はてなキーワード: ロードランナーとは
「ハーイ!ジョージ!」の頃はまだ良かったんだ
俺もピエロ🤡に扮して「ハーイ!女児ぃ!」とか言たいだけの人生だった
でも、ラストで巨大な蜘蛛が出てきた時点で興醒めですわ、どんなサメですわ
ウソです
ド田舎でMSXに搭載されていたマシン語モニター機能とか使ってマシン語書いてた頃ですかね
文字をレンガ🧱とかに変えて、ロードランナーみたいなの作ってました
ウソです
MSX1以降、大学に入るまで、私はほとんどパソコンを使っていないブランク期間があります
大学に入って、物置からMSXを発見して、当時購入したマシン語入門的な本とか、
MSXのカートリッジの機能を使って電子工作やる本を買ったりとかして、
MSXカートリッジの形状をしたユニバーサル基盤を秋葉原に買いに行ったことから、そこから毎週毎日秋葉原に行くようになります
まだ、オタク系のアニメとか漫画とかフィギュア模型の店とか、メイド喫茶とか、まったくない時代でした
MSXでZ80のマシン語を一通り理解して、MSXカートリッジにユニバーサル基盤刺して、自分で組んだ電子回路をMSXで制御したりして遊んでました
あと、大学入学祝いがPC-9801だったので、それをいじったりもしてました
Microsoft Quick CとかTurbo Cでプログラムを書いたり、Cマガジンを定期購入するようになり、TeXを最初に動かしたのもPC-9801だったと思います
そのあと、米国から輸入したPC/AT互換機を当時のドスパラだったかな?で購入して、私は運が悪いのか、ちょっと色々と酷いのが届いたのですが、
それを騙し騙し使うことにして、Laser 5が販売していたSlackwareのLinuxインストールしたり、DOS/Vで海外のゲームやったり、なんだかんだ楽しかったのかもな
あと、まだアルファ版?だったかんのJavaを、えらい長い時間かけてダウンロードして、それのサンプルをひたすら眺めて勉強したりしてました
CとJavaでソケット使ってネットワーク系のプログラム書いたりとか、簡単なチャットみたいなのとか、JavaだとAWTでGUIまで作れちゃいますから便利になりましたよね
そういえば、前のバージョンのScratchのソースコードをなんか読んだ記憶がある
ただ、自分はBIO100%みたいにもなれなかったし、X68使ってる人たちみたいにもなれなかったし、Lightwave使ってる人たち、新海誠みたいにもなれなかったし、
なんか色々仕事したり、賞をもらったり、色々あった記憶はあるのだけど、何者にもなれなかったし、今も何者にもなれてないままですね、心に刻んでおくよ
楽しいのは描画系とか、操作とか、シューティングだと色んな装備実装したりとか、そういうのは楽しい
敵の行動あたりから雲行きが怪しくなる
要はパックマンとかスーパーマリオの延長線がなんだかんだ多いのではないか
シューティングなんか、同じ動作パターンの繰り返しであり、それが幾重にも積み重なる、
例えば、同じ画面内に様々な敵が登場するが、それぞれの敵の行動パターンは非常に単純であるが、
それがミックスされたり、自機に向かってどんな感じで弾を撃つとか、自機と無関係にレーザーを放つとか、
結局は凝ったイライラ棒みたいなもんで、意外性がないというか面白くない
敵が、生きてるのではないか?と思うぐらいちゃんと考えてるように見せるというのは難しい
例えば監視の兵士がいるとして、兵士は巡回ルートを回りつつ、ときどき他の監視員とだべって、
しかし、プレイヤーが誰かに見つかると半数がプレイヤーの位置に急行する、
みたいなことをいちいち裏で計算してしまうと破綻してしまうし、
といっても、近接戦闘になって、目の前の敵が2Dシューティングのような動作をされても非常に機械的というか、
まあ、それでも初代doomみたいなのでも面白いっちゃあ面白いんだけど、
敵が単純動作するという前提があって、それで敵を利用したり、ロードランナーみたいなところがある
でも、今の時代にちょっとしたニューラルネットとか使わないとつまらん気もするんだよなぁ
その落とし所というか、どうやったら面白くなるのか、が未だに分からない
そう、ゲームみたいなものを作るのは誰でもできるんだけど、どうやったら面白くなるのか、を実現するのは非常に難しい
レトロゲーでも、最初考えたルールを実装したが面白くないのでルールを足した、
ルールを足したが矛盾が生じたので、最初のルールの一部を削った、みたいな試行錯誤が見えることがある
その結果としてできたゲームは面白い、ちゃんと新しいルールが成立している
特にレトロゲーは、ゲーム=新しいルールの発明、みたいなところがあった
最近はそういう感じではなく、FPSならFPSを突き詰めていく方向になっている気がする
面白ければなんでもいいということでもある
ゲームを作るのは楽しいが、完成させるまでは非常に苦痛だ、困難な茨の道だ
一方でプロゲーマーとかゲーム実況というのは、他人の作った手の上で踊るだけではあるが、
昨今の世の中は、そういういかに楽な立場でカネを得るかという方向に向かってるので、
何が言いたいのか分からなくなってきたが、
まあ、プログラムなんて書かない方がいいと思うんだよね
それよりもプロゲーマー教育とかYouTuber教育の方が、特にDQNヤンキー系の親の子供とかは喜ぶと思うし、
単にコングにスプレーを当てるだけのゲームなのに、プレイしてみると結構面白い。
丸い玉集めたりバイブルを元の場所においたりするだけのゲームなんだけど面白い。
地味ゲーの最強名作かもしれない。
やり始めると止まらない。
花瓶を投げつけられてピヨるのが好き。
警察は俺を連れて行かない。連れて行か…なんで、あいつの方が悪いのに俺なんだよ!
お前は落ちろ。俺は生きる。
チャンピオンシップロードランナーはホント知恵熱が出る勢いのゲーム。
眠りキノコを追尾のように投げて操作できるという不思議なゲーム。
頭を使うので疲れる。
全面クリア出来た時の喜びは今も忘れない。
癖のあるアクションゲーム。
風船を割られると落ちる。水に落ちると魚に食われる。
音楽が意外と癖になる。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。
けもフレ2における、人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
リョコウバトとトキの比較ですが、けもフレ1のトキの場合、絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合、絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。
イルカ・アシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身の問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。
ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間と動物の関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカ、アシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。
イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。
詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。
マーベルやDC映画の場合、叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話的世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利のギミック(ビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的に意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。
結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思います。フレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。
けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます。
そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。
「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います。批評として使うなら、定義が必要になるでしょう。
私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラで面白いドラマを作ること」くらいの意味です。
けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。
そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。
まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。
思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランスの問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。
優先すべきものがイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすいイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。
キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語をドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間的欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。
さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラ」キャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います。
キュルルが落っこちた回でニコ動のアンケートがちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。
むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。
長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。
ただ、「スケッチブックの最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。
イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。
作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメのセオリーと呼ばれるものです。
けもフレ2の一般的な評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。
もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリーを無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。しかしけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキが選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います。不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカ・アシカやイエイヌでそこまで不快になるということ自体が製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。
「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない
これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘のときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃のタイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます。
私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っています。けもフレ2でのキュルルちゃんの葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品の評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーンな舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評の文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えています。けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品に継承されましたが、休日にリピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。
なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます。
「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
論理に同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由のときにのみ現れるものです。事実上その選択肢しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分に発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女の自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任は彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。
増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかったかも(実はプロの人なの?)。
最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思います。お話の上でキャラクターが何らかのミスや悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故で観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。
キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的でカジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術は進歩してきたのではないですか。