2013-01-12

人間にちょうどいい時間の捉え方について

私も、時間との付き合い方が下手だ。

平日:「仕事自分生産性が悪かった」

休日:「今日1日、何も出来なかった」

となっている事が多い。

書きだしてみると、自分のやったことを、

生産性自分のやった事/単位時間

という尺度で考えているとわかる。

生産性が低いと自分能力が低いと感じ、

自信が削り取られて更に何も手につかなくなる、

という悪循環に陥っているようだ。

時間に追われる悪循環を断ち切る

この悪循環を断ち切るには、原理的に2つのやり方がある。

簡単に比較できる2つの量が存在すれば、

生産性割合で捉え続けてしまうので、

これを単純比較化しないようにすればよい。

1.やったこと(成果)の定量化をやめる

2.単位時間の定量化をやめる

やったこと(成果)の定量化をやめる

1.は、自分に何ができたかを、他者に見せることや、

自分で評価することをやめる。もちろん数もカウントしてはいけない。

自分を見ていてくれているヒトの期待に応えようとするのはよいことだが、

その人達は応援しているヒトが潰れることを期待しているわけではない。

コンピューター入力できるものは大抵は計量できてしまうので、覚えておくと良い。

作成したファイルの数、書き込んだ文章の文字数、閲覧した情報の量。

落ち着いて考えれば、いずれもあなたが本当に求めている成果それ自体ではないはずだ。

また「今日何もやっていない」の「何も」には、あなたの成長はカウントされない。

せいぜい表に出たいくつかの事を指していて、その表に浮かんできたもの以外の部分を

いか自分自身が大事にできるか、定性的でも価値を認められるかにかかっている。

単位時間の定量化をやめる

2.は、時計を捨てろということと等しい。

本当はそれで困らない生活ができるのであれば、それでも良いのである

午前中何も出来なかった、でも午後は何かできたとしよう。

その場合であれば、1日というタイムスパンで見ればよい。

1日何も出来なかった、1週間何も出来なかった、と思うことがある人は、

十分長い時間までの時間軸(年とか、時代とか)のみを考慮する。意識しなければなお良い。

時間尺度精緻化は、現代社会の発達に極めて重大に寄与してきたが、

それは機械化の恩恵を生み出した一方で、ヒトがついていける時間軸を既に超越している。

人間にちょうどいい時間の捉え方

1.も2.も止めて、私は、その勝負の枠組みそのものからも、降りる。

僕らを測る基準は、実は自分の心だけで良い。

アクセスビューやレビューや参照の数でも、

上司顧客の評価や金額的な売上でもない。

時計カレンダー、ましてやストップウォッチ生産性を測る必要はない。

いつも自分の状態を、自分の心がどう思うかだけに集中すればよいのだ。

いまのこの国の世の中で支配的な価値観は、

生産性経済価値 である。それではあんまり幸せにならない気がする。

生産性幸福度なのだ

幸福度自分の心へのアクセシビリティ×自分の心の豊かさ なのである

そう捉える限り、「時間無駄」などは存在しない。

読んでくれてアリアリアリアリありがとデル

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