どんなに疑いようのない正義の名のもとにいても、そこの人間が正しいかどうかというのは全く別の問題だ。
ANTIFA運動の掲げる反差別、反ファシズムというのは、現在疑いようのない正義ではあるが、だからといってアメリカで起きている暴動は正しいものだろうか?
もちろんアメリカ社会に黒人差別があり、彼らが覆し難い理不尽を受けていることは疑いようがなく、主張の正しさ自体を否定することはできない。
大事なのは、「正しいか正しくないか」というオール・オア・ナッシングの話ではなく、「どの部分が正しく、どの部分が正しくないか」という細分化だ。
トーンポリーシングをして議論自体を回避したり、理不尽から逃れたいわけではない。認めるべき正義と、認められない暴力が同居しており、その暴力を認めることはファシズムや独裁に繋がる。
だからこそ、その暴力に必要性、必然性を感じているかを確認する必要があり、それを容認することはそもそも罷りならないのだ。
こういう話の時によく取り上げられる小説として『1984』があるが、あの小説では全体主義に反抗するレジスタンスもまた、全体主義的な組織であることが明示されている。
それと似たように、リベラリズムが浸透すればするほど、人間はどんどんオール・オア・ナッシングになっていって、まったく矛盾していることだが、忌むべき全体主義への加速を促しているのが実情だ。
これはリベラリズムがおかしいとかそういう話ではない。「全ての人間には勘定があり、かつまったく不完全である」という、基本的な前提が抜け落ちているという話だ。
これは共産主義にも見られたことであり、共産主義が徹底して実行できるなら腐敗があろうはずはないが、人間はそれができるほど無感情ではないし、完璧ではない。
共産主義国が次々と失敗したのは共産主義の不備と言うよりは、人間側の問題だ。理想が高潔すぎて実行できる人間が誰もいない。
window95に最新の3Dゲームをいれるようなものだ。まともに機能するはずがない。
理論の美しさに目を取られて、それを行う人間の信念、信仰、不完全、理想など…つまり個人というものがまったく無視されるというのは、理想を掲げる時に必ず発生しうる問題だ。
「人は自分が正しいと思ったことをしたい」「人は自分が正しいと思ったことに反する事実を受け入れられない」「悪人を人間として見るのが困難になる」「正しさを否定する人間はとりあえず悪人に見える」・・・
こういった矛盾した複数の要素を人間はバランス良く孕んでいる。これを持たぬ人間などいないというほどの大前提だ。
しかし、この矛盾と向き合えるのは他社とのつながりが容易になり、個人が尊重され、異なる存在と交わる機会が増えた現代だからこそだと言える。
もう一度言うが、トーンポリーシング的な意図があるわけではない。
全体主義や差別への反抗をすればするほど、別種の全体主義や差別を生み出すという矛盾を人間は抱えているという自覚を持たざるを得ない段階に来てしまったので、持ちましょうという話だ。