はてなキーワード: 止めれとは
フェミってよく「弱者男性に女をあてがえというのか!」って発狂してるけどさ
弱者男性やミソジニーの人が言ってるのって正確には「俺に女をあてがわなくていいからDQNに女をあてがうのはやめろ!」だと思うんだよね
俺も弱者男性だからわかるけどさ、俺だって家に鏡くらいあるんだから自分の顔がキショイ自覚くらいあるし、俺なんかにあてがわれた女は地獄だろうなという事くらいわかるわ
だから女をあてがえなんて思わないしモテないのも辛いけど仕方ないと思う
だけどその一方で社会性欠片もないDQNがモテて、俺らはアニメ見てるだけでフェミにギャーギャーと叩かれるのにDQNは女ぶん殴ってるのに普通にセックスしてもらえるって流石に精神歪むだろ
妻が鬱になった。
25歳新婚。
職場の異動により、仕事がしんどくなり鬱になったと思う。よく言うけど旦那は「なぜ鬱になったんだろう」と考えないほうがいいらしい。鬱になるのは理由が単純じゃなくてそう考え始めると自分が悪いと思ってしまうかららしい。分からんでもないその理論。
正直、自分の家でそうなるとは思ってなかった。正確に言うとこんなに間近で鬱になるなんて思ってなかった。
確かに妻は落ち込みやすい正確だったとは思う。女性だから月に一度は落ち込む時はあったし苦しい日もあったと思う。
ただこの三年間は元気に働いていた。色々と悩んだりはあったけど、いわゆる普通の社会人程度だったと思う。
まさに今年度の異動からだと思う。仕事の種類は全く変わり難しくなったが、班員も班長も何も教えてくれない。ただ無限にやってくる難しい仕事。耐えられなくなったんだと思う。自分も同じ仕事してるけど、その気持ちが分かるだけに苦しい。
鬱って『「弱い」とか「逃げ」じゃない、誰でもなる病気だ』ってよく言われる。言葉では分かってたけど、本当か?と思ってた時期あった。
今なら絶対に分かる、鬱は弱い逃げではなく、病気だと思う。妻は私から見たら誰よりも強く真面目だ。病院に行って診断されるまでもずっと粘ってた。
その気質が鬱になる原因なのかもしれない。もしかしたら新婚なのも原因なのかもしれない。
だから、どうか、上司になりうる人、先輩になる人同僚になる人は、周りの人間とコミュニケーションを取りましょう。それが鬱を防ぐ唯一の手段でしょう。
誰も助けてくれないと思うと、ずっと一人で抱えてします。
本当は、妻が鬱になってしまった職場環境への糾弾もしたい。でもここでは意味がないから控える。
妻は仕事をやめて転職すると思う。とりあえずは休職か。転職するのだってエネルギーを使う。軽度鬱の程度で止めれたのは救いか。
二人の生活水準は下がるかもしれない、でもそんなことはどうでもいい。妻が夜も朝も泣いて、仕事に行きたくないと苦しむ姿何てみたくない。
自分がこの世で一番愛する人が、苦しむ姿なんて見たいわけ無い。妻の笑顔が見れるに増して素晴らしいことなんて一つもないよね。
鬱は苦しいよね、朝起きるのって苦しいよね。もしかしたら旦那さんに言えないかもね。でも、大好きなあなたが落ち込んでるのが一番苦しいです。どうか、助けてって言ってみましょう
鬱はどこにでもあります。ただ、生きている輝きはそこでなくても輝きます。あなたの人生は働くためでも無く、輝いて生きるためにあります。
「交差点で、車が止まらなければよかった」と妻は言っていました。そこまで苦しいのによく生きてくれたと思っています。
みなさんも良い一日を。もし今日が良い一日じゃないとしても、良い明日を、明日もだめなら良い来年を。生きてる限り日々は続きます。
妻が鬱になった。
25歳新婚。
職場の異動により、仕事がしんどくなり鬱になったと思う。よく言うけど旦那は「なぜ鬱になったんだろう」と考えないほうがいいらしい。鬱になるのは理由が単純じゃなくてそう考え始めると自分が悪いと思ってしまうかららしい。分からんでもないその理論。
正直、自分の家でそうなるとは思ってなかった。正確に言うとこんなに間近で鬱になるなんて思ってなかった。
確かに妻は落ち込みやすい正確だったとは思う。女性だから月に一度は落ち込む時はあったし苦しい日もあったと思う。
ただこの三年間は元気に働いていた。色々と悩んだりはあったけど、いわゆる普通の社会人程度だったと思う。
まさに今年度の異動からだと思う。仕事の種類は全く変わり難しくなったが、班員も班長も何も教えてくれない。ただ無限にやってくる難しい仕事。耐えられなくなったんだと思う。自分も同じ仕事してるけど、その気持ちが分かるだけに苦しい。
鬱って『「弱い」とか「逃げ」じゃない、誰でもなる病気だ』ってよく言われる。言葉では分かってたけど、本当か?と思ってた時期あった。
今なら絶対に分かる、鬱は弱い逃げではなく、病気だと思う。妻は私から見たら誰よりも強く真面目だ。病院に行って診断されるまでもずっと粘ってた。
その気質が鬱になる原因なのかもしれない。もしかしたら新婚なのも原因なのかもしれない。
だから、どうか、上司になりうる人、先輩になる人同僚になる人は、周りの人間とコミュニケーションを取りましょう。それが鬱を防ぐ唯一の手段でしょう。
誰も助けてくれないと思うと、ずっと一人で抱えてします。
本当は、妻が鬱になってしまった職場環境への糾弾もしたい。でもここでは意味がないから控える。
妻は仕事をやめて転職すると思う。とりあえずは休職か。転職するのだってエネルギーを使う。軽度鬱の程度で止めれたのは救いか。
二人の生活水準は下がるかもしれない、でもそんなことはどうでもいい。妻が夜も朝も泣いて、仕事に行きたくないと苦しむ姿何てみたくない。
自分がこの世で一番愛する人が、苦しむ姿なんて見たいわけ無い。妻の笑顔が見れるに増して素晴らしいことなんて一つもないよね。
鬱は苦しいよね、朝起きるのって苦しいよね。もしかしたら旦那さんに言えないかもね。でも、大好きなあなたが落ち込んでるのが一番苦しいです。どうか、助けてって言ってみましょう
鬱はどこにでもあります。ただ、生きている輝きはそこでなくても輝きます。あなたの人生は働くためでも無く、輝いて生きるためにあります。
「交差点で、車が止まらなければよかった」と妻は言っていました。そこまで苦しいのによく生きてくれたと思っています。
みなさんも良い一日を。もし今日が良い一日じゃないとしても、良い明日を、明日もだめなら良い来年を。生きてる限り日々は続きます。
晒しみたいになって悪いんだが、「島耕作描いてる人間はレコードの持ち方を知らない」って言うのがバズってるワケよ。
https://twitter.com/belmie2001/status/1709766808201527649
「正しい持ち方」っていうのは、レコードの端をもって盤面を指で触らない。指紋が付いて溝に脂が入ったり後でカビたりするから。
だけど、レコードっていうのは実はずっと現役メディアなんよ。何処でか?というとクラブDJで。
それでDJっていうのはそういう持ち方しない。普通に島耕作みたいな持ち方で扱う。
例えばこれは自宅でDJプレイしてようつべ配信している素人愛好家なんだが、島耕作持ちしてる。
https://youtu.be/afjS-Km6juU?si=1ldtDQ1E2mQpzdPs
他にもDJ配信してる人は多数居るが、皆マニア持ちじゃなくて耕作持ちしてる。
そういえば、シスコとかのレコード店でも商品なのに耕作持ちしてたな。
今レコード需要の主流って、しっとりとした音を楽しむオーディオマニアよりも、こういう感じでクラブ音楽流したりDJっぽいことしたりっていうのが主流なんで、持ち方は耕作持ちが主流って事になる。
島耕作は年齢的にディスコソウル~Hi-NRG(ハイエナジー)DJだったのかも知れないな。
あともう一つ、オーディオマニアが「テクニクスのダイレクトドライブが(マテ)」みたいな感じでテクニクスのダイレクトドライブが過去のものと思ってネタにしてるのもたまに見る。
いやいやいや、テクニクスのダイレクトドライブって現役なんよ。
ダイレクトドライブっていうのは、レコードの回転軸にそのままモーターが付いてる形式で、ハードディスクのスピンドルとか、今では当たり前の技術だ。
レコードというのは回転ムラがあると音がぐわんぐわんと揺れて(ワウ・フラッター)滑稽な感じになってしまう。
だからモーターを高速回転させて回転ムラを平準化して、ベルトで繋がれた重たいターンテーブルを回すっていうデザインにする事が多い。ターンテーブルが重いのはフライホイールマスにして回転ムラを無くすっていう手段だ。重いものは急に動かせないし急に止めれない。だから速度を一定にしやすい。
でもこれだと一度回転を止めると回転速度が元に戻るのにタイムラグがある。
テクニクスは松下ナショナルの高級オーディオブランドだが、1972年に冒険的な製品を開発した。それがSL-1200というターンテーブルで、回転軸に直接モーターが付いている。
そのままだと回転ムラが酷くなるが、松下はこれを電子技術で解決した。写真を見れば判るが、https://ja.wikipedia.org/wiki/Technics_SL-1200
ターンテーブルの横に赤い光が出ている箇所がある。これは、ターンテーブルの横に模様が描かれており、それを赤外線フォトトランジスタで読み取っているのである。今のマウスに使われているフォトエンコーダとかロータリーエンコーダの走りだ。
これで常に回転数をフィードバック制御している。この制御は今の光学ディスクやNC工作機械などのブラシレスDCモータと同じだ。今のは電線が4本出てる(電源+、アース、回転数読取、制御)が、SL-1200ではターンテーブル横のフォトトランジスタからのフィードバックになっている。
ただ、セイコーがクオーツ回路の特許を公開する前だったので初期型だけ水晶発振子が載っていない。故に少しづつ回転数ズレが起きるのでピッチコントローラのスライダを付けた。
普通に作ればいいのに、最近技術満載で作った異形のような野心作だったわけだ。
・回転が落ちても直ぐに戻る(ずっと回転数見てフィードバック制御されてるから)
・ターンテーブルを逆回転させるなどラフな扱いしても壊れない(ベルトが外れたりしない)
松下のエンジニアがアメリカ行くとDJがみんなこれを使ってるのを目にする。DJに意見聴取すると「いやこれ最高に使いやすいんで何もいじらないでくれよ」と。
そんな中で生まれたのがある意味無茶苦茶で斬新だった、ハービーハンコックの『Rock It』だ。
https://www.youtube.com/watch?v=jWeBJsg6FHA
使ってるのがSL-1200かは不明だが、これなんかダイレクトドライブが無いと出来ないような演奏である。
ハービーハンコックはジャズ&フージョンの人だったのが、突然気が触れたように過激な事をし出したんだが、この後はまたしっとりした曲に戻ったので、ダイレクトドライブによる熱病みたいな曲である。
こうして高級オーディオを作ったはずが、意に反してDJスタンダードとなってしまった。
その間にCDが普及してレコード市場は消えて行くが、DJの世界ではCDでの演奏は自由度が低く、CDJ等の製品はあったがあまり普及しなかった。ずっとレコード主流だったのである。
これに呼応してベスタクス社がDJ用ターンテーブル市場に参入したりもしたが、これも日本メーカーである。
だが既にテクニクスSL-1200はスタンダードブランドとなっていて、クラブDJの真似事したい層の憧れはやはりSL-1200、という訳で、高級オーディオが衰退して行く中で、テクニクス製品は殆ど終売になっているのにターンテーブルだけが延々と世界に向けて出荷されていた。
因みに1998年頃までテクノとかハウスとかトランスなどの電子ダンス音楽はCDでは販売されず、専らレコードで売られていた。電子音楽がアナログメディアだけというのは今では変に見えるが、家で聞く音楽じゃないしクラブではレコードしか扱わないしで、最初からレコードだけで発売されていた。
つまり、クラブ音楽とかクラブ文化を支えていたのは日本メーカーの音響機器、特にダイレクトドライブのターンテーブルであったのだ。「日本スゴイ」の人らは視野が狭いし技術にも疎いので知らない現実である。
地球の何処でも松下電器とベスタクスが溝を刻み音楽を鳴らし続けていた。
はてなのココロ社氏が昔書いているが、https://kokorosha.hatenablog.com/entry/20071121/p1 ずっとクラブを支えていたレコードの時代は2010年頃には終わってしまう。
それにはネット配信の伸張が大きかった。元々クラブ音楽は大変市場が小さい。またネット配信は中間コストが媒体マージンだけなのでインディーズに特に向く。そこでクラブ音楽もネットが中心になっていった。
更に使いにくいCDJじゃなくてファイルをそのまま突っ込んで演奏できるデジタルDJ商品の使い勝手が良く、レコード市場が急速にシュリンク、SL-1200も終売、これだけで持っていたに等しいテクニクスブランドも消えてしまった。ベスタックスの方は2013年に倒産しており、レコードの時代は終わった。
…と思うじゃない?
だが2014年頃になるとネット配信に押されてCD市場の方も急速に収斂してしまう。
一方で、クラブ音楽はやっぱレコードの方がカッコいいよなぁという人が増えて行く。
またYoutubeのライブなどでCDプレイを披露する人も増え、デジタルDJよりも難しいが見た目がカッコいいレコードDJへの憧れも高くなっていった。
それでSL-1200の中古の価格は高騰、美品なら100万円を超えるような事になっていった。程度普通の中古でも60万程度した。
そんな中で松下のテクニクスチームが再結成、SL-1200が2016年にまさかの復活を遂げたのである。
今は丁度生産の谷間のようで価格が安定しないが、新品で約12万円程度となっている。
またこのレコードブームに呼応してパイオニアからも5万円程度の入門用ターンテーブルも販売され、活気がある市場となっている。
このブームを支えているのはまた日本の音響メーカーという訳だ。
因みにレコードはLP(アルバム)で4000円くらいとなっている。普通のCDアルバムが3000円なのにぼったくり価格である。
以前のレコードと違うのは、90年代のレコードは12インチシングルばかりでLPは無かったが、今のはLPが中心という事である。
そういう事で、オーディオマニア達の見えないところでずっとテクニクスのダイレクトドライブは現役だったし今も現役なのだ。
レコードは古いんじゃなくてずっと新しくて、今もまた新しいままなんである。
【追記】
専門的に勉強しないと身につきません(中略)
いや、ほんとそれなんですよね……。
でもその「誰の意見を信頼できるか」のレベルでさえ、信頼するために何を判断材料にしていいのかわからない状態です。
わかりにくくてすみません。私に直接言ってきているわけではなく、Twitterで相手が主張していたりRTしているということです。
-------------------------
特にジャニオタでもないどころかテレビを全然見ないので芸能人の名前が10年前で止まっている人間です。
リアル知人がガチガチのジャニオタで、色んな情報を流してくる。
それで私自身、法の知識も無ければジャニーズの知識もないので、ずっとどう受け止めればいいのか悩んでいる。
ただ、「なんで司法に委ねないの?」という知人の怒りにも一理あると思うし、「推定無罪の原則は?」というのもそうだよねと思う。
一方で、「刑事事件の時効なのでは?民事で訴訟できるの?」というのがまじでわからん。訴訟できるんです?
「被害者の言動がおかしすぎる。本当の被害者ならこんなこと言わんでしょ。そもそも日付とか証言の妥当性がありえん(色んな日付の問題だばーっと貼る)」というのも、「人間の行動は必ずしも芯が通ったものというわけではないし、ショッキングな出来事を経験した人間であればなおさら自己防衛などで加害者側に寄り添った行動になってしまうのでは?」とも思う。
でも、ぜーーーーーんぶ知識が無いし、情報を知りようもないのでわからんのだ。
第三者委員会の報告書も読んだけど、証言の妥当性は検証されてなくてマジ?ってなった。
事務所側は一部のファンが被害者の証言を疑ってることも知らないのか?というか事務所は気にならんのか??
凡俗なので、受け入れたということは、もしかしてジュリー氏はジャニー氏の事実を知っていたのではないのかと邪推してしまう。
被害者(仮)の言動があやしいと思って司法の介入を望む→わかる
たぶん本人たちの中では、被害者(仮)の言動を精査して問題点を指摘しているつもりなんだと思うんだけど、あまりにも「被害者ではないのに嘘をついて金をたかろうとしている!」という本音がダダ漏れで攻撃にしか見えない。
愚痴ならそれでもいい(もちろん良くない)が、「司法の介入」に世論を持っていきたいのならどう考えても逆効果なのでやめたほうがいい。
ごちゃごちゃでごめん。
そんな感じで、なんかこう…私は「事務所が受け入れたのならそれが事実なのでは?」と思う…………というかそう受け止めるよりほかないと思う。
けど、「司法の介入」を持ち出されると「そうなのかも……?」とも思う。とにかく処理できなくて、だけど知人はガチギレしててつらい。
https://nordot.app/1074899170541700068
いやいや、さすがに何でもかんでも批判し過ぎじゃない?
なので、ジャニーズが取るべき行動は
もっとあるだろうけど、とりあえず。
ジャニーズが企業としてジャニーの性虐待について認めたので、適切な対応やコンプラ整備がされるまでは契約できない、というのは一般企業として当たり前の反応。ジャニタレ継続起用する企業への批判については、全然わかる。
でもジャニーズに籍は残すんだよね? ということは、ファンクラブの会費は引き続きジャニーズに流れ込む。CM露出は、それに加担する行為になる。
被害者と性虐待の事実の把握、被害者に対して・会社として適切な対応を求めるべきなのに、別の方向に向かってない?
性犯罪に加担したジャニーズ事務所に席を置き続ける選択をした人とわざわざ抜け穴的に個人契約をするなら、アフラックも加担していると見做さざるを得ないな。
ジャニーズではない桜井くん個人と契約するのは、性犯罪に加担していると見做してはダメだと思うけど。
「桜井くん=ジャニーズ」ではなくて、桜井くんがジャニーズに所属しているという一面がある、というのが正しいと思うけどな。
自分がモヤモヤして気になるのが、今ジャニーズに在籍しているタレント本人はどうするべきだと、皆思っているの?
被害者救済に協力するのは当然として、その他の行動。
ジャニーズを退所/移籍すべきなのか、在籍するならタレント活動は自粛すべきなのか。とかその辺。
みんな言葉足らずだけど、自分が推測した限りではこんな感じで合ってる?
・ジャニーズ事務所の過去の加害/被害について全貌が明らかになっていないので、しっかり全貌の把握と被害者の救済・再発防止を実施した上で、事務所として/所属タレントとして活動を再開すべき
正解は無いかもだが、皆の考えを教えてくれ。
■追記
現在事務所に在籍している=事務所に残ると決断した、と見做している人が多い気がしている。
事務所すぐに退所/移籍できるわけではないので、個人の決断はこれからでしょと思っている。
個人に対して正当な評価ができるのは、もう少し先の話。その前にこの流れができればいいのでは?と思っている。
を観てきた。
主演の伊藤英明のビジュアルと、数年前の大河ドラマ『麒麟がくる』における伊藤氏の役どころが素晴らしかったため、今回もそれを期待して行ったわけである。
あらすじは公式ホームページにあるが、
https://stage.parco.jp/program/aviewfromthebridge
ステレオタイプなジェンダーロールに拘泥し家長として振る舞うエディ(伊藤氏)とその妻ビー(坂井真紀)、妻の姉の娘でエディが愛してやまず、成長してなお家に縛り付けられているキャサリン(福地桃子)、そして妻の従兄弟でありイタリアから不法移民としてやってくる兄弟、マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の物語である。
で、何が書きたいかというと、よくわからない観劇体験をしてしまったという話。
冒頭は、狂言回しの弁護士(高橋克己)の澱みないモノローグで始まる。その後幕が開き、幸福な頃の一家の姿が描写されるが、伊藤氏が口を開いた瞬間に強い違和感が襲ってくる。
棒読みだ。
言葉の一つ一つが、『セリフ』として意味を持たず流れ落ちていく。
キャサリンは帰宅した叔父の胸に飛び込み、絡みつくように抱き合う。不穏さを感じさせる、目に焼きつくほど無邪気な愛の光景と共に、低音で棒読みのセリフが流れ落ちていく。
劇が進行し、過保護に育てられ男を知らないキャサリンは、初めて目の前に現れた若い移民の独身男性・ロドルフォに一目で恋に落ちる。エディはロドルフォが『カマ野郎』(ママ。70年も昔の戯曲なのだ)であると言いがかりをつけ、そんな男に姪が奪われてなるものかと旧知の弁護士の元へ駆け込んだ。「法にできることはない」と窘める弁護士に激昂した口調で激しく詰め寄る。激昂した口調で激しく詰め寄っているのにも関わらず、セリフは相変わらず流れていく。会話が成立していないのだ。
高橋克己演じる弁護士は、本能的かつインモラルな嫉妬に駆られた男を前にした常識人というより、意味を持たない言葉の奔流の前に、言語の限界を知って戸惑い立ち尽くすインテリといった様相を呈してくる。
ビーを演じる坂井真紀氏は、妻として夫に寄り添い、あるいは向き合う姿そのままに、崩れがちな家庭の場面を立て直そうとしていたが、やはり圧倒的に流れていく主演のセリフ量の前には勝てない。
ロドルフォとキャサリンとの会話は慣れてくれば違和感がなかったが、おそらく物語の構造上、その若き二人は、そもそも一人の人間として彼に見られていないためだ。だから会話が成立しなくても大丈夫なのだ。
しかし今度はそのせいで、二人がエディに向ける愛や憎悪、困惑に一切の重みがなくなってくる。あの純粋に不可解な言語の羅列に対し、何を真っ当に苦悩しているのだ、という感じがしてくる。
そしてその異様な不協和音を抱えたまま、劇は終盤の悲劇へなだれ込んでいく。
失礼なことばかり書いてしまったが、伊藤英明氏はおそらく演技が下手なわけではないと思う。「演技の適性がピーキーすぎる」だけだ。正直動きだけで言えば他の役者の方が怪しいところもなくはなく、伊藤氏がそれをカバーしていたところもあった。
エディのくたびれた労働者の姿態、日常的に男らしさを意識しつけた一挙手一投足、戯れにロドルフォにボクシングを仕掛ける時の軽やかで悪意を秘めた動きと笑い、嫉妬を滾らせて部屋の隅に沈み込んでいる姿の不気味さ。舞台映えしないとは決して言わせない長身も相まって、エディという男そのものを見事に、しかも色気と悲哀を横溢させて表している。
ただひとたびセリフを発すると、演劇空間の位相が容赦無くズレ出してしまう。
パンフレットを買えなかった(持ち帰る袋がなかった)ので薄い理解ではあるが、アーサー・ミラーの脚本は、シンプルに受け止めれば、移民への差別意識問題と女性の自立・連帯の問題をからみつけつつ、家父長としての姿にこだわる男の自尊心と、その体面の下に押さえつけられた欲望を鋭く抉り出したものだろう。
ただそんな真っ当な狙いを外れて、主演のセリフの大半が機能しない状況で、この舞台は圧倒的な不条理劇として立ち上がってくる。冒頭の弁護士のモノローグで、ギリシア悲劇的な『条理』は示されているにもかかわらずである。
繰り返されるエディの「尊重されたい」という言葉は発されるそばから空疎になり、なんの意味も持たずに空を彷徨う。圧倒的な空疎に対して周囲は嘆き、怒り、困惑し、愛を語り、そして悲劇を止められないことをなぜか勝手に悟る。
そしてその空を彷徨うような言葉で表される自尊心に怒りを掻き立てられ、エディはあまりにも無意味で不可解な死へと突っ込んでいくのである。伊藤氏の怒りの演技は見応えのあるものであるが故に、その怒りの根源が空虚でしかないという不条理性はいや増していく。
そして唐突に死んだエディを、役者たちは無表情で見下ろす。我々の中に紛れ込んでいた全くの異分子がやっと去った、という解放感さえ浮かべて。
それはとりもなおさず、エディが脚本上囚われていたすべてのものの虚しさを示す、メタ的かつ正確な表現に他ならない。
あるいは、棒読みの彼こそがリアルな人間であり、周りの役者たちを「芝居がかった偽物たち」と捉えることさえできる。
人間の感情を言葉で表すことなど到底無意味であり、根底にあるのは超言語的な(本能的な)愛と嫉妬、憎悪だけだ。それでも周囲の「芝居がかった偽物たち」とエディは、無意味で空疎な言葉でコミュニケーションする他ない。そして彼は己のものでない空虚な言葉で己を取り繕い、縛り、孤立し、ついには偽物たちに殺されてしまう。
この姿が、あらゆるイズムに囲まれた現代人の戯画でなくてなんだろう。
つまりこの劇を伊藤英明の演技が不条理劇に昇華することによって、今回の舞台は一応の成立を見ているのである。
幕が降りた後、私はいい観劇体験をしたのかどうか一考した。期待していたものではなかった。しかし無ではない。あのエディは間違いなく、ただ達者な役者が演じるよりはるかに深みのある造型をしていた。よくわからない観劇体験だったが、今私にこれほどの長文を書かせるほどの体験ではあった。