はてなキーワード: 定性的とは
(俺の偏見が入ってどこかに偏るだろうから本当は資料読んで自分で判断して欲しいです)
2000年にThe EMBO Journalに掲載された論文について
(研究不正はなかったが研究ノートがなかったことを謝罪 → 謝罪したこと・一部実験ノートがなかったことが大きく報道される)
インターネット上で指摘されている当研究室からの論文についての疑義について(PDF)
石井俊輔氏が責任著者となっている論文に関する疑義を頂きました - warblerの日記
(匿名からの相談で片瀬氏が代理で検証されている。研究者らしい健全なやりとり)
(研究不正はなかったが「疑念を抱かせてしまったこと・迷惑をかけたこと」について謝罪 → 「図の切り貼りがあった」「疑義をかけられた」として大きく報道)
ここまで。
間違ってるかもしれんから自分で資料読んで判断してくださいよほんとに(2回め)
以下、おまけ
上記の2つの場合、10 年前の当時のルールとしては問題ないと判断していまし た。2004 年 7 月に JCB が「レーンの継ぎはぎをする際は線又はスペースを入 れる」というガイドラインを作り、その翌年から徐々に他のジャーナルも追随 し始めました。
この記述を見る限り、2004年以前の論文に片っ端から「疑義」をかけることができそうだ。
小保方さんの審査員になるひとは片っ端から「疑義」をかけられるのではないか? と思っていたら そのとおりになったようだ
一番の問題は疑義をかけられた人及び審査員が1年近く研究できない状況になることだ。現時点で 4件 x (審査員数 + 1) が研究不能だ。おめでとう
愉快犯なのか小保方さんの熱心なファンかわからないがヒドイことになったと思う
(上で書いた2つの疑義のことではないよ。善意の指摘かもしれない。あと念のためいうと片瀬氏はボランティア。時間を浪費された被害者側だ。)
(今日報道された小保方さんの審査員からさらに2人というのは偶然見つけたにしてはあまりに不自然だと思う)
STAPのように誰も追試成功していない、しかも「常識を覆す大発見」の場合は論文の不備なり不正なりを暴くのは大変有益だ。
他の研究者が時間を無駄に浪費しなくて済むからだ。浮いたリソースで他の研究が進むだろう。
一方、すでに何度も追試成功している論文のあら探しは 得られるものに対して失うリソースがあまりに大きいように思える。もちろん、指摘すること自体は悪くはないはずなのだが
ではないかと思う。
「騒ぐ人達」がいなくなれば少なくとも愉快犯はいなくなるのではないか?
僕らにできることは脊髄反射で叩かず、1次資料を見て判断することだろう。(これは研究不正に限らず、科学報道はだいたいそうだ)
一部書き直しました
日本では物事をメリットとデメリットの両面から考えることを子供の頃から教わらず、教科書などには公正さを期するため物事の良い点悪い点の両方が書かれていることがあるとはいえ、そうした両面的な考え方が身についている子供が多いとは言いがたい。受験勉強にしたって勉強内容の公正さに対して疑問を持つことなく丸暗記に近い勉強ばかりしている有様である。
これが社会に出ると丸覚えは機械的作業を行うだけの底辺労働者にしか通用せず、高い結果を出すには学習内容の公正さを疑う視点が求められてくる。ここに至ってメリットだけでなくデメリットも考えねばならないことをようやく教わるのである。曰く、おいしい話には裏がある。「これはいける!」という新しい策を導入する時にはちゃんと悪影響の可能性も考えましょう。物事の悪い部分ばかり見て手を拱いていてはいけませんぞ、などなど。
一方、欧米では子供の頃から学校でディベートやライティングをしっかり教わり公正な思考力を鍛えられるし、家庭でも社会の暗部を見せられさまざまな視点からライフプランを考えるように促されることが多いというのは、アメリカかぶれの評論家が口を揃える有名な話である。ディベートでは政策(やそれに類するもの)に対して賛成と否定の両派に分かれて激論が酌み交わされる、いや取り交わされる。本心は賛成派でも否定派のチームに入れられることやその逆のパターンも多い。こうして賛成にも否定にも回れるような柔軟で両面的な思考法が身につく。さらに1980年あたりから欧米では多民族国家であることや同性愛問題の表面化などを背景にdiversity(多様性)を尊重する思潮が強まり、民族や性や思想の多様性を学校でも明確に教わるようになった。最近Mozilla CEOが性差別的法案を支援して問題になった件で「Mozilla Statement on Diversity」という声明を出したのは記憶に新しい。このように物事の両面性・多面性を重視する風潮・思考法になっている。
ttps://blog.mozilla.org/press/2014/03/mozilla-statement-on-diversity/
日本人の多くは社会に出ると「国際社会だし欧米のように多面的思考をしないといけない」と耳が痛いほど聞かされ、その一環としてメリットデメリットを考えることが大切なんだなと学び成長していくわけである。そしてメリットデメリットさえ考えてれば多面的思考法が出来ていると勘違いしてあぐらをかいている人も多い。
1つには可変性である。例えば、自社の管理システムに新製品を導入する時には導入するメリットとデメリットを考えてメリットが大きいと判断されれば導入するという単純な思考プロセスで問題ない場合もあるが、新しい人材を取り込む時には必ず成長性を考える必要がある。ある分野が得意だからってさらに伸びるとは限らないし、ある分野が苦手だからって苦手克服できないとも限らない。人材ならまだ分かりやすいが、管理システムの場合はどうか?システムが時代とともに適応していけるような柔軟性を備えているか、また経験にしたがってブラッシュアップしていけるような成長性を備えているか。そうした可変性も加味しなければならない場合が多い。
子育てや学校教育においても、長所を伸ばすという聞こえのいい古い考え方が未だに蔓延しているが本当にもっと伸びるのかと言いたくなる。得意分野だと成功体験を積みやすい?いやいやそれは他人と比べるからで、比べなければ得意で伸びにくいものより苦手でも伸びやすいもののほうが伸びしろがあるため成功体験を積みやすいのは明らかだろう。大切なのは成長の楽しさが得られるかどうかであって、得意なものをやるよう押し付けることではない。そのためには得意でもどれが伸びてどれが伸びないのか、苦手でも伸びるものがあるのではないか、伸びるとしてどれくらい伸びるのか、といった一段階緻密な検討を経て合理的に判断をしないといけない。なんでもかんでも得意分野を持て囃すような風潮はもう終わりにしよう。
これまで見てきたように良い所と悪い所だけ見て両面的に考えてるぞとドヤ顔する風潮は打ち破られるべき悪しき因習と言える。逆に言えばこれからの熾烈を極める国際社会競争においてきちんと可変性を加味した多面思考ができる人間だけが生き残るとも言える。
メリットデメリット分析の2つ目の落とし穴はもっと根本的なもので、定性分析である点である。分析と名前がついているから数理的な分析だと勘違いしやすいがそうではない。多くの場合、メリットデメリット分析は定性的な分析、つまり物事の良し悪しに関わる性質を列挙しているに過ぎない。だからメリットとデメリットを量的に比較するのは難しく、比較できたとしてもそれはこじつけになりがちで、結局「メリットのほうが多い」「デメリットのほうが多い」といういい加減な形で分析結果を利用されてしまいやすい。たまたまメリットのほうが多く思いついただけかもしれないし、数え方の問題で多いだけかもしれないし、数が多いだけで重要度の低い項目だらけかもしれないのに。
実はこれは、賛成派(メリット)と否定派(デメリット)が戦う競技ディベートにおいてもしばしば問題となる点である。ディベートの勝敗はディベート経験のある審判が理屈をつけて決めているに過ぎない。論拠の数が多いから説得力があったとか、質問されて答えに窮したから説得力がなかったとか、おおよそ論理とは無関係な価値判断で決まることが多いのだ。
ディベートだけでなく2chの信者VSアンチの論争にも言えることである。それが偏った事実の寄せ集めであるかどうかにはお構いなくとにかく論拠の数を沢山用意しておき、次々と論拠を提示しては主張を繰り返して圧倒し、反論・質問された時にも用意した論拠で即レスするようにすれば、たいていスレの風潮を支配できるという、あの荒らしまがいのやり口を思い出してほしい。この手の荒らしが手強いのは殆どの場合において定量的に擁護または叩きを行うためのデータが存在しないか少ないからだ。そんな時は膨大な定性データを粘着的な調査力で収集して印象操作で圧倒するのが比較的容易である。
指標としては不的確ってことでいいよね。結局。
アンケートで不正をする方法なんて、インターネットの時代にはボロボロ出てくるし
売上で不正をする方法も、利益で不正をする方法も、たくさんある。
日本中が数字をごまかすことに慣れきっていて、どの会社がどれだけ水増ししているかなんてわからない。という時代に。
粉飾決算問題なんて、古い会社から若い会社まで事件になってるし
食品偽装なんかも事件になってるし、数字を信じてもしょうがないよね。
空気で判断するようなもは数字数字っていうのに、定量的に判断するようなものは定性的に判断するよね。
意味なくね?
改善するとか悪化するとかいうのを(一階)微分の正負に喩えてしまうのも本当は微妙なのだがまだこっちは普通の人も使いそうな文学的比喩として読めなくもない。
が、二階微分とか収束とか、それはもはや数学じゃないか。例えば速度と加速度のような関係を想定してるだろ? 定量的な議論にしかなりようがないだろ。
1から2への変化は2から3への変化と等しく3から5への変化の半分である、という議論に意味がないなら、そもそも微分とか意味ないわけだが、例えば順位の推移なんかはこれが当てはまらないから微分しても意味がないって話(尺度水準云々はこういうことです)。
社会の変化が加速減速しているというような比喩表現は確かにあるけどさ、それは社会の変化を空間上の運動としてとらえた詩的表現、それこそ実に文芸的なものであって、そこにガチの数学概念の二階微分とか収束とか持ち込むのは無理だ。
横からですが。
突然死したり無差別殺人や事故に巻き込まれたり死ぬ可能性のある人は代わりのきかない仕事に就かないでください
とか言い出さないでね。
同じようなこと書いてると思ってる。正直ね。
作業中に急に意識を失う可能性は誰にでもあるから、ナルコレプシーの人も集中を切らすと大事故を起こすような仕事に就いても構わない、とか言い出さないでくださいね。
正直、同じようなこと書いてると思ってます。
小さい子供がいる人は突然仕事を抜けることになる可能性が圧倒的に高いのです。だから、仕事を囲い込むべきでないし、代替の利かない仕事をすべきでない。
突然仕事を抜ける「可能性がある」「可能性がない」と定性的に考えるからおかしいのです。
可能性が高いか低いか、定量的に考え、リスクの有無ではなく、程度に応じて行動を決めましょう。
同じようなこと書いてると思ってる。正直ね。
そうですか。それはただの想像、思い込みで、事実とは無関係だと思いますよ。
親のいる人が介護のために仕事をセーブしなくてはならない時に、
あなたは同じことをその人に言える?
「計画的に親に歳を取ってもらえ」などと。
親の加齢は回避不能なので、この場合は「計画的に仕事をもらえ」となります。
その例だと「仕事をセーブしなくてはならない時に」セーブしないで仕事を請けていたらおかしいでしょう。
介護の必要な親がいるのであろうが、小さい子供がいる親であろうが、仕事の方を調整することはできるでしょう。
特に、親が加齢してもいつ病気になるかはわかりませんが、妊娠・出産と小さい子供のいる時期はある程度予測がつきますよね?
できるだけ一人の責任の重い仕事をもらわない、責任のある仕事をもらうにしても、常に他の人とできるだけ業務内容や仕事の進捗状況について情報を同期させ、
抜けても極力交代をスムーズに行えるようにする。
まあ、本来これは仕事を割り振る管理者の責任ですが、兼業主婦側にも当然「受け持った仕事を囲い込まない」「代替の利かないような仕事を求めない」「振られそうになったらできるだけ断る」などの対応は求められます。
最近一部界隈で絶賛話題沸騰中のアブラハムプライベートバンク、どうやら会員はアフィリエイトで小銭を稼ぐこともできるらしいですね。資産運用で1億円も稼げる上に日々のお小遣いも稼がせてくれる。優しい。
アブラハム社の詳細についてはちょっとぐぐってみればネット上で賞賛の嵐であることがよくわかると思うので適当に調べてください。
で、こちら。
「いつかはゆかし」の批判・評価・評判・疑問・口コミ徹底検証 ブログ
http://verificationitukaha.blog.fc2.com/
会員だというブログ主の方の書いたこの記事を読んでみましたが、いくつか気になる点、補足が必要な点、単純な事実誤認などがあるような気もしましたので、この場を借りて簡単に補足させていただき、この方の判断材料の一助になればと願っております。
「いつかはゆかし」の提供会社であるアブラハム・プライベートバンク株式会社は関東財務局に登録されている金融商品取引業者で投資助言・代理業である。
投資助言・代理業を営むには関東財務局への登録が必須となっていますので、万が一登録されていなければ「怪しい」どころか「違法業者」となってしまいます。通常の投資助言会社であれば登録されていることなど当たり前以前の話であり、ことさらにそんなことを言うのは怪しい消費者金融業者が「うちは都知事登録もしている安心な業者ですよ!」と言うのと同じくらい怪しい印象を与えてしまいかねません。余計なお世話ですが、真っ当な投資助言会社であるアブラハム社の方が万一そんな営業トークをされているのであれば、速やかに見直しをお勧めいたします。
アブラハム・グループの業績は好調のようで、同社は、2012年、2013年の両方で、監査法人トーマツ・デロイトトーマツから、日本とアジアで急成長企業として表彰されている。
「テクノロジー Fast50 Fast500」ですね。こちらは「売上高成長率」のみを基準とするランキングですので、「勢いのある企業」ということがわかります。蛇足ながら申し添えますと、業務内容・利益水準・その他定性的評価等は一切考慮されません。また、当然ながら母数が小さいほうが成長率は高くなる傾向にあります。
また、完全に余談ですがアブラハム・グループ・ホールディングス株式会社の事業領域が「メディア・エンターテイメント」に分類されているのは現状を鑑みるとなかなか面白いなあと思う次第です。
http://www.tohmatsu.com/jp/fast50/
アブラハム社長ブログによると創業以来「無借金」。従い、倒産リスクが無く(確かに負債が無いと理論上、倒産しようがない)堅実経営とのこと。
企業が倒産するのは借金を返せなくなったときではなく、資金繰りが回らなくなったときです。また、負債とは借入金だけではなく仕入や買掛金、各種引当金も負債の一種です。簡単に言うと東京駅や電車やテレビで大量展開されている広告費は(支払が完了するまで)負債に計上され、それらの支払いができなくなったとき、同社は倒産する可能性があります。まあ、そんなしちめんどくさい財務諸表の読み方なんかわからなくても投資ができるというのがアブラハムのサービスの素晴らしさだと思います。
えっ、「倒産リスクがない」って社長がブログで書いてるんですか。いいんですか。
富士経済のレポートによれば、「いつかはゆかし」の投資対象の過去5年の平均リターンは15.34%とのこと。
<図>
出典:日経ビジネス
「出典:日経ビジネス」と書いてありますが、内容を確認するとこれは日経ビジネスの取材記事ではなく記事広告であることがわかります。
http://abraham-holdings.co.jp/wp-content/uploads/2012/12/e94dd6ab3e4d07678a8c063fc0e2c7c4.pdf
ちなみに
海外投資新聞 「海外ファンドを日本に居ながら直接買えるのが魅力”。「いつかは ゆかし」お客様第1号(36歳会社員)に、アブラハム社長がインタビュー」
もURLや運営者情報を見るとアブラハム社の運営するサイトだということがわかります。
http://media.yucasee.jp/offshore-news/posts/index/192/
2つとも記事広告であることや同社の運営サイトであることは全く隠していませんので、非常に誠実だと思います。しかし、ブログでこういった書き方をされると中には「消防署のほうから来ました」みたいな胡散臭さを感じてしまう人もいると思うので、表記は多少変えたほうがいいかなあとも思います。
とはいえ、もしかしたら記事広告のほうが「日経の記事です」より信憑性は高いかもしれませんが。早くドコモからiPhone出ないかな。
ところでこの記事広告に掲載されているグラフですが、注釈を読むと「※アブラハム・プライベートバンクの「いつかはゆかし」、各投信の単品積立、各証券会社の積立商品中一番リターンの良い商品(シャープレシオが0.75以上に限定)を対象に、2007年9月~2012年9月までの5年間の年平均利回りを比較。」と書いてあります。これはつまり「アブラハムが投資助言の対象にしている商品の中で最もリターンの高かった商品は15.34%でした(※それを推奨したか、買った会員がいるか、1人当たりの平均リターンがどうかは考慮していません)」ってことでしょうか。私の読み方が間違っているんでしょうか。こういう比較の仕方って投資の世界では普通なんでしょうか。詳しい人に教えていただけると幸いです。
富士経済のレポートについてもこういったグラフがあるというよりは「各投信の商品別平均リターンの調査から当社が抽出・編集しました」な気がしますが、確信はないので黙ります。多くの商品の比較ができるのは良いことだと思います。
このブログで名前を挙げられている各氏については今後もバトルの様子を興味深く見守りつつ、私も30年後に資産1億円を目指すふりをしたいと思います。
となっている事が多い。
書きだしてみると、自分のやったことを、
という尺度で考えているとわかる。
自信が削り取られて更に何も手につかなくなる、
という悪循環に陥っているようだ。
これを単純比較化しないようにすればよい。
1.やったこと(成果)の定量化をやめる
自分で評価することをやめる。もちろん数もカウントしてはいけない。
自分を見ていてくれているヒトの期待に応えようとするのはよいことだが、
その人達は応援しているヒトが潰れることを期待しているわけではない。
コンピューターに入力できるものは大抵は計量できてしまうので、覚えておくと良い。
作成したファイルの数、書き込んだ文章の文字数、閲覧した情報の量。
落ち着いて考えれば、いずれもあなたが本当に求めている成果それ自体ではないはずだ。
また「今日何もやっていない」の「何も」には、あなたの成長はカウントされない。
せいぜい表に出たいくつかの事を指していて、その表に浮かんできたもの以外の部分を
いかに自分自身が大事にできるか、定性的でも価値を認められるかにかかっている。
2.は、時計を捨てろということと等しい。
本当はそれで困らない生活ができるのであれば、それでも良いのである。
午前中何も出来なかった、でも午後は何かできたとしよう。
1日何も出来なかった、1週間何も出来なかった、と思うことがある人は、
十分長い時間までの時間軸(年とか、時代とか)のみを考慮する。意識しなければなお良い。
時間尺度の精緻化は、現代社会の発達に極めて重大に寄与してきたが、
それは機械化の恩恵を生み出した一方で、ヒトがついていける時間軸を既に超越している。
1.も2.も止めて、私は、その勝負の枠組みそのものからも、降りる。
僕らを測る基準は、実は自分の心だけで良い。
時計やカレンダー、ましてやストップウォッチで生産性を測る必要はない。
いつも自分の状態を、自分の心がどう思うかだけに集中すればよいのだ。
いまのこの国の世の中で支配的な価値観は、
生産性=経済的価値 である。それではあんまり幸せにならない気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20120513135708
私も二行目で主張しているとおり、違うと推して調べたわけです。そしてこれって別に「新たか」でも問題ないんじゃないか、と思い至ったわけです。
サンプル数が圧倒的に足りず、お遊戯話と聞き流していただければ幸いです。
ですが、制約を掛ければかなり妥当性を持たせることもできるような気はします。例えば上文中の「推して」に関わるすべての「オして」と訓読みする語は単一の漢字で表しても問題ないと思います。文中でも書きましたが、同音類義な語を念頭に置いています。
極端に、暴力的に、かつ誤解を招くことを承知で言えば、その単一の漢字は、カタカナで代表させてもいいとさえ思っています。
字義どおり遡れば、それぞれの語の違いは際立ってくるでしょうが、それぞれの読みには共通するところがあるだろうと思っています。もちろん思ってるだけなので、確たる根拠はありませんが。
ドリル式の丸暗記法は私が編や旁、及びその読みから未知の字の意味、発音を推測、体系化させていった方法とは異なるところで、私も好むところではありません。もっとも、私が好きで採用した方法も推測に依存する不安定な方法ですし、幼い頃の物覚えのいい柔軟なときにやったことであって、大人に薦められる方法でもありません。
なんだか方向違いの返事ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20120513140645
お前の苗字が仮に鈴木だったとして、他人から「お前の名前を『酢好き』って書いても別にいいよね?」と言われても受け入れられるのか。
受け入れられません。それは同音異義です。
当然、同音異義と同音類義の違いはどこだよ、と思われるでしょうが、距離の問題です。完全な区別は不可能です。それを承知で主張しているのです。
http://anond.hatelabo.jp/20120513212005
極端な話、そうですね。ただ、音読みに関しては諦めてます。訓読みはまだ捨てきれてないです。
以降、妄想
「ツる」という語は「釣る」「吊る」「攣る」「痙る」などあるわけですが、これらをひとつの漢字で代表させたい、ということです。もっと押し進めれば、漢字テストなんかはこういう基準で代表された漢字を書けばマルにしてもいいのではないか、と考えています。
「足が攣る」と書けばもちろんマルですが、「足が釣る」でもいい、というわけです。
「カく」という語は「書く」「描く」「欠く」「掻く」などあるわけですが、これらから共通の意味を抽出しようとすると、「欠く」が難しい。それ以外は割と容易。
これらの動作は本質的に物体を欠損させているわけだけど、前者2つはその行為から先の美的価値が強い。差異に大きな役割が与えられている。これらを単一語でまとめ上げるのは私でも抵抗がある。けど、まとめ上げられてしまえばあとは慣れの問題かな、とも思える。
「タめる」という語には「貯める」「溜める」「矯める」などがある。前者2つは一つで表せそうだが、「矯める」は難しい。超越的に解釈すれば、前者2つの動作は本質的にもとに戻る、正される意味があるのかもしれない(貯蓄はいいこと的な思想)が、私はそこまでぶっ飛んだ意味を受け入れることはできないので、無理。
仮にこの主張を受け入れたとして、
「死す」と「資す」は割と関連がつく。定性的な死と定量的な死。何かに費やすということは自身の身を削ることであり、幾らか死ぬ。
そうすると、「削ぐ」と「殺ぐ」にも関連が見えてきそうな。
「舐める」は舌で味見するとか甘く見てんじゃねーよ的な意味とかがあるが、これはかなり近いと思う。要は「食べる=殴り合い」ということなのだろうか。とすると、「食べる=セックス」という意味を先に持ってきて「デートやナンパ=舐める」とすることはできなくもない。街角でいちゃつくリア充に「舐めんじゃねーよ!」とか。いっそ「舐めるなよ?爆ぜるぞ(お前らが)」とか
はデコとかトツとか読むけど、「デコる」って「凸る」でも割と行けそうな気がする(というか行けてるのか凸メールって言うもんな)。あと、「突進」とか「特区」とか、「凸」みたいなイメージ、なくもない。
誰もそんなこといってない。データーを出さずに、効果の議論をするくらいなら心理要因でいいとしか言ってない。
VATおよび、還付付き単一税制の是非についてはいっていない。
なぜ、AとBを比べているときにAの論旨の欠点を指摘するとBと言っていることになるんだ?そんなことは一言も言っていない。
ただ、おかしい。といってるだけ。
定量的な測定・推定とかはされてるし
具体的に数字を出して、どの数字がどうだから、と語ってくれ。さもなければ、心理要因語ってるのと同じ。下手に定量的な気分に浸らないで というお願い。
それ、どのみち全部定性的だから、効果測定に意味はないよ。定性的な効果の測定とか意味ない。定量的ならともかく。
XXの可能性がある。というだけで、可能性を証明していない。
すでに事務に必要な額やら分野ごとの価格弾力性とか定量的な測定・推定とかはされてるし、
仮にされてないからろくに予測もせずに政策決定していいことにもならないし、心理要因ならVATがいいということも証明されてない。
それに税制によって大変さの度合いは違うので大変な思いをするかしないかの二択にするのは単純化しすぎ。
その手間は還付やらないとしてもなくなるもんじゃないから還付を導入したら手間が増えるかのように言うのがおかしいということ
それ、どのみち全部定性的だから、効果測定に意味はないよ。定性的な効果の測定とか意味ない。定量的ならともかく。
XXの可能性がある。というだけで、可能性を証明していない。
であれば、あとは心理要員だけだろ。だとしたら、最初から、還付とVATどっちがいい?どのみち誰かが大変な思いをするけど、
対策は考えればいいよで良い。
だいいち、なんでVATが手打ちなんだよ。POSで全自動やし、手打ちの人には助成金出してPOS入れろという話しだし少額の人は今と同じ非課税だから消費税計算しなくていい。
という話しだし。
大抵の たとえば、飲食店とかは 食料 で一律でいいだろ。一律だから税率変わるだけ。
もちかえりは、とか、イートインはとかわけるから、話がわかりにくくなる。
ファミレスの玩具販売は、別だけど、そりゃ、おもちゃ販売してるんだからPOSで管理しろやでいいかと。
あと、毎年いろんな人が新規の青色出したり、転職したりいろいろしてるから。既存の手間はなかったこととかはないわ。
ま、還付をやるとしても、子供の還付分が正しく使われるか?とかいろんな問題はあるから・・・