はてなキーワード: 善良な市民とは
炎天下の中でも、立っているのだ。
雇い主から、「昼は木陰があればそちらへ少し寄って、途中少し座りながら周りを見ていてください」と言われても、やはり厳しいものは厳しい。
水分もこまめに摂ってねと言われるが、やはり厳しい。
そんな指示を受けているので、そのとおりにすると…善良な市民は「あいつはサボっている」とクレームを入れてくる。
その環境で働いてない阿呆には真夏の熱視線の辛さが分からないのだ。
善良な市民はクレームを「親切」と履き違えていることに気づかない。
クレームを入れた自分は偉い!善良の鑑!と勘違いしているのだ。
雇い主は「今までどおりでいい」という現場の辛さを知っているからだ。
だが、自分の言ったとおりにしないと気づくと善良な市民はまた「余計な親切というクレーム」を繰り返す。
今度はヒステリックをこじらせて。
こうなったら、もはや善良でもなんでもない。ただの人殺しと変わらない。
彼奴等は自分たちが正しいと思い込みすぎて、もはや病人と同じなのだ。
こういった環境に限らないが、自らが正しいと思っている人の8割くらいは「勘違い」が多いと思われる。
正しいと思っている行動自体も間違っていれば、主観すぎて周りが見えていないという愚かさが酷い。
本当に正しいと言えるのは主観だけなく、様々な視点からものを見て理解して、その上で全体が納得できる結論を出せる人じゃなかろうか。
そんな人、まず今の世界に居そうにないが。
思ったより反応が大きくて驚きました。こんな長文よく読めたな君たち人の不幸話がよっぽど好きだろ。分かる私も好き。
なにより同じ問題を抱えてる人がたくさんいたから、ここまで注目を集めたのかと思います。同じ経験をした人の意見は参考になりました。
どうすれば一番いいのか分からない。ただ借金の立て替えは不可避だったと確信してます。
問題発覚当初、夫には優しくしたり、嫌味を言ったり、色々な態度をとりました。
2日目の夜中は彼を起こして「あなたのこと全然分からなくて怖くて眠れない」と半泣きで弱音を言いました。
そのときに初めて夫の「ごめん」が聞けたので私の気持ちは多少落ち着きます。やっと謝ったかこのうんこ野郎とも思いましたけど。
文中では冷静な良妻を気取りましたが、実際は終始おろおろしてました。
実はTL小説に耽溺するあまりお金がもったいなくて自分のために小説を書いてます。ヘンリー・ダーガーみたいに死後発見されればいいな。
私に対して「なんて性格の悪い女だ」と感じた方はまさにその通り、最もな意見だと思います。
きっと貯金の140万円が突然消えれば、誰もが聖人ではいられなくなるのではないかな!?
否定的な意見を読むと「事情を知りもせずにそんな批判するなんてひどい」などいちいち反感を覚えます。
それはゲーム内の紳士的な仲間たちが私の投稿を読んでもそう思うでしょう。各人の事情を知りもせず罵ってすいませんでした。
当初はゲームに関わる何もかもが憎かった。彼らが夫をいい気分にさせて金を巻き上げる、善良な市民のふりをした悪魔に見えました。
でも大馬鹿者は間違いです。課金の誘惑に打ち勝ち、節度を持ってゲームを楽しめてる人は賢者です。大脳の溶けた夫とは違う。
私はイアンソープの「人は変えられないけど自分は変えられる」という言葉が好きです。
「人を変えたいと思ったら自分を変えることだ」という風に私は受け取ってます。
私が漫画を買うのを止めたりするのはそういう訳です。彼がすべて悪いとも思えず、自分も改めなきゃと思いました。
彼は少し変わったようで、自分の好きな漫画やDVDも売ると言ってます。100か0の人です。だから病むんじゃねえの?と思いますが万事気の済むようにまあまあ。
夫とはこれからも仲良くやっていきたいです。彼のことは大好きです。セックスレスだけど。
読んでくれてありがとう。
実際に犯罪を犯してもいない集団を、「犯罪者予備軍」として叩くやつらのなんと多いこと。
あなたたちの「気持ち悪さ」「キモさ」を「世間が認めない」とかっていうのいい加減やめろよ。
あなたたちが「キモい」と思っても、それは「犯罪」でない以上、発言者は「善良な市民」。
痴漢でない無関係の男性が、女性専用車両という差別を指弾するのは「自分の身を守る」ためで妥当なことだし、
犯罪者でないオタク(ロリコンも含めてよい)が、オタク差別を指弾するのも「自分の身を守る」ためだろうが。
それを、「被害者の心理を考えてない」などと見当はずれのことをいうやつは本当にどうかしている。
無関係の人間は、自分のことだけ考えるのが普通で、それを非難されるいわれはない
各人の心の中を読めというのは無理な話ではあるわけだが、
「本質的な意味や目的が同じであれば、一つの体系にこだわらなくてもいい。むしろ拘ることこそ、視野を狭くする要因になる」
宗教という体系から生活の意義を教えたくて、立ち上げたらしい。
だけど、周りには「ただのウザい奴」だと思われている。
生活教に入信していることを自称する人間たちも、9割は面白半分でやっているだけだ。
なぜなら俺たちの町では……いや、現代社会において宗教は時代錯誤だから。
長い歴史によって文化として根付いたケースもあるけど、その隙間を新興宗教が入り込む余地は全くない。
科学で大体のことは説明できるし、俺たちはそれを深く理解していなくても生きていける。
おんぶに抱っこだと、たまにエセ科学に引っかかることはあるけど、それは別に科学が悪いわけじゃない。
体系にそういった“ノイズ”が入り込んだり、未熟な人間が邪魔をするのは他のことにも言える話だしね。
「さあ、皆さん。生活をより良くするためには、何が必要だと思いますか?」
「健康ですか」
「正解です。より厳密に言えば、この“健康”とは身体と精神の両方を指しています。まず身体に必要なものは何でしょう?」
「野菜とか、ですか」
「そうですね、野菜。身体に良いとされているもの全般。ですが、それだけでは足りないですよね」
教祖は、相も変わらず二流ブロガーのライフハックみたいなことを説いていた。
信者たちも面白半分で付き合っているのに、良くあんなの笑わないでいられるな。
「さあ皆さん一緒に、目を瞑って。森羅万象に宿る精霊と魂で共鳴し……おっと、呼吸をすることを忘れないで。愚か者は呼吸することを忘れます」
けど、これに真面目に付き合う人は誰もいなかった。
信者の間では、教祖がこれで目を瞑ったら一斉にその場を離れる、という遊びが密かに流行っていたからだ。
ガキの俺が言うのもなんだけど、ガキくさい遊びだ。
まあ、大真面目に付き合ったなら、それはそれでどうかって気もするけど。
「花の精霊が、皆さんの目や鼻、口から入り込むのが感じるでしょう……」
恐らく気づいているだろうに、それでもやり続ける教祖も大概だよな。
「……さて、今日の布教活動はこんなところですかね。あまり悪目立ちすると通報されかねないですし。私個人のせいで、生活教に泥を塗ってしまっていけない」
教祖は、いそいそと退散を始めた。
この教祖が世間では「ちょっとウザい奴」で済んでいるのは、こんな風に謙虚なところもあったからだ。
大仰に場所を占有したりだとか、商売紛いなことをしているわけでもない。
普段は地域のイベントに精力的に協力したり、善良な市民であることをアピールしているのも効いている。
ただ街中で声高に叫ぶ、ストリートミュージシャンみたいにしか思われていないってことなんだろう。
教祖的には不服だろうけど、これが生活教の、俺たちの街での日常だ。
……だけど、その日は違った。
「え? 自治体って……どこのです?」
「ここら辺の自治体です」
「いや、『ここら辺』と言われても、たくさんありますし……」
教祖は警戒している。
なにせ、この町には自治体が多い。
中にはヤクザに片足突っ込んだようなのまでいる。
「我々のことはいいんです。こちらの質問に答えていただきたい。生活教が最近、“寄付”という名目で商売紛いのことをやっていると連絡を受けましてね」
「ええ!?」
おおっと、いつかはやると思っていたが、とうとう馬脚を現したか新興宗教。
深い意図はないけど、実験として、「男性」と「女性」を「白人」と「黒人」に入れ替えてみたよ♡
【例文】
「#Metoo」や「白人専用車両」や「白人だけの街」、黒人犯罪や有色の話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「白人専用」という言葉や、黒人犯罪者の告発に怒り狂う黒人たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての黒人が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールぶらっく)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「黒人全てが黒人犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「黒人」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「黒人への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者白人側に寄せ、黒人犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
もちろんそういうことが自然にできている黒人もいるが、現状では少数派に思えるのだ。
【原文】
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
古い性役割を「抑圧」と呼んで壊そうとするのが昨今のウーマンリブであり、ディズニー作品はそういう社会を反映している。
自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
...
多様性の時代になってるわけだし、弱いものに底上げが必要なんだと思う。アファーマティブアクションってやつ。女性もそうだけど、いわゆる「弱者男性」だってそうだ。誰もが自尊心を持って生きる権利がある。
前半でこういう価値観の変化を論じていてふむふむと思っていたのに、後半になると
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
という話になって「え?」と思った。
女性専用車の話が一番分かりやすいと思うのでその話をするけど、女性専用車って結局「男は暴力的な生き物だ」「男は女を守るために献身的になるべきだ」みたいな古い固定観念を追認するものでしょ。こういう固定観念がなかったら、女を別の車両に隔離したら性犯罪が減るとか男は多少の不便さを受け入れるべきだなんて発想は生まれるはずもないよね。
そういう性別のみに基づいた役割の押し付けから脱却して、《誰かの救済を待つのでなく、みずからヒーローになる》《自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つ》ような社会を目指していくべきだっていうのなら、女性専用車という概念はむしろ邪魔だよね。女性専用車が存在する限り、我々は「男から女への性暴力だけが電車内で起こるトラブルである」「いつも男が加害者で女が被害者である」みたいなまやかしをずっと刷り込まされていくことになるんだよ。
こういう古い固定観念に基づいた差別を指摘する声に対して「どうして男は女の気持ちに寄り添わないのか」みたいなことを言ってる限り、《同じ「善良な市民」という共通項》を共有することなんて無理だよ。
若干話題が古いけど、こういう対談がある。
「アナと雪の女王」のクリストフはなぜ業者扱いなのか? 夏野剛×黒瀬陽平×東浩紀の3氏が男性視点で新解釈 https://www.huffingtonpost.jp/2014/08/07/anayuki-genron_n_5660493.html
ざっくり要約すると「アナ雪は女性だけで解決してしまい、クリストフはただの業者扱い。男としては疎外感を覚える」というような内容。
>「わざわざ男いらないって強いメッセージを出している。なんでそこまで王子モデルを攻撃しないといけないのかと」
クリストフは王子様じゃないけれど、誠実で素朴ないいやつだ。孤独な変人だけど、仕事と家族を大切にしている。
そこらの王子様モデルよりよほど親しみが持てるし、ありのまま、人間らしく描かれていると思う。
ただ役回りが脇役で、「なんでも解決できるヒーロー」ではないだけだ。
そのクリストフを「業者」と呼んで、アナ雪を男の「排除」「攻撃」と感じる男性の心理っていったい何なんだろう???
◆
個人的に、「アナ雪」は「男いらない」とは言っていないと思う。ただ「ヒーローの男はいらない」と言っているだけだ。アナもエルサも自分たちの問題は自分たちで解決したいし、しなきゃいけない。
ヒーローの男がいると、女は人形みたいなプリンセスとか、救われる村娘Aとか、後列で回復呪文を唱える係とか、とにかく救済されたり、弱者だったり、よくてサポートの役回りを演じさせられる。物語のラストには弱い自分を救ってくれたヒーローと恋に落ちて、結婚するまでが一連の流れだ。まるで舞台装置か優勝トロフィーみたいに。
そういう王道ストーリーを完全に否定するわけじゃないけど、もう古いよねっていうのが今の時代の流れだ。
古い性役割を「抑圧」と呼んで壊そうとするのが昨今のウーマンリブであり、ディズニー作品はそういう社会を反映している。
自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
期待される「プリンセス像」を捨て、「ありのままに」なることが抑圧からの解放だと描くこと。
それらが今の時代に生きる多くの女性の支持と共感を集めたんだと思う。
(私個人としてはアナ雪はそんなに好きじゃなかったけど、こういう社会問題をいち早く取り扱って幼児向けのエンタメにできるディズニーってやっぱすげえなと思う)
◆
そんな感じで「脱プリンセス・ありのままのわたし」運動は着々と進むのに対して、「脱ヒーロー・ありのままのおれ」運動は全然進まないように見える。
こっちの此岸では「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」を火にくべ始めたのに、
あっちの彼岸では「強くて賢くてなんでも解決できるヒーロー像」を街の中心に据えて崇拝し続けているように見える。「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」も現役アイドルだ。
だからそのヒーロー像、プリンセス像を正面から否定してみせた「アナ雪」に、対談の男性たちは反感を覚えたのかもしれない。
男性社会の最高神である「ヒーロー像」を否定することが、まるで「男という性別」への攻撃のように感じられたのかもしれない。
ただ思うのは、脇役のクリストフこそ、「ありのままのおれ像」なのではないかということだ。
確かに、そういう強いヒーロー像を崇拝する男性社会はこれまで人類史で栄華を誇ってきて、結果も出してきた。歴史があるし今も続いている。
だけど、すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
ヒーローの強さだって言っちゃえば暴力だし、そんなのこの21世紀にアナログすぎる。
だから多様性の時代になってるわけだし、弱いものに底上げが必要なんだと思う。アファーマティブアクションってやつ。女性もそうだけど、いわゆる「弱者男性」だってそうだ。誰もが自尊心を持って生きる権利がある。
多くの男女の自尊心を削る「ヒーロー像」「プリンセス像」は一度打ち壊して、火にくべるときが来た。父権社会の解体が、今世界的なムーブメントになっている。
◆
男性はどうも「モテ」に固執してしまうふしがあるようで、女を「モノ」にすれば「男になった」と認められるような悪習がある。
まるで男が自尊心を得るには、女の人権をかすめ取らなきゃいけないみたいな言い方だ。
より多くの美しい女を取得することを自己価値のバロメータとして、他者と比べあい、自分をいじめるみたいな悪癖がある。
女性もそういうことは普通にするけど、男性のそれは比じゃないというか、ちょっと理解の範疇を超えてくる。
そこには生物的な性欲の違いや繁殖欲だけでは説明しきれない、人間的なドロドロとしたもの、文化形成された支配欲や加害欲と入り混じった、「女」への憎悪・悲哀・妄執を感じる。
そういう恋愛観のまま接するからお互いうまくいかなくなる。女からすればそういう男は背後に暴力性がちらついて見えるわけで、嫌悪感や恐怖感が出てくる。性行為と性暴力って全然別のものだと思うのに、相手はしばしば混同しているように見える。
そもそも自尊心や自己肯定感というのは、自分の中で育てるものだ。社会的地位や容姿、「モテ」「非モテ」と関係なく、無根拠に持っていていいものだ。自己価値は異性にアウトソーシングして調達するものではない。
やはり男性も、「ありのままのおれ」になるときだ。「男らしさ」から解放されるときなのだ。
◆
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
もちろんそういうことが自然にできている男性もいるが、現状では少数派に思えるのだ。
そういった怒りの背景には内面化された強固なホモソーシャルの価値観や、ミソジニーや、「ヒーロー像」へのコンプレックスがあると思うのだが、ここらへんを掘り下げた男性自身の話はあまり聞かない。
男社会で男であるということは、特権であると同時にプレッシャーでもある。うまくやれればまだいいが、うまくやれない人はやはり苦しい。
男社会ゆえの苦しさを、男社会ゆえの特権でもって、女に加害したり、女に癒されようとしているように見える。そうやって留飲を下げる男性たちは歪んでいるし、やはり何かに呪われているように見える。
脱線したけど、そういったヒーローになれない男性が救われるかどうかは、男性の意識の問題なのだと思う。
「ヒーロー像」を手放すこと。「プリンセス像」を押し付けないこと。
クリストフみたいなキャラクターを否定せず、「ありのままのおれ」を受け入れること。自分と同じように、他者も尊重すること。
旧来の「男らしさ」にとらわれて、自分を大きく見せようとしたり、誰かを貶めないこと。ささやかな自分自身の中に自尊心を見出すこと。
そのへんが大事なんだと思う。
ツイッターの観測範囲だと、そういう呪いを手放して楽になった男の人も散見するようになった。今は過渡期なのかも。
男だ女だって主語デカイ話書いたけどみんな楽になればいいのにな。いや理想論だけど理想のないリベラルって存在価値あんのか? 民主主義だって奴隷の解放だって女性の社会進出だってかつては理想論だったやん??って思う(このへんルトガー・ブレグマン著『隷属なき道』にくわしい)
マイケル・キンメルatTEDWomen 2015
私、元増田。
このまではまぁ、分からなくはない。
問題は次。
これ。病院行け。
これが道理であろう。
なんで、犯人とも被害者とも一切全くこれっぽっちも関係ない人間がコスト払わないと行けないの?
被害者のお気持ちはほかの善良な市民たちのお気持ちより重いの?
これこそ、自己満足。
被害者全員のお気持ちが満足するまで延々と「救済」し続けるんですか?
どこにどうやって線引くんですかね?
そしてこの傲慢さ。
なぜ、私が、我々が被害者の気持ちに寄り添わねばならないのか。
痴漢被害者も加害者も、ほかの誰の気持ちも考えたりしない。だから、私も彼らの気持ちなぞ知らぬ。
寧ろ簡単に「寄り添える」とか言っちゃう非当事者は傲慢だとさえ思う。
恐怖だとか嫌悪感だとか怒りだとか、想像できるというのは傲慢に過ぎるし、かといって当事者の満足いくまでの救済などしない出来ないする気もない。
これって前提として「女性が何の心配もなく夜中にアイスを買いにいける街」っていう、思考実験であって、実現可能性は問わないわけでしょ?
だったら「犯罪者のいない街に住みたいなー」でいいんかなと。
犯罪者も善良な市民もひっくるめて、男性すべてを排除しよう、みたいなこと言えば、男性が不快に思うのは当たり前じゃないんでしょうか。「お前たちは犯罪者か、そうでなくとも犯罪者と見分けの付かない連中だから、入るな」と言い渡した相手が、不快に思うかもしれない、という想像ができないのでしょうか。
アパルトヘイトとの比較がよく取りざたされてますけど、「お前たち白人は差別主義者と、そうでなくとも差別主義者と見分けがつかないから、黒人の街に入るな」と黒人がいい出したら、そりゃやっぱり逆差別ですよね。でも「差別のない街に住みたいなー」は、差別主義者以外、誰も否定しないでしょう。
フェミ(本来のフェミニスト、というよりもネットスラング的な意味あいで)と言われている人たちに今ひとつ同意できないのは、このよくわからない攻撃性にあるんですよね。
この例で言えば、実現可能性を問わない思考実験でさえ、「犯罪者」ではなく「男性」を排除し、あまつさえそれは差別ではないと強弁するとこと。
結局のところ、フェミ、と呼ばれる人たちは、女性の地位向上や犯罪の減少などの問題解決の意思が無いか、もしくは薄弱で、男性の非をあげつらって優越感ゲームで遊んでる、としか見えないんですよね。何で相手を攻撃したり不快にさせないよう、穏当に議論や思考を進めようとしないんでしょうか?
この件におけるフェミの人たちの行動って、
思考実験という建前で男性を攻撃しておきながら、反撃を食らったら、「わたし殴られましたー!見ました?わたし殴られましたー!痛いでーす!」
みたいに見えるんですよね。
※個人の感想です。
もっとも、「女だけの街」が、思考実験として、じゃあ力仕事や汚水・ごみ処理、といった比較的男性従事者が多い職業をどうするのか、みたいなことを考えるのは、控えめに言っても楽しい。そういった仕事を率先して担当する女性が出てくるのか、あるいは誰もやりたくなくて街が荒廃するのか、むしろ女性の方に隠れた適性が発現するのか?とか。
「女だけの街」の方が「犯罪者のいない街」よりも、刺激的でおもしろいし、また想像しやすい思考実験だと、個人的には思います。
でも、それならそれで、「これは男性差別が入ってる妄想だけど」という建前ありきじゃないですかね。じゃないと、結局この思考実験って、性別・性差の諸問題を解決するために、何一つ役に立たないと思うんです。
元増田は入れ墨の問題を好き嫌いの話とみなしてるようだが、一部で言われているように
入れ墨は暴力団のシンボルマークである。これは揺るぎない事実で、だからスパ銭やプールで
入れ墨の人の入場を断る事にしている。
これはナチスの鉤十字の問題と通底している。ナチスは既に72年前に撃滅されたが、今でも
鉤十字をモチーフにしたりナチス式敬礼をしたりすれば批判の的になるのを知ってるよな?
しかも暴力団の問題はナチスとは違い、地域によっては未だに現在進行系なんだよ。
元増田は入れ墨に対する偏愛が深過ぎるゆえ、入れ墨の負の歴史をあまりにも軽く考えすぎている。
これまで非常に多くの善良な市民が暴力団排除のために血と涙と汗を流してきたのか、少しは
想像してみろと言いたい。
元増田は決して認めないだろうが、多くの日本人にとって、入れ墨をしている人間イコール暴力団だ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sonodahisashi/20151013-00050405/