はてなキーワード: 左脳とは
そりゃ仕事やなんや、英語が便利なのは確かだろう。が、日本語には日本語にしかないものがある。と、思っている。
例えば、虫の声。
虫の出す音を「声」と感じるのは、日本人とポリネシア人だったかな、だけらしい。
日本人とポリネシア人は、虫の鳴き声を言語を司る左脳で聴き、西欧人は右脳で聴いているのだとか。
このため日本人は、虫の出す音を「声」と感じ、そこに様々な情緒を感じとる。しかし西欧人にとっては虫の出す音は「音」であり、うるさいと感じたりもする、と。
他にも、雨音や、川を流れる水の音。風の音なんかも同じだとか。
で、こういう違いがあらわれる原因はなにかというと、どうやら日本語にあるらしい。
日本語・ポリネシア語を母語とし、幼少の頃から触れているかどうか。それによって、こういう違いがあらわれるのだとか。
日本人じゃなくても、日本語を母語として育てば、同じく「声」と感じるようになるらしいです。
こういう様々なものに情緒を感じる力と、制約が少なく柔軟な日本語の特徴とが相まって、日本語には擬音・オノマトペが多く、多彩です。曖昧なものを曖昧なまま伝え、共有する力に長けています。これは日本人の「和」という言葉に象徴される、共感能力や協調性の高さへも影響しているでしょう。
他にも、日本語は制約が少なく柔軟という特徴をもっています。そういった特徴は、新しい言葉を作り出す能力の高さに繋がっています。
ノーベル賞を受賞した益川教授は、英語が苦手で、ノーベル賞受賞のスピーチにのぞんだ折り、日本語でスピーチをしました。
これに世界は大変驚いたらしいです。何に驚いたかというと、英語が出来ないということではありません。もちろんそれもあるでしょうけれど、もっと驚きだったのは、英語が苦手なのに、ノーベル賞を取れるほどの学を積めたことに対して驚いていたのです。
大学レベルの学問まで、ほぼ単一の単語で学ぶことができるのは、英語と日本語くらいじゃないでしょうか。(他にもあった場合はすみません)
これはなぜかというと、日本人が、全て日本語にしてきたからです。言い換えると、新しい単語を作りまくったからです。
そういうことができた理由は、日本語がとても柔軟な言語だったからに他ありません。
柔軟で、情緒溢れる言語は創作を生み、独特の感性を形作ります。それらが日本人の「日本人らしさ」に与えてる影響はとても大きいでしょう。
母語を英語にする。そりゃそれの方が楽なこともあるでしょう。けれど、古来より紡がれてきた「日本人らしさ」を、徐々に薄めてしまうかもしれない可能性を考えたら、いらないなと思うし、なによりこんなに素敵な言語を捨ててしまおうと思える気がしれないなぁと。
わたしはそう思うなぁ。
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
前提として美術は自然そのものは扱わない。自然の景色が美しく、それに感動することは素晴らしい体験だが、それは美的体験とは異なる。あくまでも人が意図を持って制作したものを対象とする。現在では自然そのものの美しさを描き出そうという作品の評価は高くなりにくいが、自然を題材に人が意図を持って何かしら工夫して表現しているなら、それは高く評価される可能性がある。上述の話からの逆張りとして、「あえて意図を排除した作品」というものもある。つまり、「意図を排除するという意図を持った作品」として美術の概念に挑戦する作品である。
このように現代の美術はその概念の拡張の歴史によって形成された複雑なものとなっており、何がアートかは「アートワールド」が規定するという言説もある。
デュシャンは、レディメイドという、既製品を作品として示し、自ら手を動かして制作したものだけが美術ではない、美術の概念を拡張した。美術にとって「美しさ」はいまだ重要な価値のひとつだが、美しくなくとも重要とされる作品も誕生している。それに付随して、快だけでなく、不快さを抱かせる作品も評価の対象となった。作品は多様化した。一時は、作品の中で表現された情報だけから評価をすべきだという話もあったが、今は作家の意図や社会課題、美術文脈などを踏まえた評価が一般的になりつつある。評価は総合的だ。現代美術は右脳だけでなく、左脳も使って美的経験を得るゲームなのだ。人々の変化とともに現代美術も変わる。つまり、その時代に合った作品が評価される。評価は複雑で可変的で相対的だが、それを面白いと思うかどうかは、人によるだろう。
ちなみに、作品について、鑑賞者が見たいように見ればよい、という言説については、本人の中で完結する場合は、自由にすればよい。それが内心の自由だ。しかし、他者に作品について、感想を話すなど、表現する際には、描かれているものの認知、そこからの美的体験、作品の背景など適切に感じ・知ることが必要だ。正解はないが、押さえるポイントはある。それが話し合う土台になる。
https://wwr-stardom.com/news/release523/
正直、存じ上げない方だったし、テラスハウスも見ていないので事のいきさつはよくわからない。
見出しが目に入ったとき、事故死か、急病か…もしかしてコロナ?…とか思った。いずれにせよ若いのに残念なことだ、と。
原因(と思われる事象)は、ネットの歴史で嫌というほど繰り返されてきた、ありふれた事件のひとつではある。具体的な案件、被害者を挙げればいとまがない。対処法も千差万別、裁判所に持ち込んで徹底抗戦をする、これも有名税と割り切った対応をする、など。
ただ隣国・韓国で相次いだ、トップアイドルと言って差し支えないレベルのタレントの自殺事件があって、様相がすこし変わってきてもいた。そしてついには、日本でも 同様の事件が起きてしまったということか。
いわゆる、こうしたネットイナゴ/ネット暴徒にどのように立ち向かうか、また、そもそもここで言う悪とは何なのか誰なのかといった論は差し控える。付け焼き刃の知識で雑な論を書いても何も実るものはない。
ただ、私自身、この事件に腑に落ちない、わだかまりを感じている。すなわち、SNSで叩かれて、なぜ自ら命を断たなければならないのか、ということに、左脳的なところでは承知していても右脳的なところで納得がいっていないのだ。
私事で恐縮だが、昨年書いた増田がプチ炎上をした。頭の悪いことにセルクマなんていうものをしていたため、はてブの通知は大変なことになった。ブクマ数が10を超えたところで「おや?」となり、そこからはあっという間だった。ブラウザを更新するたびに数字は増え、アプリを開くたびに通知が届いていた。最終的に300くらいになっていたはず。というのは、該当する増田およびブクマをこころの裡に封印しているからだ。思い出したくもない屈辱である。
そんなに大したことのない数字ではある。しかし、こちとら鳴かず飛ばずで10年やってきた。今回もひっそりと増田の片隅に埋もれるものだと信じて疑わなかった。そういう身に、これはかなり刺激の強いできごとだった。
このとき私が試みたのは、アプリを消すということ。10年やってきてそこそこスターもつけてもらったアカウントだし、物書きなので、一度書いたものはどんなに拙かろうが残すべきである、それを含めて責を負うべきなのだ…などと半端なプライドがあったりもした。アカウント/エントリーを消す、という方策は初めから俎上に上がらなかった。代わりに、アカウントと実世界で生きる「私」との間にある接点を切り離すことにした。
どれだけ反論してみても意味はない、ただ時間が過ぎるのを待つしかない、ということを長年のネット経験で感覚的に理解してもいた。そうして半年ははてなのサイトには近づかないようにしようと誓った。その代替として、グノシーだのスマートニュースだのを入れてみたが、これらは端的に言ってクソだった。
私は1980年代初頭の生まれでいわゆるアラフォーという年代なのだが、ネットの世界は極論的には物理の力で強制的に遮断できる、という観念がどこかにある。
「勇午」という漫画で、敵に逆探知(?)かけられそうな時に電話線もろとも切断する、というシーンがあったはずなのだがまさにこういうイメージだ。
ところが今の10代〜20代前半の人たちの文章を読んだり、動向を追ったりすると、SNSが日常やこころの深いところまで入り込んでいることが見えて驚きを禁じ得ない。
「言葉の暴力が人を殺す」とはネット時代以前から言われ続けている。それ自体は新鮮な論ではなく、ここに疑いの余地はない。彼女を死に至らしめた誹謗中傷を許さない。書き込んだ奴らは恥を知れ。まったくもってその通りである。
ただし、善人ばかりで回らないのもこの世の常。防衛の手段としてなんらかのオプションを持つことも生き抜くためには必要な知恵かと考える。その際、SNSを、そこで持つペルソナを自身から切断するという手段は、もはやネット黎明期の牧歌的な幻想なのだろうか。
※「内向的な人間が言われて嫌だった言葉とか色々」ってのがタイトルとしては正しいです。逆の意味で捉えられた方申し訳ありません。
内向的と外向的の大きな内訳についてはたくさんの人が絵付きで解説してくれているので知らなければ調べてくれるとうれしい
ざっくり言うと
という感じだろうか、個人的認識なので間違ってたらごめんなさい
意外と書いてくれてないことに、ベースに内向的と外向的があるだけで、殆どの人は偏りはあれど両方の面を持っており、最近たまに見る右脳左脳型テストみたいに、
超内向型、内向型、内向型寄り、ハイブリッド型、外向型寄り、外向型、超外向型
みたいなのが有ると思っておくとよいかと思う。
内向的でもコミュニケーションの場であるパーティとかウェーイのノリは状況次第で楽しむことは可能だがMPダメージをめっちゃ食らう、僕の体感は10倍位。
外向型でも一人の時間を楽しむ事は可能、但し内向型ほど長時間は難しいし、MPダメージになることも有る。
そしてお互いに程度は違えど、一人の時間と他人とのコミュニケーションは全員が両方必要としている。一方だけだとバランスが取れない、って感じで僕は理解してます。
内向型の僕が個人的にすごく嫌だった言葉がいくつか有るので列挙する。中には内向的関係ないのもあるかもしれないです。
なぜ嫌だったのかを書いているが、甘えに満ちた内容なのは承知の上ですが、一応一旦言葉になっちゃったものなので消さずに残してます。
とまあ色々上げてみたんだけど、文章にしてみると大半が甘えと判断してもおかしくないなとも思うわけで、理解を深めるため文にして整理してみたんだけど、やっぱ伝わりにくいなと思った
この手の話をしているとよく言われるのが、「お前めんどくさい」という言葉で、まあそうやって考えないと生きてこれなかった人と、そう考えなくても生きてこれた人にとって、後者が前者を面倒だと思う事は多いだろうなって思う。
最近、この状況を少しずつ良くするために下記は心がけている。
この行動に至ったのは上司に言われたのだけど、
「苦手な分野では小手先のテクニックのようなものでかまわないから、最低点を取れるようにしておかないと、必要ないところで敵に付け入るスキを与えてしまう」
という説得。なんかこれならやる気になる。
言葉がとても大事というか、自分が思ったより単純だったのかよくわからないけどすごく響いた。最終的には内向的と外向的のちょうど真ん中あたりを目指すのが、最も色んな人を理解できる可能性が高いのかなと思っている。
皆様ありがとうございました。
匿名日記の特性上、決して口には出さないけど心に浮かんできてしまった汚い感情と言うものを吐き出すような場所だと思っており、どうせ殆ど見ないだろうと思いながら書いてました。不快にさせてしまったら申し訳ありませんでした。
最後に書いていたように視野を広げる為にいろいろなことを試し始めて、最近少しずつ効果が出てきたかなと思ったので、自分がどう感じていたのかを整理するついでにここに書いてみました。
言い訳で申し訳ないのですが、長めの文章書くこと自体殆どやらないので、、、これだけ長い文章書いたら通じない事も多いだろうし、揚げ足も取られまくるだろうし、誤解与える事も多いだろうなと思っていたのですが、そもそもタイトルから2つの意味に取れるというレベルのやらかしをしていたのはホントにすみませんでした。
コメントを色々頂いているのでざっくりとした回答をば失礼します。
ほんとにすみません。反応が一番多かったのはここへのツッコミでした。本当に日本語勉強しないといけないと思いました。
これらについては、ネット診断などの判断基準を見ていると、結構該当するなとは思っています。一方で、所謂コミュ障、アスペ、発達障害というのは、自分でその状態が駄目だと思うことで、初めて自覚するものでも有るのかなと思っていて、その状態で駄目と思わずに対処方法を見つけていくと、深刻な状況にならない可能性もあるかなと思います。
うまい付き合い方見つけられると良いのかなと思うのだけど、そのあたりはどうしても他力本願になるのでまあ難しいですね。個人的にはその可能性がある人間を見つけた場合、そこを問題として矯正するのではなく、深刻化しない為に何が出来るかを考えられる人間でありたいです。
確かに以前は完全に見下してましたし、当時のことを思い出しながら書いてたのでその部分が隠せてないのも自覚してます。すみません。一度見下した人間がもう見下してないと言っても説得力ないのですが、いまは尊敬出来るところはしてますし、間違っていると思ったところはちゃんと言うようにしてますが、やっぱめんどくさがられることは多いですね。ここはうまくやるにはどうしたら良いか試行錯誤中です。
すみません確かに日本国内での比率は明確にはわかりません。僕自身が今までいたコミュニティでは違和感のない比率かと思い国内の比率を調査しておりませんでした。
おっしゃる通りで、代表しているつもりはなかったのですが、読み直すとその感じありますね、気をつけます。ただ僕の認識だと全く関係ないってことはないだろうなとも思っています。
もしかしたらコメントないけど一人か二人位こういうコメント残してくれたらちょっとコメ欄賑やかになるかなと密かに期待をしていたのですが、予想以上に多く反応してもらえて嬉しいです。逆パターン書いてくれた人がいたのは面白くて参考になりました。
回答できていない指摘などもございますが、一旦ここまでで回答とさせていただきます。
ありがとうございました。