はてなキーワード: 小児性愛とは
ペドフィリア、つまり小児性愛は、同性愛や両性愛や無性愛と並ぶ、ひとつの立派な性愛の形である。
それは精神障碍や「異常」ではない(無性愛がそうではないように)。「治療」されるべきものではない(両性愛がそうではないように)。性愛を持っているだけで犯罪化されるべきものではない(同性愛がそうではないように!)。
これがわかっていない論者は、残念だが小児性愛に関してはいっさい信用に値しない。性差別反対を高らかに掲げ実際にそのように振る舞う社会正義の戦士たちが平気で小児性愛を差別する、そんな光景を何度見てきたことだろうか。もちろんこれがわかっているひとは大勢いる。だがわかっていないひともまた、大勢いる。
ことだけだ。成人の異性愛者は成人の異性と合意の上でセックスできる。成人の同性愛者は同じく同性と。しかし小児性愛者たちにそれは許されていない。仮に同意がほんとうにあったのだとしても、それは法的には同意ではないし、子どもと大人のあいだの圧倒的な力関係を考えると倫理的にも同意と認めることはできない。
ゆえに、小児性愛者たちは、自らの性愛の対象と性的関係を持つことはできない。それが禁止されるべきなのは、当然だ。そして少なくとも日本やアメリカや欧州の多くの国ぐにでは、子どもと性的関係を持つことは性愛に関係なく法で禁止されている。これは差別ではない。
だが、逆に言えば、それ以外のすべての権利は、彼らに認められるべきだ。
差別されない権利。白眼視されない権利。小児性愛者という理由で職を奪われない権利。住居から追い出されない権利。パレードで歩く権利。胸を張って堂々と生きていく権利。
日本ではあまり聞かないが、アメリカなどでは小児性愛者は立派なヘイトクライムの対象だ。小児性愛者という理由で近隣住民から嫌がらせを受け転居に至る事例なんて数知れない。たとえ彼らが実際に子どもに手を出していなくても、だ。
子どもに手を出した大人は、小児性愛者かそうでないかにかかわらず、厳しく罰せられるべきだ(男をレイプした男がそう扱われるべきであるように――同性愛者だろうがそうでなかろうが、レイプは厳罰に処されなければいけない)。でも、犯罪に手を染めていない無辜の小児性愛者をいじめていい道理がどこにあるというのか?
なぜ小児性愛者のことをそんなに配慮しないといけないか? かれらはわたしたちの中にいるからだ。人口は少ないが、それでも一定数、常に存在しているからだ。そしてかれらの多くは、自分の秘密を、暴露したら自分の身を破滅させかねない秘密を隠したまま生きている。
キャンペーンも何も、本人がそう主張してるのを山ほど見かけるしなあ
「20歳なんですけど!」のやつは読んでないので,それに関しては当てはまる話なのかもしれないけど,ちょっと話を一般化しすぎかなーと思うところはあるので指摘.
話に戻るけど、エロ漫画とかエロゲってこの辺ものすごい勢いで肯定的に描くよね。エロ小説とかもか?
レイプしてるうちに悦くなっちゃうとかさあ。ジャンルとしてもロリとショタって確立してるし。
あれじゃん、昔のお笑い番組とかバラエティとかで、アレやってること実質的にイジメだよな、みたいなのあるじゃん。
笑えるとか笑えない以前にダメなんじゃん?みたいな。そういう感じ。
イエスロリータノータッチ、それでいいじゃんと思ってたけど、イエスかノーかをそもそも決める立場じゃなくね?的な。だって俺幼女じゃねえし幼女の親ですらねえし。
ネットでたまに見かけるエロ漫画画像で、視覚障害がある男と小学生女児が仲良くなってセックスするまで行って最後に通報されて逮捕で終わるみたいなのあるけど、アレだって現実にタッチされた子どもの心理をおもっくそオタ向けファンタジー寄りに捻じ曲げてるんじゃん?
現実に性犯罪被害にあった子どもの言動は全体的にもっとヤベェっぽいもん。あんな、悲劇の純愛に殉じたみたいなんじゃなくて、それこそその後の人生狂うくらいの混乱とか罪悪感とか万物に対する不審感みたいなトラウマ残ってるらしいし。
http://anond.hatelabo.jp/20160319135117で指摘されてるけど,同じ作者の他の作品だと被害者に凄惨なトラウマが残ってるのはあるよ.インターホン鳴らして業者と偽って家に上がり込んで犯行に及んだから,被害者は友人が鳴らすインターホンに怯えてパニック起こしてとうとう引っ越しちゃうってやつ.最近の作品だと被害者は加害者がちょっと手を振り上げただけでごめんなさいごめんなさいって怯えてたり.少なくともその辺の作品(タイトルは伏せておく)では一貫して被害者はひたすら嫌がっててそれを外道な主人公たちが……って話になってると思うけど.もちろんそういう「レイプ・ファンタジー」に合致する作品も描いてるだろうから,あくまでその作家の作風に対する反例を上げただけで一般論としてそういう傾向を否定する気はない(論じられるほど読んでないし).
で.
調べてみたら、なんか有名な代表作みたいなのが「要約すると『女児をレイプして捨てながらゆく逃避行』」みたいなことが書いてあってワロタww胸糞悪すぎるわwww
もはやまったく「イエスロリータ」ですらないだろこれ。ダメじゃん。どこがイエスなんだよ。
(中略)
エロ漫画とかは大抵そんなレベルにも行ってないじゃん。何つうか、万事が性欲準拠みたいな。
いや読んでから論じようよ,というのはさておき.そこで増田が例示した作品って,「社会性のないクズ2人が出会って小さな悪から徐々に悪に染まっていって最終的に悪行の限りを尽くして自殺する」って内容なのね(ネタバレになっちゃうけどどうせ読まないからいいよね).いや胸糞だよ? 胸糞なのよ? ほんとこいつら何人の人生を狂わせてるんだよそんなの“成果”じゃねーよ,っていう.でもそれを基本的には,バイトもして単位も真面目に取る小市民である主人公の目線で描くことで,人が悪に飲まれて引き返せなくなっていく過程を描いてる作品でもあるのよね.
主人公の行為は最初は携帯でのささやかな盗撮だった(もちろんそれも立派な性犯罪なわけだけどそれは措いておく).それも誰何されて慌てて逃げ出してしまう程度の覚悟.でも主人公の行動は彼の友達に承認され,許されることで,行為がどんどんエスカレートして女児への声かけまでやっちゃう.それをエスカレートさせたものは「もっとすごいことやろうぜ!」っていうまあすごいホモソーシャルな虚栄心と,「自分たちはゴミクズなんだ」という疎外感なんだよね(もちろん彼らの小児性愛の所為もある).ふたりきりの閉じられた世界で止める人もいなくてどんどん箍が外れて最終的にはレイプ行脚にまで至る主人公たちの行為,もちろん最低最悪の外道だし現実世界に置き換えたら苦しんで死ね以外の言葉が出てこないんだけど,自分が同じ環境にいて果たして「悪に染まらずにいる」ことができるかって考えると慄然とするよ? 別に性犯罪じゃなくてもいい,たとえば万引きでも詐欺でもいいんだけどさ.あ,割と簡単に人間って「あっち側」に堕ちちゃうんだな,ていうか.でも絶対に引き返す場所はあったはずなんだよ.あったはずなんだけど主人公は友達との関係性の中で引き返すことを選ばずにズブズブと悪の道に踏み込んでいくわけだよ.そんでこの作品では性暴力を「主人公たちにとっての快楽」として描いていて(上述したが被害者が悦びを感じるようになるとかそういう描写は一切ない),実際にわれわれの性欲も満たしてくれる作品なわけだけど,性暴力を振るいながら自分が堕ちてしまったことを自嘲しこんな大それた犯罪に手を染めずに生きていった可能性を夢想したりもする.もちろん胸糞作品だし結局はエロ目的で読んでるんだろ? と言われれば否定はしないけど,そこに一片の文学性も無いみたいに言うのはちょっと違うんじゃないかな.
(ところで何がヤバいって,そこで夢想する「ありえたかもしれない人生」ってのがロリ漫画を即売会で頒布して「平和に暮らす」世界なんだよな(そこでも女児を視姦する計画を立ててるから本当に性暴力と無縁な暮らしというわけではない,というのは指摘しておく必要があるけれど).ロリ漫画家と性犯罪者が――道を踏み外したかそうでないかの違いだけで――同じ次元にいるって自分で言っちゃってるよこれ.色んな意味で目をつけられたらまずい)
犯罪者に寄り添う形での“文学性”はけしからん,という意見もあろうけれど,じゃあこれまでミステリで「同情できる犯人」みたいなのを描いてきたのは何だったんだ,という話にもなるよね.復讐譚(往々にして被害者もクズ)以外にもそういう作品ってあるよねえ? 殺人者の最後の美学,とかさ.理不尽に殺された被害者にとってはふざけんなクズさっさと死ね以外に言いようがない,けれどどうにも憎みきれなかったり同情してしまったりかっこいいなと思ってしまったりする犯人ってけっこう提示されてきたわけじゃないですか.そもそも「舞姫」が名作として教科書に載ってる国だぜ.並み居るクズ文学のあいだの何処で線を引くんだい? あちら側では描いただけの人が逮捕され,こちら側ではクリエイターとして賞賛を受ける,そんな線を引くだけの覚悟があるのかい?
もちろん,「うらやまけしからん」みたいな形で現実の性暴力に対してエロ漫画に対するのと同じような態度を採ることに対しては強く批判されないといけないし,そういう啓発が必要だろうというのはその通り(twitterを上で挙げた作品名で検索したらちょっと眩暈がした).あと,そうやって描かれた犯罪が実際に起こり得る,というか脅威として眼前に存在しているかという蓋然性の違いや男女の非対称もある.そこは無視できない(さっきから語ってる漫画家がヤバいのは手口のリアルさだよ……).けれどやっぱり,そこは法規制以外で折り合う道があるはずだし,それを探りたいとも思うんだよな.
何人も18歳未満の者(以下、「児童」)に対する性行為、性的接触、性的搾取及び性的虐待並びにこれらに準する行為をしたいという志向・思想を抱いてはならない。
児童が上記の行為をされている、又はされている様な表現が含まれていると看做されるポルノは、これを全面的に禁ずる。
○写真・映像の場合、被写体・出演者の年齢・性別を問わず(例えば成人男性が女子児童としてポルノに出演した場合も)禁止の対象となる。
○CG、イラスト、絵画、彫刻、漫画、小説、アニメーション等によって、擬似的に児童への性行為等を表現したものもこれに該当する。
これらに該当する児童ポルノを製造・譲渡及び所持した場合、法律により摘発及び後述の施設入所義務の対象となる。
更に、全ての成人した国民は、定期的に国の定めた小児性愛検査を受ける事を義務付けられる。
検査により小児性愛者と判断された者や、上記の児童ポルノに関する規定に違反した者は、性癖矯正施設への入所を義務付けられる。
矯正施設へ入所した者(以下、「入所者」)は原則として施設に矯正が完了したと承認され出所するまで外出をすることはできない。
入所中は主に以下の行為が禁じられる
○児童の写真、絵やイラストが載っている書物を所持する。児童が出演している映像・番組を視聴する。
○その他、施設の許可を得ずに外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
やむを得ず入所中に外出の必要がある場合、入所者は厳粛な条件の下で許可を得た上で指定時間の間だけ監視員の同伴で特別に外出が可能となる。
施設外での用事が完了したら、その時点で指定外出時間にまだ余裕がある場合でも速やかに施設に帰宅する。
・半径5m以内に入る。
・話しかける。声をかける。
・写真を撮る。
○児童の教育施設(幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校等)の敷地内のみならず、付近1km以内に立ち入る。
○その他、指定された時間以上外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
尚、入所者が上記の禁止事項に触れる行為を行った場合に於けるその場の処置については監視員の判断に委ねられる。
また、小児性愛者と判断された者が施設への入所を義務付けられたことにより生じた損害・不利益等はその責任・賠償を政府又は施設に問う事は一切できない。
マジに考えると、
「単純にレズビアンの数、特にオープンにしてる人が少ない」(異性愛者男性ほど堂々と表に出てこない。ゲイより更に隠れてる)
「女性は男性に比べて自分の性癖をあからさまにしないのが多数派」(ただし身内には結構ぶっちゃけてたりする。創作者の場合、作品や萌え語りがえげつないのは性別関係なくいる)
「女性は『カワイイ』を免罪符に少女愛を語る人が多い」(性別が同じで自身もかつて少女だったことから、周囲の警戒心も緩く、露骨なエロでなければ、男性より萌え語りが許される面はある)
「ガチのロリ趣味を表に出す危険性を男性より熟知している人が多い」(痴漢に対する弾劾の激しさを見ても分かるとおり、女性のコミュニティでは自分が少女時代に性被害を受けた人も多く、自然そこら辺に対する対処を異性愛者男性より考えるようになる)
水面下には、幼女への性的虐待をする女性や、ガチの小児性愛者女性もチラホラいると思う。ただし、男性より少ない可能性は高い。
性犯罪者の母数自体、女性より男性が多いし。(ただし、暗数はそれなりにあるだろう)
そもそも女性が露骨に自分の性指向や性癖を表に出すことに対して世間はまだまだ否定的なんで、フィクションの分野でも抑圧されがちなんだと思う。
あと、子供の頃から男性が性的視線で見てくるんで、(性別問わず)子供に対してそんな視線を向けることを嫌悪する人も多いんでは。
わたしはアイドルが好きだ。
こんなことを公言するとやれ変態だ、やれ小児性愛者だなどとおぞましいレッテルを貼られ社会から爪弾きにされてしまうのだがちょっとまってほしい。
確かに少女たちのいやらしい姿を想像してしまうことをわたしは否定しない。
しかし、わたしが自身を投影しているのは少女たちの相手側でなく、少女自身に対してなのだ。
女性諸君は当たり前にアイドルやプリンセスに成りたいと夢に抱くではないか。
それならば男子だって同じような願望を持ったとしてもなんらおかしくもないはずだ。
つまりアイドルを応援している瞬間とは、アイドル自身に自己を投影することで己の醜い容姿から開放され、胸のトキメキが高なっていくことを楽しむ瞬間でもあるのだ。
アイドルを好む男性全員がそうであるとは言い切れないが、同じ考えを持つ人間は多いはずだ。
だからこそアイドルの相手が男性であることには違和感があるのだ。自身が男性であるが上に、特定の男性に対して恋愛感情を抱くことには当然抵抗感があるのだ。
それ故に百合が好まれるし、薄い本でアイドルによるAV女優化や風俗嬢化が受け入れられるのは恋愛感情のない単なる快楽の追求という点があるからではないだろうか。
話が戻るが、そこで浮かんできたのが、女性諸君がBLに登場するキャラクターいずれかに自己を投影しているのではないかという疑問だ。
当然男女の恋愛ストーリーでヒロイン側に自らを置き換えることもあるだろう。しかし、ヒロインが男子を弱らせるにはどうしても限界がある。
そこで、男性として自分の好みの男子を襲いたいという願望が具現化されたものがBLなのではないだろうか。
当然男性として自分好みの男子から襲われたいという願望もあるはずだ。
もしこれが大いに矛盾しない理屈といえるのであれば、どうかおっさんのアイドル好きを許してやってほしい。
彼らはあんな容姿の上にさらにあんな姿に着飾って一心不乱に踊り狂ってはいるが、その心は一人の夢見る少女に過ぎないのだから。
どうしたら引っ込まずに済んだかを考えると小保方さんは実績が物を言う世界なので実績として方法はすべて無視してもSTAP細胞さえあれば生き残ったかもしれない。
お前何も理解してねーよ。
"STAP細胞があれば"ってなんだよ?
作れるんならそこに「方法」はあるだろ。「方法」がないから作れないんだろうが、アホか。
"STAP細胞"とされるものが作れたとしても、それが全く別の方法だとしたら彼女の業績なんて何も意味が無い。
100歩譲ってそういうものがある、と言ったバカンティの評価には繋がるかもしれないが。(だけどそれも"業績"ではなく、先見の明があったな、と言う程度。)
どうしたら引っ込まずに済んだか、というのであれば、コピペしたことを全て平謝りして研究費全部返して
そんな状態になった人を雇う余裕は無いので研究は無理。
やるなら理研の技師とかで雇ってもらうよう頑張る位。(だけど彼女に技師のレベルが有るとは思わないが)
されない。彼女がやったことは例えば小児性愛者がそれに関する重大な罪をおかしたのと同じこと。
仮に、その罪を償ったとしても、その後、その犯罪者の場所が常に知らされるようなアメリカの様な状態になる。
同じ環境に戻ったら同じ過ちを犯すだろう、と言う目は向けられ、そして誰も受け入れない。
そう考えると細胞が出てこない限り小保方さんは出てこれないと思うしデザインの説明を自分たちの説明抜きに理解しろ受け入れろの繰り返しでは出てきようがないんじゃない?
いや、だから、細胞が出てきた所で彼女のデータ偽造の罪は消えない。
そこ、勘違いしてる。
http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
また伏見憲明氏の『欲望問題』から引用する。伏見憲明氏はゲイ・コミュニティについて以下のように語っている。
ゲイはまだ被差別記号としての意味合いも強く残っていますし、多くの異性愛の人たちが結婚をして家庭を作っていく中では、人生を共に生きていく仲間をゲイ共同性に求めていく志向もあると思います。(中略)そこそこ被差別性を帯びた共同体を差し挟むゆえに、茫漠とした社会の中で他者と集い、共感を得ることができる、ということです。
続いて、たまごまご氏の『オタクが融解した、「げんしけん」二代目が、つらい』というブログ記事から引用する。
とても明るくて、幸せあふれる恋愛マンガとしての「げんしけん」
楽しいです。
楽しいけど、読んでいて辛い。
そこにさようならを告げられて、若い世代でよろしくやりますよ、という流れになってきた。
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20141225/1419531038
このつらさとは、「オタク」が被差別記号では無くなったことへの寂しさなのではないだろうか。『コンプレックス・エイジ』について、「こっちのほうが読んでいてほっとする」というコメントされているが、この作品で描かれる「歳を食ったコスプレイヤー」は被差別記号としての意味合いが未だ強い。というより、ここでは「被差別者・被抑圧者であるという自意識」の有無が重要に思える。
「被差別性を帯びた共同体」が社会に受け入れられることで、被害者意識や鬱屈・屈託の無いプレーンな「共同体」となっていく。セカオワが大人どもに叩かれるほどセカオ輪は強固になり、セカオワが大人どもに容認されるほどセカオ輪はユルくなるだろう。否定・拒否・攻撃してくる共通の外敵が居なくなる分、「被差別性を帯びた共同体」にはあった「弱者であるお互いを守りあう」という意味合いは無くなる。その分、共同体単位の結びつきの濃さは薄れていき、個人単位の結びつきになっていって、相性の良いもの同士が共同体の外で個人的に関わるようになっていく。共通の外敵を持つ「被差別性を帯びた共同体」でなら、魅力に恵まれない個人でも、その共同体意識の強さによって人と繋がることが出来たのに……。男性を敵視するフェミニスト・コミュニティを見ていても、彼女たちの目的は男女同権ではなく、男性を共通の外敵に設定して、女性同士の繋がりを強固にすることのようにしか思えない。そのようにしたがるのは、彼らの個人としての魅力が弱く(あるいは魅力に自信を持てず)、「被差別性を帯びた共同体」の力を借りないと人と繋がれないからではないだろうか。仮想敵にされる側からすればいい迷惑だが。
現代日本の,というかぶっちゃけて言うとオタクのあいだで言われる「ロリコン」って,ぶっちゃけファッションであってそんな切実な性的志向じゃないだろ! と思うことが多々あって,もちろんガチのペドファイルのひとたちがある程度いることは間違いないだろうけれど,雷ちゃんかわいいとか響サイコーとか薫ちゃんにせんせえと呼ばれたいとか言ってるひとが同時に愛宕萌えーとか加賀さんかわいいとかしぶりん結婚してくれとか言ってるの見てると,それもうロリっぽくデザインされたキャラに萌えてるだけで実際は小児性愛者でも何でもないようにしか思えなくて,そして肌感覚としてそういうひとたちの方が多数派なように思えるので,そういうのを見ているひとが「何お前らがセクマイ気取ってんだよ!」みたいに言うことも,まあ,よくわかる.
http://anond.hatelabo.jp/20150116015211
「三次元はクソ」だの「女子大生はババア」だの散々言っておきながら、女子大生の彼女が出来ると何事も無かったように「シーパラ行ってきてさ~♪」となる自称ロリコン自称オタクの男子大学生を何人も実際に見てきた。ハンコ絵ならぬハンコ人格と言えるありさまであった。自称ロリコンの大半はそのような「なんちゃってロリコン」なのだろう。真性の小児性愛者は小児にしか欲情できないため事態が深刻化しがちだが、「なんちゃってロリコン」は同年代にも欲情可能なため──むしろ同年代への欲情がメインで、ロリに向かうのは上手く手に入らない同年代への当て付けかと思うこともあるくらいだが──それなりの年齢になると恋人を見つけ、結婚し、社会に容認された多数派としての人生を歩むことができる。「上がり」である。
そして『欲望問題』に戻る。
コミュニティ活動や、ハッテン場や、ゲイメディアなどさまざまな場で、日々ゲイという共同性をめぐる動向を肌で感じているぼくは、いまではそれを解体すべきものとも、抑圧的な記号だとも思っていません。もちろんゲイ=自分ではありえませんし、ゲイ共同性の中のある種の傾向や指向に違和感をもたないでもありません。自分自身とそれの間には多少のズレや距離があるのが当たり前ですが、一つの足場として利用価値があると思いますし、自分にとっては大きな人脈資源だと実感するのです。ここ数年、ぼくは、ゲイだからゲイ・コミュニティに属する、という見方ではなく、自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのかというスタンスに移行しています。
ゲイ・コミュニティの被差別性は徐々に融解しつつあるようだ。表現規制者に弾圧されている「ロリコン」や、恋愛至上主義に抑圧されている「非モテ」は、「オタク」という属性の被差別性が融解して宙ぶらりんになった「被差別者・被抑圧者であるという自意識」を持つ人間の受け皿となるラベルだったんじゃないだろうか。被抑圧者になるためのラベルとしてのロリコンと、小児性愛者は別物であり、深刻度も別格だ。
最近では、ふと気がつくと、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいのでしょうか。なんとかならないものでしょうか。本当にもう子供に手を出してしまう寸前なのです……。
http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
多くの自称ロリコンは、現実の子供に手を出しそうになったことがない。ロリコンを自称するのは、「被差別者・被抑圧者であるという自意識」を持つ人間とつるむこと、そして強者の愚痴を言うことが目的なのだ。