生活保護受給者、障害者、路上生活者、多くの貧困者。彼らは皆、現代社会における「能力による差別」の犠牲者である。能力による差別が正当化されている日本において、能力の低い者は、自分の生活を成り立たせるための稼ぎを得ることすら難しい。
2.再配分政策が進まないのは、能力による差別を無条件で肯定しているからである。
富める者から富を奪取し、貧しい者に配る再配分政策は、富の偏在が主に能力の高低によって決まる以上、能力のある者から能力のない者への富の移行である。能力による差別を無条件に肯定している社会通念がある限り、再配分政策は進まない。能力の高い者が富むのは当然だと皆考えているから。
大学は能力による選抜を行う機関である。一般的な大学だと、知的能力によって選抜するし、美術大学や音楽大学においては、美術や音楽の技能、体育大学では運動能力によって選抜を行う。本質的に大学という制度は、知的障害者を排除することでなりたっている。これは知的障害者への差別に他ならない。(同様に、美術大学は視覚障害者を、音楽大学は聴覚障害者を、体育大学は身体障害者を差別的に排除している。)
そもそも障害者差別とは、その本質において、能力についての差別である。足がない、目が見えないなどの身体の障害は、健康な者と比べて、身体における能力の欠如を意味する。知的障害者の場合は知的な能力の低さが問題であり、精神を病む者についても、それによって出来ないことが増える。能力による差別を肯定している限り、障害者への差別も肯定され続ける。
大学が能力による差別を助長する制度である限り、能力を持たない者への差別も強化されていく。東京大学は能力の高い者にさらなる成功を約束する機関であり、能力による差別の総本山である。東京大学を解体し、能力による差別を肯定する社会をこそ変えでゆかなければ、社会から不幸はなくならない。能力による差別、今まで当たり前だとされてきたからこそ、疑おうではないか。