はてなキーワード: 真犯人とは
※一応ネタバレ注意。
「韓国映画ベスト100」の記事で1位だった「殺人の追憶」をアマプラで観た。
韓国映画はこれまで「グエムル」「オールドボーイ」「新感染」等を観たことがあり、
どれもそれなりに面白かったので期待していた。
現実の連続殺人事件を下敷きにしたミステリーという立て付けの話なのだが、
行き当たりばったりの捜査(と呼べるかも怪しい)で、ろくな証拠もなく犯人を決めつけ、容疑者を監禁⇒ボコボコに殴る蹴るの暴行を加え、自白を強要。の繰り返し。
誰一人共感できる登場人物がいない。殺人鬼の前にまずこいつらを牢獄にぶち込むべきだと思ってしまう。
ソウルからやってきたイケメン刑事一人が唯一まともなのだが、最終的に我を忘れて暴走し同じように暴力を振るうようになる。お前もか。
言いたかないがこの映画を見る限り、韓国人って怒りに火が付くと「怒りの原因が正しいかどうか」はどうでもよくなってしまう人たちなんだな~と思うよ、うん。
ウイグルのノートとか、虐待死のアレとかについての意見を読み漁っていて
同情や共感というワンクッションを挟まずに、誰が悪いせいでそうなったか話し始めるから○性は怖いと思った
とはいえ、同情や共感が具体的な解決策になることは殆どなくて、「解決」という一点にのみおいてはクソの役にも立たないので
つべこべ言わずに再発防止策について話し始めるのはとても大事なことで
可哀想だねー、大変だねー、辛かったねよしよし、の一連の動作からのタピオカ一服で悲しい事は全忘れ、とかは全く解決には繋がらない
しかし、実際に被害者の立場に立つと、まず求めるのは「誰が真犯人か」という議論よりも「手を取り共感してくれる相手」だろう
犯人がわかったところで、取り返しのつかないことが戻る事はないが、先の人生自分の味方が少なからずいるという事実は大きな助けになる
結局どちらも重要なことで、どちらがより大事かなどという議論こそ、パンティーの役にも立たないのであるし、
それを取り沙汰して異性叩きに使うことになんの生産性もない(と思ったので伏せ字にしてみた)
男性に「共感」が薄く、女性に「解決」が薄い傾向を、どちらが冷酷でどちらが劣っているというような話に繋げてしまうのは軽率で残念な行為だ。
そんなことよりも、どちらかしか持っていなくとも、我々はそれを補いあえるという素晴らしい事実に注目できると良い。
そうして考えてみると、男性が解決し、女性がケアをするという補い合いの構図はよくみられるものだと気づく。男性医師が病を治し、看護婦が看病する。警察の取り調べでは、男性は事実を聞き出す事、女性は相手の心情に寄り添う事、に長けていると考えられている。「女性弁護士が丁寧にお聞きします」のような広告も根底にこの考えを持つだろう。
女性の社会進出によって、解決脳で作られた世界に「共感」という慰めが増えている。被害者にはカウンセリングと自助会を、という動きはこれだ。一方で男性は今まで通りに頼もしく物事を解決に導いてくれている。
このようなジェンダーロールの再評価こそ、フェミニスト、アンチフェミニスト、ミソジニスト、ミサンドリストに必要な慰めであるのだと思う。
のだが
「共感脳男性」「解決脳女性」も世の中には沢山いるし、ステレオタイプな解決型男性や共感型女性にとってもジェンダーロールの押し付けが負担になる。
傾向としては確かに、どちらがどちらに長けているかという事実はある。それを認め合えればマジョリティにとっては幸せなことだ。
だが、現代では「男性はこれが得意でいいよね」「女性はそれが上手で素敵だね」という認め合いが、「男性なら得意でしょ」「女性のくせにそんなこともできないのか」という殴り合いになる。
難しい。
ジェンダーロールは我々の祖先が長い歴史のうちに身につけた生存戦略である。巣作り、狩り、出産、子育て、という一連の生存を分担しあって生きてきた。ジェンダーロールはこうすれば大体上手くいくという生活の知恵だった。
しかし、「大体」上手くいって「大体」のひとが幸せになれればいい社会は終わってしまった。マイノリティの幸せのために、ジェンダーロールはじきに差別として捨て去られるだろう。その良否はともかく、時代の流れとしてはそうなっている。
これからは男性女性ではなく、個人として補い合わなくてはいけない。
難しい。
でもその内適応できるだろう。今はその過渡期に差し掛かっているのだ。旧来のものを捨て、新しいあり方を模索しなくてはいけない。変化は苦しい。けれど「その場所にとどまるためには、 絶えず全力で走り続けなければならない」
人間も社会のあり方も変わるが、それは必要な変化であり必要な痛みであるように思う。ジェンダーロールを捨てることが人類にとって吉と出るか凶と出るか、今の我々にはわからない(少なくとも少子高齢化という凶は出したが)。ただもう変化は始まってしまっているのだ。
・女性専用車両は性差別なので反対。日本最大の恥の一つだと思ってる
・痴漢冤罪は問題だが、冤罪問題は痴漢に限った話ではないので痴漢冤罪だけを問題視するのは欺瞞
・私(男性)も痴漢被害経験があるので、「女性は男性と違って被害に遭ってる!」とか言われても「そーですか(ハナホジ」程度の感想しかない。暗数暗数と言うなら男性被害者の暗数のこともほんの少しでいいから想像してくれ
・ハンコや安全ピン如きで騒ぐのは集団ヒステリーでしかないだろう
・痴漢被害経験者として言えば、声を出すよりハンコや安全ピンの方が心理的障壁が小さいのは普通の感覚だと思う
・安全ピンは推奨はしない。赤信号を渡った程度で大騒ぎをするのもアレだが、わざわざ赤信号を渡る必要はない。ハンコにしよう
・ハンコはあくまで「威嚇」であるべき。ハンコ如きを裁判の証拠にしてはいけない
・ハンコ如きが証拠になるようなら、批判すべきは司法。痴漢被害者の責任ではない
・どう頑張ったって冤罪は0にできないし、「真犯人が野放し」なる状況も0にはできない。しかし法の原則から言えば、たとえ真犯人を逃してでも冤罪は最小限に抑えるべきだろう
・何でもかんでも被害者に責任を押し付ける連中、嘘つき呼ばわりする連中にはヘドが出る
・被害者だって見間違えも勘違いもあるんだから、「痴漢かも?犯人はこの人かも?」くらいで通報してあらゆる証言が全面的に証拠として採用されてしまうと、それこそ冤罪が怖くて通報もできないだろう。被害者に責任を押し付けないためにこそ推定無罪の原則は守られるべき
・「性差別」と言ったのは、男性差別でもあり、女性差別でもあり、その他あらゆるセクシャリティに対する差別でもあるということ。それらは互いに相反する概念ではない
・「日本最大の恥」と言ったのは、それ自体が差別であること、それを求める声が上がるほど痴漢被害が深刻であったこと、肝心の痴漢犯罪および根本的な原因の一つである満員電車は放置されていること、国民はそれらを甘んじて受け入れていることなど、諸々全てを指して「恥」とした。個々の問題がどうこうではなく、その総体が日本という国の現状のあり様そのものなのだろう
・海外にも似た事情があるなら、「日本の」と特定するのは不適切だったかもしれない。指摘を感謝します
・「どれだけ恥でも今すぐ撤廃するのは現実的ではない」と言われれば、納得はしなくとも呑み込むことはできる。一方で、それに反対している人にも様々な事情があるのだから、彼らをクソ雑レッテルで侮辱するのは控えるべきだろう
・私は死刑反対派です
・しかしずいぶん丁寧に「おまえらの誰にも味方しない」と書いたつもりだったのだが、それでも言ってないことを透視する人々に絡まれるのだからヘル日本と言うしかない
昔の事件は考慮対象にならない。捜査技術が劣っていた時代だからこそだろうし。
最近の事件なら「どう考えても真犯人だし死刑が妥当だろ」って方が圧倒的に多いから、心情としてそっちが優先される。
「出まくってる」が聞いて呆れる。そこまで断言できるなら判決が出る前に無罪の証拠を持って裁判所に行けよ。
これが一般事件なら志布志や氷見の冤罪もあるけど、死刑になるほどの大事件ならさすがに裁判所も慎重になるだろうしね。
あと多数派少数派の話には何も触れないんだね。
その事件を列挙することで、今回みたいな冤罪の可能性が全くない凶悪犯の命を救おう!なんて考える人が多数派になると思う?
最初に、京都アニメーション関係者の皆様にお見舞いを申し上げる。皆様のどなたにも、こんな目に遭ってよい理由はなかった。亡くなられた方々には哀悼の意を表する。癒しがたい傷を負われた方々や深く傷つかれた方々に、心からお見舞いを言いたい。今現在、痛く、辛い思いをしていらっしゃることだろう。あなたは一人ではない。多くの人があなたを気遣っていることが、少しでもあなたの支えになることを願う。そして今生死の境をさまよっていらっしゃる方々に、匿名ながら応援の気持ちをお伝えしたい。どうか生き延びてほしい。
だが、こういう時だからこそ、以下の点は言っておかねばならないだろう。
今回の犯人――状況からみて病院に搬送され警察に事情聴取を受けている男が放火犯本人であるという前提の下で話を進めるが、他の多くの事件においてこのような前提を置くことは危険であることをご承知おき願いたい――が憎むべき罪を犯したこと、その罪は厳正に裁かれるべきこと、この点にはなんら疑いはない。個人的には、どこかで火災に遭って焼け死ねばいいのにとは思う。しかし、それはそれとして、彼を死刑にすべきではない。
死刑は撤廃するべきだ。たとえそれがどのような憎むべき極悪非道の人物であっても、死刑に処されるべきではない。理由の第一は、冤罪の危険性だ。今回はたまたまかなり高い確率で真犯人であろう人物が捕まったが、一家四人が惨殺され放火された別の事件では、おそらく真犯人ではないであろう人物が死刑判決を受け、現在も再審請求中である。人が人を裁く以上間違いはどこにでも存在する。間違った人が首を吊られるなどということはあってよいはずがなく、誤判をゼロにすることが不可能である以上、冤罪で処刑することを防ぐためには死刑を撤廃しなければならない。
理由の第二は、それが真相の究明に繋がらない場合も往々にしてあるからだ。中には改悛して洗いざらい吐いて刑場に向かう死刑囚もいようが、どうせ死刑なのだからとすべてを投げ出して語るべきことを語らず処刑される者もいる。仮釈放のない終身刑にでもしておけば、数十年後に重い口を開くことがあるかもしれない。被害者がどうして殺されたのか、本当の理由を知ろうと思うのなら死刑にせず生かしておいた方がよい。
理由の第三。死刑は過激な犯罪者を焚きつける可能性がある。オウム真理教の幹部を集団で処刑したのには開いた口が塞がらなかった。そんなに「国家権力に処刑された尊師と幹部たち」という物語を演出して、オウムの残党に彼らを神格化してほしかったのだろうか。死刑になりたかったから子供を大勢殺したのだと言い放った死刑囚がいた。彼らのような人物は、刑務所で死ぬまで惨めに生かしておくべきだっただろう。世の中を恨み、せめて大きな衝撃を与えてから死んでやろうと目論む者――ひょっとしたら、今回の放火犯もそういう動機を持っていたのかもしれない――に、死刑制度は大きな誘因を与えてしまう。彼らを英雄や殉教者にすべきではない。
理由の第四。欧州連合やスイス、ノルウェーといった主要な先進国は死刑を撤廃し、日本に強く死刑の廃止を求めている。彼らは死刑をその国の人権感覚の証と信じており、そして彼らの主張に同調する国は増えている。これが鯨食のようなそれぞれの国の伝統文化の話ならば妥協する理由はどこにもないが、別に絞首刑が日本の伝統というわけでもなし、欧州諸国、ひいては国際社会から人権侵害と糾弾されるリスクを抱えてまで維持すべきものでもなかろう。我々は中国や北朝鮮やサウジアラビアではなく、ドイツやフランスやスウェーデンと同じ側に立つべきだ。
そして、彼の行為を社会を統制するための口実にしてはならない。彼のやったようなことは事実上防ぎようがなかった。多少の安全対策で死ぬ人数は減らせたかもしれない。だが、セキュリティをどれだけ強化したところで、悪意をもった攻撃を100%防ぐことは不可能である。
犯罪防止の名の下で行われる様々な施策は、往々にして我々の自由やプライバシーと対立する。もちろんそのような行為をすべて否定するわけではない。軍用の銃器を保持する自由は制限されても仕方があるまい。だが、衆目を引く犯罪が起きる度にそれに応じた対策を採っていたら、我々の社会は生きるには窮屈になるはずだ。
新幹線の車内で凶悪事件が置きたことがあった。だからといって新幹線に乗る度にいちいち持ち物検査を受ける必要があるとなったら、ずいぶん窮屈で面倒だろう。包丁を使った通り魔事件が置きたとして、包丁の購入にいちいち面倒な手続きが必要になったとしたら、料理をする人は困るだろう。我々は秋葉原で執拗に職質をかけられ荷物を開示させられる屈辱ならよく知っているはずである。そのような社会に我々は生きたくない。
犯罪を犯す「法的な」「道徳的な」自由はどこにもない。そのようなものは認められるべきではない。だが「物理的な」自由、つまりやろうと思えば犯罪を犯せる環境を制限しようとすることには、慎重になるべきだ。
犯罪者は「事後に」厳しく罰せられるべきだ。強く非難され、その行為の報いを受けるべきだ。だが、「事前に」規制しようとするなら、それは無関係の者の自由をどこかで奪ってしまう。
包丁を屋外で振り回し無辜の市民を傷つける行為を「システム的に」抑止しようと思ったら、新居で料理道具を揃えようとするのに、あるいはふと思い立って台所に立つのにさぞや苦労するだろう。ガソリンを簡単に購入し持ち運べるのはおかしい、という主張もあったが、なぜ一人の悪人のために農機具を使用する人たちの利便性が損なわれなければならないのだろうか? そのような統制が行き着く先は中国のような監視社会だ。なんの統制もなくてよいとは言わないが――なんといっても私は日本の厳しい銃規制や航空業界の厳密な安全規則から恩恵を受けているので――我々平凡な庶民の自由やプライバシーが徐々に奪われていくことには警戒したほうがよい。
今回の事件の犯人は、相応の報いを受けるべきだ。だが彼は死刑に処されるべきではないし、彼の行為を元にして自由な社会に統制が加えられるべきでもない。
私たちオタクが自由に、幸福に生きていけるのは、自由とプライバシーが尊重された社会においてだけだ。中国のオタクが種々の不自由に耐えている姿を羨ましいとは思えない。我々の社会を監視社会にしてはならない。究極的には、自由は安全に優越するのだから。
ということで、これが死刑廃止派からの回答です> anond:20190719044907
1番は今回当てはまらないし2番は真相究明が済めばやっていいってことになるし3番はこの犯人の信者なんていないので実質的に4番の海外からの同調圧力だけってことか。まあええんちゃう。
1番は「どう考えても無実だったり10%しか疑わしくなかったり50%しか真犯人じゃなさそうな人が吊るされないためには99.99999%真犯人なやつも吊るすべきじゃない」って話やで。
個人的にはそこまで原理的な死刑反対論者ではなく、100%真犯人である人だけが処刑されるなら死刑制度存置を支持する。でも全知全能の神じゃなくて人間が裁判する以上どこまで行っても100%はありえず99.99999%にしかならないので(今回の被疑者だってそうだよ!)、その0.00001%が残っているうちは殺すべきではない。そして全知全能の神の存在が実証されない以上死刑は廃止すべき。
すでに被害は受けてるぞ。痴漢でもないのに車両から排除されてる。
痴漢でないなら排除する必要もないので、あれもうっすら冤罪といってもいいだろうよ。
それなのに
女性が憤る痴漢行為への憤りは「実際に受けた被害者」としての立場 (特にエキサイトしている人の中に、被害を受けた人間はかなり多いと予想)
これが全く証明されてない。
はっきり言って、でっち上げor「真面目にやる気がない」かのどっちかとしか思えない。
もし何らかのミラクルで「痴漢冤罪」の問題が解決したとして、じゃあ問題の解決した男性が痴漢撲滅に協力してくれるとしたら、
そんなことはないのだろうな、という感は否めない
これは期待するほうが間違ってる。
「無実無関係の人間をノーコストで動員できる、その資格がある」というのは自称被害者の思い上がり。
「痴漢冤罪に巻き込まれる可能性」に憤るのは当然だと思うが、被害の訴えに対して「冤罪じゃないのか」という方向に揶揄するのは違うんじゃないか?
「証言だけで逮捕・拘留・起訴」というのはそういう疑念を抱かせる土壌。
そもそも自力救済自体が法を重んじない無法者の発想なのだが...
オフィスでもどこでも冤罪は起こりうる。「女性の証言だけで逮捕・拘留・起訴」という現状がある限り。
そもそもの「犯罪が関わった可能性に対して、社会的なリカバリの効きにくさ」も問題に見える (冤罪だったのでハイおしまいになりにくい)
「冤罪だった(でっち上げ、誤認双方)」場合に対して冤罪加害者が責任を取らなさすぎる。
これまでの努力や将来設計を水泡に帰す恐ろしいインシデントを起こしておいて、「私は被害者、真犯人を怨め」って言って済むわけがない。
コンビニで「20歳以上ですか?」のボタンを押すのは酒を買う未成年のせいですが、無実の大人もそれくらいはやっていいでしょう。
無実無関係の男性の男性が負うべき「それくらい」など微塵も存在しない。
私は前に「それでも私はやっていない」という映画を見ました。
しかし性犯罪は証拠が残りづらく非常に難しい問題です。全てを泣き寝入りに倒すのはまた正しいとは思えない。ゆえに、難しい部分。
正しいです。物証がないのに逮捕・拘留・起訴されてる男性は皆、泣き寝入りさせられている。
推定無罪。
関係ねーだろ。何の話してんだ。