はてなキーワード: 鬼畜とは
「障害児を生むのが恐い」氏が抱える問題は、障害児に対する考え方の問題ではなく、つきあっている恋人をどれだけ信頼し恋人から信頼されるか、本当はダメな自分をどれだけ愛してくれるのか、という愛情問題に起因している。もしかしたら将来自分は愛されないかもしれないという恋人との関係性が一番不安なのであって、そういう愛情に対する不安を「障害児が生まれたらどうしよう」という言葉で表現しているにすぎない。 だから、恋人との関係性が改善すれば、「障害児が生まれたらどうしよう」といった問題は自然と無くなる。
という意味で考えると、鬼畜馬鹿氏の議論がいかに的を外したトンチンカンな議論であったかがわかると思う。鬼畜馬鹿氏が敵意に近いあのような強い感情をむき出しにした理由は、おそらく「障害児を生むのが恐い」氏が抱いた恐怖感や自己否定感と似た不安感情をずっと持っていて、自分と似た部分を持った人が、安全であったはずの増田という空間でいきなり現れたことで動揺し、激しい嫌悪感を感じたからだろう。その心理は、はじめて鏡を見て興奮し敵意を表す子猫のような心理に近い。
そういう意味では、鬼畜馬鹿氏は「障害児を生むのが恐い」氏よりも可哀想な人だと思う。なぜなら「障害児を生むのが恐い」氏が抱える問題は、努力で解決できる問題であるのに対し、鬼畜馬鹿氏の孤独の深さや自己否定感は、努力で解決できるという保証は無く、精神病の臨床医でも簡単には治療することができない病理だからだ。(私は臨床医ではない。念のため)
まあ、いずれにせよ、障害児が生まれたらどうしようという悩みは、努力やちょっとしたアドバイスで解決可能な問題で、そう心配する問題はない。障害児が生まれたら、その時にふたりで話し合って考えればよろしい。大事なことは、「障害児を生むのが恐い」氏が、いま愛している人と真剣に愛し合うということだ。増田で書いたり読んだりする時間があるなら、愛する人のために料理の一品でも作る方が、ずっと早く確実に問題解決に近づくだろう。
ここ最近盛り上がっている、子どもを産むことに対するネガティブな言説を読みあさってしまったが
子どもを産むことは鬼畜の所業、馬鹿、親のエゴ、生まれない方がマシ・・・
そんな言葉の渦のなかで、私のお腹からまた一人子どもが生まれようとしてる
これらの増田には強く非難される鬼の所業だろう この増田に共感するとブコメしてた人たちにも
同級生のようなキラキラした20代を送ることができず、引きこもって鬱屈としていた
それこそ、生まれてきたことが間違いだと思ったし、自分みたいな人間は生きる価値もないと思っていた
その時すごく思ったのは、こんなに毎日死にたいと思っているのに、どうして自分はなかなか死なないのかってことだったんだけど
何度か自殺未遂を試みるんだけど、どうしてもうまくいかなかったんだよ
ネットで楽な死に方をいっぱい検索した。その手の掲示板に出入りして、死にたい人の集まりみたいなところで死ねない自分を嫌悪していた。
それなのに。
死にたいと思うのと同時に、「怖い、やっぱり死にたくない」って思ってしまう
死にたいはずなのに、どうして「死にたくない」って思っちゃうんだろう、だってこんなに生きることが辛いのに。
毎日朝起きることが絶望でしかないのに。今すぐやめたいと思ってるのに。なんでこんな矛盾しちゃうんだろってすごく考えた
本当にさ、自分が心の底から自分の意志で死にたければ、死ぬのが楽しみなはずだよね。
ワクワクして楽しみで、指折り数えて待っちゃうくらい。多少痛くたって怖くたって、気にならないくらい、楽しみなはず
でも自殺する人って、みんなためらい傷とかあって、死ぬのを周囲にほのめかしたりして、誰かに止めてもらおうとする素振りを見せたりしてる
「死ぬ」という選択は「よりよく生きること」が否定されて初めて生まれるものだから。
「よりよく生きる」「楽しく生きる」「生きていて心地良い」が実現されない、「だから」絶望して、初めて「死のう」となる。
生まれたことを賛美されなかった障害者は、死んだほうがいいのか
生まれてすぐ周囲から虐げられる被差別者は、死んだほうがいいのか
不細工は、性的不能者は、貧乏人は、部落出身者は、在日は、デブは、ゲイは、障害者は
生まれて来なければよかったんだろうか
命そのものが悪なのか
でも、その人の死を望んでいるのは本当は誰なのだろう
世の中でうまく生きられない人が死を望んだ時、
本当にその死はその人の自由意志で選択された死なのか
誰かに、「よりよく生きること」を阻害された結果の、「押し付けられた死」ではないのか
死ぬことが楽しみに思えない以上、私は本当は「生きたい」んだと、20代の私は気づいた
「生きたい」のに、毎日たのしく生きられない、生きるのが苦しいと思う。
「死にたい」んじゃなかった。私は、「よりよく生きる」ことこそを切望していて、それが叶えられないから苦しかったんだった
今、生きていること。
呼吸をしていること。
触れていること。
見ていること。
考え、感じていること。
ただただ、自分がそこに在るだけ。命そのものに、生きていることそれ自体、そこに絶望はないと思った
私の子が、もし生まれたことを後悔して、死んでしまいたい、どうして生んだんだと私を責めたら
生きることが辛すぎる、こんなことなら生まれたくなかったと、残酷すぎると絶望していたら
あなたの命は、悪も善もない、ただそこに在るだけではないかと言いたい
あなたが生まれたことを後悔するのは、生まれてきたからではない
あなたが「よりよく生きる」ために、私は努力を惜しまないと 一緒に苦しんで考えようと
「死にたい」と思うのは、「生まれて来なければよかった」と思うのは、「生きていたい」という切ない願いの裏返しだと
子ども本人には自身の出生を事前に左右する事ができなかったんだから、自身の出生自体を「鬼畜の所業」などと断定する権利はない。
彼らは「生まれてきたくなかったのに無理矢理生まれさせられた」のではなく、「生まれてから生まれない方がマシだと思うような酷い目にあわされた」のだから、恨むべきは産んだ親ではなくそこに被害感情をもつ余地はない。
親にはそもそも「殺して食わなくていいように子どもを作る」という選択はないんだからその理屈はおかしい
「俺自身は殺して食うように出来てるけどだからこそ子どものお前は殺して食ったりしなくてもいいように念じて作ったんだからそう出来あがってるはず、故に殺して食ってるのはお前自身の選択であり鬼畜なのは俺のせいじゃなくお前自身のせい、嫌ならやめろ」とか親が主張し始めたら受け入れなきゃなんなくなるじゃん
「子作りすんな」っていう主張じゃなくて、「子どもを作るのは鬼畜の所業」「生まれない方がいい」という主張
子ども本人が更に子どもを作るかどうかはその人のライフスタイルと思想信条に基づく自由についてという全くの別問題でありまるで関係ない
だから
原罪の概念を「殺して食う自分鬼畜」という反省に持ってくるのはまだしも
それは事前に防げなかったからです。
が
なぜ生まれたことが生まれた本人の責任ではないと主張できるのか?
それは生まれた本人自身には事前に防げなかったからです。
と書き変わるだけで、論理の根幹は変わらない。
増田の「鬼畜外道の所業」というのは「生まれた本人」の立場からしか発し得ない台詞なので増田自身にも同じ論理が適応可能で、だからこそ増田の主張は間違っておりアホ。という話に帰結するだけ。
殺されて食われたりしたら殺して食った奴を鬼畜だと思うわけであって
子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
はじめに言っておくと全面的に同意する。
ずっと自分も考えてきたことだった。
そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代を体現しているように感じる。
なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。
http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265
この人は比較的最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。
あとシオランは有名だよね。
話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。
快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。
話は簡単である。
現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である。
というか“社会は存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。
こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生は運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり「自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである。
しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。
もちろん、生まれたことである。
まずはこれがひとつ。
(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけである。しかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性・能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。
これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。
①個人化
③生活の具体性の消滅
最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間・時間を縮めることに専念してきたといえる。
少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。
あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。
「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。
ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである。
つまり「私」にも何ら内実は伴わない。
自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間や経験は、多くの現代人には得がたいものになった。
やがて人々は「私」にウンザリし始めた。
思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?
このテーマは近年になって伊藤計劃『ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道の所業の発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこの小説であった。
そのお二方にスターをつけたので書こうと思ったが文がまとまらなくなってしまったので要点だけ。とか言いつつやっぱ長くなった。すみません。
自分は「子供を作るのはエゴで鬼畜か馬鹿の所業である」は正しいと思っている。でも『それだけ』が真実だとは思っていない。
「子供を作るのはたいがいの生き物があまり深く考えんと概ねやっている自然な行為である」ことや、「子供を作るのは幸せで種族反映の目的に叶った正しい行為である」ことと同じくらい、当たり前に並び立って存在する事実なのだと考えている。
「エゴで〜」だけではこの世はただの地獄になってしまう。「たいがいの〜」だけでは人間が理性と避妊の概念を持った生き物であることと矛盾してしまう。「幸せで〜」だけではこの世に不幸や苦しみを伴う死が存在している現実を無視してしまう。
どれかひとつだけが正しいとか、これは間違ってるから除外しようとか考えてはいけないものなのに、そこを見落とすから立場の違う人を傷つけたり、価値観を押し付けて不快にさせることになってしまうんじゃないかと思った。
キリンが逆立ちしたピアスの人が「たいがいの〜」「幸せで〜」という繁殖の一面だけを押し付けられて不快になったのと、ブコメで元増田を非難してる人たちが「エゴで〜」という繁殖の一面だけを押し付けられて不快になったのは、まるっきり鏡合わせのように同じことが起きただけの話じゃないかな。
そういう意味でブコメの反応はある意味素直というか、元増田の主張を「子供を作るのはエゴで鬼畜か馬鹿の所業である。これだけが唯一絶対無二の事実である」とストレートに読んでいる(あまりに過激な文体なので脊髄反射でそう読んじゃった)人が相当に多いように感じた。
増田もおおもとの増田を子作り否定派だと誤読しているようだけど、それは読み違えで「子供を作るな、子作りは悪だ」という主張は元増田ではされていない。ただ「作るなら不幸の可能性から目を背けるな、正当化するな」「『それが出来ないなら』作るな」ということだけしか書いていないんだよね。
つか元増田って2chの「子供作る奴が一番子供のことを考えていない!」スレやその姉妹スレのまとめだと思う。親に産まなきゃ良かったって言われたとかの下りも実際は元増田の経験じゃなく、名無しの誰かがどこかのスレに書き捨てたことの焼き直しじゃないかと。特に後半は句読点の付け方や文体もばらばらだし。
http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
スルーまたはフルボッコされて終わりかと思ったらそうでもなくてびっくりした。
かなり自分の意見に近いのでブコメで納得できる反論を期待したけど、投稿者が馬鹿にされたり中二病扱いされたり心理分析をされるなど、「子供を作るのは良い、または普通」の価値観が前提になってて凹んだ。2013/06/14
「子供を作るのは決して当たり前ではない。産まないという選択もあるよ」というのは個々の人生なので構わないが、それがいきなり「子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。」となるのはどう考えても飛躍しすぎだろう。そんな元増田にたいして「自分の意見に近い」ということはあなたも子作りする人間は鬼畜で馬鹿と考えているのだろうか?
後段の「「子供を作るのは良い、または普通」の価値観が前提になってて凹んだ。」についてはどのブコメがそうなのか分からないが、少なくとも人気コメントに上がってきているものの中には、そういった価値観が前提になっているものは見当たらなかった。それ以外のブコメで散見されたということであれば凹む気持ちは理解する。
全部読んだ。子供を作ることは100%親のエゴで、子供のことなんて考えてない。変に子供を作ることを美化したり、正当化するなって主張。同意する。その通りだと思う。2013/06/14
これも上と同じで「変に子供を作ることを美化したり、正当化するな」と主張したいならそういえばいい話で、そうではなく「鬼畜、馬鹿」と言っている元増田に同意するのは飛躍しすぎでおかしな話だ。
生物学的な話はさておき、現代社会においては「子作り≠当たり前」というのは一般的な価値観となりつつある。そんな中で依然として残る子作りしない人に批判的な一部の意見に、子供を作らない/作れない人たちが反発したくなる気持ちはよくわかる。しかしid:tai21氏とid:Sion96氏の場合は反発が先鋭化しすぎて「子作り=鬼畜、馬鹿」(という元増田に同意してしまう)まで振り切れてしまっているところは問題ではないか。
元増田のような極端な主張に同意を表明することは、多様な生き方が認められるべきと考えている人間がとる行動としては矛盾しており、考えが足りない愚かな行為だ。
あなた方が子作りを否定する考えに同意するならば、子供を作らない生き方も同様に否定されても仕方あるまい。そんな社会で本当にいいのかよく考えて欲しい。
あるいはもし以上が私の思い過ごしで、「多様な生き方なんてどうでもいい。子作りはすべきでない」と考えた上でのブコメであれば、なにも言うことはない。このエントリは無視して欲しい。
元増田の意見は是非はともかく、子作りを否定している点において一貫しており、こんなことを考える人もいるのかといった驚きを感じた程度で、反論したい意見したいとまでは思わなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
懐かしい。
長いから失礼ながらちゃんと読んでないし、正直時間の無駄だと思いました。
そもそも正しいか正しくないかなんて基準自体が今の私にはよくわかりません。
自分が正しいと思ってたら正しいんだろうし、子供が欲しくないならそう思ってればいいと思います。
ただ生んだことを罵倒するには些か根拠が弱すぎるとは感じました。
(相手を鬼畜かバカだと断定するのは罵倒と捉えられても仕方ないと思います)
生まれた子供が幸せだと思ったらこの罵倒はどこにいくんでしょう。
この理論はその子供においては正しいとは明らかにいえないということになりますよね。
いつの世の中だって生きやすくはなかったはずだし、今だけが生き難いということもないのではないかな。
あと、未来のことをおそれるあまり何もできないと、死ぬ間際に後悔しそうで私は嫌です。
人に迷惑をかけずに生きることも結局のところ不可能なのだから、
生むのが親のエゴだということには同意しますが、そういう感情的な話を排除したら、生む事自体は
子どもというのは一人で生きられない時期をすぎれば親とは違う単独の生き物だと思います。
私が今どちらかというと貧しい生活をしているのは親のせいではないし、
学費返済の為に貯金がほぼ無いのも親のせいではない。
親は親という独立した個体で、私はわたしの好きなように生きていく権利をもらっただけです。
勝手な言い草ですけど、結局は親離れできてないのではないかしら。
産むかどうかではない。産まれるかどうかだ。
親は子を選べないというのは知覚概念で「産まれている」ことが前提だ。
産む産まないもそうだ。
既に産まれている。
子は親を選んで産まれてこれるかといえば否だろう。
気がついたら産まれているわけだ。
生まれなかったら気付くことはない。
皆気がついたときには地獄に落ちてきているわけだ。前世や他の惑星では知らんがこの地獄でどう生活するかその価値観は知らない。
これから地獄の住人を増やして寂しくないようにしよう。そんな風に考える生活もあるだろう。
生まれた子供のことはどうたらこうたら考えたり親がするものなのか。
自分が地獄に引き釣り込んだだれかというのは子供のことなのか。
そんなことは知らん。地獄の淵で這い上がろうともがいてつかんだら人の足だったって話だ。
産まれて来た子供だって自分と同じ処遇なわけだろう。どこからともなく地獄におちてきた。
親のせいとしたいところだが、何千年何万年と前からつながる連鎖の結果で自分が発生したという地獄の淵で足首のつかみ合いの結果自分も巻き込まれたって話だろ。
自分の親一代が何億年とつながる生命の連鎖反応を起こしたわけじゃないだろう。
親の親の親が産まなければ結果自分は生まれてこなかったわけだ。
産むかどうか考えて結果産んだり産まなかったりしてもいい。産まなければまた産まれなければ産まれてこないだけ。
地獄が終わるときには地獄に投下される人口もストップするだろう。それはせいぜい100年足らずしか生きられない人間のコントロールできるところではないだろう。
何億年と続いた地獄の釜の口が塞がりますとなったら産まれてこないだろう。
産むことが幸せや子供が愛らしいといった感情も自ら規制して「子供をまもるため」という理由で制限していっている。地獄の釜の口も狭まってきているのかもしれない。
なにをどう考えても産まれるときには産まれる。親が考えた考えてないとかいう人ひとりの抵抗で地球という地獄に抗ってもその勇気を称えられたり結果がでたりするものではないだろう。
産むかどうかとか知らん。どうでもいい。殺すかどうかとか盗むかどうかとか勤勉に励むかどうかとか友愛に勤めるとか知らん。どうでもいい。
ただどうでもいいけど結果なぜかしら産まれてきてしまったわけだろ。
人が人を産むのも人が人を殺すのも出来るわけだが人が人類の発生を停止させたり行動を統一したり人類を創造したりすることはできないだろ。
私たちが地獄を作っているとかいう大層な世界観ではなしに自分たちの生まれてから死ぬまでの経験すべてはこの地獄で起きてる悲惨な現象ということだけだ。
たまにいいことがあるからとか幸福なことがあるからとかいうこともあるだろうけどそれは親がつくってくれたものや人類が作り上げたものなのか。
地獄におちてきた自分がそこで見聞きした風景を語っているにすぎない。
つまりは幸福で満ちている世界ってのはここじゃないってだけの話だ。自分たちの幸せな子供が生まれるのだとしたらここじゃないってだけの話だ。
自分が生まれてくるのが幸福にあるのだとしたらここではないどこかだって話だ。
地獄の法則その1セクロスを執り行って肉を孕むという悪行をなしたものはそこに招き入れられる魂をこの地獄に引き釣り込むって話だ。
ほかにも地獄になんらかの形で落ちてきた魂を搾取すると呪われるため地獄に据付の植物しか食べてはいけないとか会則もあるぞ。
ということで世界は神の世界から鬼畜の世界までいくつかに分かれてそれぞれにシフトしたりとかいうオカルトとか妄想が古代から人間にはあるわけで今しっかり「生きることの不幸」を熟考しても気がついたら「それ先に考えて結果なんかほんのりいい感じに仕上げてるやつがいる」と洞窟を掘っていったら先住民の高度な文明を見つけるみたいなことになるので嵌まるなら先に宗教はどの系統にするか考えておけ。
うっかりマジレス。というか思ったことを忘れないためにメモというか。
前提。
子供産んだ。なんで生むか産む前に考えた。親にもいろいろ聞いた。
私個人は割とのほほんと生きてたタイプだから元増田とは全然違うだろうとは思うけど。
それだからこそ書いておきたい。
私は私のために子供産んだ。間違いない。子供いたら楽しいだろうと思って産んだ。
増田から見れば鬼畜だし、子供から見ても鬼畜になるかもしれない。(今のとこまだ鬼畜とは思われてないと思う)
だから責任もって子供を幸せにするために頑張ってる。子供にとって正しいかわからないけど、
わからないなりに子供の様子見ながら頑張るしかないと思ってる。
私自身は親を呪ってない。人生けっこう楽しいし、要するに現状を肯定しているから。
産んだことを特に感謝してるわけじゃないけど、大事に育ててくれたことは超感謝してる。
私にとっては真実じゃない。
私と子の関係においても(とりあえず今は)真実じゃないし、私と親の関係においても真実じゃない。
増田が言うとおり、不幸も鬼畜もそれぞれの人にとっては真実であり、可能性だ。
少なくとも私と親の関係のおいては可能性というより否定だと思う。今後の不幸は親のせいじゃなく私のせいだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
増田に書き込まなければそんな可能性は無かった。
あなたと友達になったことでその人が不幸になる可能性がある。だから友達を作るべきではない。
あなたがはなしかけたことでその人が不幸になる可能性がある。だから誰にも話しかけるべきではない。
「他人の人生を巻き込むな」って、
要は「誰にもかかわらず一人で生きろ」ってことだよね?
でもそんなのまず無理だし、つまりは「生きるな」って言いたいの?
勝手に産むのは親のエゴかもしれんけど、生まれた子供が生きるか死ぬかは子供の勝手。生まれてきたのが嫌なら勝手に死ねばいい。
子供は嫌なら勝手に死ぬことができるけど、親は嫌でも子供を殺すことはできん。死ねないのは子供の問題。
そういう意味では子供にとっては本来ほとんど勝ちしかないゲームで、どっちかっていうとギャンブルなのはむしろ選べない親のみ。
死にたい人は死ねばいいけど、生まれてきたい人がいるならその機会を与えられるのは親しかできん。
そういう意味では産むのはある意味義務のようなもの。子供が選択する機会を与えられたことに文句をいうのは筋違いのような気がする。
なので親が計画して子供を産むってのはエゴとか鬼畜からくるものではなくて親のみリスクを背負う方務契約みたいなものだから
本来途方も無い愛情からくるものになるだと思う。まあ初めから嫌なら生まないだろうけど。
というか死に恋焦がれているのになんで寿命による死を悪いことと捉えるんだ?
そもそも生きていない(生まれていない)状態は死だろ。生きてなけりゃ死んでんだよ。希望が叶うならば自分は苦楽ともに生きることに十分満足して寿命とともに死にたい。もしくは勝手に死にたい。寿命がなかったら元増田が恐れている自殺をしなきゃならんのだから寿命という機能が付いていることは人によっては制限だろうけど、考えようによっては人生に潤いと安心を与えるプレゼントみたいなもんじゃないかな。
ちなみにあえて増田の論法に沿うと、人によっては子孫はある意味では自分の一部になるので、人によっちゃ子供を産まないのは親殺しの親不孝や自殺と同意義。増田の通り生きるも死ぬも自由だよね。けど生きたい奴を無視して産むなと言って、死にたくない奴に死ねというのはこれも不条理。産むなは子供の都合。そもそも死ぬ思い切りも持ってないからどんなに勝ち目が有る賭博でもなんでも出来ねえと思うんだよ。
結論としてエゴといや親のエゴだろうけど、子供に取っては機会が与えられるだけで本来win-winの関係になってエゴの押し付けには成り得ないだろうと思った。まあ反論が書きたいだけで少しはわからんこともないのは確ちゃ確か。
「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」という暴力 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
障害児を産むのが恐い http://anond.hatelabo.jp/20130613094716
両親が子供を作れば、子供は生まれてきて様々な体験をする可能性があります。
子供がどうなるかはまったくわかりませんが、それを作るかどうかを最終的に決めるのは両親です。
作りたければ作ればいい。作りたくなければ作らなければいい。
子供を作る人たちの多くが見落としているか軽視しているであろうと思われる、子作りに対する「ある観点」。
これは子供を作る上でしっかりと念頭に置いた方が良い重要な観点であると思われます。
この増田を読んで何か思う事がありましたら、自分なりによく考えてみると良いかも知れません。
特に将来子供が欲しいと思っている人は、事前に考える機会があっても良いかと思います。
というわけでこの増田は、読んだ人に考える切っ掛けを提供するための増田です。
よ く 考 え て く だ さ い。
また、どんな目に遭う可能性がありますか?
想定出来る事だけでも不幸苦痛の雨あられですね。
想定外の不幸も起こり得る事をお忘れなく。
本当にそうでしょうか。よ く 考 え て く だ さ い。
生まれなければ、それらを 全 て 回 避 出 来 ま す。
どんな場合でもハッキリ言える事は、
親が産まなければ子供もそんな目には遭わなかったという事。
親 は 直 接 の 原 因 だ ろ う が。
この問題から逃げないでください。
何故子供が欲しいのか、よく考えてください。
考えればわかりますが、全 て 自 分 の 都 合 で す。
即ち、親の目的は己の利益。利益を得られるかどうかは運に依存する。
賭け物は子供。
要するに、子供(賭け物)を用意して利益を得ようというのが子作り。
賭けに勝てば(運が良ければ)親は利益を得る。
賭けに負ければ(運が悪ければ)親はその身を削る事になる。
(当然、勝ちとも負けともつかないケースもある)
(当然、勝ちとも負けともつかない人生もある)
この博打の性質として、一つ目の博打も二つ目の博打も常に絶えず打ち続ける事になる。
その博打を打つ点(つまり人生)が無数に繋がり線となったものが人の一生である。
せめてこれ位は理解した上で子供を作るかどうかを決めるのが望ましい。
そして、実際に交尾をして作るわけだ。
では仮に、とてつもなく幸福な気持ちで生き、幸福なままの気持ちで死ぬ可能性が90%、とてつもなく不幸な気持ちで生き、不幸なままの気持ちで死ぬ可能性が10%の人生があるとする。
交尾によって子供にこの人生を負わせるとした場合、親は子供が幸福になる可能性を容認すると同時に、子供が不幸になる可能性も容認している事になる。
可能性を容認するという事は実際にそうなる事を容認するのと同義であり、親は『子供が不幸になる事も容認した上で』子供を作っているのだ。
その辺は理解出来るよな?
例えば、日本人の1/3はガンで死ぬ。日本人の男女が子供を作る場合、その男女は「自分の子供がガンで苦しみ抜いて死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えば、人間は必ず死ぬ。どこかのカップルが子供を作る場合、そのカップルは「自分の子供が死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えばこの世では、病気、障碍、事故、犯罪、災害など様々な危険が降り掛かる可能性がある。
子供を作る者は、当然の事ながら「自分の子供が病気になっても、障碍者になっても、事故に遭っても、犯罪に遭っても、災害に遭っても良い(仕方が無い)」
と思って子供を作るわけだ。
「子供が欲しい」という親のエゴを充足させるために、膨大な危険を子供に「無理やり」背負わせるのだ。
子供への思いやりが無いからこそ、こうして子供を作る事が出来るのである。
別に法的な話をする気はない。
出産というのは、相手が死ぬとわかっていながら子供を作る行為だ。
生まれてすぐ死のうと80年生きてから死のうと、人の死ぬ原因が「両親がそいつを作ったから」であるのは確実だ。
事故で死のうが事件で死のうが病死だろうが災害で死のうが、そもそも死ぬのは「両親がそいつを作ったから」。
人が殺された時って「殺した犯人」が非難されるが、そもそもの問題として「親が産んだから」子供は死ぬ。
出産というのは殺人よりも根本的な意味に於ける人殺しじゃあないのか。
人が何らかの理由で死んだ時、その理由というのは死の時期を決定するものだ。
だが、親はその時期に子供が死ぬ事も容認して子供を作っているはずなので、親が犯人を責める事は出来ない。
そして、子供に死という結果そのものを喰らわすのは他でもない親だって事。
「人生(子供にとっては非常にリスクの大きなギャンブル)」と「死(これは確定している)」。
この2つを他人に無理やり押し付けるのが子作りなんですよ。
それが善いとか悪いとかではなく、「わかっててやってんの?」って言ってんの。
わかっててやってるなら私は「鬼畜」だと思うし、
そんな事すらわからずに子供を作ってるなら私は「バカ」だと思うのね。
「子供を作りたいから作る人」に対して私があれこれ言う事は出来ません。
しかし、「子供を作る事を正当化しようとする人」については批判します。
どんなに悲惨な状況であっても
その通り。逆に言うならば、
どんなに恵まれた状況であっても
それを不幸に感じる子供も居るかも知れん。
「子供が不幸になる可能性」とは、
エゴですよ。
ここではそういう話をしているのだ。
まず「不幸」の定義をはっきりさせろ。
「本人が不幸だと感じたら不幸」だ。
本人の主観に依存する問題なので、細かい定義をする事自体がナンセンスである。
強いて言える事があるとするなら、不幸とは「絶望感」に苛まれている精神状態である。
絶望感に対して積極的な気分で向き合えないのなら、それが「不幸」だ。
つまり、「本人が不幸だと感じたら不幸」という事だ。
将来設計も無計画で、自分たちに子育ては困難なのも知っている。
だが、一時的な感情の高ぶりを抑えるのが生まれつき苦手で
他人への迷惑行為は抑えられないような「人間味」である場合が多い。
「子供でも産めば何か変わるかもしれない」という
手っ取り早い一人前扱いにすがる。
ようするに「母親になるという大いなる名目」を周囲に突きつけることで
これは「親になれば一人前」という風潮を作った社会にも責任はある。
駄目だった奴の遺伝子で頑張らなければいけないのだから子供は楽じゃない。
いくら期待をかけても、結果も親そっくり。
子供は自分の所有物という意識が強く、自分の為に子を利用するタイプ。
自分の趣味を押し付けたり、芸能界に入れて下品なことをさせる親もこのタイプ。
彼らが愛しているのは子供ではなく、個性的なパパママを演じている自分自身である。
上記のような理由だけではかっこ悪いから
社会貢献などを持ち出して、さも自分が先見の明があったかのように装い
という問題は「考えると暗くなる」と不問にし、
「子は親を選んで生まれてくる」と思っているタイプ。
なぜ時空を超えるほどの存在が、極めて人間臭い修行に励むのでしょうか?
人間でさえ「罪を憎んで人を憎まず」と言っているのに
何もしないだけでゴミのように扱われ、自殺するのすら苦痛を伴う
頑張ってこの世で生きていく道を選んだとしても
最期は大半の人間が病気やなんやで苦しみながら死に、それまで築き上げてきたもの全てを失う
こんな苦行みたいなもんに自分たちの都合で強制参加させる親は自己中
自分たちの幸せのことだけで、子供のことなんてまったく考えていない
でも、いざ生きていく事に耐えられ無くなって来て生きるの辛いねといえば、みんなはもっと辛いんだ甘えるなと返される。
別に成長して行く子供も守られてる訳ではなく誰も助けてはくれない自己責任。
でも誰もが何時も子供を守ってると言うしそれが正しいと思ってる。
助けを求めれば当然誰も助けてはくれない。
支えてる振りして子供を操ってるのと、何もしてないのに守ってる恩を与える。
親には、なぜ、私を産んだのか。何度も聞きました。
その理由が私にとっては納得のいくものではなくて、余計に腹の立つものでした。
傷つける気持ちがあったというより、腹が立ったので言ったんだと思います。
そのあと、あんたが産まれてくると分かっていたら産まなかった。
とも言われました。
自分だけを食わせて生きいる強さのある人間は凄いなあ。と思います。
そういう人が、何を思って生きているのか知りたい。
そもそも子供を産まなければ何も起きなかった
頼んでもいないし産む必要もない
親を責めないことでちょっとでも自分の評価を高めようという姑息な考え?
この世界の地獄っぷりは日々ニュースでも目にしてるはずなんだがな
自殺スレをまわって少しでも苦しまずに死ぬための情報を集めてると
心底怨みがこみ上げてくる
親が産まなければこんなことしなくても良かったのに
「どうして私の子がこんな目に」
という場面をテレビなどでよく見かけるが理解出来ない。
”こんな目に”あう可能性が充分ある世界という事は既に分かっていたはず。
何も不思議じゃない。普通に想定出来る範囲の悲劇が起きてしまっただけ。
運が悪い?そうだな。この世界に生まれた事が既に運の尽きだ。
”どんな目にも”あうかもしれないという事を想像、覚悟するべきだ。
でもこれらを全て受け入れて
それでも産もうとする人間なんてそれこそ、理解出来ないけどな。
・そういう考えはネガティブ思考だ
・人間苦労して成長する
・こんなこと言う人は頭のネジが足りないんじゃないの
・うつ病じゃないの
と、偉そうなことを言うのである。
「どうして私の子がこんな目に」
「どうして私がこんな目に」
とこうである。
子供を作ったやつがその人生で苦しんだとしても同情することない。
「ポジティブ思考で苦しんでください」
「人間苦労して成長する」
と言ってやればいい。
いつ子供に自殺されても「親不孝」などとは決して言わないで欲しい。
自分の意思以外で産まれてくるのだったら、せめて不幸になった場合は
親はそれをたまに起こり得る「織り込み済み」のこととして納得してください。
子供が自分で死ぬ、これもまた自然のうちだと認識してください。
生きる事は辛い。死ぬ事も辛い。
両方とも辛いのだから、現時点でマシな方を取ればいい。
「死んだ方がマシだ」と思うようになるまでは生きる。
最期までそういう風に思う事が無ければ自然死するまで生きてもいい。
それで何の問題も無い。
生きるも死ぬもクソだが、マシな方を選べばいい。
生きる事が素晴らしいと思えるならば、そう思っても別にいい。
ただ、言える事は、
生まれて来たヤツが人生をどう捉えるようになるかはわからない。
人生を肯定出来るヤツになるかも知れんし、
子供を作るという事は、「生まれる子がどっちになるかはわからないけど取り敢えず作りますよ」という事だ。
何故作るかと言えば、それは「作りたいから」。つまり自分のためだ。
この事を変に美化しようとするから、子作り賛美の醜悪な風潮が出来上がる。
美化などしなくていい。
「子供がどうなるかは知らんが、俺は子供が欲しい。それだけだ」
子供の事を自分よりも優先させたければ、子供を作らなければいい。
この「子供を作らない」という事に関しても、自分がそうしたいからそうするだけだ。
その点が異なる。
と言ってるだけで、これは紛うことなき事実で真理だろ?
どんな心理でか考えて見ればいい。
の都合しか出てこない。
子の為に子を作るんじゃなく、自分の為に子を作るんだ。
そこには別に善も悪もないし、求めてもいない。
子供を作るなと書いてる訳でもない。
これがあるよね、ってだけだ。
それだけ
矛盾が無い否定論を正しいと見て置き、作りたい馬鹿は勝手にすればいいだけ
不条理も込みでね
まず、晩婚・晩産に歯止めはかからない。社会的に環境が整わない上男に覚悟ができないのだから歯止めがかかるわけがない。未婚化は進むかも。
そして欠陥が判っていて政策が通った場合、同時に「政策を通した=国民としてその政策にある程度合意した」と見なされるため、「合意したのだから協力しろ/合意したのに非協力的だ、我がままだ、独善的だ」という批判が成立する。晩婚・晩産を国を挙げて止めようとしているときに流れに逆らう者が叩かれない理由はない。
女は必然的に流れに従うか或いは逆らうかに分類されるが、男はそもそも流れの渦中にすらいない。
>まず、晩婚・晩産に歯止めはかからない。社会的に環境が整わない上男に覚悟ができないのだから歯止めがかかるわけがない。
なんで断言できんだよ。お前は預言者か何か?お前の中では、晩婚・晩産の原因は「社会的に環境が整わない」と「男に覚悟ができない」”しか”ないんだな。ある現象が起こるのはいくつもの原因があって起こると思うんだけど。俺が思うほかの原因は「適齢期の無知」な。俺だって「適齢期の無知」が改善されれば、晩婚・晩産が”すべて”解決されるとは思ってない。原因の”ひとつ”である「適齢期の無知」を解決すれば好転(=歯止めがかかる)するかもと思うから女性手帳を支持しているだけなんだが?
>「合意したのだから協力しろ/合意したのに非協力的だ、我がままだ、独善的だ」という批判が成立する。
>晩婚・晩産を国を挙げて止めようとしているときに流れに逆らう者が叩かれない理由はない。
晩婚・晩産した人は勝手にどうぞ。不利益を被るのは自分だし、高齢出産で苦しんでいる人を叩くような鬼畜な人間はふつうはいない。
かっこつけただけじゃん。説明になってない。
全く同じことがお前の「僕は上から目線だとは思わない」に対して言える。
客観的事実とは「そう思う」人数が多いから客観的事実なのではない。「上から目線」とはある特定の不利益を黙殺する態度のことであり、ある特定の不利益の黙殺はすべて上から目線である。これは誰がどう思うかで変化することではなく、論理的にそうなのである。
>全く同じことがお前の「僕は上から目線だとは思わない」に対して言える。
知ってるよそんなこと・・・。そんなわかりきったことわざわざ書かなくていいから。
>客観的事実とは「そう思う」人数が多いから客観的事実なのではない。
客観的事実とは「”みんな”がそう思うこと」って書いただろ?なぜ”人数が多い”に変えた?おまえわざとやってるだろ。
>「上から目線」とはある特定の不利益を黙殺する態度のことであり、
どこが論理的なんだよ。「私がそう思うからそう」って言ってるだけだろお前は。
何も変わらない。「不適齢期だから子どもを産むな」という従来の学校教育に対立する「適齢期だから子どもを産め」という女性手帳の内容、という対比にすぎない。
気に入らないなら「適齢期に」と読み替えても良い。
「適齢期だから子供を産め」→適齢期になったら有無を言わず子供を産め
「適齢期に子供を産め」→子供を産むとしたら高齢ではなく適齢期に子供を産め
何が変わらないんだ?
年齢は責任が取れないことの理由にはなっても責任が取れることの保証にはならない。
適齢期に責任が取れるようになっていなければ産みたくても産めずおしまいだし、実際責任が取れるようになっているかどうかは誰にもわからない。どうすれば確実に責任が取れるようになれるかさえわからない。
>適齢期に責任が取れるようになっていなければ産みたくても産めずおしまいだし、
>そのルートを提示することができないのならばそれは教育足り得ない。
議論というのは授業において、子どもたちが「適齢期に子どもを産む」という解に辿り着くには「どうすればいいか?」を検討する議論のことだ。
先述した通り女性手帳の内容と現在の性教育内容とは真っ向から矛盾するので、授業で深く掘り下げて取り扱うことはできない。元々の設問が悪すぎる。
>先述した通り女性手帳の内容と現在の性教育内容とは真っ向から矛盾するので、
女性手帳の内容→子供を産むとしたら高齢ではなく適齢期に子供を産むのが望ましい
現在の性教育の内容→子供を養えないのなら子供は産むな、つまり、養えるようになったら産んでよい
合わせると→子供を養えるようになったら、高齢ではなく適齢期に子供を産むのが望ましい
「知りたかったのに教えてもらえなかった」とまで他人に責任転嫁する者がいるんだったら喜んで言ってやる。
お前は代わりに性的マイノリティに向かって「年をとると子どもは産めなくなる。これ特に女性は絶対知ってなきゃいけないこと」と吹聴してこい。
>「知りたかったのに教えてもらえなかった」とまで他人に責任転嫁する者がいるんだったら喜んで言ってやる。
おし、言って来い。テレビのドキュメンタリーで見たからな。「ネットを検索すれば情報を得ることができたのだから、それをしないのは自己責任。たとえお前が高齢出産で苦しもうと、受け身であったお前の自業自得」ちゃんとこう言って来いよ。
お前、負けず嫌いだなあ。悔しいから俺が言ったことの文字を入れ替えて反論してんの?違うというのなら、自分で言葉で反論してみろ。
あと、お前は論破した気になってるけど、してないからな?無駄に堅苦しい言葉を使ってそれっぽく論じているだけで穴だらけ。ところどころお前の思い込みも見られる。