はてなキーワード: 横取りとは
いつか滅びる日が来るのだとしてもなるべく長生きさせなければいけない。
変体仮名もなるべく長生きするべきだったが寿命が来てしまったというだけだ。
外来生物が侵略してきて土着の生態系が壊され既存の生物種の個体数が減ってきたら、
その外来生物を駆除して個体数を減らし、生物多様性を守らなければいけない。
競争させる中で既存の生物種あるいは外来生物が新たな進化を遂げることもある。
抵抗する過程で勝ち得た進化の智恵は残された生態系にも受け継がれる。
結果的に滅びたとしても、
「滅亡を防ぐために努力した」のと「滅亡を防ぐための努力をせず滅びるがままに放置した」のでは、
その後の世界の様相はまるきり異なるのだ。
彼らの驚異的な脚力は、彼らの先代が何千何万年にわたる過酷な生存競争を生き抜く中で淘汰と進化を遂げて勝ち得られた努力の賜物だ。
もしチーターが全滅していたらガゼルはここまで速くならなかった。
ガゼルが速くなったから、ライオンは腕力を発達させ、ハイエナは顎の噛む力を強力化して、チーターが捕ったガゼルを横取りする力を身に付けた。
ライオンが強くなったからキリンやシマウマは反撃するためにキック力を鍛え、象は重量化した。
さらにシマウマは色覚のないライオンの目くらましをするために白黒の縞模様を身にまとうようになり、
おまけに偏光効果を持つ縞模様はアブを寄せ付けさせない役割も果たすようにもなった。
単独での狩りが難しくなったライオンは群れで狩りをおこなうようになり猫科動物でも特に社会性ある動物になった。
性のことは、心の深い部分に影響があるテーマだから、男性も女性もそれぞれの言い分があると思う。
多くの男性が一生のパートナーが、できれば処女だったらうれしかった という風に考えると思う。
そういう男性が多くいることを知らず、処女のまま結婚したことが長いことコンプレックスだった女性の私が
それならもっと、処女を大切にするような文化だったらなあという思いとともに過去を振り返ろうと思った。
本当に、いろいろ悩んでいるので、文章にまとまりはないと思います。
けっこうつらい思いをしたので、つらい想いとともに混乱しながら書いているので
文章が整っていないのはごめんなさい。
まず、処女でコンプレックスだったのは、20歳過ぎて処女はひどいブスだけ、ということをたくさんの男性から言われたこと。
それがコンプレックスだったので、私は、処女だったけど、一生懸命自分を磨いて、結局モデルをやれた。
水着の仕事もあったので、グラビアだったり水着のモデルをやってても、私みたいな処女の人だってそれなりにいるんじゃないかなっておもう。
ここまでかくとオッサン乙、ってことになるとおもうけど
女性は男性ほど性欲が強くないし、一生の相手じゃないと体を許したくないと思う人は多いと思う。
話を戻します。
サークルとか合コンとかでモテるのは、男性受けする女性ですね。
清純派でおしとやかだったり、美人で女の子らしい女性が受けますよね。
で、そういう女性は、女性が憧れる男性からもアプローチされるので
女性は、性欲は強くないけれど、恋愛はしたいと思うものだから、ほとんどの若い女性は彼氏がほしいと思うのが当たり前ですよね。
だから、清純派で、清らかに見えても、だからこそそういう女性は、極端に潔癖でなければ男女交際をするのが普通です。
清純派のおしとやか美女がすごくもてて、いつも彼氏が途切れなくて、
片思いしているイケメンとも付き合えているのを、仲間内では知っているわけです。
そのモテる女性が「清純で、ピュアで男になれていなそう」ということで、さらにモテます。
自分が片思いしたような素敵な男性と付き合って別れたにもかかわらず
何も知らない男性からも「ピュアそうだからかわいい」とモテることになります。
それで、結局は、合コンでも、その女の子が選ばれることになります。
これは、自分のコンプレックスとかバカさを暴露することになるので
もう、叩かれてもいいのですが
自分は、ぶりっ子だったり、清純だったりはしませんでした。キャラが清純ではありませんでした。
嫉妬とか言われても実際そうなので構いません。
私は、自分が好きだなあと思うような男性と複数つきあえているかわいい女性がうらやましかったし
先にも書いた通り、モデルをしたことがあるので、ブスではありません。
でもコミュニケーションは下手でした。
同性からは、「ぶりっ子するな、自分のことをかわいいと思ってうぬぼれるなブス」
そういうことで、女性受けする自分のキャラ、というのを作るのに必死で
道化を演じました。面白い、芸人みたいな、明るい、自分の彼氏を横取りしないようなさばさばした女、というキャラです。
私は、小学生中学生時代に女性から集団で嫌われた経験が強烈だったので
しかも、それが、自分の素のキャラだと思い込むようになっていきました。
で、合コンにいくと
「君は男慣れして遊びなれていそうな感じがするね」
と言われてしまい、男慣れした清純派で非処女の女性に負けてしまうわけです。
男性は、清純な女性が好きでしょう。男性経験が少なそうなおしとやかな女性が好きでしょう。
自分が片思いしていた男性と付き合った後に何人もの男性と付き合ったような女性と比べられて
「あの子のほうが清純で、君は遊びなれてる」
と言われてしまったことかな。
そして自分は処女なのに遊びなれている女性だと思われてしまう。
そういうのがなんだか、とても悲しかった。
自分が片思いした男性が選んでいたのは、非処女だけど清純な女性だった。
それに、誘ってくる男性は、セックスをしない女性だなんて古風でダサイし、ブスしかいないと
散々洗脳してきました。
処女を捨てろ、ダサいといってきたのはむしろ男性のほうでした。
今思うと、結婚ではなく遊び用の女性として、男性たちは誘っていたのでしょう。
しかし、大学生ぐらいだと、そういう男性ばかりではないですか。
今思うと、学生ぐらいだと、童貞を捨てたいだとか、彼女がほしいとか、遊びのためにセックスしたいとか
そういう男性ばかりだったのだと思う。
しかし、何も性知識のない女性は、ああ、性にはオープンなのが当たり前な時代なのかなあと思ってしまいます。
私は、学生生活を通して、
セックスに臆病でいるなんて性に対する偏見だから、早くセックスを知ったほうがいいと
男性からも女性からも言われてひどいコンプレックスを持つくらいでした。
今思うとそれに流されなくてよかったと思う。
処女を捨てなきゃとせかされる環境が、いまでも日本には普遍的に存在していると思います。
将来自分が結婚する女性が処女だとかどうだとかは、あまり考えずに
処女と結婚したいと思う男性が大半ならば、結婚する女性以外とはセックスをしないべきなのに。
極端に乱れた女性でなくても
メディアもそうですし、先述したように遊び目的で性欲を持て余している男性が
結婚なんてずっと先で、青春や若者としての充実が先にやってくるという社会構造だから
処女が減るわけです。
イケメンで、ハーバード大出身で、年収が3000万円くらいの、
姉なのですが。
姉も、まあ兄弟なので若いころはモデルみたいなバイトもしてましたし
それなりにリア充でした。
姉は、特にビッチとかヤリマンとか中古とか、処女厨の人が言うような女性ではありません。
義兄は、処女とかこだわらずに、人柄と容姿で選んだのだと思います。
義兄自身、恋愛経験が普通にあるので、性に対しての極端な汚いイメージがなかったのではないかと思います。
それは、けっきょく、性に対するコンプレックスや過度の執着ではないかとも思います。
夫が初めての人でしたが夫は普通にモテていましたから恋愛経験が私以外に5人くらいありました。
夫に処女をささげた直後は
こんな、セックスという、刺激の強い、おおきなことを
他の女性ともしたことがあるなんて と
とても悲しく思いました。
ということではなくて
やっぱり、セックスというのは、心身ともにとても刺激の強いものですから
だから、こんな深いことを、ほかの女性としたこともあったなんて、悲しすぎる、と思ったのです。
他のひとと、あんなことやこんなことをしたんだと悲しい思いをするのは
処女厨のひととまんま一緒でした。
しばらくたって、慣れてくると、性に対してすごくコンプレックスや偏見を持っていただけで
大切にしようというのがメインになって、過去なんてどうでもよくなりました。
童貞厨てのはすくないけど、私は相手が童貞だったらうれしいと思う。
男性のほうが性病の罹患率が高いわけだし、過去に女性関係があれている人はエイズじゃないか怖いなっていうのもあった。
いわゆる「童貞くさい男」っていうのが「キモオタっぽいさえない男」っていうイメージがあったりするからなのかと思う。
女を口説けない男、みたいな。
処女を続けてきた自分からすると処女っぽい女っていうのも同じくらい恥ずかしいことだった。
好きな男に選ばれない女、みたいな。
そして、処女からすると、相手の過去の性的な関係はとても悲しかったし気になった。
最初のうちは。
性のことについていろいろ悩んだ時期もあって
それでいま落ち込んでいるので、
お読みくださってありがとうございます。
6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
どうして苦しいことを認められなかったのか。
「かわいそう」でした。
人の世と隔たれた様なアフリカの小さな村での、矮小な自由から別の異質な自由を手に入れた彼等は、かわいそうでした。
彼等は学校に行けません。
彼等は人を愛せません。
彼等は私たちと同じじゃありません。
だからかわいそうでした。
皆大体同じことを考えたと思います。
今の社会では愛や希望と同じくらいに、他人の苦痛が氾濫しています。
そして情報化のおかげで感情というよくわからないものが相対化され、値札がつくようになりました。
違うのです。
周りの人も全然疑問は湧いてないようで、私もそう考えていました。
「苦しい」と言えば、
「お前より苦しい生活している人は一杯いる。」と言われ、
「死にたい」と言えば、
「お前が死にたがっている今日は、昨日死んだ奴が生きたかった明日なんだ」と言われる。
そしてそんな言葉を口にすること自体が恥ずかしく思われる様になり、中二病なんて名前が付けられる程になりました。
私は小学生の時に太っていることを理由にいじめられていました。いじめと言っても一部のクラスメイトなどに「デブ」などと言われるくらいなのでまぁ大そうなものではありませんが。はっきりとではありませんがその頃、デブでスポーツも出来ない私は全く価値の無い人間なのだと考えていたのですが、小学校高学年あたりでそのいじめはなくなりました。
理由は私の兄にありました。
私の兄は、かっこよくて、スポーツが出来て、私みたいに太っていなくて、そして、とてもユーモアのある人でした。
少し我の強い人でしたが、一緒に遊んだ時はなにかと私を笑わせてくれたのでその時の兄はとても好きでした。私はかっこよくないし、スポーツも出来ないけど、人を笑わせることなら出来るんじゃないか、と考えました。
実践してみれば簡単なことでした。
変顔をするだけで笑ってくれるし、デブと言われても開き直ればそれでまた皆笑ってくれる。ああ、自分の価値はここにあるんだなと思っていて、将来はお笑い芸人になろう、などと考えていました。
今思えばここが間違いだった、と感じています。
道化は見世物です。故に私という存在は指をさされ、馬鹿にされ、笑われるべき存在です。
そしてそのピエロは観客の嘲笑に包まれた喜びを糧に生きていくのです。
人の好奇心は底が無く、少しタガが外れれば面白いことならなんでもいい、と考えてしまいます。要するに、面白ければ私には何をしてもいい、という結論に至るのです。
私はそれを苦痛だと考えませんでした。
周りの人が笑ってくれることが喜びであり、それが快感でした。
ただ、やはり好奇心というものは一か所に止まらずに色んな方向に向くもので、自分では飽き足らず、いじめや、危ないいたずらもするようになりました。
私はそれを見ているのがとても嫌いでした。
笑うべきは私の存在であり、どんな下らない罵倒でもそれを身に受けるのは私の専売特許のはずでした。私の生きがいを横取りされたような気持になりました。
それは単純に、私は苦痛を喜びに変えただけであって、他人にとって苦痛はただの苦痛だったのですから。
私は本当にうれしいのか?
中学生になり、地元の学校だったので小学校のほとんどの生徒が同じ中学校に入学しました。思春期ですのでこの頃から自分の体型にコンプレックスをもつようになり、友達に部活の入部を勧められて、これは良い機会だと思い、サッカー部に入りました。
そうするとやはり、私を知らない人達も私を私として扱うのです。
わたしは結論しました。
部活に入ったお陰で自分でも見違える程痩せることが出来ました。しかし二年生になってすぐやめてしまいました。原因はいじめもありますが、何より私はスポーツのセンスが無いようで、後輩に馬鹿にされるのがこわくてやめて、というのが一番でした。
こう書いていると私はいつも教室の隅に追いやられているような生徒に感じると思いますが、私は交友関係が広く、人気もそこそこありました。情けないことに、私こそ周りの人達と同様に私を私として存在させていたのです。
何故なら、私はその私しか知らなかったからです。それに、今の私をやめてしまえば私の価値はどうなるのだろう、何か残るのだろうか、と考えていました。
中学生にもなると、いたずらなどを楽しむより、好奇心の側面としての、暴力的な行動が盛んになります。それで中学二、三年生では私はサンドバックでした。どこかで会う度に殴られるようになり、私のクラスでは暴力をけしかけるような人はいなかったので、教室の外へ出るのが恐くなりました。
勿論初めのころは抵抗していました。しかし、毎日、毎時間と続く暴力と、自分が未だに道化でいるという立場のせいで怒りを露わにすることができないという下卑た矜持と、そして何より、彼等の私に対する態度に絶望しました。
私が少しふてくされると、彼等は「ごめん」と言ってくれました。しかしすぐにまた同じことをするのです。その度に彼等は謝り、謝罪という行為の中に含まれているであろう自省や克己を蔑ろにして、5分前の誓約を堂々と捨てるのです。
一度、本気で怒ったことがありました。その日は珍しく喧嘩別れになったのですが、翌日にその人物は私に少し沈鬱な面持ちで謝罪してきました。私はその言葉を信じていました。しかしその翌日には何も変わってない、彼等と私の関係が在るだけで、自分が激怒した様子を真似された時は、名状しがたい、確かな殺意と、他人に対する恐怖と、途方もない呆れがないまぜになった感情で吐きそうになりました。その時、自分は人に怒ることはやめて、諦念が纏わりつくようになりました。
ただの暴力は一部の人間には大変興が乗るようですが、大半の人は一歩引くのが普通であって、いくらなんでも、やり過ぎではないのか、何故こんなことをするのかと聞くことにしました。この頃は最早彼等の前での私が思う私はただのいじめられっ子でした。
彼等いわく「お前を見ているとむかつくから」とのことでした。
なるほど私を見ていると苛立つのですかそうですか、じゃあ私はどうすればいいのだろうか、私という存在がむかつくのですかじゃあ私が消えればいいのですね。
彼等は私を少しも憎んでいないというのは知っていました。週末になれば遊んだりもするし、私を殴る以外にもコミュニケーションをとろうとするからです。一方私は殺意を持っていましたが、彼等に対する好意も持ち合わせていました。何故なら、暴力的じゃない彼等は面白くて、自分と対話してくれるからです。そして彼等は私をいじめていると考えていないのです。
限界はどうしても来てしまうものです。三年生頃には、家に帰って布団の中で泣くことが多くなりました。何故自分がこんな目に、自分は悪くない、やりかえそう、殺そう、という感情が渦巻くのですが、不思議なことに翌朝になると何事もなかったかの様にすっきりとしてしまうのです。一人で絶望を反芻する度に決意し、忘れる、ということを繰り返していました。同時に、私は学生生活を楽しんでいました。私でいることを楽しんでいたのです。
そして学校で面白い奴でいる私と家で惨めに布団にくるまって泣いている私とで、完全に乖離しました。
しかし私は希望も持っていました。自分の様子が変だと気付いた母親に尋ねられ、私は「馬鹿で嫌なやつがいる」とだけ言いました。すると母は、高校生にもなればそんなやつはいなくなる、と言ったので、私はなるほどと思い、多少の虚脱感と戦いながら勉強に励みました。高校生になれば自分は変われる、と信じながら。
勉強のお陰で、それなりの、県内で指五本のうちに入るか入らないかというレベルの高校に入学出来ました。少し離れたところにあり、何より自分を日常的に殴っていた人達はその高校に全くいなかったのでとても喜びました。
人格は変えることができませんが、キャラのようなものなら簡単に変えられると思っていました。しかし私はそこでも私を私として存在させたのです。
何故そんなことをするのか、私はいつまでも子供ではなく、自分の思考、行動の原因がわかるような年齢になりました。
私なりの結論でした。
そしてそれは正鵠を得ていました。
教科書を破られたり、靴を捨てられたり、落書きされたり、チョークを食べさせられたり。一日そんなことが無いと、何故か残念な気持ちになるのです。そして、私が望んだ苦痛を与えられると、不快な感情と同時に、安心できるのです。高校生にもなって、いじめられている悲劇的な私が好きなのです。皆から同情の目線で見られている私が好きで好きでしょうがないのです。しかし絶望もします。私は変わることができなかった。私は悪くないのに惨めなままだ、それは他人が無知蒙昧であるからだと怨み言が頭に並びます。
この頃、自殺願望がありました。しかし実際は死にたくなどありませんでした。何故なら私はまた、今の私を楽しんでいたのです。
高校三年生頃になると、受験シーズンとなり皆が勉強に励むのですが、私は中学生の頃の 様に大学に希望を持つことが出来ませんでした。それ以前に、普段の勉強からしてやる気になりませんでした。たまにやる気になって休み時間などに勉強していても、クラスの人が辞書を投げてきたり教科書を濡らされたりして勉強になりませんでした。
全てが嫌でした。
惨めに耐えているだけの自分が嫌でした。
こんな恥ずかしいことで頭がいっぱいになっている自分が嫌でした。
死にたい、とか、何故生きているのか、とかは子供が持つ感情であり、十八にもなった男子が持つべき感情じゃないのです。何より私は毎日学校に通えて、屋根のある家で寝食が出来て、家族がいるので、とても恵まれた人生を送っているのです。
私より不幸な人は世界中にいっぱいいるのです。私は、私の苦痛を認めることなど許しは出来ないのです。
二律背反の、板挟みの状態がずっと続きました。
学校で笑います。家に帰って泣きます。猿の様に自慰をします。寝ます。さっぱりして学校に行きます。この頃は寝ることと自慰行為が喜びでした。
私はそれでも狂えない。皆の前では面白いやつで、先生の前では立派なクラス委員です。おかしいはずなんです。頭が焼き切れるはずなんです。
しかし生きることを望みたくないのです。私が悲劇的であるためには。
生きることも、死ぬことも、選びとらずに責任を放棄したのです。
結局これが私の思春期の全てでした。
大学生になりました。
冬に勉強をそこそこにして、なんとか国立の大学に入り、親の前での面子を保たせました。
大学は県外で、更に海を渡ったので、実家に帰るにも一苦労なところまで来ました。と言っても別にその大学に行きたかった訳でなく、県外であり、かつ自分の学力で行ける範疇の大学を選んだだけでした。やりたいことも無ければ、大学生の遊びを謳歌したいわけではなく、またしても選ぶことをやめたのでこの結果になったということでした。
大学生にもなり、皆、落ち着いた行動をしている。それに慣れていなかったので戸惑ったのと同時に、自分の知っている自分がいないことに気付きました。
しかし確実に私と違うところがありました。
彼等は正常でした。
彼等には目的があり、良心があり、喜びがあり、夢があるのです。
彼等は何の疑問を持たず勉学に励むのです。
思い切り殴られた時より、制服をびりびりに裂かれた時より、この目を見るのが苦痛でした。
苦痛の得ることの出来ない私は、更に酷く、目を覆いたくなるようなことをするようになりました。
自分の苦痛を認めずに、自分をいじめた人間に同情をし始めました。彼等を誰も止められなかったのがいけないのだ、彼等の行いは環境のせいでありもし自分が彼等ならば同じことをしていた、と。傍観して楽しんでいた人達も同様に立場が逆なら私もそうするだろう、と。
苦痛の無いことが私には苦痛なのだ、苦痛を失えば私は私でいられないのだ、と。
使用期限の過ぎた苦痛に、記号と化してしまった過去の苦痛に相変わらず縋りついています。
行きたくは無かったのですが、身体が限界の様なので、最近になって心療内科に行ってみました。どうやらパニック障害のようです。しかしその症状は殆ど昔からあるもので私には馴染み深いものでした。この機会に精神科に行こうか、とも考えたのですが、この頭を治す気にはなってないのでやめておきました。
私は毎日働いて生きていくことに魅力を感じませんが死にたくはありません。生を望み、相も変わらず自慰をして寝る生活です。
結局私はいつまでも私なのです。変わることなど出来ませんし、忘れることも出来ません。意志も薄弱で、一人の大人としての責任も持てません。
しかし案外明日には希望を持って歩き出すかもしれませんし、誰かと衝撃的な出会いをして価値観が180度変わるかもしれません。
こんな人間になってしまいました。多分私は誰かに決めて貰うのを待っているのでしょう。そしてわかったような顔をして卑下をしながら斜に構えていればいいと考えるのでしょう。
私の苦痛は私だけのものです。他の不幸や苦痛と秤にかけることなど出来ないんだ!、とでも思えばよかったかもしれません。
でも結局子供ですし、そんな考えにはなかなか辿りつきませんよね。大変です人生は。
なんか最後の方で口調が変わっている気がしますし、長ったらしく冗長とした文をたっぷりと書きましたがこれもオナニー好きな私のオナニーです。不幸自慢みたいなのって気持ちいいですよね。書いたら少しすっきりしました。何も解決してませんが。
http://anond.hatelabo.jp/20110130191021
これは凄くよくある話だ。
相手の男の恋愛経験が少なすぎると、こういったせっかくのチャンスを逃してしまうという、良い典型例。
もし、これをイケメンリア充に相談しようものなら確実に横取りされてしまうパターンだ。
告白してフラれるのが嫌でなかなか告白できないというシャイな男は、自分が恥をかきたくないのだ。
なにアイツ勘違いしてんだ?って女に言われてなんぼ。
そうやって女に華を持たせてやればいいんだ。
こういう女の悩みを聞くたびに、本当に情けない男だと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.gizmodo.jp/2010/12/2011ntt.html
意外とソフトバンクのプロパガンタ戦略にやられている方が多いようなので
とりあえず反論しておく。
フレッツ光の基本料金の引き下げ議論が
ソフトバンクのせいだと思ったらとんだ見当違いだと言わざるを得ない。
電力系やWiMAXのサービスとの料金・サービスの差であると考えられる。
サービスの内容はどう考えても他社は遜色ないものを提供しているし、
NTTの料金が高いから他社のサービスを選ぶというのは妥当な消費者の判断だと言える。
そんな中、料金を下げる事自体はNTTにはたやすいことであるはずだが、
NTTの使用料の高止まり批判は長くあったが、
市場を席巻するやり方のほうがよほど楽であったはずなのだ。
総務省さえOKを出せば。
いよいよ使用料値下げに踏み切ろうという段階になったのだろう。
その長い苦労をソフトバンクのおかげと言えば、
厳密には電力各社の企業努力やWiMAXをはじめとする技術の革新、
それをCM伝いに騒ぎだてて手柄を横取りしようとしているようで
ひどくその商売に小賢しいを通り越して腹立たしいものを感じる。
ソフトバンクは「安い」「クール」という宣伝を行っている(というように見える)が、
国の未来を偉そうな顔で語ってほしくないのだ。
どうしよう。その場しのぎで振り回す両手もやがて上昇気流を生むんだ
彼はつぶやく。ただひたすらに思う。手を合わせると不思議なパワーが宿るよ。
彼は言う。世界は思い通りにできると。彼こそが救世主なのだと。
全く意味のわからない問答にも堂々と立ち向かってみせる、さぁ、ここが最初の出発地点だ。
なんでもないようなことが~~~~~~~~~~~~~~~~~~
幸せだったと思う~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(;´Д`)ゲロゲロ。ゲロ( ´З`)=3 ゲップ温泉。ファッキンミュージック。
最高潮な気持ちはどこまでも伝わり、君に届く。
バカやろうぜwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
初心に帰ろうぜwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
涼宮ハルヒのコスプレでもしようぜwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ああ、気持ちいい。超気持ちいい。最高だ。最高の気分だ。
今日は最高。今日は最高の気分だあああああああああああああああああああああ
暗い景気なんて知ったこっちゃねぇよ。
ライブステーションにいってQ。ナイスドロップさ。やっぱり素敵だね。
情報なんて、極端な話一行でもいいんだよ。
ソッチの方が読んでもらえる可能性が高いだろう?
なんでもいいけどオトナになっちゃったよ。どうすんのこれ。
希望はどうした!どこにいった!!俺は安心できる何かが必要だ。
なんとなく、感じる。僕は僕であること。心は消えてなくならないこと。
だけど本当はロボットなんだと言われたら信じそうな気がするよ。今なら
なんでもいいけどホットケーキは放っとけーき。
だまらっしゃい!黙れマルフォイ!駆け巡る記事。
なんでもいい、なんでもいいんだ。
この世界に本当もないのだろう?
飛び方はどこのテレビで習ったんだ空の鳥よ
そして歌は僕にとって辛い方向へと変わっていく。
元気に生きていこう。元気を出していこう。
そっと触れて、そっとさわって、そっとそおっとそっとそっとそっと
愛をもっと愛をもっともっとください
そんなこといっちゃって。またわけも分からない術中にはまっていくのかい。
文章に表すとこんなにも簡単に、世界がブッ潰れる音が聞こえてくる。
理由なんていらないんだよ。世界はお前のもんだ。そう、俺のもんだ。
人間は動物だ。動物は自己保存欲求を最優先に考える。だから人間の社会は不完全にしかならない。
みんなが豊かに生活出来る社会など、一瞬にして出来る。なのに出来ない。それは人間が自分勝手な生き物だから。
この自分勝手さは、理性で何とかなるレベルじゃない。いわば業。生き物として生まれた以上逃れられない運命。神の呪縛。
権力が腐敗するのをどうにも止められない。人間には止められない。人間はみんなの幸せを考えられない。自分だけが幸せになりたい。
だからみんなのために使うはずのお金を横取りする。みんなが分け合って利用すればいいものを奪い合う。人間には完璧な社会が作れない。
だから人は機械を作った。いずれ、社会の全てを機械に置き換えるようになれば、平和な社会が訪れるだろう。人間はただそこに参加するだけでいい。
誰かが誰かのものを奪い合うこともなくなる。富は無限にわいてくる。機械に限界はない。人間のような不完全な存在には決して出来ない社会の運営。
その未来はすぐそこまできている。しかし人間の作り上げたこの不完全な社会が邪魔をする。腐敗した権力。全てを自分のものにしたい欲望が未来を遠ざける。
革命が必要かもしれない。腐りきった者達に対話は無力だ。滅ぼすしかないのかもしれない。この腐りきった権力の椅子に居座り続ける亡霊共を。跡形もなくこの世から消し去る。
それが必要かもしれない。選択の時がきているように思える。
元増田です。納得しました。
というか、あまり考えたくなかったことをズバズバ当てられてしまって恥ずかしい。
あと、上のトラバで指摘されたように年齢はマイナス要素だったし(言われて気づいた。頭から抜け落ちてた)
男を見る目がなかったというのもちょっと思ってた。
で、私はそれらを差し引いてもまだまだ彼女は結婚相手として魅力のある女性だと思ってました。いや、これは今も思ってる。
彼女にするには地味で大人しすぎるかもしれないけど、妻の条件ならドンピシャじゃん!って。
なんで私が理不尽だと思ってるか、深く考えなくてもすぐ思い当たりました。
この子は見た目がふわっとしていて可愛らしく、件の彼女とも合コンによく一緒に行っていました。
よくもてていたらしいけど、もてる人の無邪気な傲慢さから、ちょこちょこ行儀の悪いことをしていたそうです。(他の子といい感じになってた男性を横取りとか)
そんな彼女が結婚した男性は、高学歴で高収入で、そしてとても優しい人でした。
なんていうかそれで私は傍で見てて、逆じゃね!?これ逆じゃね!?と勝手に思ってしまったわけです。
年齢も同じ、だめんず歴も似たり寄ったり、で、なんでこんな差が!?
……とは思いつつも、結婚相手に求める条件なんて人それぞれだし、「可愛い嫁がほしい」とかも全然アリだし、その子も優しい面はあるしで、まあ本当に私の一人エア相撲でした。
元記事を今読み返したら、確かに釣りかって思うような内容でした。
頭が冷えました。ありがとう。
以下原文のまま
石森容疑者の逮捕容疑は昨年9月~今年5月、同容疑で逮捕された横浜市こども青少年局職員(40)や山梨市立中学教諭(50)、甲子園にも出場した兵庫県西宮市の私立報徳学園中学・高校教諭(49)ら5容疑者に当時14-17歳の少女らを紹介し、現金2万6000円-5万7000円を支払わせ、ホテルなどでエッチさせた疑い。
少女らに報酬は「4~5回分まとめて支払う」と説明しつつ、音信不通になる手口で全額を横取り。県警に別の事件で補導された少女が、ヤリ逃げ被害を訴えたことから被害が発覚した。
至る所文章がおかしい。
虚構新聞の記事かと疑ったが違うようだ。
夕刊フジの記事をそのまま持ってきたのかもしれない。
元ページ
甲子園常連校の教諭も逮捕、少女500人に金も払わず…児童買春クラブの実態 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100824/crm1008242102022-n1.htm
http://megalodon.jp/2010-0824-2201-45/sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100824/crm1008242102022-n1.htm
だからリベより更にたち悪いのは弱弱しい「男らしくない」だけの男で
マッチョ男のように大事な役割も背負わなければ
リベ男のように懐いてくるわけでもない
「多様性の尊重」とか「マイノリティへの抑圧」とか言ってるフェミニストに限って、
男は「フェミニズムのありがたくて正しい思想を受け入れるリベラル男」
と「男尊女卑思考に固まった古い考えの男」、
もうすこしはっきり言うと「味方」と「敵」との二種類の人間しかいないと考えてる。
というよりその二種類だと考えるとあの人達自身が安心・安定するんだよ
更に言えばあの人たちはリベラル男なんて嫌いだよw
全然良くなんか思ってないけど利用価値がありそうなら少しは居てもいいか、みたいな感じ
あの手合いの理想って言うのは
そんで自らは
糾弾者・裁く者・罰する者の高揚を味わいたい
マッチョ男が1人減ってリベ男が1人増えたら嬉しくないの分かるでしょ
だからリベより更にたち悪いのは弱弱しい「男らしくない」だけの男で
マッチョ男のように大事な役割も背負わなければ
リベ男のように懐いてくるわけでもない
しかも隙あらば神聖なる「被害者」の席を横取りされそうな危険を感じさせるわけだから
マッチョ男>>>>>>>>>>>>>>>リベ男>>弱弱男
ぐらいなわけ
大阪府民になって2年余り、お気に入りスポットはコンビニと漫画喫茶である。
ぼくは大阪を何も知らなった。知らなくてはいけない。かといって難波や梅田はアウェイすぎる。
カラオケオールしてきましたみたいな、エグザイルに紛れ込んでてもバレないヤツらで溢れ返ってる。
気がつけば新今宮駅に降り立っていた。
ぼくのイメージの新今宮は西成やあいりん地区、串カツ、通天閣といったディープな大阪そのものだった。
それこそおっさんの聖地だ。野生のおっさんがいるはずだ。ぼくはそこに惹かれた。
駅はさっそくアンモニア臭い。野生のおっさんによく見られるマーキングだろう。近くにおっさんがいるのは確実だ。
次に構内に座り込んでワンカップを呷るおっさんを探すが見当たらなかった。
酔っぱらって駅員に絡むおっさんも、ダンボールのおっさんも見当たらない。
理想とのギャップに動揺しつつも駅を出る。
眼前にはフェスティバルゲートとかハイカラな建物があって、カップルが肩を並べて歩いている。
スパワールドとかいう巨大温泉施設が1000円キャンペーンをやっているらしく、人通りも多い。
あるヤツはランニングシャツからさも当然のようにわき毛を出している。
アウェイ感に脅え、ドンキホーテかよクソがと呟きながら信号の押しボタンを連打する。
どうやら1時間後に調理師試験を控えるらしく、ナーバスな状態らしい。ゴリラは繊細な動物だと主張してきた。
どこにいるのかと聞くので、眼前にスパワールドがあるが、ぼくのアレが小さいから行けない、と話すと
「鍛えろよ」などと上から言ってきたので電話を切る。
スパワールドから逃げるようにおっさんを探し求めた。
ひたすらアンモニアくさいおっさんの臭いを辿り、澱んだ空気のその先を探す。
辿りついたのは天王寺動物園だった。
正面ゲートの前にダンボールを引き、4~5人のおっさんがワンカップを呷っていた。
これが大阪では許されるのだろうか。そもそも子供達のためと言ってもいい動物園である。
大阪の子供は園内のサバンナゾーンみたいなノリでこのおっさんゾーンを捉えているのだろうか、たくましい。
エサがもらえるならぼくも考えておこう。
せっかくなので500円払い、園内に入る。
一人動物園を楽しむため、各動物とタイマンで勝てるか考えながら園内を歩く。妄想ではモモンガに圧勝した。
小雨が降っていたので客は疎らだが、周りはカップルや家族連れが目立つ。
ふと、5歳程の少女が泣きわめいていた。
「持ていうてるやろがコラァ!」
少女は拒否し、揺れたソフトクリームの3分の1が地面に落ちた。
瞬間ハトが群がる。
「だから落としたら来るいうとるやろが!コイツラがのォ!」
人の幸せは自慢に見えるぼくも、この少女の幸せを素直に祈った。大阪おそるべし。
とにかく臭い園内を回るが、雨で客が少ないせいなのか普段からこうなのか、
「ヒョウ」とか書いてるのに檻の中には何も見当たらない。
ヒョウは今日オフなんだ。と諦めるも次のマンドリルの檻にも何も居ない。
ただただ臭い。やっと見つけたウンピョウとかは全然動かないし。
臭いだけかよ臭いだけならおっさんでも臭いぞクソが。
そんな中、ひと際目を引いたのはオオカミである。
広い檻をひたすら舌を出したバカ面で走りまわっている。何周も何周もただただ走る。
ぼくはあたまがわるいんだなぁとおもいました。
次は夜行性動物のコーナーへ向かうも目が悪いのでほとんど何も見えない。
鳥さんコーナーではツルが勢いよく魚を捕まえ咀嚼していたので、ハッとさせられたが、
水溜まりの中には無数のイワシの死体が浮いていた。死体を派手に捕まえてドヤ顔されても困る。
ペンギンさんを20分ひたすら見た後、
アシカさんコーナーで子供に混ざりアシカさんのエサ(100円)を購入。
投げるとほこりみたいな色の鳥がさっそうと魚を奪っていった。
アシカさんはオゥオゥ泣いている。
この鳥野郎と思ったが、よくよく考えるとこいつら檻の中にいるわけじゃないのに
なんで動物園の仲間ですみたいなノリでここにいるのだろうか。
きっと外で生きていけないからここでエサを横取りしてるに違いない。
こいつも翼とか自由とかいらないからアシカさんみたいに檻の中でエサだけ食いたいに違いない。
近代の個人主義的ノリから得た自由は人を不幸にしているのではないか。
ぼくも部屋から出なくていいから毎日ゲームとネットだけしてゴハン食べたい。
そうこうしているとサバンナゾーンで像さんのエサやりをしますとのアナウンスが流れるので向かう。
象さんに近づくに連れて増す悪臭に顔を顰めながら進むも、途中水たまりにハマる。
靴下まで濡れたのであえなく帰宅。
掲示板に書き込んでみようかと書いていたら部外者の癖に長文きんもー☆になったのでこっちで晒す。
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/heta/1/
投稿しようかと迷った文章の主張をまとめると大よそは
といったような内容だったと思う。作者本人の書くヘタリアはそれなりに好きだが、アニメは一度も見た事がないし、二次創作は積極的には見たくない。
ジャンル内のお約束もしらないが、あのジャンルは厨も自治厨もやばいらしい。そんな程度の認識だ。
なので書き込みに行くのは何か違うだろうと思ったが、消してしまうのも空しいので便所にラクガキしておこう。そんな感じだ。
自治が顕著でありながら、WEB発祥だからかその様子が外部の人間にも目に止まりやすい。そのような印象を持っている。
そんな中、自治風景を見ていると色々と考えてしまうことが多い。
彼女達の反応は、人を選ぶネタとはいえ、それこそホモ絵でもないのに過剰反応しすぎではないかと感じる。だが、そこまで反応するということはそれだけ外部から何かを言われたということだ。
今回はワールドカップネタで問題が起きたらしい。問題のタグを見て見た。正直首をかしげた。
キャラにユニフォームを着せて喜んでいるだけで、どうしてそこまで怒らなければいけないのだろう?
中には該当のタグを使って、キャラに実際の選手のプレイをトレスさせたものもあると聞いた。なるほど、そんな画像が大多数であれば不快に思う可能性はあるかもしれない。
だが、ざっとサムネを見たところ大半はキャラがユニフォームを着てやんややんやと楽しんでいるだけに見えた。サポーターだって自国のユニフォームくらい着る。漫画のキャラ、アニメのキャラにユニフォームを着せた画像だってあるだろう。
なぜヘタリアは駄目なのか。半数以上がトレス画像だったとでも言うのだろうか。執拗に言う「問題になった絵」とは全体の何割なのか?
部外者である自分が実情をよく分かっていないのはともかく、ジャンルの人間ですら全体のどの程度の絵が問題となったか把握している人間がどれほどいるのだろうか。
本当に、タグを一から分けなおさないといけないほど問題だったのか、という客観的な目線はない。仮にあったとしても、問題を一から話し合うための場所では具体的な説明がなされていない。
ただ、問題があったと言うだけ。むしろ問題を広げたいのはそっちではないかとさえ思えてくる。
書き方の問題なのかもしれない。何にせよ、もう少し具体的なデータを出してほしい。知らない人間は伝聞でしか事態を把握できないのだから。
ヘタリアを好きな人間でも、当事者でなければどの程度の範囲でどのくらい問題があったのかは分からないはずだ。
実在の試合の結果をネタに、選手の行いを下書にして、選手の功績を横取りする絵なんか
ヘタリアファン以外誰も喜ばないのですから
出てこないようにしてくださいとお願いしているだけです。
アニメのワンシーンをネタに、キャラの行いを下書きにして、キャラの功績を横取りする絵なんかその「横取りした」ジャンルのファン意外誰も喜ばないだろう。
だが実際は「ネタだから」でまかり通ってしまい、元のアニメのファンの不快感はないがしろにされ、お願いですからそのシーンの台詞やキャラの名前で検索してそんな絵が出てこないようにしてください、なんてお願いをしようものならキチガイ扱いされるだろう。
そもそも、元ネタを明記しておかないとパクリだ何だと言われる可能性がある。元ネタを提示せずどうしろと言うのか。
ヘタリアだけでそのお願いがされる理由は、いまだによく分からない。
程度問題なのだろうか、とも思うが、その程度が具体的に提示されないので不明なままだ。具体性が欠けたまま話をするから意思疎通がしにくくなっている気がする。
ヘタリアとW杯という二つの単語が使用されているのだから、マイナス検索をすればW杯という検索結果からヘタリア関係は大多数除外されるはずなのだ。
だが、彼女達が言うには「一般人様のお手を煩わせてしまうような状態ではその時点で配慮が無い」ということらしい。少なくともそう読み取った。
pixivはそんなものを求めて作られた場所ではないだろう。カオスであるからこそのpixivではないのか。
第一、たかだか一つの単語を入れたくらいで検索結果にそんな精度を期待するほうがおかしい。
検索とは、本来条件を絞って、削って、ようやく求める結果が出てくるもののはずだ。ましてそれが世界が注目する大イベントであるというなら、尚更関連したイラストは多種多様になるだろう。
余計な物が出てきたと思う程度ならまだしも、怒り出すのは少々短気すぎる。そこまで嫌ならそれこそ自衛すべきではないのか。
タグによるラベリングは検索する時に非常に助かる。住み分けも歓迎だ。だが、ここまでの要請は住み分けと言えるのだろうか。
本当の意味での普通の人はどう思うのだろう。アンチでも信者でもない人間の目線を知る方法はないだろうか。
少数派だろうが多数派だろうが、相手への考慮は必要だ。
その考慮が、マイナス検索で除外できるようにジャンル名や傾向を明記しておく、ではなぜ駄目なのか。
最初から検索に出ないようにしないといけない理由はどこにあるのか。不快に感じる人間がいる、だけでは少なくともpixivで検索除けをさせようとするには弱いと思う。
なぜこのような意見の違いが出てくるのか。それは恐らく検索というものに対する認識の違いが原因だ。
彼女達は検索で出てくるものに不快なものが無いのが当たり前と思っているのに対し、私は検索に不快なものが表示されることが当たり前だと思っている。
恐らくこの認識の差を埋める何かが無い限り、問題の根本的な解決はしないのではないだろうか。
単語を一つ放り込んだだけで都合のいい結果だけが出てくるような魔法のシステムはない。そんな当たり前のことを、ネットに関わる前にきちんと説明した方がいいのかもしれない。
それとも、それを知った上での話なんだろうか。
また、現在の検索結果に不満があるのであれば、ユーザー側の対処だけでなくシステムでの対処を希望してはどうか。
例えば、検索のシステムを全文一致にすれば、W杯のタグ検索でヘタリアでW杯のタグのついた絵が出てくることも無いだろう。
検索窓に、検索方式として「全文一致」をデフォルトとして、これまでと同じ「~を含む」のオプションも選べるようにして窓を一個追加すれば今回の問題は検索側にほとんど負荷をかけず解決できる。
ニコニコ動画のタグ検索のシステムを想像してもらうと分かりやすいだろうか。ああいったシステムはどうだろう。
元々運営の方針として、あえて色々なジャンルの絵が目に止まるように検索をゆるめの仕様にしているという噂を聞いた事があるので、受け入れられるかはわからない。
だが、そのような提案自体はあってもいいはずだ。相手にも負荷をかけないのだから。
提案がすべて上手く行くとは限らないが、姿勢の問題として、最初から諦めて口にもしないよりは、可能性が低くともとりあえず意見を出して見るほうが前向きに捉えてもらいやすい。
システムと言えば、検索避けの仕様がわかりにくいのも問題を引き起こす原因の一因となっていそうだ。
利用者の利便性の為にも、検索システム(マイナス検索だけでなく、アンド検索やor検索も実装されているらしい)はもっと大々的に告知した方がいいのではないかと思う。
それだけでpixivでのごたごたの半分は無くなるのではないか、というのはさすがに言いすぎだろうか。
余談になるが、話題の中でナマモノに関しての話題があったが、アレはルールが徹底されているのではなく叩きが徹底されているのだ。
しかもその叩きに正当性があるのかは検証されていない。仮に結果的に正しい行動であったとしても、正しいか否かを考えずに叩く風潮はいかがなものか。
彼女達の自治は、毎度毎度、その行動そのものの是非はともかくとして、結論に至るまでの過程がないがしろにされている気がしてならない。それが一番問題ではないのだろうか。
古い話だが、何かの参考になるかもしれないし、ならないかもしれない。
実際に問題のある絵が投稿された場合には毅然とした態度で対処する必要があるだろう。
難点なのは、問題がある絵の基準が一人ひとり違うことだ。客観的な視点は大事にしたいが、なら何が客観的なしてんなのかはまた難しい。
結局、今の時点では「悩み続ける事」しかないのかもしれない。
新卒で入社してから数年。
まぁ、悪くない職場である。そして俺は二十代後半になるわけだけど、ここで微妙な人生の岐路が見えてきた。
それというのも、友人が「起業しない?」と誘ってきたわけである。しかも二人同時に。
飲食店経営に俺を誘ってきた友人は大学を七年かけて卒業するような途方も無いアホではあるが、人柄はとても良く
誰にでも好かれるタイプで、大学卒業後はとりあえず飲食店で働いている。
親が相当な資産家で、しかも死んでいるという彼の強みを考えれば、おそらく店を開くところまでは可能な気がする。
最悪彼の持っているマンションの管理人として雇ってくれるとまで言う。
「会社の販路を横取り出来そうだから一緒に起業しないか」と誘ってきた。
これは明らかにヤバそうな匂いがプンプンで、アジアに飛んで日本にとあるものを輸入する気らしい。
俺は言語がわりと色々出来るので、彼の計画に欲しいそうだ。まぁ、院で語学やってたし、彼が商売先に選んだ国に留学もしてた。
そして、現在俺が勤めるのはいわゆる政府系金融であり、安定度だけなら国家公務員を凌ぐ。
しかしお給料はといえばそれなりに不満が残る現状。休みはそこそこ取れるけれども、仕事ははっきり言って
やりたいような類のものじゃない。俺は昔から自分の店を構えるか、あるいは自分で掴み取るタイプの商売をしたかった。
目の前に二つ見えているのは割と、自分の夢に近い。
しかも、最近俺は結婚してしまった。ヨメは「好きにしろ」というが、果たしてどうしたものか。
会社を出れば社宅を失う。金が溜まったらやろう、と言っていた披露宴も水泡に帰す目算が高い。
ヨメの両親もいい顔はしないだろう。ヨメの両親というのは、新郎の社会的地位をおそろしく気にすることは良く知っているし
実際のところそんな感じの両親だ。悪い人ではないけれど、彼らは俺より俺の肩書きを大事にする。
些かガキじみた話だけれど、俺は大学生活が大好きだった。
そして大学町には必ずある「OBの店」というものにものすごくあこがれていた。
自分で商売もしてみたかった。アジアは各地を旅したが、専攻に選ぶくらい好きだ。
出来れば全部やりたいが、同時的に進行するのは不可能。
選ぶしかない。俺がいなくても彼らは自分の道を進んでいくだろうし、ここで決断しなければもうこういう話はないだろう。
今が最後のチャンスだとはわかってる。どうしたらいいんだろう。
自慢にしかならないけど、泣きたいほど幸せな一方とても悩む。
自民党の「自分の責任」って、90年代初頭から10年以上、根回しやらも含めればトータルで20年近くかけて地元とアメリカを説得して、普天間を取り戻す段取りまでこぎ着けてたんだけど?
そういう経緯や当事者達の苦労も知ろうともせずに「自分ならもっと良い結果を出せる」と言いふらして、ろくな対案も構想も無いまま僅か半年で当初の計画を全て台無しにしようとしているのが鳩山なんだよ。
はっきり言って、普天間問題は「あとは粛々と執行するだけ」だったんだよ。そうすれば4年後には普天間は確実に返還されていたはずだった。それを俺たちの手柄だと横取りする事も出来たはずだった。自民党が残した、負の遺産ならぬ「正の遺産」だったんだよ。それを普天間継続使用という、最悪の負債にしてようとしてるのが鳩山だ。一度継続が決定したら、再移設はそれこそ早くて20年はかかる。