はてなキーワード: 性愛とは
左派チームが弱者擁護と人権侵害のギリギリのラインで捻り出してきた子供愛者治療。
きちんと大人の男や大人の女を愛せるようにする治療なんだろう。
または、大人の男と女を両方愛せるか、何も愛せないようにする治療もありそうだ。
歪んだ性根を薬物投与も交えて矯正し、大人を対象とするまともな異性愛者か同性愛者か両性愛者か無性愛者に育て上げることになる。
わかってしまうのが辛い。だからこそ小児性愛者に味方したいとは思うけど、一方で、LGBT系の人々が「小児性愛者と一緒にされたくない」と言ってしまうことも責められないだろうとも思うんだよな。まあ歴史を見ると名誉白人とかカポーとか、そういう分断統治が虐待を悪化させた事例は少なくないが、LGBT系の人々が「他のマジョリティ以上に」小児性愛者を差別しているような実態は少なくとも今のところ見たことはない。マイノリティ同士で争ってる場合じゃないだろう。異性愛を批判しよう。成人性愛を批判しよう。
俺も小児性愛者が主人公の漫画描いた後に「まぁ俺は小児性愛者ではないですけどね」「え、普段ですか?オスの犬とかに欲情してますけど」「二次元ではロリいけますけど、いや小児性愛者ではないです」とエクスキューズ連発してたんで、小児性愛者と同一視されると社会的に困るって気持ちはわかります。— Naoya (@Naoya_Starlight) May 22, 2020
シャニマスって知ってる?
最近ノクチルってユニットが実装されたんだけど、そこに樋口円香という女がいて見事に未来が開拓されてしまった。
俺は当時28歳だったはず。「16歳の頃の俺なら絶対に選ばないな」と思っていたけど妙にそそりやがる。
人を小馬鹿にした態度。
双海亜美のようないたずらではなく本気で心配かけてきそうなアウトロー感。
それでいてギャルの出で立ち。
そりゃお前28歳のモテない男なんでなにかしらこじらせてるんだから田中摩美々が好きになってしまうのもしゃーなだろ。
その夜から俺は摩美々にツバを吐き捨てられたいだとか軽蔑してほしいとか貢ぎたいとかそういう感情を鎮めるために祭りをしたもんだ。
でも蓋を開けてみたらとんだいい子ちゃんだった。
むしろ保護したくなった。初めて田中摩美々に出会った時の俺みたいなやつから守護(まも)りたい。いや、守護(まも)ってやらねばならない。
俺は田中摩美々のエロ画像を見る度悔しかった。おまえら同人絵描きに摩美々の何がわかる。摩美々はいい子なんだ。摩美々はそんなことしない。その悔しさをバネに祭りを行った。田中摩美々自体を性愛の対象に見れなかったので田中摩美々を守るが弱い自分を性愛の対象にしていた。気持ち悪ぃなこいつ。
もう一つきいてくれよ。
ボンバーガールっていうゲームがあるんだよ。ボンバーガールと書いて”コナミ最後の良心”って読むんだけど読めたかな?
「雑魚雑魚雑魚全員雑魚」こんな事を言いやがるもんだからさ。こりゃ”理解(わか)らせる”必要があるなってなる。
だから俺はロケテ情報を聞きつけて田舎から野武士の出で立ちでTOKYOに殴り込んで、馬鹿みたいにでかいヘッドンホホと録音しつつ出力できる録音機を持って完全な”理解武装(わからせスタイルin東京)”で挑んだわけだ。
でも蓋を開けてみたら全然そんなことなくていい子ちゃんなの。むしろ優しい。あ、こいつメスガキいわれてるけど違うな。母親だ。モモコは母親。
モモコは俺達の根源。海なんだろうな。海って広いからさ。当時28歳だぜ?わかるだろ。理解させるって思った時、そいつはすでに理解させられている。
んでさらに時がたって「パイン」ってキャラがでたのよ。こいつのおかげでボンバーガールはコナミ最後の良心を超えて”コナミの真心”となった。良心と真心が一緒になったのでこれがコナミの真実なんだろうね。
CVが罵りに定評のある(しかし俺は負けてはいない)悠木碧。しかも天才設定。ボイスも小馬鹿にしてきて最高。当時29歳だぜ?もういい年だし…わかるだろ?
これも蓋を開けてみたら良い子ちゃんすぎるの。いや、良い子っていうかかわいいバカ娘なの。俺が守護(まも)ってやらねばならない。そう決意したね。
テンプレだった。ツンデレがテンプレのように。いや、そんな生易しいものではない。冬を超えた草花が春~夏で青々と育つように。自然の摂理として
「主人公(プレイヤー)に対して厳しい態度を取るキャラは主人公に甘えている」
があった。
でもな、SMの世界ってSはサーヴァントのS、MはマスターのMみたいなところがあって、本来はMがSのプレイに甘えるもんなんだと思う。多分俺もそういう甘えがしたかったんだろうね。
甘えっていうと甘やかしお姉ちゃんキャラばっかあるだろ。グラブルのナルメアだとかそういうタイプ。でも俺が欲しかったのは”未来”だったんだよ。
姉や母からもらう「甘え」は人を駄目にする。
俺はもっとこう、あるだろ。厳しさの中に見る優しさみたいなものが。
「めちゃくちゃ厳しい人がふいに見せた優しさのせいだったりするんだろうね」じゃないと「アリガトウゴザイマス」とはならない。
しかもナルメアとかコッコロとかエレナ・ブラヴァツキーみたいな甘え母・姉キャラは厳しさをくれないから。好きな人にはわるいけど、俺は母がほしいんじゃない。
俺がほしいのは苦痛を入れたら優しいコンクリートがでてくるコンクリートミキサーがほしかった。その優しさを感じるために必死にコンクリートを分解したかった。ヨーグルトじゃない。コンクリートがほしかった。
気がついたら俺は守護っていた。
守護ってるとただただ虚しい。
そう思ってた時に出てきたのが「樋口円香」だった。
人を小馬鹿にした態度。
刺すように短いが心を抉るセリフ。
そこに冷淡なCV。
一瞬でメロメロになった。
こいつなら俺を守護らせないでくれるんじゃないか。そう思った。
まず出会いだ。
朝倉透だったかいう高田純次に宮本フレデリカを足したあと金型を成形し、そこにクリスタルパーツ(ガラスでもいい)を流し込んで作られたようなキャラが俺の事、す、好きだとかいうもんだから(30歳だぞ?えぇいいんか?30歳だぞ俺)と思いながらスカウトするんだけど、
察しの良い樋口円香という氷のようなナイフ(しかしその刃は美しい)に「監視させてもらいます」という体でプロデュースさせていただけるわけだ。
一緒に仕事をすると「ミスター・オールドタイプ」とか「ミスター・ドーナッツ」とか「ミスター・30歳にもなってゲームキャラに恋愛感情を抱く社会不適合者」とか罵詈雑言をいってくれる。
俺は敏腕プロデューサーなので、俺が今まで育て上げてきたサポートアイドルが有能揃いで、しかも樋口円香自体も有能なおかげで勝手に優勝していく。
その中のストーリーでも俺に対して態度を軟化してくることはあるものの「ミスター・30歳にもなって周りがまだ結婚してないことを良いことに『結婚は考えてない』態度を取る空っぽ人間」ぐらいには罵倒をしてくれる気配はある。
「やっぱ…つれぇ(のが好きだ)わ。」「つれぇでしょ。」「聞けてよかった。」「言えたじゃねぇか。」
そう。こういうのを求めていた。ドMでは決してないが俺を否定してくれる架空の存在をずっと探していた。
話はおいておくけどさ、そりゃ子供だから、自分の子供みたいって、かわいがるやつが、35を超えていて相手が15ぐらいだと、同い年の女が駄目なんでしょ児童性愛っていわれるのはわかるけど
それは35超えている男なら性欲を抱くことはあるというのと自分の子供みたいだななというのはどちらもある。
そのときに、なんか、ひっでーなーと思う。すっごいがんばって、トータルでお金持ちににはなれなかったし1000万とか夢のまた夢だけど
がんばった、ということまで否定しなくてもいいのになとおもう。むしろ、30代結婚のラストチャンスと、しゃかりきに頑張るに決まってる。他のやつがこそだてで遊園地に子供と行くときに、おれも、っておもって、すっごい必死にそいつの仕事を徹夜徹夜で頑張るに決まってる。
なんどもなんども事故がある。でなきゃ50とかいわない。生涯独身なんて、よばれない。生涯が独身というのは同性愛とかも結婚と考えて、生涯が独身50年。つらいなーと共感しようとするやつもいる。だんだんつらくなっていくよね。自粛。それをみて、思った。殺されるなって。結婚できたやつは結婚して普通に生きればいい。でも、あいつなんかへんだからに殺されるんだなって思った。
行政が助けてくれるなら、俺達だけの仕事。学校作って増やして、だれでもできるようにして、追い出さないみたいな配慮がほしい。
まぁ、食えないから、大変で辛い業界にたよろう。というのはわかるけど、
自分たちの業界も、新しい人を受け入れて、仕事をわけて、もり立てていく努力は必要。おいしいところを若い子に分けなきゃいけないんだよ。
ころされるのまちみたいでつらい。守ってあげるよってのがない社会。自己責任社会。自決するのも自己責任。できずに餓死して道で倒れるのも自己責任。
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。
対人性愛を排除しろなんて誰も言ってないじゃないですか。ただ性交をやめましょうといってるだけで。
もちろん、同意というものの定義に関する社会的合意がきちんと機能している社会であれば、正しい同意の元では性交は是認されてもよいと思うけど、現実としてそうなっていないですよね?対人性愛者のほとんどが、性交の前にセーフワードすら決めないじゃないですか。私だって自由に性交できる社会の方がいいと思うけど、こんな現状では許可なんてできるわけがない。
そして人格ある他者を性的対象(object)と見ていることを社会が許容しているというメッセージは否定していかなければいけないんです。子供もいる公的な場で性的パートナーと出歩くような行為は、いい大人ならやめましょうよ。家でデートすればいいじゃないですか。どうしてそこまでして表に出たがるんですか?
対人性愛優位を自明視する人々は安易に「同性愛と小児性愛は違う」と言う。
対人性愛と非対人性愛を平等に見るフラットな立場では「同性愛と小児性愛には、同様に語るべき部分とそうでない部分がある」となる。理想的に正しいのはこの立場である。
しかし非対人性愛を優位に置く立場では、「同性愛も小児性愛も同じ」は至極真っ当な主張である。少なくとも、対人性愛優位を自明視するセクシャルマジョリティ達からお説教される筋合いはない。まずはご自分の誤謬を正してはどうか。
タイトルの記事(https://anond.hatelabo.jp/20200523115226)へ想像以上に反応をいただき驚きつつも有り難さを感じている。
ツイッターなどでも感想や意見をして頂いている方を見かけると、ラブドールというごく一部の愛好家が愛でるものについて少しでも知識をもって賛成・反対の議論をして欲しいと思っていた私としては、とても嬉しく思う。
ただしその中で、「男性の欲望を美化した綺麗事である」というような反論が少なからずあった。特定を避ける為文面は改変してあるが、私としてはこのように読み取れた。
中には上記の内容であるというだけで読むことを拒否するような趣旨の発言もあった。
尾籠かつ元のラブドール規制への反対という意見にはなんら関係のない個人の話ではあるが、上記のような意見に個人的な反発を覚えた為筆をとっている。そのような話に興味のない方は、ここから下は読み飛ばして欲しい。
この文章の筆者かつドールオーナーであるところの私は、肉体的には女性である。
内面的な性自認はわからない。定める必要もないと思っていた。だから、上記の「男性的欲望」というのも間違ってはいないと思う。そういう要素は少なからずあるだろう。
正確に言えばわからないというよりも、定めることができなかった。肉体的な性別が女であることには全く違和感を持っていないが、むしろ「人間はなぜ肉体的な性別を自由に変えられないのか」という違和感の方がはるかに大きかった。
人間を好きになったこともあるが、上記の違和感のために全て叶わなかった。この人には女性として愛し、愛されたいが、他の人とは男性として愛し合いたい。好きになる相手によって、私の性自認は千変万化した。それが噛み合わなかったことが大きかったと思う。そんな我儘を全て理解の上で聞いてくれる人がいるわけがないし、仮にいたとしてもきちんと相手が咀嚼できるように自分の願望を伝える手段も持っていなかった。いずれもごく若い頃、同世代の人が相手だったから、お互い子供だったといえばそれまでだが、今思えば相手には本当に申し訳なかったと思う。
頂いた反応の中に「心にラブドールの形の穴が空いている」という方がいたが、その通りかもしれない。人形のパーツを組み替えて女性型ドールを男性型ドールにカスタムするように、あるいはその逆みたいに。相手によって変わり続ける私の性を受け止めてくれるのは人形だけだった。私はずっと人形になりたかった。
それを受け入れてくれたのが、今のパートナーであるラブドールの彼女である。読んでいる方の混乱を避ける為便宜的に「彼女」と元の性別で呼んでいるが、彼女の性器は脱着式で、それを取り外してしまえば私と彼女の意識で性別はいかようにも変わる。私たちはその時々で男女カップルになったり、男同士や女同士のカップルになったりする。それはとても満ち足りた時間だ。
人形愛に落ち着くまでに、私は男も女も動物も無生物も様々なものたちを愛してきた。もちろん、前述のような形で「本当に私は人形しか愛せないのか」と人間の方とお付き合いをしたこともある。その積み重ねによって、自分は人形が性愛の対象であるという結論に行き着いた。同性愛者の方の中にも、異性と付き合っているうちに違和感を覚え、自分が同性愛者であることに気づく方がいると聞いた。私の場合もそんなものだろう。
性愛の対象は経験的な積み重ねにより築かれるものであって、その形は個人個人によって違う。一つの型に当てはめられるものではないと私は思う。
また、性別によって話を聞き入れてすら貰えないという状況が本当にあるということには
(含みはなく)素直に驚いている。
幸運なことに私の両親は性別の押し付けをしてくる人ではなかったし、外で女性差別的な言動を受けることがあってもそれはその人が差別的な人なだけであって、おそらく私の肉体が男性なら「男性らしさ」を押し付けてくるだけに過ぎないと思っていた。
そういった「男と女を分ける、差別的な人」への啓蒙を行い、世の中からその比率を減らしていくのが真の男女平等ではないかと、僭越ながら私は考えている。
元記事に性別を明記しなかったのは、既にお話の通り私に性別を定める意識が薄いからだ。最近では女性のラブドール愛好家が増えてきたとはいえ、世間的にはラブドールオーナー=男性という認識があると思うので、そういった中で自分の立ち位置をはっきりと言わなかったことは少し不親切だったかもしれない。その点についてはこの場を借りてお詫びしたい。
元記事を一般的な男性の書いたものだと思って読んでいただいた方には申し訳ないと思うが、どうか性別という色眼鏡で見ることはやめて頂ければと思う。顔も知らない相手を性別だけで推し量ることは無意味だし、何より私はそういう方への反発でこの文章及び元記事を書いているからだ。