はてなキーワード: アリーとは
男女複数人(4〜6人)の群像劇で女性キャラクター(CV.茅野愛衣)に片思いした結果、好いた好かれたの物語の蚊帳の外になるキャラクター。
CV.茅野愛衣の演じる存在感が希薄なキャラクター、恋愛模様に絡めないキャラクター
「お金そのものは、金属か紙切れだ。でも、それで大体は交換できるように世の中は出来ている。だから、みんな欲しがる。俺も欲しがる」
兄貴の主張はともかく、「お金には価値があるか」と問われれば、ほとんどの人はイエスだと即答するだろう。
俺だって、そう答える。
にも関わらず、その“お金の価値は誰が担保しているのか”について、俺は今まで全く考えていなかった。
そのことについて考え始めたのは、とある遊園地での出来事がきっかけだ。
その日、俺たちは学校行事の遠足として、『イアリーランド』に来ていた。
人気ランキングでは上から数えても下から数えても遅く、大人気ともいいにくく、かといって不人気だとネタにもしにくいビミョーな遊園地だ。
遠足場所に選ばれたのも、学校から最も近かったからという理由だ。
それでも俺たちは、普段なら授業をやっている頃に遊べるとあって、内心ワクワクが止まらなかった。
園内のパンフレットを読みながら、逸る気持ちを抑えるばかりだ。
「えー、あれがこうして、これがああして……他の人に迷惑をかけないよう……園内ではルールを守って……」
先生が注意事項を話しているが、生徒の大半はマトモに聞いていなかった。
子供でも分かる常識的なことしか言っていないから、守るやつは聞く必要がないし、破るようなヤツには最初から意味がない。
結局は、一定の距離から生徒たちをマークするしかないことは分かっていた。
それでも一応は説明しないと、面倒事が増えるかもしれないからやっている。
「じゃあ、なんやかんやで気をつけて……A組のA班から順に入場して……ちょうだい」
こうして俺たちの班の番が来て、小走りでイアリーランドに入場する。
班の仲間たちは、ミミセン、タオナケ、ドッペル。
まあ、いつものヤツらだ。
「じゃあ、どうしようか」
「やっぱり、まずはアトラクションだろ!」
近くの窓口にいた人に、そう呼び止められた。
「イアリーランドで現金と同じように使える、紙幣みたいなものです」
100、500、1000の三種類で、イアリーランドのマスコットキャラらしきものが、それぞれ印刷されていた。
「アトラクションはそれがないと乗れないの?」
「何かの特典があるとか?」
「あるかもしれません」
「私、興味ないけど、試しに買ってみる」
そういってタオナケは、おもむろに1000円札を受付に渡した。
「マジかよ、タオナケ。普通の金も使えるんだから、チケットに換える必要ねえじゃん」
「私もそう思うけど、こういうのは雰囲気を楽しむことが大事だと思うの」
雰囲気、なあ。
まあ、園内のみとはいえ現金と同じように使えるんだから、損するわけではないだろうけど。
「私、1000円渡したんだけど……」
「1000円はイアリーに換算すると100なんです」
何だ、そりゃ。
ツイッターは愚痴を吐き出す場所として使おうと思っていたが、気付くと中途半端にフォロワーも増えて、大体はアクティビティ少な目なんだけど時折どーでもいい呟きが数百人の目に触れていて焦る事が増えた。
そしてしばしば「ネガティブな呟きを見せられるほうは迷惑」「ポジティブな呟きを心がけなければダメ」といった文意のツイートがRTで流れてくる。
では愚痴を控えて普通のつぶやきだけにしようとしてみると、なんとも自分の言葉が空々しく空しい呟きにしか思えない。
では他に良い場所はないものかとTumberだったかを使ってみたが、明るくも空虚な妙な雰囲気がどうにも肌に合わない。
ではでは匿名で日記が書けるアノニ増田イアリーをと思って登録してみたが、ココはココで妙な感じですね。まとめサイトのコメ欄のような馬事雑言で普通の増田日記が流れていく。
ネット黎明期だと個人HPなんてのが普通で誰もが気兼ねなく自分のHPで日記とか愚痴とか書いていて、その後にもっと簡単に日記が書けるブログというものが流行して、その後にはお膳立てが整ってるSNSというものが流行して、そのあたりまでは結構みんな好き勝手に好きな事を書けていたと思うんだよね。通りすがりの見知らぬ人に文句を言われる事も殆どなかったし。
気付けば主流のネットサービスは軒並み外国の会社の提供する日本語版だったりするし、規制や検閲も当たり前で、非難するほうが偉いという風潮さえあったりなかったりするので、棘のない言葉しかネットに書き込めないようになったような不自由さというか堅苦しさが付きまとう。
こういった事を書いていると「ネットをやめろ」と言われそうだが、実は半年ほど止めてみた。
止めてビックリしたのが、世の殆どの人がネット依存症状態だという事。スマホのおかげで猫も杓子もネットやってる。
なのでネットやめると連絡も取れず、共通言語も激減し、人との関わり合いが結構減ってしまう。スマホがないと何もできないという人も多いようだ。いまやネットが社会のコミュニティスペースと化しているのかもしれない。
しかしどうにも、僕がネットで自由に呟ける場所というものがみつからない。
でもそれが出来る場所って、案外と無いみたいだ。
はてな匿名ダイアリー始めたばかりなので...教えて、増田さんにコメントを下さった方へ
教えて下さった方、ありがとうございます。
『アノニ「マスダ」イアリー』の略だったんですね。
プロゲーマーのライセンスが物議をかもしていて、2013年に流行った"「うちら」の世界"という記事を思い出した。
>彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。
eスポーツの業界団体がプロライセンス制度を発表後、多くのゲーマーが反発した。
ゲーマーのTwitter、ゲームニュースサイト(Game*Spark、EAA!!、格ゲーチェッカー)、ゲーム系まとめブログ(チゲ速、シャコ速)での反応を読むと、次のような反発が最も多かった。
かねてより一部のゲーマーは「eスポーツで金儲けを企む悪いオッサン」を仮想敵にしている。
よくわかんない連中が俺らのコミュニティを荒らしに来ているぞ、と。
実際は被害妄想なのだが、今回のプロライセンス騒動によって日頃の不信感が爆発した。
アホかと思う。
ライセンスを発行する団体は、昔からビデオゲームに関わってきた人物で組織されている。
東京大学でデジタルゲームの研究をしていた教授、プロゲーマーのチームを運営する経営者、eスポーツのTV番組を企画してきた事務局長。
特にCESAは東京ゲームショウの主催なのに、その名を聞いてピンと来ないゲーマーに呆れてしまう。
eスポーツ団体の顔ぶれを知らない、調べない、受け入れられない。
自分達と縁のない"お偉いさん"はよくわかんないものであり、ゲーム愛が無いと思い込み拒絶する。
女性のゲーマーに対しても、一部の男性ゲーマーは同じように拒絶する。
League of Legendsのプロリーグに女性の解説者が来た時。
"はつめ"という女性が、株式会社コンプと契約してプロゲーマーになった時。
女性のアイドルがeスポーツに参入してきた時。(サンフェアリーズ、つくる女など)
その時は必ず「ゲーム愛あるのか?」「ちゃんとゲーム上手いのか?」という見定めが始まる。
合格であれば彼らの仲間入りを果たし、不合格なら延々と叩き続ける。(例:チョコブランカ)
いい加減、その排他的な立ち振る舞いを改めろよ、と思う。
あと、eスポーツ団体にゲーム愛やコミュニティへの配慮は必要ない。
eスポーツ団体に求められるのは、「景品表示法による賞金制限の回避」「オリンピック、アジア競技大会への選手派遣」「プロゲーマーへのビザ発給」である。
消費者庁、日本オリンピック委員会、法務省とのやり取りに長けていれば良い。
ゲーム愛に溢れているものの、ロビー活動が下手では話にならない。
「あなたたちは誰ですか。ゲームが好きな方々なんですか。」という反応のはてな匿名ダイアリー。
https://anond.hatelabo.jp/20171222114122
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
言いたいことがあるわっ!
これ困るんだなぁー。
そもそもとして
これじゃまるで、
おくずれじゃない、おくずれって何よ!
たぶん、これは
おにぎりのファクトリーオートメーション化の功罪ね。
いかに少ないお米でボリューミーに柳原可奈子ばりの最大の体積感をもたせつつ
ふわっふわで握らないといけない世の中の流れ、
すべてがそれよ。
もうちょっと、
ぎゅっと詰まった感じのおにぎりがいいのよね。
やる気あるのかしら?
自ら崩れていくかのよう、
まだバルスとも言っていないのに、
鳴りながらおにぎり握ってる姿を思うと
儚すぎる、儚すぎるよ!
そんなおにぎりでした、
水分量の多い果物は
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
----------
で、本題。
※これ自体が「『あるあるw』で笑いものにしてるじゃねーか何が細かすぎて伝わらないだクソが!!」っていうのはあるけれど、それは本題ではないので置いておく。
でもこれを流してるのは現役夢者ではないという言があって、自分もそうだと思う。
この辺りのアノニマスダアリーでも言及されてる(http://anond.hatelabo.jp/20170109182936)。
じゃあ何で彼女(腐女子、と限定しているので敢えて『彼女』と限定しています)はそんなことをするのかと、『自分がそれらとは離れているから笑いものに出来る(自分はそんな幼稚なことはもうしていないのだ)』という、ある意味で過去の自分と決別するためにDisっているのだろうなぁと。
だから、きっとこっち側が何を言っても、ウィンドウの向こうの彼女たちには伝わらないんだよな。
だって、彼女たちには『加害者である(精神的いじめをしている)』という感覚が無いのだから。個別具体的に責めてるわけじゃないんだから、と。
傷つくなと言うのは無理かもしれないし、声を上げるなとは言わないけれど、悲しくなる必要はないと思う。
あれらは感情のない人形のようなものだ。相手がこちらを感情のない人形として(もしかしたらそれすらも認識していないだろうけれど)扱うのなら、あれらが人間ではないと思ってもいいのではないだろうか。
何にせよ、自分の好きなことじゃないからってDisれる人間はロクなもんじゃねーなって思う。
そんだけです。
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