はてなキーワード: 単語とは
ガチャ引き直せるような錯覚、失敗してもゲームは進行可能な錯覚を与えるのがまずい
交通事故被害者のことを、赤こうら食らったのかー、って呼んだらまずいのと同じ
SNSで、親ガチャ外れたわー、ってカジュアルに言われるのを見ると、わがままが通らなかった、という程度のことが多い
虐待をされているとか、ネグレクト受けてるとか、教育の機会を奪われているとか、そういう真剣な家庭の問題に直面している人に配慮せず、ただの子どもらしい親への不満を「親ガチャ失敗」と呼ぶから、一部から違和感が出る
便利だよね、ガチャ失敗って
ただ現状の家庭環境へ不満、という表明だけで、程度が含まれないもの
人権の最上級カード以外だった、というだけでもガチャ失敗だし、バグで金だけ消えて1枚も何も出なくても失敗だもの
結局、「小さいわがまま程度で親ガチャとかいうのやめろ、本当に大変な方の矮小化になる」派と、「わりとガチめに親のせいで不幸を受けて大変な目にあってるんですけど」派の、同じ意図を持った方の間で言葉の是非が分かれている印象がある
文章下手な人はけっこう見かける
英語になるとネイティブとは限らないしネイティブでも第一言語とは限らないし文章構成や単語選びがうまいとも限らないし文法をマスターしてるとも限らないのでやっぱり変な下手な文章は割合としては多い
元増田です。
「単語」にしたのは、「タイトル」「セリフ」「用語」などを全部包括したかったからです。「終わりの始まり」なんて、色んな場所で聞くけど、タイトル、セリフ、用語のどれとも言えないし。
それにしても、皆さん、色々とありがとう。五七調の日本語は耳に残りやすく、声に出して読みたくなるね。皆さんの知見と、作家・訳者・編集者に敬意を。
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
「フェミニストはバカだからどんなキチガイフェミにも味方するはずなのにおかしいなぁ」って思ってるでしょ?
赤毛のアンの小説原文、1/3まで読み進めた。今読んでる章は、アンがマリリアのブローチを無くす話。
NHKの夜ドラで見て、アンのキャラの魅力に惹かれて読み始めたんだけど、ここまでで原文でもそのキャラは変わらず。大人顔負けの言葉の豊富さで自分の空想の世界を描写し、少し変わった行動をして、周りの大人達を戸惑わせる。原文はKindleで読んでて、分からない単語はKindle付属の辞書で調べたりしてるが、付属辞書では意味が載ってない単語も出てくる。特にアンの台詞で。その理由は彼女の造語もあるし、珍しい用語を使う事で彼女が一風変わった口回しをするキャラ立てにもなってるんだと思う。
にしてもこんな魅力的で今も古臭さを感じさせないアンが、百年前の小説で描かれてる事に驚く。日本では明治の辺りだろうか。その頃の英語もほぼそのまま読める事にも驚く。使ってる単語は所々古いのはあるんだけど、会話のテンポとか描写とか大枠としては古さは感じない。
また翻訳者の村岡花子がこの小説(Anne of Green Gable)を見つけた時の感動も想像できる。話自体も面白いし、何よりもあの時代の日本でこの全然違う社会での話で、しかもかなり変わったキャラの女の子を読者に紹介出来ると言う喜び。きっと一文一文大切に訳したんじゃないかな。自分は日本語で赤毛のアンは読んだ事無いんだけど。
にしても、大人になってから読む子供の小説でこんなに楽しめるとは意外だった。ハリポタ原書も面白かったけど、アンの方はより文章に重みがある感じがする。
英語の難易度は英語中級者なら少し頑張って読めると思う。たまに理解しにくい言葉回しが出るかも知れないが、そこは読み飛ばせばOk。充分魅力は伝わると思います。お家時間にする事無いなーって人で、英語の小説チャレンジしてみようかなと思ってる人にお勧めです。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
いやさ、まだまだ燃えてるフェミニスト議連だけど、そのフェミニスト議連を擁護するつもりか知らんが
フェミニスト議連に「権力」はないから無問題理論展開してる人いるじゃん
権力とは端的に言えば法的な強制力のこと。こんな当たり前の話すらカルト化したオタクには通じずに、権力権力と大騒ぎして権力の手先になってる。コメディだとしても極めて悲惨。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708588008160812322/comment/RRD
まず根本から絶望的に間違ってるのは議員=権力、という部分。国語辞典の通り、権力関係とは法的優越性に基づく支配と服従の関係。例の議連にはそれがない。市外の野党議員が警察を支配してるとか爆笑もんの話。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708333555390434370/comment/RRD
法的根拠がないと権力じゃないって初めて聞いた…どこの定義だろう…でもさ、その理屈だとフェミニズムの否定にならん?
だってよ、法的根拠がない社会規範や私生活にまで及ぶ、男女の権力関係とか家長制度の権力を批判してきたのがフェミニズムじゃねえの
こうしてラディカル・フェミニズムが理論的に構築され、これまで「女の幸せ」と思い込まされていた主婦的生活における権力関係を、次々に暴いていくのです
ミレットによれば、生まれながらにして有利な位置に置かれた男性が、不利な位置に置かれた女性を支配する仕組みこそが「性の政治」です。それは私たちが個人的に日々従う「男らしさ」や「女らしさ」という文化にまでイデオロギーとして深くいきわたり、男性に権力を握らせるシステムなのです。
このリンク先でもさあ「権力」って単語がゴロゴロ出てくるけど、これ全部間違ってるの?
男女の権力関係?家長制度の権力?それって法的根拠あるの?ないよね?じゃあ権力じゃありませーん!変な言いがかりしないでくださーい!ってフェミニストに対して言うの?
望んだ結論に分かりやすく誘導されると理路に見えるという。ゆっくりとは?とか、法学をさしおいて「俺たちは定義のプロだ!」とか、お理工さんのオタクにしか通じないもので、これは理路ではなくてノリだよな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708562230828801250/comment/RRD
善悪の基準を法律に求め、その法律を教わらなければ善悪の判断ができない衆は、法律が禁じなければなんでもやるだろうし、法律がやれっていったら人殺しだってやれる衆だよ。マジ怖い。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708474378304495010/comment/RRD
なんかさぁ、この辺りの言葉が自分に返ってくるブーメランになってない?善悪の基準を法律に求める「定義のプロ」を気取ってない?
まあ目的によっては遠回りをしたほうが良い場合もあるからあの教材はそれなりにいいものではあるんだけど
読解だけで本当に良いのなら中高生用の普通の参考書とか見たほうが早い気はしなくもない。文法とかを固めて、単語を覚えて多読する的な。
いや、自分が出すわけじゃないぞ。
いわゆる、なろう系の出版物でな。取り下げもせずWEB版として残してくれてる有り難みはともかくとして。
一個人の趣味で公開されていたものと、商業に載せるものって違って良くない?つか違って欲しいというか。
極端な例で時代考証を付けたラノベがあったけど、その手の心意気っていうか予算と人の使い方っていうか。
てにをはヤベぇってのは、ラノベというジャンルにおいて、ある程度までは許容されるにしても。明らかな単語の誤用とか時代によって解釈の異なる言い回しの修正とかは必要じゃない?だって読みにくいじゃん。
ターゲット層はあるにしても世代間格差で通じ無い表現は、通じるように工夫したり書き換えたりするから、読み物として一定水準を求められる商業のラノベとして成り立つのでは?
というのが望みすぎだと、いよいよ痛感した。
現代日本が舞台のラノベなのに「国民」じゃなくて「市民」って表現された時点でコイツ「地球市民」とか言い出すイデオロギーのヤツだと丸わかりに。
ヤングアダルトとか分類されていた時代は未だマイルドに包み隠して主張するだけの気遣いが存在していたのにな、ラノベ的な読み物でも。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/-/640716
京都新聞で真宗大谷派の謝罪が話題になっていた。私個人として考えるところがないわけでもないけど、多少この問題に関して知識のある方なので、勝手ではあるが、ブックマークにあがっている疑問に答えたい。
kaos2009さんが「 [旃陀羅は古代インドの被差別民を指し、同派では江戸から昭和初めごろまで日本の被差別身分に例えて説明されていた」 仏説観無量寿経 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/?curid=5204 母殺しは王の所業でなく栴陀羅だと」と説明しているけど、だいたいその通り。
記事にもあるように、これは『観無量寿経』のなかのことばである。そこに、阿闍世王が母韋提希を殺そうとしたときに、大臣の月光と大臣の耆婆が「それは『旃陀羅』のすることだ、ヴェーダ(毘陀論経)にもそう書いてある」と諫めるシーンがある。旃陀羅はヴァルナ(カースト)以下の存在とされていて、日本では伝統的に、被差別部落民のことと説明されてきた。
まず、『観無量寿経』は異訳も現存しないし、サンスクリットやパーリもない。だから訳しなおしたりするのはきわめて困難、ほぼ不可能である。今後、原本が発見されないかぎり。
また、『観無量寿経』は浄土真宗できわめて高い価値をもっている。法然の定めた浄土三部経であり、親鸞の読んだ『観無量寿経』と、それに対する書き込みが残っている(集註(じっちゅう)という)。そのことばを変えるのはおそれおおいというのが、真宗門徒の一般的な理解なのだと思われる。
さらに「是旃陀羅」問題をややこしくさせるのは、親鸞のつくった和讃(和歌)のなかに、「耆婆月光ねんごろに/是旃陀羅とはじしめて/不宜住此と奏してぞ/闍王の逆臣いさめける」というものがある。親鸞が「是旃陀羅」を無視していれば、真宗門徒もそれができたのだが、親鸞自身の文章でもこのことばを肯定的に用いているので、それが問題になる。
言わんとするところはわかるけど、経典は非常に多くあって、しかも相互に矛盾する記述もあるので、「教相判釈」というのが中国仏教で生まれた。つまり、たくさんある経典の中でどれが一番真実なのか、重要なのかということが論じられる。それで、時には経典以上に祖師が重要視されてきて、祖師が無視していれば無視できると思われる。
今回は、祖師(この場合、親鸞)が無視していないから問題になっているのだろう。
そういうふうにも解釈できるけど、これは耆婆も一緒になって行ったことで、耆婆は仏弟子だから、仏教が差別意識をもっていたということでもある。教えの主体は釈尊が中心ではあるが、ときに仏弟子がそのようにもなる。
夏休みの宿題は、親戚で旅行に行くというので早めに終わらせた。
弟は旅行先でも宿題をやっていたが、「弟ちゃんは旅行先でも勉強して偉いね」と褒められた。
(その際に、それに比べて兄は…という話があったかは覚えていない)
旅行から帰って、終わった宿題をみんながいる食卓の上に置いてみた。もう終わっていることを示すため。
見つけた母は部屋に来て、「どういうつもりで置いているのか。褒めてほしいとでも言うのか。」と言ったので「ごめんなさいすぐに片付けます」と言った。
僕は自分がなんて浅ましい人間か反省したし、恥ずかしくもなった。(その当時に浅ましいという単語は知らないので、後日(後年?)置き換えているとは思うが)
30を超えても、ふとした瞬間思い出すこの記憶だが、別にオチがあるわけでもなく。親ガチャという言葉を目にしたときに、思い出してしまったのかもしれん
夏休みの宿題は、親戚で旅行に行くというので早めに終わらせた。
弟は旅行先でも宿題をやっていたが、「弟ちゃんは旅行先でも勉強して偉いね」と褒められた。
(その際に、それに比べて兄は…という話があったかは覚えていない)
旅行から帰って、終わった宿題をみんながいる食卓の上に置いてみた。もう終わっていることを示すため。
見つけた母は部屋に来て、「どういうつもりで置いているのか。褒めてほしいとでも言うのか。」と言ったので「ごめんなさいすぐに片付けます」と言った。
僕は自分がなんて浅ましい人間か反省したし、恥ずかしくもなった。(その当時に浅ましいという単語は知らないので、後日(後年?)置き換えているとは思うが)
30を超えても、ふとした瞬間思い出すこの記憶だが、別にオチがあるわけでもなく。親ガチャという言葉を目にしたときに、思い出してしまったのかもしれん