ちょっと気になって、「霊験あらたか」の用に使われる「あらたか」とはどう漢字で書くのだろう?と思い、調べた。
当初の予想は「新たか」だった。もちろん、それなら平仮名にすることもなく、ネットの海でさえも「霊言新たか」で埋め尽くされていたはずだ。
違うということは、他の字が充てられているということだ。
そして、その字は「灼か(灼たか)」であった。
意外な字が出てきた。字義を知る人ならそこまでの驚きはないのだろうが、現代では灼熱程度でしかお目にかかることのない漢字に訓読みがあったとは、私にとって新鮮な驚きだ。
確かに多くの漢字、私達が日常目にする漢字のほとんどには、常用漢字内外の訓読みがある。たとえば、小学校低学年で習う二つの漢字、「丸」と「円」、これらはどちらも<マルい>と読む。意味としては、前者が球形的(三次元)、後者が円的(二次元)という違いがある。円いテーブルと言えば、ボール状ではなく円卓ということになる。
しかしながら、後者の漢字、円の訓読みは低学年では学習しない。同音類義語の使い分けは低学年にはまだ早いという計らいがあるのかどうかは知らないが、とにかく低学年で<マルい>と学習するのは「丸」のみである。
この同音類義というのがポイントとなるわけだが、この細かな違いはともかくとして、多くの場合、意味は文脈に依存する。円卓を指すとき、「円いテーブル」でも「丸いテーブル」でも「まあるいテーブル」でもこれらの共通項にズレはない。ズレを中心に据える、超現実的解釈をしない限りは、これらは合一する。
という流れで見て、先の「あらたか」に目を向けよう。「灼たか」とは神や仏のご利益がはっきりしているという意味である。元の語に戻れば、「灼」とは明らかなようすであるとか、はっきりしているであるとか、火を付けて燃やすとか、そういう意味に通ずる。これらに共通するのは鮮明さである。目の利かない闇夜で火をつけて周囲をはっきりと映し出すものであり、その火の役割こそがご利益なのだ。
そして「新たか」である。新た、とは場面の展開であるとか、今までにない局面であるとかいう意味だ。今までにない手法を使うということは闇夜を照らす火のようである。カメラのアングルが変わって別なところを映すということも、全体を明澄にする手段の一つであり、具体性を獲得する。
思えば、「改める」という言葉も、意味としてはこの流れに通ずる。私達は日本語の微妙なニュアンスだとかそういうものを大事にしてきて、かえって事物を見る目線を複雑にさせすぎやしていないだろうか。
まったく賛成できない。 灼たかという表記は知らなかったが、新たか、ではないことは容易に想像できた。 戦後の当用漢字制定時の表外漢字の書き換えのために、 日常的に使われる多...
お前の苗字が仮に鈴木だったとして、他人から「お前の名前を『酢好き』って書いても別にいいよね?」と言われても受け入れられるのか。
字義を無視するなら漢字使う必要ないと思うんだが
またかw
http://anond.hatelabo.jp/20120513135708 灼たかという表記は知らなかったが、新たか、ではないことは容易に想像できた。 私も二行目で主張しているとおり、違うと推して調べたわけです。そ...