はてなキーワード: つんとは
中学から都内で偏差値60くらいの私学に行っていた、いまオーバー30。
友人は98%、なかなかの高級取りの正社員として働いてる。
だいたい3歳くらいになる子供を持っているんだけど、トイレ出来ない子供が多すぎてびっくりする。
保育園でトレーニングしてもらってるけどなかなか出来なくてやあまり保育園がトレーニングしてくれない等の話を聞いていたが、あまり気に留めてなかった。
先日友人が子連れで我が家にきて、2時間くらいしたら、友人の子供が四つん這いして固まっているからどうしたかと思いきや、それうん◯の姿勢と言われた。
動物すぎて驚いた。赤子と違って臭く、思わず換気扇と空気清浄機をフルで回した。
保育料8万払われて、なら、トイレトレーニングも仕方ないと思うけど、本人たちの自己負担なく無償で、教育どころかおむつ替えも毎日の仕事に含まれるのはシンドイ仕事だと思った。
タイトル通り、今まで恋人はおろか友人すら0という自分がレズ風俗行ったというだけの話。
というか、金出して色々やってくれるのは割り切れるので人間不信な自分でも、むこうは仕事でちゃんとやってくれてんなってなるのである意味安心だった。
相手のお姉さんはレビューとかで美人とか書いてたけどどうせレビューだしなーと思ってたら、本当に美人でした。疑ってしまって申し訳なかった。
と同時に、自分みたいなの相手にさせてすみませんみたいな気持ちも湧いてきちゃってたり。そんな感じだったもんだから、ほとんど目合わせられなかったわ。
待ち合わせのところからホテルまで手繋いでくれたけど、正直ついていくのに必死で感触覚えてないし色々と記憶が飛んでいる。
最初からもう緊張と恥ずかしさでいっぱいだったが、むこうはにこやかに話してくれるし、会ったばかりの人相手によく話せるなあなんて感心したものだ。
慣れているのだろうが、コミュ障の自分にとっては本当に同じ人間なのかこの人は?ってなってしまった。
そうしてホテルに着いて、シャワー浴びて歯磨きしていざ本番。緊張のあまりベッドで固まってる自分の口に優しくキスしてくれて、そこから胸やら耳やら色んなところにキスしてくれた。
最初はなんかよくわからん感触だなあとか、ああキスってこんな感じなのか、とかわりと冷静な自分がいたが、徐々に体が反応し始めてヤバいと思い始めた。
なんかいつの間にか濡れていたらしく、「下凄い濡れてるよ?」とか「体びくびくしてるね」とかエロゲでよく聴くような言葉攻めしてきて、笑いながら感じてしまったよ。
というか、本当にあんな感じで攻めるんだな。まあそのお姉さんがそういう言葉選びをあえてしただけなのかもしれんが。
そして、下の方指でめちゃくちゃいじられたり、乳首にキスされたりしてそのうち声も出てしまったが、正直「うっ…」みたいなうめき声みたいな感じだったので、全然エロくなかったと思う。
それでもお姉さんは「かわいい」とかいってくるし、お世辞だろうとは思うがやっぱり恥ずかしかった。
でも触られるだけで気持ちいいし、この辺までくるともうこれ現実か?夢なんじゃないのか?とか思うようになっていた。
今でもあんなに乱れていたのは自分だったのか、本当にあの時間は存在したのか?なんて考えてしまうが、この文章を書いているとまた感覚が蘇ってきてめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた…。
そうやって攻められてるうちにあっという間に時間がきてしまって終了。
帰りも手を繋いでくれて待ち合わせ場所でお別れ。
こういう経験をしたことは誰にもいえないけど、気分的になんか書き残したかったので今回書いてみた。
コミュ障でも知らない人と性交できたのは相手のお姉さんのおかげだと思う。自分と相性いい人に出会えてラッキーだった。
というわけで、自分みたいな人間でもこういう経験は金出せばできるんだなって思えて、今回利用してみて本当によかった。
僕は早川聖来が嫌いだ。正確には苦手だ。タイトルでインパクトを与えるためにすこし盛りました。気を悪くされた方、すみません。
僕は早川聖来についてほぼ知らない。彼女についてはブログを何本か読んだり、乃木中で何度かみたくらい。そんな僕は乃木どこ乃木中を毎週見てるくらいの、握手会には行ったことがなく、ライブも数回だけという「にわか」と言われてもおかしくない存在。でも、どうしても彼女のブログを読んで違和感を感じたので、彼女のことを分析してなぜ違和感を感じたのか、苦手なのか書いていきます。ファンの方は気を悪くされるかもしれないので見ないことをオススメします。ただ一方的に薄っぺらいことを言うのはただのアンチなので、逆の意見も考えて、()の中に書きました。なので読んでて違和感あるかもしれませんがご了承を。あ、あと「苦手ならブログ読むなよ」ってのは本当にその通りなんで何も言えないです。
それでは箇条書きで書いていきます。
・なんかブログの言ってることが嘘くさい。
良いアイドルを目指そうとしすぎて信用できない。言わなくていいことまで言っちゃってて、良い子アピールがきつい。そして媚びへつらってる感じが無理。というか媚の売り方があからさますぎ!表面上ただ好かれたいんじゃないかと思ってしまう。もっと本性表わせよ。って2919.02.04の重いかな?のくだりよんで思いました。
(でもファンの人に好かれたい、多くの人に愛されたいって思うのはアイドルの職業的にしかたないのかも)
・多くを語りすぎ!
つべこべ言わずまずはやれや!努力見せんな!まだ何にも成し遂げてないのにアピールが多すぎ!努力は成し遂げてから少し見せろ!努力と今の自分の見え方(私が目についたTVで見た限り)があってない!意識が高すぎる!アイドルに意識の高さはいらん!かわいさだけでいい(主観です、持っててもいいけど出されるときつい)!
(謙虚だから自分がやったことを多くは語らない性格だとしたらごめんなさい。何を考えているかも大事だけど、それだけだと重すぎるから何をしたのかも語ってくれるとライト層も理解しやすい。というか勿体ないからもっと発信してほしいよね伝わらんから。もしやってるなら。)
・成長したい、頑張らなきゃ言いすぎ
どんだけ上目指してんだよ。今の自分受け入れなさいよ。それが今の実力だよ。何、私もっとやれば努力すればできます感出してんだよ。今の実力まず受け入れろよ。そうじゃないと応援してくれてるファンに失礼だろうよ。
(でも焦りあったりアイドルという世界じゃ今の自分のままではダメだと思うのも仕方ないのかも)
1期生の生駒ちゃんが卒業後に『メレンゲの気持ち』で、『自分の命をかけても守りたい人達ができた』といっていた。その言葉に泣いた。行動がともなってるから。
でもそんな私からしたら、4期生の子が先輩よりも熱く、乃木坂側で乃木坂のことを語ってほしくないって2019.1.13のブログを読んで思いました。久保ちゃん、矢久保ちゃんみたいにファン側から乃木坂愛を語る分には全然いい。むしろファンと同じ気持ちになってくれてて嬉しい。そうじゃなく、薄っぺらい(舞台やライブみてないので私の見る限りです、すみません)経験で、乃木坂側で乃木坂については少しも語ってほしくないです。そんな安っぽいもんじゃない。自分のために語ってるようにしか見えない。その自分語りに私の大好きな乃木坂を利用してほしくない。
(自分の好きなものを語り、熱くなって客観的じゃなくなるのも分かるけど)
あとわざとらしい関西弁が無理とか、顔がなんか無理ってのは主観的なのでとりあえず排除します。それはどうしようもないので。ファンの方本当にごめんなさい。
ただ、全部が苦手ってわけじゃなく、乃木中のヒット祈願で登山をした際に、バナナマンに頂上の空気を持ち帰ってプレゼントしたのは、良い子だなって思ったし。(これはアピールじゃないと何故か感じた)良いところもあると思うんです。
箇条書きで書いてきましたが、以上をまとめると、
そこまでして愛を見せないと好かれないと思って、頑張ろうとしている姿が過剰で腹が立つ。
あれ?なんでそんな姿をみて腹が立つんだろって思うと、あれですね、おそらく過去の自分をみているようで腹が立つんでしょうね。
僕は人の顔色伺って常に誰かに嫌われないように、人の正解にあわせて生きてきました。(今では本当に人の目なんてどーでもいいです。だから批判覚悟でこのブログ書きました。匿名ですけど)
なので、そんな過去の自分のような彼女に、もっと嫌われてもいいって思えよ!覚悟決めてアイドルやれよ!と思ってしまうんでしょうね。
結局のところ、過去の自分を受け入れられない今の自分の弱さが、原因なのかもしれません。っていう結論になりました。なんだこれ。
これはどこにでもいる普通のオタクが「金を払って観る悪夢」「SAN値チェッカー」と名高いカルト映画、CATSを観てきた感想文です。
ネタバレが盛大に含まれていますので、その辺りお気を付けて頂けると幸いです。
昨年12月の暮れに海外で一足早く上映が始まり、その評価を読み「絶対に見る」と心に決めて1ヶ月、私はようやく映画館へと足を踏み入れた。
やれポルノだの玉ねぎだのと聞いているので期待は最高潮、何しろ私はホラー映画が大好きで、そしてクソ映画が大好きです。
今日は一人で悪夢を観に来たことを忘れて売店で巨大なポップコーンとジュースを買い、はやる心を抑えながら入場開始を待つ。
上映前に最後に流れた「それでは、夢のある映画の旅をお楽しみください」のアナウンスは、この後の展開が「悪夢」であることを啓示しているかのようでした。
私はオタクの中でも日陰に生きる人間でありますゆえ、正直CATS本編と同じくらい実写オタ恋のCMも滅茶苦茶キツかったんですが、この辺りについては口を閉ざし静かにスクリーンへと目を向けます。
劇場の照明が落ち、暗闇の中映るのは夜空。
猫の映画ですよ〜!という事を示唆するかのごとき可愛らしい雲、ここからどうなるのか期待が高まります。ちなみにここが唯一ここからの110分の中で「これは猫だな」と理解できた部分になります。
さて、開始して1分ほどですがここで早くも私の脳は処理の限界に達してしまいました。
ドラクエIIIの夜のピラミッドのBGMを不協和音にしたようなBGMが流れる中、夜の街を闊歩するのは人間によく似た体躯にうっすらと全身毛のテクスチャを重ねた「何か」。
一瞬、誤ってメイドインアビスのシアターに来てしまったのかなと思いました。人間性の喪失の結果と言われれば納得も出来るのですが、そもそもこれは「人間」では無く「猫」らしいんですね。
BGMの中、四つん這いの合成獣(キメラ)の集団が道路をぐるぐる回る姿はムカデ人間の続編かと錯覚を覚える絵面ですが、その中心で蠢く頭陀袋も嫌な予感しかしないし、案の定悪夢が飛び出すし、今の所パンドラの箱なのですが果たして最後に希望は飛び出してくるのでしょうかね。
そう言えば海外の評判ではやたらと性的な印象がありましたが、ただでさえ限りなく全裸に近い全裸なのに動きがこう猫々しいしやたらと柔軟性をアピールするし妙に動物的な飲食シーンを盛り込んでくるし、観客の無意識の奥底にあるなんらかの性的衝動を呼び起こそうとしてるのかなって感じは分かるんですけど。ですが、残念ながら扉のノックの仕方がシャイニングのジャック・ニコルソンなんですよね。へただなぁ…欲望の解放のさせ方がへた…こんなんじゃ歴戦のケモナーだって裸足で逃げて行きますよ。
さてなんの説明もないままに話は進み、ジャ…ジェ…?なんか分からないけど固有名詞がいっぱい出てくる、完全にルシがファルシでパージ状態。私は原作のCATSを知らないので、知ってたら話の流れが分かるんですかね?知ってたら開幕1分で席を立ちそうですけども。
さて墓場で歌って踊るシーンではふとBloodborneを思い出しましたが、ひょっとしたらこの夜は獣狩りの夜だったのかもしれません。私の啓蒙も爆上がりしていきます。
トイレで歌うシーンは真っ先にトレインスポッティングを思い出しましたし、ひょっとしたらこの映画も薬でぶっトんでる狂人の見た夢かもしれないし、狂ってるのは私だったのかもしれないと思い始めました。
まだ始まって30分も経ってないんですけど。あんな猫やこんな猫の説明を歌っているけど私にとっては全てが邪悪なモンスターにしか見えない。
さて、かく言う私もだんだんと目と心が慣れてきました。
感覚的に言うと「有色はマシ」「服あると相当マシ」「全裸はほんとキツい」「白系マジで無理」、要するにヒロイン枠の生物が一番キツい。黒人の敵とマジシャンが比較的視覚へのダメージが少ない。それだけで若干好きになる、だから頼むから帽子を脱ぐなコートを脱ぐな。あと手先と足先が人間なのがマジで拒否反応を起こす、黒人の手の平が肌色なのでも認知が「?」ってなるのにこの生き物の手足見てると「??????????????????」ってなる。かといって靴だけ履いてるのも異常なんですけど、タップダンスだけ見たら凄い出来なのに他の全てが恐怖。
あと衣類については黒人っぽいキメラが首からbling-blingなおさかなネックレス下げてるのは良いなと思いました(数少ないポジティブな感想)。
この作品、猫だけでなくGの者等も等しくキメラになっているとの話はうっすら聞いていたのですが、正直全裸じゃないし着ぐるみっぽさあるからこっちの方がだいぶマシではあったんですけど、喰い始めた時は流石に驚愕のあまりポップコーン食う手が止まりました。
ネズミとか、子役?っぽく見えたんですけどこれを見たご両親は「可愛い〜💕」「◯◯ちゃんの演技最高〜!」って思うのでしょうか、人生開始してまだ間もないのにこのような罰を受けるのはあまりに酷ではないでしょうか。
あと犬の存在が示唆されているのに画面に映らなかったの、犬はキメラじゃなく犬ですよってことなんですかね?製作陣や太いスポンサーの中に敬虔な犬好きでも居たんでしょうか。なんにせよ、助かった動物が居るのは良いことですね。
個人的に認知的不協和を感じるポイント、デザインや動き以上に「大きさ」があるんですけども。人間の体躯に猫の動き、街並みは人間の大きさの中で人間らしき体躯の生き物が「猫のサイズと言うには高さは合っていても細身すぎて違和感」で「人間とは思えない位小さい」姿で街を這い回り走り回る。人間の脳には大きさや距離感を自動的に調節してピントを合わせる機能があるはずなんですけどそれが全部ぶっ壊れる。
脳の機能に直接影響する映画、感覚にダイレクトに伝えてくるこの作品はいっそ4dxでも上映してほしい。余談ですが私はこれを観ながら「TOHOシネマズ限定のかっぱえびせんポップコーン」を食べていたので、こいつらがゴミ箱から拾ったエビ食うシーンでセルフで臭覚で新感覚の映画体験をしてしまい大変不愉快な思いを致しました。
定期的にあったのですが、このキメラ達が猫の鳴き声で「ミャー」とか「ニャーン」とか鳴くのがかなりキツい。というか主役級は顔がアップになったりすることが多くて「あー、人間の顔と身体した獣のキメラだなぁ」って思えるんだけど、ヒキで後ろに映ってるその他大勢がヤバい。意味不明な物体が四つ足で這い回ってる、フォーカスが手前に当たってるせいでぼんやりとボケた画面の奥で蠢いている人間ではない何か。私が観てたのってひょっとしてサイレントヒルだった?と誤認してしまいそうだし、私は悩める私に胸を張って「違うよ、CATSだよ」って言ってあげられない。
そこそこ話が進んでもストーリーか理解できない。一番歌と踊りが上手い奴が選ばれるオーディションなのは分かるけど、選ばれたら転生って死ぬやつじゃん?あと黒人男性なんでよく分からない魔法使ってるの?確かに猫よりは魔獣って感じだけど、それやるとますます猫の概念から遠ざかるよ。観ていてふと私が思い出したのは「悪魔ネコ」でした、懐かしいですね。
ところでこいつら猫?ってことは乳首6つあるんですよねってふと思って心底ゾッとしたし、この時点で完全に食欲を失っているのでポップコーンは封を閉じられている。
この時点で唯一覚えてる名前がヴィクトリアだけだし、ヴィクトリアったら捨てられた飼い猫割には異様に順応高いな…こうやってこの映画に慣れてきてる自分もひょっとしたら既にヴィクトリアなのかもしれない…と正気を失っていたら家無き捨て猫で「子猫」であることが発覚したのですが、私の中の子猫の概念がグチャグチャのベコベコに狂うのでこの件については早めに酒飲んで忘れようと思いました。
さて、物語の結末、私の刑期の終わり近付いて来ました。
ゲイビの男優かインナー無くしたマリオみたいな格好のキメラが踊ったり、黒人キメラがコートも帽子も脱いだせいで一瞬マジで全裸かと目を疑いましたがそんなことは無く。あとヤク中の流れあったんでやっぱりヤク中の見る夢だったオチも考えたのですが残念ながら物語は大団円へと向かいます。
マジシャンが無茶振りされる流れ観てると「いじめか?」と思いますが天下のハリウッドがそんなことをするわけが無いのです、ちゃんとなんとかなりハッピー的なエンドです。
ここまで観ていて、ストーリーの中の時間が夜から夜明けまでで12時間も経っていないことに恐怖を感じる。映画も2時間足らずだし、体感的には6時間くらい苦しんでるんだけど。
最後の最後に、老いた猫は画面のこちら側ん見据えてこう言います。
これは、ここまでこの映画を観続けた私にとって実質「死刑判決」でした。啓蒙が上がり過ぎて狂ってしまいました、私は人間のつもりだったけれど、実は限りなく画面の中の生き物によく似た「なにか」であると告知されました。
ホラーにある「次はお前だ」的なアレであり、告発やシリアスな社会派にある「他人事ではないぞ」みたいなアレを感じます。あと夜闇に紛れた姿も怖かったけど朝日の下よりは大分マシだったみたいです。朝日の下のキメラ達は、エグいアダルト作品を観た時のような性的興奮よりも先にショックに殴られる感覚がありました。もうこの辺りは感想をメモすることも忘れました。
しかしまぁ終わってみて改めて考えると、歌のクオリティは当然の如く相当高かったです。私はあのビジュアルで日本語でミュージカルやられると「理解できないおぞましいものを無理やり理解させられる」感覚に負けて脳が爆発四散してしまいそうだったので字幕で観ましたが、吹き替えの役者さんが好きな方は吹き替えで観ても良いのではないでしょうか。あの生き物達が好きな人間の声帯で歌い喋っている姿を観て立っていられるのならばですけども。
一言で感想をまとめるなら、「目を瞑って観たらそこそこ満足度の高いミュージカル」だと思います。ただ残念ながら、目を開けると死んでしまうので気を付けてください。神話にありがちな奴ですね。
見るなのタブーだと思えば納得できる作品です、いや無理だできねぇな。
ここまで色々書きましたが、最期まで走った身としては「マジシャンの猫ならギリ抱ける」と思いました。
どうやら私も完全に狂ってしまったみたいです、その内全身の皮膚に薄ら毛が生えてきて服を脱ぎ捨て夜の裏路地に四つ足で走って行くでしょう。まだ日本語を語れる今の内に、これにて文面を終えようと思います。
旅人さんが「青い目のやつおるで」って言うたからみんなが自分の目が青いことに気づけたって話やんな。
でも、青い目のやつがおることは旅人に言われんでもみんな知っとったことやん。
せやのに、なんで旅人に言われるまで自分が青い目ちゅうことに誰も気づかんかったんか、不思議やんな。
なんでそんな不思議なことになるんか、おっちゃんが解説するやで〜
A氏「ワイは赤目やろうか青目やろうか。もしワイが赤目やったら……」
て考えるわな。
ここでもし、
オッサン「はぁ? 自分青目やん。なんで自分が赤目やったらとかありえんことを想像するん? アホちゃうん?」
とか言うやつおったら、オッサンの方がアホやってことはみんなええよな?
オッサンは確かにA氏の目の色を知っとるよ。けどA氏はそれを知らんやん。
自分が知っとって相手が知らんことを、相手も知っとるはずやとナチュラルに決めつけるんはアホやで〜
話戻そか。
A氏「もしワイが赤目やったらBはどう考えるやろか。そうやな……」
A氏の脳内のB氏「Aは赤目やんな。ワイが赤目か青目かはわからんけど、もし赤目やったら2人とも赤目やから……」
A氏「せや、Bはこんな風に考えるはずや!」
ここで「A氏の脳内のB氏」なる人物が出てくるのがポイントや。
「A氏の脳内のB氏」≠「実際のB氏」やで。
せやから「『2人とも赤目やから』てなんやねん。自分以外の99人が青目なん知っとるんやから、そんなん考えるBはアホやろ」とか言うオッサンがおったらオッサンの方がアホやで〜。気いつけとき〜。
ほんで、A氏はさらに考えを進めるわけよ。
A氏「ワイの脳内のBの脳内におるCは、このときどう考えるやろか。そうやな……」
A氏の脳内のB氏の脳内のC氏「ほーん。AとBが赤目やから、ワイが赤目か青目かはわからんけど、もし赤目やったら赤目が3人やから……」
ここのポイントは「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」が出てくることや。
もちろん「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」≠「実際のC氏」やし、「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」≠「A氏の脳内のC氏」でもあるから気をつけるんやで〜。
「このC、3人赤目がおるとか有りえんことを考えとるわ……」とかアホなこと思わんようにな。
「実際のC氏」が「赤目が3人やから……」とか考えとったらアホやけど、「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」が合理的に検討する可能性の中には赤目が3人のパターンもあるんやで。
ほんでまあ、あとは似たようなことの繰り返しになるんやけど、そのうちに「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏の脳内のD氏の脳内の……氏の脳内のZ氏の脳内の……氏の脳内のΩ氏」まで行き着くわけや。あ、とりあえず便宜上100人目をΩ氏ゆうことにしといたで。
「ワイ以外みんな赤目やな。もしワイが赤目やったらこの村は全員赤目やし、ワイが青目やったらワイ1人が青目や」
もちろん、これは実際とはかけ離れた想像よ? けど、脳内の脳内の……って重ねまくって現実から遠く離れてしもうた想像上の世界におるΩ氏にとっては論理的で合理的な思考なんよ。
せやから「このΩおかしなことを考えとるで。アホや」て思うオッサンがおったらオッサンの方がアホなんやけど、ここまで脳内の脳内の……って入れ子にしまくった論理構造は人間の処理能力を超えとるから、しゃあないで。人類みなアホ、人類みなオッサンや。
もちろん、実際のΩ氏は自分以外の99人が青目なんを知っとるで?
けどな、A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏にとっては「全員赤目」という可能性もあり得るんよ。
どんだけ「実際のΩ氏」にとってあり得ん仮定でも、想像の世界ではそれがあり得てしまうんよ。
その直観と論理が食い違っとる感じが、この問題を分かりにくうさせとるんよ。
さてここで思い出して欲しいんが、旅人のおっさんが言うとったことや。
「この村青い目のやつおるで」て言うとったやんな?
この言葉が出てきた瞬間、さっきまで論理の彼方にあった「『A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏』が考える、全員赤目の可能性」が消え失せるわけや。
村人各々が自分の目で見て知っとる「村に青い目のやつがおる」って情報と、旅人が言う「村に青い目のやつがおる」って情報は、ここが違うんや。
なんぼ自分の目で見た情報があっても、「A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏」て具合に仮定に仮定を積み重ねていくと、それぞれのA氏やB氏やΩ氏は自分の目の色を見ていないわけやから、それを1個ずつ重ねていったら「全員の目の色がわからん」のと同じことになるわな。
この仮定の世界は実際の世界とはちゃうんやから、現実で見たみんなの目の色は無意味や。せやから、みんな赤目みたいな実際とかけ離れた極端な可能性も、論理の彼方では成り立つんや。
せやけど、第三者の旅人が保証する「青い目のやつがおる」はちゃう。
これは論理の彼方まで行ってしもうた「A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏」にとっても同じように有効なんや。
やから、旅人のおっさんの発言があって初めて「全員が赤目」という可能性が、脳内の脳内の……っちゅう想像でけへんような世界からも完全に消え去るわけやな。
あとは、まだ「99人赤目で1人が青目」みたいな可能性が、やっぱり脳内の脳内の……の世界にはまだ残っとるんやけど、これは1日経って誰も村から去らんかった時点で消える。
同じように「98人赤目で2人が青目」の可能性は次の日になっても村から人が去らんかったことで消える。
そんで、そのたびに「脳内の脳内の……」の入れ子構造も1つずつ減っていくわけや。
そないしとったら、そのうちに「1人赤目で99人が青目」の可能性だけ残っとるいう日が来る。
その日には論理が入れ子になることものうなっとるから、つまりこれは「自分だけが赤目の可能性」ちゅうことや。
その日が過ぎても村から人が去らんかったら、すなわち自分も青目やっちゅうことやね。急いで引っ越し準備や。
ほんで、翌日みんなでスタコラや。そして誰もいなくなった、やね。
結局この問題がわけわからんのは「脳内の脳内の……」って具合に仮定の話を積み重ねていくと、だんだん現実からは乖離していって「ん、これなんかおかしない?」って脳がエラーを感知してしまうからなんや。
ほんまはエラーやなくて、仮定に仮定を重ねまくった世界やから論理的には成立しとるんやけど、直観的にはそれが納得できへんからわけがわからんくなるんよ。
しかも、旅人の「青い目おるで」は普通に「言われんでも見たらわかること」やから増田みたいな疑問が出るのは当然のことや。
「見たらわかること」は仮定に仮定を積み重ねた世界では消えてしまって、第三者の発言は消えてしまわんのんやけど、これも直観に反するからわけがわからんようになる。
そんなわけわからん問題やけど、こうやって丁寧に解きほぐしたら多少は分かりやすうなるから、おっちゃんの解説で少しでも理解が進んだら幸いやで〜。
ほな!
ステマについて調べました。
なるほど、特定のブランドや商店・商品に誘導しなくてもステマは成り立つんですね。
デジマ脳なんで分かってなかったですすいません。
まあどっちでもいいよ好きに判断すれば笑