はてなキーワード: 共産主義国とは
ガイジすぎw
学力差の是非や学力による社会待遇の差の是非なんか語ってないぞ
「学力が足りないのは本人の研鑽不足のせい」という主張は機会が不平等である実社会や、統計的事実が分かってないし、アメリカリベラルが好きといいながら主張の中心が差別主義の保守と同じという点におかしみがあるって話でしかない
「機会の不平等とかを無視して「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせい」って言い切るのアメリカの保守っぽくて好き」
という一文をみて
学力差で社会的待遇を考慮しないのなんて、共産主義国を含めてもポルポトくらいだ。
ソ連ですら高学歴であれば給料差のある職についていたし、学歴があれば当然上位の政治職についていた。
お前が望むのはポルポトなのか?
やっぱりまだ日本共産党って中国共産党と関係悪いのね。俗に言うところの共産性の違いってやつだけど、面白いよなぁ。
私は資産の共有を全否定する完全自由主義者なので、共産主義とは真っ向から対立しますがそれでも気骨のある共産主義者は好きです。
とは言え共産党や共産主義国において例外なく中央が特権的になっていったことを考えると、共産主義というイデオロギーそのものが中央集権へ至る要素を内包しているとしか思えず、またその矛盾を民主集中性という欺瞞で正当化している現実から私は共産主義を支持することはできない。というより、現実に起きた問題として共産主義というものは民主集中制のことだと認識せざるを得ず、そもそも論として標榜する理想と組織の実態がかけ離れている以上は支持するに値しないと言う他ない。
55年体制の頃の自民党とは別物。大勝した小泉チルドレンを擁した清和会に乗っ取られて健全性がなくなった。小沢一郎が分割に失敗したのが悪い。
一度は政権を取った民主党の残滓。一体感と存在感が無い。民主党は小沢一郎のおかげで政権をとれたが、小沢一郎のせいで割れた。
小沢一郎のおかげで政権与党に食い込んだ宗教団体。宗教団体であることを除けばまともな部分はあるので力不足ながらも政権内野党の役割を果たしてほしい。
大阪党。
唯一まともに左派政党と呼べる党。ただし共産党。共産主義国は例外なく賄賂で腐敗するが、賄賂に敏感な嗅覚を持っていて番犬野党としては有能。
見るも無残。
NHK受信料を支払わない方法を教える党 立花孝志 1 1 2
泡沫政党。
泡沫政党。
総括
投票先がない
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
学生が「中国の問題にしか結びつけない」かどうかは、学生とやり取りした北村紗衣先生本人しかわかんないことじゃない?いや本人にすらわかんないよね。元増田が書いているように、日本にも関連はあるけど、中国のほうが関連が強いという理由で、(日本については言及せずに)「ディストピア作品って中国みたい」って発言した学生がいる可能性が十分ある。なのに、学生が日本に結び付けなくて問題だって、北村紗衣先生が勝手に誤解してる可能性もありますよ。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
そういう関係ないと決めつけて多様性を許さないのがディストピア。作品の内容との類似性より、自国である(他国でない)ことを絶対視しなければならないなんて、そんな決めつけが当然なの?読書は自分なりにできる自由なものだって、早稲田大学や高橋源一郎先生は言ってますよ(後述)。
ディストピア作品の内容が、日本より中国にあてはまってると考えた学生が日本と関連づけないのが問題になるのが、武蔵大学ってことなのかな。
(北村紗衣先生を「saebou氏」って書くの、すごいっすね。)
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。
教えてくれてありがとう。ニュースピークによる語彙の制限は金盾、二重思考は社会主義市場経済とすれば、中国に当てはまるディストピア作品だから、学生が中国を挙げることは自然だね。もちろん、日本にも当てはまる事柄がないという意味ではなく、中国の方がわかりやすいという意味で自然だね。具体例があると、学生の考えに一理あることがわかりやすくなるね。
最近出版された「まんがでわかる 1984年」の宣伝では、中国にあてはめたり(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた小説『1984年』。コロナ禍を経て、今一度、権力と個人のあり方について考える状況にあるといえます。今回のコロナの感染源・中国のITによる超監視社会は、『1984年』の世界を彷彿とさせます。)、日本のようだ(自粛・正義・幸福追求・相互監視の暴走!世界文学の名作を新解釈!まるで今の日本のようだ!)となってる。「ディストピア文学の読み方が分かってないですね。ディストピア文学は読み手がどこに住んでいようと、「今、我々が住んでいる場所」を描いたものとして読むんですよ。」という北村紗衣先生からすれば、宝島社は文学の読み方がわかってない(中国を思い浮かべた)担当者が宣伝してると断言していますね。
実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
そんな読み方を誰がしてるの?元増田は日本にもディストピア作品に関連する要素はあると書いてるし、学生は「中国みたい」と言っていても、「西側諸国は関係ない」なんて言ったとはどこにも書いてない。もし言っていたとしたら、それがわかるのは、北村紗衣先生本人だけだよね?
それに、作品を理路整然と解釈した結果、作者の意図と異なることだってあり得るのに、作者が困るから作者の意図通りに読まなければならない、って、武蔵大学はそんな権威主義の学問しか学べないんですか?
早稲田大学だと、「自分だけの読み方を見つけ、人を納得させる。「自由に読むことの楽しさと厳しさ」を学べる」のに。高橋源一郎先生は「個人が読むということは、僕は書くよりもクリエイティブなことだと思っています。そこには「社会」の「声」といったものがまったくない。「こう解釈されているけど、僕は違う」と読むようになることが「何かを読む」ことじゃないかと思うんです。」と話しているのに。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
二重思考ができてるね。(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた)小説『1984年』を教材にする北村紗衣先生(支配層)が、ディストピア作品は日本に関連付けるのが当たり前だということを刷り込み、中国みたいと思う学生の感じる力を奪うんだから、リアルディストピア。これがノンフィクションってやばみしかない。これが学生の不利益ではないって、二重思考すげえ。
あ、学生が日本と関連付け(られ)なかった理由がわかった。「1984年って、武蔵大学を描いてて、北村紗衣先生がビッグブラザーですね」って、もっとも身近な事柄に関連付けたら、単位もらえないもん。学生さんも二重思考を身につけなきゃですね。
北村紗衣先生のやりたいディストピア発見実習って、松任谷由実さんでおなじみ京都精華大学白井聡先生の単位のために学生に忖度させるパワハラみたいに先生のご機嫌取りになるだけでは。学生さんかわいそう。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
具体的な作品名も挙げず、理由を説明せず、でも学生の考えを間違いだと世界に公表する先生のいる大学って、学生には結構ディストピア。
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
男は自殺率が女より高いという話から「男はコミュ障の強がりでストレスを溜め込むからね。でもワタクシはママじゃないし男のストレスは男で解消してね♡」というクソみてえな主張が最近目立って来たので書く。
男性の自殺率が有意に高いのはコミュニケーションが下手とかそんな話ではなく(だいたい下手なんじゃなくてプロトコルが違うだけだろ)、受けているストレスの量が多い≒背負っている責任が重いせいだ。男性自殺の原因トップは経済的な困窮であり、それは友達と話をしたところでそいつが連帯保証人のサインをしてくれない限りストレッサーから逃れる術はない。
日本社会は未だにジェンダーの縛りが非常に重い。扶養控除なんて制度もそうだし、親権が母親に無条件に寄るのもそうだし、医学部の女子に対する入試差別、職場での男女雇用の不均等…あらゆる場所で昔からある「男は仕事、女は家庭」が幅を効かせている。
社会の主役は男性であり、女性は家庭や私的空間を守るためのもの、というのは建前としては消滅したが、未だにあちこちに実在している。
この点については男性も女性も概ね合意が取れると思う。男女差別が存在しないなどと思っている奴はほとんど居るまい。
さて、そうした男性特権の向こう側には特権に比例した責任が発生する。中世の貴族であれば権威を継承する者として、共産主義国ではブルジョアを打倒する模範的同志として、そして資本主義国としては経済の主体としての責務を自動的に背負う。資本主義国で生まれた男子は、程度の差こそあれ「自分が今日の糧を食いつなぐ」という理由と並行して「国家構成員の責務」として金を稼ぐことを求められる。女子は、差別によってこの社会の責任から排除されているのでこれを背負うことはない(多少解消されつつある現代的に言えば「少しは背負っている」が)。
ここで「男ってバカね、意地なんて張らずにそんなの捨てちゃえばいいのに」なんて思った人間も居るかも知れないが、国家がそのイデオロギーを維持しているのはどこかのハンコついた文書に書いてあるからではなく、常に社会の構成員の大多数がそのイデオロギーを実践しているからであり、それが維持されない、誰もが気軽に社会的責任をポイしちゃう国家はその国体が維持できない(ナウルみたいになっちゃうぞ)。気軽に捨てちゃえばいいなどと言ってのけるのは、それこそ責任を持たない者の発言である。
つまり資本主義イデオロギーからの圧があり、男子は絶えずその圧に晒されている。そしてイデオロギーそのものを否定することは不可能(本当は可能ではあるが…今の所資本主義よりうまく行ったイデオロギーがない)で、プレッシャーから逃れる術はない。立身出世しなければならない。大人になったのに親に食わせてもらうことは恥だ。子供部屋おじさん。勝ち組、負け組…そんな言葉が未だに現代に漂うのはこうした圧力が実在することの証左である。
翻って女子の方は、差別によって権限を剥奪されているので社会的な責任が薄い。出世しなくても馬鹿にされないし(させないのだから当然である)、本人が無職を望んでも多方面からごちゃごちゃ言われない(ごちゃごちゃ言われるのは逆のバリキャリとして生きるときだ)。親に扶養されてて情けないと言われることもないし子供部屋おばさんなんて言葉もない。逆に家庭に対しては男子より多くの責任を負わされ、子供の面倒(母乳信仰など最たるものだろう)や地域コミュニティの行事など多くを強制させられるのだが。
この権限と責任の差によって男子は敗北が許されず、弱音を吐くことが認められにくい。責任を果たすために特権を得たのだから負けてはならないし、負けたら資本主義イデオロギーの実践者としてはもう後がない。実際には福祉がありそこに落ち着くが、資本主義イデオロギーの強いアメリカが福祉をアカ扱いする性質があるように、福祉の世話になることはほぼイコール資本主義社会の責任から降りる事を指すので、圧を受け続けた人間ほどここで死を選んでしまう可能性がグンと上がるのは想像に難くない。こうして経済的困窮による自殺が男性に寄る。
フェミニズムの運動とはこうした性差別を排除し、社会へ進出し、女性に強制させらた役割にNoを突きつけ、男性だけが得られた特権を女性にも等しく分配させるための闘争である。
よって、男性から回収した権利には当然責任が伴う。男と同じく、資本主義の無限の競争へと身を置く責務である。社会進出とはつまりはこういうことであるし、少なくとも初期のフェミニズム、ウーマン・リブ運動においては責任ごと請け負う気で女性たちは動いていたと思われる。
少し前に「フェミニストだけど彼氏に養ってもらいたい」といった大学生の記事が出ていたが、とんでもないことである。それは「5000兆円欲しい!!」とかと同義で、お前今まで大学で何勉強しとったんや、教授もうんうん言ってる場合じゃねーぞ、と思ったものだ。
遡って表題の話をするが、こうした権限移譲によって男が抱えて離さないもの…そして背負わされているものを女も手にするということは、奪われたものを取り返す事であると同時に、一つのものを両者で分け合って背負うということでもある。つまり男性の自殺率が高いという話に対してフェミニズム的にすべき話は「こっちも働いてやるから権限をよこせ」であり「男性のことはアテクシは知りませんわよ」などという態度を取るということは、結局のところ未だに自分は社会の中央でなく、主たる責任はどこかの誰かの男性がやってくれるという態度そのものであり、フェミニズムから最も遠いあり方である。
余談であるが、自殺数の男女差でなくそもそも絶対数が他国より多く、過労死がそのまま英語になっている不名誉な現状については上記のジェンダー論ではなく労働問題のレイヤーである。ジェンダーは受ける責任というベクトルを決定付けるもので、その方向に従って加圧されるパワーは純粋な労働量に依存する。そもそも我が国の働きすぎ問題がマシになっていれば、比率はともかく絶対数として死んでいる人間の数は減っていたであろうことは自明である。個人的には、女性が男と同じく過労死するほど働くよりは、男女がそれぞれほどほどに働く未来を夢見たい。
自分の基準で相手の学歴の高低や富の有無を勝手に決めて攻撃する卑屈な人達だから。
そういう人って自分が思う高学歴とか高収入の人間のことをめっちゃ叩く。
優生思想は絶対ダメ。だから某ミュージシャンの発言が批判されてるのは理解できる。
でも最近、失言したりした人が高学歴だったり高収入だったりすると、
「恵まれた環境にいる人間にはこっちの気持ちはわからない」って、だからって叩いて良いわけじゃない。
そういう人は結局自分より恵まれてる人間を叩いてスッキリしたいだけだよ。
《「自分が恵まれた環境に生まれた運が良かった人間だ」って認めたくない人がめちゃくちゃ多くない?》
っていうツイート見かけたけどさ、認めるって何だろ?
私恵まれてるんだよね〜とでも言ってみなよ、叩かれるか陰口言われるかするでしょ。
自分が恵まれてるって認めたらイヤな目にしか遭わないし、そんなんだったら黙ってるに決まってる。
自称貧乏人がワラワラ出てきて、富を再分配しろ!富を再分配しろ!って言ってくる。
何もかもを他人のせいにして金持ちに偉そうな口きいてる人達ばっかりだし。
上のツイートと同じ人が、
とも書いてたけど、ちょっとお金持ってるだけで叩かれるんだよ。
しかも大金持ちじゃなくても、少しでも余裕がある人を見かけると、
「余裕がある人はいいですね〜w」とか言うんだよ。ボーダーが低すぎるわ。
自分の事で言うと、ちょっと大きめのテレビに買い替えたってだけでフォロワーに自慢って言われた。
テレビを何年かに一度買い替えても良くない?それだけで自慢扱いされるとか怖いんだけど。
医者とか弁護士が犯罪犯したら、「これだから他人の気持ちがわからんヤツは〜」って言う人が絶対現れるけど、
そうじゃない普通の人間が犯罪犯してる率の方が断然高いでしょ。
でも貧乏人が犯罪犯したら、恵まれなかったことを理由に、今の社会が〜政治が〜差別が〜って言う。
でも犯罪を犯したときに、差別されてる人か〜それならしょうがないな〜とはならない。
貧乏人とされる人は何やっても社会構造が悪いって事にできるし、
努力しなかった人間も環境がちょっと悪いだけで周りのせいにできる。
「努力できる土壌があった」「努力できたのは環境のおかげ」って言われる。
金持ちでも努力してない人なんていっぱいいるし、お金がなくても努力して成功してる人もいるのに。
皆で不幸になろうって言ってるのと何が違うの?
どんなに疑いようのない正義の名のもとにいても、そこの人間が正しいかどうかというのは全く別の問題だ。
ANTIFA運動の掲げる反差別、反ファシズムというのは、現在疑いようのない正義ではあるが、だからといってアメリカで起きている暴動は正しいものだろうか?
もちろんアメリカ社会に黒人差別があり、彼らが覆し難い理不尽を受けていることは疑いようがなく、主張の正しさ自体を否定することはできない。
大事なのは、「正しいか正しくないか」というオール・オア・ナッシングの話ではなく、「どの部分が正しく、どの部分が正しくないか」という細分化だ。
トーンポリーシングをして議論自体を回避したり、理不尽から逃れたいわけではない。認めるべき正義と、認められない暴力が同居しており、その暴力を認めることはファシズムや独裁に繋がる。
だからこそ、その暴力に必要性、必然性を感じているかを確認する必要があり、それを容認することはそもそも罷りならないのだ。
こういう話の時によく取り上げられる小説として『1984』があるが、あの小説では全体主義に反抗するレジスタンスもまた、全体主義的な組織であることが明示されている。
それと似たように、リベラリズムが浸透すればするほど、人間はどんどんオール・オア・ナッシングになっていって、まったく矛盾していることだが、忌むべき全体主義への加速を促しているのが実情だ。
これはリベラリズムがおかしいとかそういう話ではない。「全ての人間には勘定があり、かつまったく不完全である」という、基本的な前提が抜け落ちているという話だ。
これは共産主義にも見られたことであり、共産主義が徹底して実行できるなら腐敗があろうはずはないが、人間はそれができるほど無感情ではないし、完璧ではない。
共産主義国が次々と失敗したのは共産主義の不備と言うよりは、人間側の問題だ。理想が高潔すぎて実行できる人間が誰もいない。
window95に最新の3Dゲームをいれるようなものだ。まともに機能するはずがない。
理論の美しさに目を取られて、それを行う人間の信念、信仰、不完全、理想など…つまり個人というものがまったく無視されるというのは、理想を掲げる時に必ず発生しうる問題だ。
「人は自分が正しいと思ったことをしたい」「人は自分が正しいと思ったことに反する事実を受け入れられない」「悪人を人間として見るのが困難になる」「正しさを否定する人間はとりあえず悪人に見える」・・・
こういった矛盾した複数の要素を人間はバランス良く孕んでいる。これを持たぬ人間などいないというほどの大前提だ。
しかし、この矛盾と向き合えるのは他社とのつながりが容易になり、個人が尊重され、異なる存在と交わる機会が増えた現代だからこそだと言える。
もう一度言うが、トーンポリーシング的な意図があるわけではない。
全体主義や差別への反抗をすればするほど、別種の全体主義や差別を生み出すという矛盾を人間は抱えているという自覚を持たざるを得ない段階に来てしまったので、持ちましょうという話だ。