はてなキーワード: 救命とは
いやいや、この声明は的を射てるでしよ。
もしものこと(過ち)に備えて、女性は女性の救命を、男性は男性の救命を専属に行うべきなのに、規範を破って異性への救命行為に出た者は、善意悪意関係なく厳しく糾弾されるべきだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
検診で女児が服を脱がされている。男性校医の性的好奇心のために。そう思っている方がおられるようだが、そんなことはないと思う。
僕は消化器内科医として大腸の内視鏡や造影検査でたくさんの方のデリケートゾーンで仕事をしてきた。いまも在宅医として日々尿道留置カテーテルの挿入などしているが、そこに何か特別な感情が生じることはない。
意識してきたのは「目の前の患者さんに必要な処置をできるだけ少ない苦痛で」。
もちろん脱がされること自体が苦痛になりうる。羞恥心への配慮は大切だが、それによって診療としての必要条件が満たせなければ結局患者さんの不利益になる。
少し前、AEDを使用する際に女性の胸をはだけることが許されるか話題になった。秒を争う救命処置と胸を隠すこと、どちらが優先されるべきなのか。ここに議論の余地があるとは思ってもいなかった。
救命できなければ問題にされる、救命できても胸をはだけたことで問題にされる、こんな状況で誰が「若い女性」の救命処置に関わろうと思うのだろう。
僕の子供のころは上着を脱いで検診を受けるのは当たり前だった。そこに当人が疑問を感じることも保護者のクレームもなかった。それは検診の意味をみんなが理解していたからか、あるいは医師に対する無条件の信頼があったからなのか。
今は、おそらく医師の視診・触診・聴診・打診に対する信頼度が下がっているのだろう。あるいはそれ以前に医師の人間性に対する信頼が失われているのかもしれない。
一方で診断機器に対する信頼は厚い。保護者の多くは心疾患の除外診断にはエコーを、側弯の除外診断にはエックス線検査をすればいいと思っているはずだ。
これは医師ー患者の双方にとって望ましい状況ではない。しかしこの状況は、近年、医師が日々の診療でカルテ画面見て「患者」をきちんと診察せず、検査結果だけで病気を診断してきた結果なのかもしれないとも思う。
でもこれは医師だけの責任にはできないとも思う。外来に溢れる多数の患者、待ち時間に対するクレーム、診断ミスや処置の合併症に対する訴訟リスク。これは日本の健康保険制度に基づく医療提供体制そのものの問題でもある。
患者と医師の双方にとって最適な診療環境とはどのようなものなのか。医療に対して失われた信頼をどう取り戻していけるのか。あるいは、テックの進化で、もうそんなものは必要とされなくなるのか。
興味ないならなんで話しかけたの?
最初から救命処置の話と言ってるんだから、それをわかった上で食いついてきたんだよね?
他人の日記にコメントしておいて興味ないとか誰が見ても支離滅裂なのに、本人だけは整合性取れているらしいね
ほんと雑魚いよね
君が興味なくても俺は好きに書くだけだよ
君の興味関心なんて知らん
君も好きにすればいいけど、話の流れは考えてね
うーん、普通救命を知っているなら救急車呼ぶことの意味くらい理解していると思うんだがな
https://fukuoka.kon119.or.jp/seikatu/kyukyu/1sec.html
5. 心マ等の実施
その際に「あなた、救急車呼んでください」と名指しするように責任を感じさせることが寛容
なんでそんなマニュアルがあるかというと、素人集団に脳死とか救急車間に合わないとか一切判断つかないからだ
せいぜい、意識・呼吸・脈拍程度しかわからない前提で普通救命はできている
つまり「救急車はとりあえず呼ぶもの」であり、救命処置として正しい
それに身内や知り合いかは普通救命において一切考慮されていない
なので上の増田における普通救命の認識は相当間違っていると思うよ
ド素人による緊急時の救命を想定したのが普通救命で、救急車が間に合うかどうかとかは全然違う話になる
AEDも使ってよいかを機械に判断させるという意味で使うことには大きな意味がある
だからとりあえず持ってきてとりあえず使おうと習っているよね?心臓が正常なら機械が判断して知らせてくれるし
全てにおいて、わからないけどやってみたほうが助かる率があがることを想定している
なんで身内の発見とかが出てくるのかを例にするのか全くか理解できないんだよな〜
あと、俺の論説が少し歪んているのはその通りだね
「興味がない」
お前の話に興味がないんだ
じゃないんだよ
興味がないし、お前とその話題をする気がないの
おまえにそんな話をする義理はないと言ってるの
おまえはまず相手に話をしてもらえるだけの最低限のレベルにも達してないの
お前とは話す気がない
お前がいくらレスをつけてきても、俺はお前の頭がおかしいという事実しか突きつけない
以上
俺が思ったこと書いたら、君等の中だけで人気のコンテンツの話をし始めて「これ知らないのオックレッテルー」とか言われてる被害者はこちらなの
わかる?
オジサンが気持ち悪いっていってたら当事者のセクハラオジサンが身内向けの話をいきなりしだして拗らせてるの
信じるも何もリンクくらい張れるだろ
俺は興味ないけど、そういう下衆なことに興味シンシンなオジサンが勝手にやってればいいけどね
あと、さっきからいってるがAEDも救命措置も何にも話さないのな
その程度で楽しがるオジサンが気持ち悪いとこっちは揶揄しているだけなので、それに対して反応するのオジサンはそのまま気持ち悪い以外の感想がない
だって俺の言ってること全てに当てはまってるでしょ?
AEDではなく身内が受けるような男女論を投げてるだけ
最後は俺の日記なのに勝手に「自分には興味ないから話しかけるな」だとよ
君のほうが日本語変だよね
え~
そんな名も知らぬ個人の発言を知ってることで優越感浸ってるのか
AEDは単に救急救命の一手段に過ぎないだろ?だったらまずはそんな程度の低い発言よりも救急救命自体の話をすべきじゃない?
女性とAEDなんてのは単なる炎上しやすい題名であって、根底の話は「そんなことで救急救命できないとか馬鹿なんじゃねーの」でしょ?
ということはそれはAEDの話以前なんだよね
そんなことで炎上して盛り上がってるってことは、いつものように男女論したがってる連中の餌なんだし、まじでAED関係ないじゃん
救命措置って色々あって、救急車呼ぶのも医師を呼ぶだけでもいいんだよ
傷病者に触りたくない人だって当然いるだろうからできる人ができる限りすればいいし、傷病者だってむやみに触られたくない感情は当然あるだろう(意識があればの話だけど)
周りの人だって、単に女の乳揉みたいだけだろうなって不審なオッサンに触らせるより、きちんと倫理観と責任感ある人がやった方がいいって思うのは当然だ
でも有事の際ってそんなのすっ飛ばすことも多い
だから割り切って勇気を持って取り組むのが救急救命なんじゃない?
そういう話もなく「オンナガー」言ってるから幼稚なんだよ
じゃあお前が倒れたらやっていいんだな?
そうして俺から見て左の鎖骨の下にAEDの電極パッドを配置して右下の胸の直下から横(脇腹の↑の方)あたりに電極パッドを配置するからな
お前が巨乳の場合は邪魔なので胸を持ち上げて滑り込ませて配置するからな
そんで胸骨ボキボキになるまで心臓マッサージするからな(それくらい強くないといけない)
お前にいくら羞恥心と抵抗感があろうが絶対にそうやって救命してやる
覚えておけ
ちなみに心臓マッサージは乳首を結んだ線の真ん中を100BPMー120BPMで強くリズミカルに圧迫することになる
巨乳だろうが胸は左右に寄せられるので真ん中は開けられるしちゃんと圧迫できるから安心だ
心臓マッサージは意識がない&呼吸がない(または死戦期呼吸)の時に実施する
まあわかんなかったらとりあえず胸骨圧迫だ