身校に病院はないし、彼女が怒ったところを見たこともない。Yちゃんも無口ではない。
御苑とかいてギョエンと読むのがなんかまだ受け入れられてないので、間をとってギョ苑と書く
ギョ苑、目的地の近くにあり、暇な時間もあったので、わりとついでというか、なんとなくって感じで行った
まず思ったのが、なんつうか、デカい
由緒ある日本家屋?日本風建築?、だいたい砂利道があるイメージなんだけど、その砂利道がアホみたいに広い
なんだろう 普通の感覚だと、学校のグラウンドのトラックくらいの幅の砂利道だとけっこう広いなと思うんだよ
ギョ苑の砂利道、グラウンドそのものみたいな幅で、長さにしてもグラウンド5個分くらい連なっている レベルが違う
素人目には面白さがわからん、典型的な古い建物ですね、OK!という部分ももちろんあるんだけど、なんかデカくて明らかに荘厳な部分がところどころあった
今日全然人いなくてなかば貸切みたいな状態だったのも効いてるかもしれん
特に良かったのが、なんやっけ、紫宸殿(変換できたから多分コレや)
どういう場所なのか知らんが、建礼門っていうなんか名前聞いたことある有名くさい門から直結で、間取り的にもエエところにあるので、本丸みたいなモンなんだと思う
右近の橘と左近の桜とかいって木が2本植えてあるのがボスっぽくてカッコ良かった
月華門と日華門ってのが左右にあるのもかなりいい RPGの文脈なんだよな
紫宸殿を臨む広場は基本立ち入り禁止で、端っこからちょろっと見してもらえるだけなんだが、だからこそ砂利が綺麗にならされていて、えもいわれぬ迫力があった
ギョ苑、良かったですよ
日本史全然しらず、感受性も弱い俺が行って感動する場所があったということは、マトモな人がいけばもっと感動するだろう
夫のためにバレンタインフェアに行った。
並ぶ。
列の何組か前に見知った顔を見つける。
夫だ。
しかも女連れ。
「誰よその女」と、まるでドラマのような科白で詰め寄る。
周りも気にせず大喧嘩。
修羅場を抱えながら列は進む。
入場の順番になったがこっちは全くそんな気分ではない。
しかしせっかく並んだのだ。
一応入場はする。
怒りでほとんど何も視界に入らない。
思考もろくにできない。
夫が追いかけてくる。
爺ちゃんは小学生のころのまま、不器用ながらも優しく語りかけて慰めてくれた。
少しクールダウンになった。
会場から出る。
ひどい雨だ。
傘を差す。
この建物は丁字路の右下部分に建っているらしい。
片側一車線ながらも交通量はそこそこあり、車のスピードも速い。
「この横断歩道渡りづらいのよね」と見知らぬ年配が独り愚痴を言う。
信号が変わった。
丁字路とは思えない速度で車が進む。
なるほど渡りづらい。
運良く車の列が途切れた。
さっと渡る。
まっすぐに道を進む。
傾斜はゆるいが長い下り坂だ。
ふと違和感を覚えて上を見る。
傘の骨が折れている。
ボロボロだ。
どんどん道が細くなる。
車一台となんとかすれ違う。
左右には古い日本家屋が並ぶ。
やはり瓦屋根は良い。
時折小さな畑を挟む。
夏野菜だ。
道は続く。
いつしか田が目立つようになる。
丁字路に出た。
左か、右か。
右の道5メートル程のところに、細い脇道がある。
進行方向と合う。
あの道を行こう。
スマホを取り出す。
よかった、細いもののまっすぐ続いている。
細いあぜ道を進む。
交差点を突っ切る。
急に道がかなり広くなる。
相変わらず地面は土。
だがさっきと違い、しっかりと固められている。
端には草が生えている。
6月の稲が青い。
道がまた少し細くなる。
実家に着いた。
いつしか雨は止み、傘も無い。
思い出したかのように怒りや不満が広がる。
ごろんと横になり、例のゲームで遊ぶ。
気付けば隣に父がいた。
だらけた姿勢で父に話す。
「ちょっとくらいそんなこともある」なんと父は夫の味方だ。
母と妹がやってくる。
ソファに座る。
同じように愚痴る。
「許してあげなよ」という母に妹が同意する。
ここまできて四面楚歌。
居たたまれず飛び出す。
そんな夢を見た。