はてなキーワード: 知的障害者とは
陰性の統合失調症とパニック障害で引きこもって15年、少し外に出られるようになったからとB型事業所に通い始めて3年が経つ。
事業所は、精神障害の他に身体障害・知的障害の人も通ってくる。
そもそも、精神障害者を迎え入れてくれる事業所と言うのは、身体・知的に比べると随分少なくて、地元に数ある事業所の中でも、今通っているところだけが、精神障害者も受け入れていた。
通い始めたころ、出来たばかりで少人数だった事業所も、今ではずいぶんな大所帯になった。
大所帯になるということは、それだけ、様々な症状を持つ人が通っているというわけで、嫌な思いばかりするようになってきた。
当然、事業所には行きたくなくなる。
引きこもっている間1度もしなかった自殺未遂を、私は事業所に通うようになってから、2回した。
外からはあまりわからないだろうけど、「明日またあそこに行くくらいなら死んだほうがましだ」と思わせるには十分な環境だからだ。
突然大声を出して熱いお茶入りのコップを投げつける知的障害者、送迎の車内で腕が当たったからとこぶが出来る強さで頭を殴ってくる精神障害者。
身体障害者は性格的に穏やかな人が多いけれど、自分は足が悪いんだからあれこれしてもらうのは当然、って顔をしてる人が多くて辟易する。出来る範囲のことは自分でやろうよ、と思う。
職員の人たちは当然健常者なのだけど、何故だか、普通に通ってくる人(暴れたり大声出したりしない人)に我慢を強いる。
たとえば、Kさんのケース。
Kさんは人格障害の病名で治療を受けている女性で、病状が悪くなるまではよく喋るけれど人当たりのいいお姉さんと言う感じの人だった。
11月頃から様子がおかしくなり、12月に入る頃には、だれかれかまわず暴言を吐き、大声で怒鳴り散らし、物に当たる、と言う感じになった。
あるとき、あまりの暴言と大声に我慢できなくなり、「黙ってろ!」と怒鳴りつけた男性がいた。
正直なところ、それはそこにいた通所者多くの心の代弁だったと思う。
けれど事業所の所長は、Kさんのほうをかばい、Kさんの入院が決まった12月末まで毎日彼女を迎えに行き、事業所に通わせていた。
その間中、私たちはKさんの暴言と大声とに晒され続け、大きなストレスを感じていたにもかかわらず、だ。
納得がいかない、と思う。
前例にあげた知的障害者や暴力精神障害者のこともそうだけど、他人に危害を加えるような状態の人は、どんなコミュニティにも入るべきではない、と思う。
たとえそれが一時的に病状が悪くなったせいだとしても、一時的な悪さが過ぎるまでは自宅待機にするべきだと思う。
私は今、また、死にたいと思っている。
またあそこに通うのか、と思うと、吐き気がする。
家族は、引きこもりからとりあえず一歩前進したと喜んでいるから、行きたくないとは言えない。
私が精神的に弱すぎるのはわかっている。甘ったれているのもわかっている。
他人の大声やドアをばたんばたん開け閉めする大きな音が怖いから行きたくない、と事業所の人に訴えたら、そんなことじゃ生きていけない、と言われた。
それなら、生きていなくてもいい、と思う。
引きこもっていたころはよかった。
病院以外で外には出られなかったけど、少なくともこんなに怯えて毎日を過ごすことはなかった。
怖かったのはいつ来るかわからないパニック発作くらいで、それ以外は家事をやって穏やかに毎日が過ぎていた。
あのころに戻りたい。
このオジサンって、診断されずに健常者扱いされて放置された知的障害や発達障害の可能性がありそう。
言われた命令すら理解できなくて、失敗ばかりして職を転々としたり、ニートしてる隠れ知的障害って結構いる。
多くの場合家族がかわいそうで養ったりするから、明るみにならないことが多いけれど。
中年フリーターとかひきこもりの一割くらいは、そういう隠れ知的障害者の問題のような気もする。
家族がいない隠れ知的障害者は自分が上手に仕事ができない理由もわからず、障害年金も生活保護も申請できなくて、お金が無いから
軽度の犯罪を繰り返して、刑務所の出入りを繰り返してたりするし、こういうオジサンやオバサンっていろんなところに存在しそう。
少し前に拷問系AVがどうのとかTwitterで話題になっていた。そんなに多くのツイートを追いかけたわけではないのだけど思うところはたくさんあった。
だいたい落ち着いたところだと思うので、ずっと考えてたことをまとめて書いてみようと思う。
自分はDMMのアダルトビデオ、特に拘束、SM系の動画を手当たり次第見ることが以前はあった。話題になっていた拷問系?はそんなに見てないかも。まあ、最近はそういう欲求がほとんどないので、全然見ないけど。
見ると言っても大抵無料サンプルのみで、何故なら、…単に集中力が持たないからである。そんな感じなのでこの話題についてあまり詳しくはないと先に言っておく。
ちなみにxvideosで見ていたことも少しだけあったが、著作権の問題が気になりすぎてやめた。その点、DMMの動画なら安心だ。無料サンプルばかりで正直申し訳ないとは思っている。
Twitterでの例の話題で気になったのは、アダルトビデオでの行為は大手メーカーなら当然フィクションでありそんなことは当たり前で、ばかばかしい指摘だ、というような反応が割とあったことだ。
たしかに自分も見ているときはもちろんフェイクであると思って見ていたし、俳優の方々を本気で心配したことは一度もなかった。というか、妙にノリのいい音楽とアニメ声のあからさまに演技!という感じのものしか見たことがないので、正直あまり実感がない。趣味に合わないものは徹底的に見ないわけだし。
しかし労働環境はどうなのかという視点で考えると、劣悪なところは結構多いのではないかと思えた。
何しろこんな世の中で、一般的な職場でさえ驚くほど劣悪なところがあったりするのに、アダルトビデオ業界というオープンになりにくいところで劣悪な現場が全然ないとかそんなことがあり得るだろうか。
もちろん、優良なメーカーもあるだろう。それに一応審査があるはずで、映像倫理機構とかその他複数あるらしい。ちょっと調べただけでは詳しく分からなかった。あまりに過激な内容であれば多分審査の段階で弾かれると思われる。
(ただし自主制作のものだと審査があるわけでもなく、本物の拷問まがいの行為の動画がある可能性がある。そこまでいかなくとも、酷いものはあると思う。)
自分はメーカーとか全然詳しくないのだけど、色々工夫して映像を作っているという話は聞く。大抵は模型やらなにやらを使って創意工夫のもとで拷問というフィクションを生み出しているのだと思う。
ただ審査があるとは言っても作品を見ただけでは実際の労働環境までは分からないわけで、特にアダルトビデオの性質…素人だとか盗撮だとか本物のレイプ映像だとか、たとえ実際にはフェイクであっても創作性とは別のところが重要視される分野であることを考えると、そこらへんがホラー映画などとはちょっと事情が違うというか、これって大丈夫なのか、と思ってしまうポイントである。
過去に起きた事件というのも、本当に大丈夫なのかと考えてしまう一因である。また知的障害者などが被害にあっているという情報もあり、そういうのも気になるところ。
もちろん、そういった問題があるからといってすべてのメーカーがそうだというわけではないし、色眼鏡で見られやすい業界であることを考えると、極端なところを取り上げて騒ぐとみんな潰れてしまうのではという懸念も理解はできる。
ただ本当に、いかに興奮できるか、抜けるか、という実用性が重視されるものであり、過激になりやすくオープンにしにくい、しかも粘膜に直接異物が触れるなど相当にハイリスクな性質を考えると、映画やドラマその他の映像作品とはやっぱり事情が違う、フィクションだから大丈夫だと安心できないなと自分は思った。
こんなのフェイクに決まっているしいちいち騒ぐほどのことではない、映画の殺人シーンがいかにリアルであっても騒ぐ奴いないだろうというのは確かにそうなのだが、映画には訓練されたスタントマンやCG、精巧なセットを作り上げる美術スタッフが存在すること、莫大な予算と時間がかけられているということを我々は知っているし、
それによってリアルな残酷映像を安心して見ていられるのだと思う(まあ映画の撮影にだって問題は多くあったりすると思うんだけど)。
どうやってリアルな映像を作っているか、俳優がどのような努力をしたかなどが詳細に語られることも多い。
アダルトビデオも最近はどうやって映像作りをしているか語られることも割とあるとは思うのだが(メイキング映像とか)、その性質を考えると制作現場はもっともっとオープンにされるべきだし、それをアピールしていく必要があるんではないか。
表現するものが何であれ、というかどんな仕事であれ、労働環境は改善されるべきだし、どのような対策をとっているかなど具体的なことがもっと必要なのだと思う。危険を伴うなら尚更だ。
劣悪なメーカーが、努力している優良なメーカーの足を引っ張っているというツイートを見かけたけど、たしかに現状そんな感じなのだと思う。
また過激な表現を守りたいのであれば、アダルトビデオを安心して見るために劣悪な労働環境をなくそうという声を積極的に上げなければならんのではないか。
観測範囲にはなかっただけで、そういう声も結構あったのかもしれないが、自分はほとんど見なかった。異常者扱いされることへの反発の方が多かったように思う。
たしかにこんなのを見るなんて信じられない、醜悪だという声は結構な数あり、正直内容を考えると仕方がないと思う。
見ない人には慣れなどというものはまったくない分野であり、見る人だけが見るもので一般的な理解は得にくい。
だから興味ないならほっとけということではなく、表現は守られるべきだからこそ労働環境は厳しく問われるべきで、オープンになりにくいからこそ野暮な指摘は重要なんではないか。
「これは表現であり創作物である」ということをしつこいくらいにやっていく必要があると思う。
あんまり健全だと興奮できないという声は結構あると思うのだが、制作現場にまでそれを求めてどうするというか、そういう声を聞く必要はないだろうと。
労働者が死にそうになりながら作った製品でなければ満足できませんとか言われても。
俳優が危険をおかしていることをアピールして作品の価値を高めるというやり方もあるけど、程度によるかな。
あと当たり前だけど性教育は必要。人間の身体の正しい知識、他人の身体の扱い方が浸透してなさすぎる、幻想が溢れすぎていると思う。現実的な前提あってのフィクションでしょう。
と、まあこんなところ。もっと現場の声を聞きながら現状とか問題点とか表現についてとか考えてる人はいると思うので、そういう人の話を聞きたいかなあ。
自分は釣りをやったことがない。やらないというよりはできないのである。
わざわざブックマークを得るためにゲスい話を考える気にはなれない。
釣りをやるなとは言えないが、釣りというのはやはり気をつけなければいけない。
良いことが全くないのだ。
よく釣りだというと「釣りか釣りじゃないかってそんなに重要なの?」と怒る人間がいる。
別にそんな人がいていいのだが、「妊婦の嫁が、知的障害のある男に〜だからマンションを解約したー」とかいう内容で「釣りか釣りじゃないかなんて重要ではない」というとそれはやはり違う気がしてならない。
こんなもので妊婦をあからさまに擁護し、知的障害者disを過激にすると、あなた方が普段怒っていたり、バカにするツイッターでのデマに反応する人間と一切変わらない。
言い訳するのだろうが。
やはり憎悪を掻き立てるようなものになるものはみんな釣られたくなるのかもしれないが、注意が必要である。
釣りっぽいものを見ていると感じるのは、基本的に女には優しくて、男には優しいということである。
女は基本的に肯定のコメントばかりが来ると思っていい。男は基本的にdisだ。
それを見て、どうしようもねーなと感じる。
あと、案外感動したがりが多いことだ。民放の感動話番組を批判しているけど、増田の感動系話に釣られていることも大して民放の感動話番組の視聴者と変わらない 下手したらもっとタチが悪いものかもしれない。
分譲マンションじゃないけど、賃貸マンションで同じフロアに知的障害者と下のフロアに認知症の人がいたので。
パワー系20代大男、単語すらはなせず会話ができないので知能は1歳~2歳くらい。
エレベーター待ちのときにエルボーを背中に食らい買ったばっかりのiPhoneを落とす。
家に勝手に入ってきた(鍵が開いていたので)二回。
困ったことはこれくらい。
たぶん70歳くらい、家族の名前を一日中呼んでる。時々わめく。現在はどこかに行った。
分譲マンションのキャンセルを読んで、まぁ人生最大の買い物だからと同情するけど、共同生活なんてそんなもんだろうと思う。
子供の泣き声、犬の遠吠え、猫の盛り声、暴走族のエンジン音、トラックのアイドリングこれ全部気になるけど、慣れたらそうでもない。
世の中には知的障害者もいれば精神障害者もいるし、認知症高齢者もいる。
分譲でもある日突然隣に引っ越してくることもあれば、知らない間に出て行くこともある。
まぁそんなもんだろうなと10年以上引っ越しせず住んでるが、完璧な環境なんてのはあきらめた方が楽。
一応釣りじゃないんで、なんかあれば詳細も答えるよ。
うちの母親は、真の意味で「子育てが趣味」という人間だ。徹頭徹尾子供のことのみを考えて生きていて、非実用的な私物は一切買わず娯楽の類にも興味がない。最近少しパソコンを始めたようだが、それも「PTAの書記になったから」というだけの理由だった。さすがに友人は少数いて月に一度くらい食事に出かけている。それがほぼ唯一の散財だ。専業主婦になる前一年ほど就いていた仕事も小学校の家庭科教師というのだから、筋金入りとしか言いようがない。二十四で初めての子供を産み(僕のことだ)、その後さらに追加で三人を産んだ。最後に生まれた娘が重度の知能障害だったのでより深く面倒を見なければならず、五人目は断念したようだが、後々になって「欲しくなかったの?」と訊いたら即答で「欲しかったよ」と言われて少々唖然とした。
それなりに広い二階建ての家を毎日隅々まで掃除し、大量の衣服を洗濯してアイロンがけし、夕飯も惣菜で済まさずに手作りする。これは明確に仕事の一環として行っていて、特に料理は全く好きでないらしい。前日の肉じゃがを再利用してコロッケを作るような工夫を見せながら(抜群に美味い)、自分は白米と沢庵で済ませていたりする。自分のことに関心がなく、そして外の世界にもほぼ関心がない。生粋の箱入り娘として育てられていて、男性経験も父以外には一人もない。よく昼ドラで描かれるような「専業主婦」とは対極に位置する存在だと思われる。
そんな彼女の一番の教育方針は「兄弟間で差を付けない」というものだ。僕は長男であり次男は三歳下、三男は四歳下なのだが「面倒を見ろ」と言われた記憶はない。「お兄ちゃんなんだから」と何かを我慢させられたこともない。小遣いは学年に応じて決められていて、同じ学年になれば同じ額が支払われた。僕が小四になって希望して塾に行ったので、弟達が四年生になった時も同じように(希望を訊いた上で)塾通いを許可した。子供が増えるほど家計は切迫していたに違いなく、これは想像以上にきつかったはずだ。
そしてこの方針を徹底している最も象徴的なことが、僕の呼び名だ。僕は家族全員から下の名前で呼ばれている。弟からも妹からも呼び捨てだ。「兄さん」などと呼ばれるのは想像しただけで寒気がする。これは間違いなく親が「兄」という呼び名を使わなかったことが理由で、つまるところ僕は家族の中で「兄」として扱われたことが一度もないのだ。だからよく、他人に「長男だ」と言うと「そうは見えない」と驚かれる。
この育て方の結果として、うちは兄弟仲が異常に良い。あたりまえのように一緒に食事やカラオケに行くし、仕事や好きな漫画について何時間でも話し続ける。弟二人は特に年子だから僕以上に関係が深く、対戦ゲームを一晩中遊んでいる様子を度々見かけていた。世間一般のイメージする「兄弟」というよりはどちらかというと「幼馴染」に近いようにも思うが、しかし僕にとってこれこそが兄弟関係以外の何者でもなく、それはすなわち母の教育の成功を意味しているのだと思う。
そもそも複数の兄弟を分け隔てなく育てるというのは、土台無理な話なのだ。あまりに手間がかかりすぎる。自分の好きなことは一切できないような生活にならざるを得ないだろう。だからこれは、うちの母に限定された教育法だ。彼女は「私欲を滅して子育てに魂を捧げるのだ」といった大層な決意を持って臨んだわけではない。単に自然に子育てをしたらそうなっただけのことなのだ。そう、彼女はある意味では自分の欲望に忠実に生きている。
現在、四人の子供は全員成人し、男三人はみな就職してそれぞれの仕事に励んでいる。すべからく子供は大人になり、親から離れてどこかへ行く。あたりまえのことだ。だがそれは母親にとっては唯一の趣味がなくなることを意味する。
だから四人目の娘が重度の知的障害者だったのは、(いろいろなものに目をつぶって言うと)僕たち家族にはとても良いことだった。今でも二歳児程度の知能発育である妹は、これ以上成長しない。彼女は永遠に子供のままであり、それはそのまま永遠に子育てが続くことを意味する。母親にとって、それはきっと幸福なことなのだと思う。
生活保護受給者、障害者、路上生活者、多くの貧困者。彼らは皆、現代社会における「能力による差別」の犠牲者である。能力による差別が正当化されている日本において、能力の低い者は、自分の生活を成り立たせるための稼ぎを得ることすら難しい。
2.再配分政策が進まないのは、能力による差別を無条件で肯定しているからである。
富める者から富を奪取し、貧しい者に配る再配分政策は、富の偏在が主に能力の高低によって決まる以上、能力のある者から能力のない者への富の移行である。能力による差別を無条件に肯定している社会通念がある限り、再配分政策は進まない。能力の高い者が富むのは当然だと皆考えているから。
大学は能力による選抜を行う機関である。一般的な大学だと、知的能力によって選抜するし、美術大学や音楽大学においては、美術や音楽の技能、体育大学では運動能力によって選抜を行う。本質的に大学という制度は、知的障害者を排除することでなりたっている。これは知的障害者への差別に他ならない。(同様に、美術大学は視覚障害者を、音楽大学は聴覚障害者を、体育大学は身体障害者を差別的に排除している。)
そもそも障害者差別とは、その本質において、能力についての差別である。足がない、目が見えないなどの身体の障害は、健康な者と比べて、身体における能力の欠如を意味する。知的障害者の場合は知的な能力の低さが問題であり、精神を病む者についても、それによって出来ないことが増える。能力による差別を肯定している限り、障害者への差別も肯定され続ける。
大学が能力による差別を助長する制度である限り、能力を持たない者への差別も強化されていく。東京大学は能力の高い者にさらなる成功を約束する機関であり、能力による差別の総本山である。東京大学を解体し、能力による差別を肯定する社会をこそ変えでゆかなければ、社会から不幸はなくならない。能力による差別、今まで当たり前だとされてきたからこそ、疑おうではないか。
ベビーカーは車椅子と同じでしょ。大人が乗っていても違和感がない。
でも大人に紐つけてたらどう感じるか?
幼児用リードは何とも思わないという人も、例えば知的障害者の大人が紐つけられて歩かされているのを見たらぎょっとするのでは。
例え介助者が「すぐ走り出してしまうからこうしないと危険なんです!」とか言ってても、
いや人間に紐付けてまるで犬扱いってやばいだろ人権侵害だろ許されねーだろと思う人が大半じゃないかな。
自分は幼児用リードは何とも思わないんだけど、結局のところそれは幼児を人間と思ってないからなんだよな。