はてなキーワード: 舞踊とは
…?ん?イクニ?
と思ったら、当然の様にイクニだった。
イクニは色々溢れ出しすぎなんだよ。
面白いといいなあ。
クマのやつは見れたんだけど、ペンギンのやつは見れなかったからなあ
(ウテナは勿論見れたんだけどな)
これはどうかなあ。
追記:もしかして幼児向けなのか?まあ、どの層に向けて作ってるってのは無いだろうけども。
考えてみればイクニ作品の支離滅裂さやキャラの決り文句・ギャグとかは幼児向けアニメそのものなんだよな。
幼児向けであってもちょっと難しい言葉使ったりするのはよくあるし。
ジャパリパークはIQ溶かして眺めるもんだけど、さらざんまいは4歳児になって見るものかもしれない(他のイクニ作品全て。ウテナは男装王子とお姫様、クマやペンギンは動物キャラなんだから幼児向けとしてはテンプレだよなあ…)
あと、シャフトの演出とかは妥当性や説明性があるんだけど、イクニのは凡俗の理解を超えているなと思う。
イヌカレーの方がよっぽど「なるほど」感があるけど、イクニのは…「お前、やりたいようにやりすぎだろ」ってとこだ。
一人で制作してるのかと思わせるふしがあるわ。
つーか、歌い出したぞ…。オイ。
京騒戯画とか有頂天家族と比べる感じか?と思ったけど、たぶん全く違うジャンルだ。
どっちかっつーと、つり球の方が近いだろうか?
まあ、幼児アニメに仮託したアナルアニメだと思う。尾籠なのも幼児向け。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90_(%E6%AD%A9%E8%A1%8C%E6%B3%95)
まあ、ぶっちゃけこれだけ読めばいいんだが。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/japanbujut.exblog.jp/21221813/
ナンバの厄介なところはそもそもナンバの定義がされていないことだ。
「いやナンバは手を振らない歩き方で…」
「重心の移動が…」
「地面を蹴らない歩き方だ…」
「いや真の○○はそういうものではなくて…」とヌルヌルと形を変えて逃げてしまう。
ここではこの論文を参考にしよう。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181119154744.pdf?id=ART0009639792
武智とは演劇評論家の武智鉄二のことで、「ナンバ論」の元祖のような位置づけであることが分かる。
この時点で「歴史学とか民俗学とかの研究者ですらねえの?」って感じだけど。
ナンバというのは、農耕生産のための全身労働においてとられる姿勢で、右手が前に出るときは右足が前に、左手が前に出るときは左足が前にという形になる。
ナンバとは右足と右腕をそろえて前に出したいわゆる半身の構えのことで、簡単に言えば、農夫が鍬を手にして畑を耕す姿勢である。
これって「踏ん張りの効く姿勢を取るときは利き足を前に出す」ってだけの話じゃん?
西洋人だって鍬を振ったり剣で斬ったりするときは「半身の構え」だよ。
ナンバの姿勢を説明するときに、よく、右足が出るとき右手も前にだす、というように説明される。しかし、これは正確ではない。
日本民族のような農耕民族(牧畜を兼ねていない)の労働は、つねに単え身でなされるから、したがって歩行の時にもその基本姿勢(生産の身ぶり)を崩さず、右足が前へ出るときは、右肩が前へ出、極端に言えば右半身全部が前へ出るのである。
しかし、このような歩行は、全身が左右交互にむだにゆれて、むだなエネルギーを浪費することになるので、生産労働の建て前上好ましくない。
そこで腰を入れて、腰から下だけが前進するようにし、上体はただ腰の上に乗っかって、いわば運搬されるような形になる。
(中略)
まあ「江戸時代は草鞋や下駄だからそれに合わせた歩き方だった」というなら分かるけど、
「ナンバは疲れない、現代人の歩き方はダメ」みたいな話にはならないよね。
飛脚って利き手で荷物を持ってるから、常にそちらの手を前に出す形になっているわけで、
増田トラバーの方々とかぬかしてるけど、長文でマウンティングかましてるのは全部俺だぞ。
それはいいとして、元増田の疑問や問題意識にはあまり響いてないようなので、少し切り口を変える。
【伝統】
様々な試論はあるが俺個人の考えでは、いくつかの文化が政治的経済的な諸々の要因と分かち難いレベルで結びつき、民族という単位でまとめあげられたものが伝統と呼ばれるものの正体なのだと思っている。
便利だから続けているライフハックの類は習慣と呼ばれるが、こちらには民族的な色彩はない。
伝統はそうではない。伝統は自らの民族を語る上で欠かせない要素であり、我々を我々たらしめるものだ。
そして我々と彼らを分け隔て、区別する為のものでもある...というのがギリシャ時代からの人々の認識だ。
しかし、伝統とは漠然と存在するものではない。あくまで異文化と接触して、彼我の違いを知り、
その違いこそが我らの唯一無二の価値だと見出すことなしには伝統という名を冠す事ができない。
だから、常に伝統は危機に晒されている。文化は戦争だ。負けたら我が民族の権威が失墜する。
そんな政治的経済的文化的な理由で弄ばれてきたのが伝統の正体なんですよというのが輪島さん達の考え。
そこまでは元増田も正確に読み取ってるなと思ってる。
「伝統は良くも悪くも我々の根幹に関わるものである」というある種の信念ではないかい?
というのも、実際にそういう人達にスポイルされた悲しい伝統というものが古今東西あって、
その問題提起が例の本だったと思うんだよな。
バルトークという作曲家がいるのだが、彼は作曲家であると同時に民俗音楽研究家でもあった。
今にも失われそうな子守唄、労働歌、踊り、気晴らしの遊びや口説き歌など膨大な歌と音楽や舞踊を採譜した。
それらの蒐集とそれぞれの作品の分析を通じて、民族の音楽とは何ぞやというテーマを深く掘り下げ、
彼らという民族を民族たらしめるものを特定し、伝統という名のバトンの受け渡しの大きなうねりに作曲家として、愛国者として身を投じようとした。
バルトークの作品群の中でも編曲作品は明らかにこうした政治的意図を持っている。
しかし、彼の音楽研究は結局の所、労作であるハンガリー民謡を読めば分かる通り、うまくいかなかった。
暗雲立ち込める祖国の中で閉塞感を感じ、積極的に行ってきた民謡の蒐集からもやがて興味を失い、
音楽的ひきこもりといえるような苦悩を臆面もなく吐くようになってしまう。
追い討ちをかけるように、愛国者バルトークはハンガリーウヨからもルーマニアサヨからも批判される事態に陥る。
ネットで「最低」「見所がない」って言われてても、なんとなくユルく面白く見ることができてしまう。
ちょいちょいここは面白いな、って思える部分が見つけられたりする。
キャラの立ちがよかったりとかね。
もちろんクソ映画はクソ映画なので、テンポとかは尺稼ぎで死んでるし、セリフも
「サメ討伐隊に連絡を!今すぐ出動だ!」
「海中サメ濃度が上昇中!」
「そうだ!海中サメ濃度が上昇しているんだ!」
「どうすればいいんだ?」
「わからないわよ!そんなの!」
「サメ討伐隊だ!」
「サメ討伐隊に連絡を!」
みたいな感じになってるので大変なことになっている(ある程度誇張してますがやりがちな手法です)。尺稼ぎやめろや。
多分名作映画をちゃんと観てないから感性が死んでるんだと思う。
名作映画ちゃんと観ないとつまらないものもつまらないと思えないのかな、と思ったりする。
それでもクソ映画好きだよ。実写版デビルマンとかも観たよ。全編通して無だったけど。
初めは彼女も死亡フラグビンビンなんだけど、主人公たちが「私たちも鮫退治を手伝うわ!」って言い出してテレビの前の我々が「なんで?なんで?(ダイナミックコード感)」
ってなってる中、「バカじゃないの?」みたいな感じで至極正しい感性で愚痴っている。
「彼女は自分の身を守ることがうまいのよ」みたいに言われていた部分に自ら向き合っていくのが凄くよかった。
この映画、登場人物のキャラが凄く立ってるので、そこに魅力を感じられるのが良い。これだけは他のレビューとかでも共通してる意見なのでやはりここは面白い部分だと思う。
ただ、一個気になったのが
「シャークトパス」とおんなじなのが気になった。サメ映画のメッカかよ。
【追記】
それをちょっぴりやって見せるだけでフラフラフウフウしててまともな人だとは思いません。
ところで黒田鉄山という名前が出ましたが、あの人は甲野善紀さんとは似ても似つかないです。
あの人はビシーーーッとしてます。
あの人が刀で斬り合いをしてどれぐらい強いのかは知りませんが
まともな体系の稽古を毎日やってる人であるのは間違いありません。
運動家としてちゃんとしてますし、舞踊として見ても大変に美しいです。
あれほど明確にモノが違うのにあなたの中では2人は同列なんですか?
黒田鉄山さんと甲野善紀さんの動きのあれほどの違いがわからないならもう何とも言いようがないんですが
たとえば横に一歩ステップ(って言葉は武術的じゃないんでしょうけど)しますよね。
黒田鉄山さんは余計なモーメントが全然無いんですよ。滑らか。上体は固定されてる。腰の高さもピターッ。
甲野善紀さんは余分だらけで行き過ぎて戻る体重移動があります。状態もフラフラ。腰も上下にゆっさゆさ。
それ以前に運動習慣っつーか、足腰の柔軟性や必要な筋肉すら養われてないように見えますよ甲野さんは。
出処が幾分かはっきりしてる甲野さんの方に注目が集まるのも無理はないわ。
由緒正しいなんかの宗家なんですか?それはしらないけど。
でもほんとかな?
歌舞伎の御曹司なんかは滅茶苦茶稽古するので動きがしっかりしてますよね。
そういうの全然無いんですけど甲野さん。
そのおじいさんのことはみたことがないので別に否定しませんが。
あれに疑いを持てない人と言うのは何かのスポーツを自分で考えながら必死に打ち込んだ経験のない人だと思います。
柔道とかボクシングとかレスリングみたいに筋肉や心肺機能の上に技がある世界の苦しい競争を避けて
なんか神秘的な技術で軽々とそういう人達の上を行きたいっていう邪念が動機としてかなりありますよね。
逆にあなたは何発想で言ってるんですか?
私も中学生の時に、現代体育よりずっとうえのすごい技術にアクセスして
現代体育で頑張ってる人を吹っ飛ばす超人になりたいと夢見ましたよ。
でもそういう甘えた考えを成人しても持ってるのは幼稚です。
「現代体育的な発想で言ってない?」とか言って何の根拠もなく見下しますけどね、
あなたは現代体育に身を投じて切磋琢磨し凌駕したうえで現代体育を見切ったんですか?
違うでしょう。
あと古流派を体験してたから分かるけど、剣術の甲野善紀先生が見せたような「体術」としての側面はスポーツに応用されるべきでしょ。
私はNHKに出てきたの見た限り甲野善紀さんをインチキさんだと見ています。
何故か?
・動きがヨタヨタしている
・ちょっと動いてみせるとフウフウ息が切れている
からです。
甲野さんの動きは何かについて毎日ハイレベルの練習をしている人の動きでは有りません。
その技術体系の優劣が問われるのであって、
凄く大雑把にいって、
「運動家としてちゃんとしている」という土台の上に、
土台が酷いのは私でもわかるんですよ。
逆に
ちゃんと運動したことすらないんじゃないの?と思っちゃいます。
足をドシンドシンてればパンチ力がつく、って説明に疑問を持て無いのも
「今あるもの(過去の名人とされる李書文の現代に伝わる逸話や説明など含め)は全部本物と違うインチキ」
といわれたら
歌舞伎…無形文化財に指定され、歌舞伎座の1番良い席は2万弱もする。(舞台の完成度としては、2万弱を払ってもいいくらいの価値はある)昔は、庶民の娯楽であったが、今や日本が誇る伝統芸能。娯楽ではなく芸術である。
しかし、観客に芸術を観るマナーが備わっていない。「オホホ」と高らかに笑うような高貴な人であれとは言っていない。普通でいて欲しい。しかし、高齢者にはそれが通じないということが歌舞伎を観に行くと身に染みてわかるようになる。
演劇・音楽・舞踊…と様々なジャンルの舞台を観てきたが、歌舞伎が断トツで最悪である。それは高齢者が多いから。居眠りはしょっちゅう見かける。しかし、居眠りくらいはどうでもいい。ビニールのガサガサ音から始まり、隣の人とのお喋り、携帯を鳴らす、携帯のディスプレイ確認、挙句の果てには上演中の写真撮影。マナーという以前に犯罪である。サルでもわかる。
もちろん、熱心なファンはマナーの良い方ばかりであるが、特に関心もなく来て(友人の誘いなのかバスツアーだかなんだか知らんが)場を荒らすような老婆たちがどうしても目立つ。一切物音を立てるなということではない。しかもこのご時世、学生のほうが明らかにマナーが良い。「最近の若者は」というあの定型句はもう使えない。
結果、こんな老害のために私は今日も税金を払うのかとやるせなくなる。歌舞伎座は華やかな世界である一方、日本の闇を見る事ができる場所。この世の終わりが近い。
和製ミュージカルアニメというと「練馬大根ブラザーズ」や劇場版クレヨンしんちゃんの同時上映短編「私のささやかな喜び -A motion for a long time.-」があり、最近であれば「スペース☆ダンディ」第17話が記憶に新しい。
しかし2015年秋、「ミュージカルアニメ」を公式に標榜するオリジナルアニメが同クールに2作品放映される事態が起こった。これら2作品は10月の初回放映時に最初からクライマックスといわんばかりに強烈な自己紹介ソングを披露し、多くの視聴者にその世界観を知らしめることになった。
これを受けてTwitter上や両者を配信する動画配信サイト上では「今期2大ミュージカルアニメの1本目、2本目」扱いや「\サティスファイッ/」、「イケメンエスカレーター」等の声だけでなく「○○が光のミュージカルアニメなら●●は闇のミュージカルアニメ」といった、両者の属性を対比する声があがった。
2作品ともややすると女性向けっぽい絵柄や雰囲気を醸し出しているのは共通しているが、乱暴な言い方をすれば「スタミュ」がドタバタ青春もの、「Dance with Devils」がダークファンタジーと、その作風は大いに異なる。
そこで、今のところ両者を楽しめている一視聴者がこの2作品の気になる共通点・相違点をざっくりまとめることにした。Wikipedia等からの引用あり。敬称略。
スタミュ | 比較項目 | Dance with Devils |
---|---|---|
2015/10/6 0:00- | 地上波最速放映日時 | 2015/10/7 23:30- |
ひなた凛 | 原案 | 岩崎大介 |
ハラダサヤカ | シリーズ構成 | 金春智子 |
C-Station | アニメーション制作 | ブレインズ・ベース |
Ken Arai | 音楽 | Elements Garden(藤田淳平、Evan Call) |
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン | 音楽制作 | DIVE II entertainment |
漫画、Webラジオ(音泉) | メディア展開 | 漫画、ゲーム、リアルミュージカル、Webラジオ(アニメイトtv) |
羽多野渉(漣朔也)、平川大輔(柊翼) | 重複するメインキャスト(役名) | 羽多野渉(立華リンド)、平川大輔(棗坂シキ) |
スタミュ製作委員会 | 製作 | Dance with Devils製作委員会 |
スタミュ | 比較項目 | Dance with Devils |
---|---|---|
星谷悠太(CV:花江夏樹) | 主人公 | 立華リツカ(CV:茜屋日海夏) |
5人チームでミュージカル学科を目指す | あらすじ | アクマたちの権力争いに巻き込まれる |
綾薙学園 | 作品の主な舞台 | 四皇學園 |
全員人間[1] | 登場人物 | 大体人外[2] |
なし[3] | 恋愛要素 | あり |
第○幕 | 話数 | 第○幕 |
なし | 各話サブタイトル | あり[4] |
歌わない | 女性キャラ | 歌う |
歌わない | モブキャラ | 歌う |
Gero(非キャスト) | OPテーマ歌手 | 羽多野渉(キャスト) |
2曲→第5話以降1曲 | 1話あたりの挿入曲数(特殊ED含む) | 不定→第5話以降1曲 |
同じ | キャラソンCDとTV版の歌詞(歌詞の入れ替えは除外) | 異なる[5] |
我ら、綾薙学園華桜会 | 第1話自己紹介ソングのタイトル | 我ら四皇學園生徒会 |
http://www.nicovideo.jp/watch/1444034996 | ↑のリンク | http://www.nicovideo.jp/watch/1444018105 |
\サティスファイッ/、どれだよ、吹いたらやぼすけetc | ↑に対する反応 | イケメンエスカレーター、図書館の歌、吹いたら第三図書館行きetc |
綾薙学園華桜会 | ↑↑↑の歌唱メンバー | 四皇學園生徒会 |
諏訪部順一、平川大輔、森久保祥太郎、鳥海浩輔、羽多野渉 | (キャラ名省略) | 斉藤壮馬、近藤隆、木村昴、平川大輔 |
team鳳 | EDテーマ歌手 | PENTACLE★ |
花江夏樹、小野賢章、ランズベリー・アーサー、細谷佳正、前野智昭 | (スタミュ側のキャラ名省略) | 斉藤壮馬、羽多野渉、近藤隆、木村昴、平川大輔 |
[3]……チームメンバーと友情を深める主人公を「攻略王」と呼ぶ視聴者はいる
[4]……「××(と△△)の◆◆」で、◆◆に舞踊や舞曲の名称が付く法則。Aパート開始前、ブザーとともにサブタイトル付きの緞帳が上がる演出あり
※この比較はあくまで両者の特徴をよりはっきりあぶりだすために行ったものであって、優劣を表すものではないことを述べておきます。自分が好きで楽しめてる作品があるならそれでいいじゃないか。
個人的な意見ではあるが、正直なところ両者ともミュージカルシーン演出はキャラソンPVの域にまだとどまっているような気がする。
そんな人間が普通の受験についてどうこういうことは出来ないはずだけど、
音楽を習わせる様なバカは金持ちだけだかからそういう親に感化されて。
で、元増田は別に音楽で食ってるわけじゃなくてたまたま海外に行く仕事について典型的なカイガイガー、トシガーになったアホ、を演じてる屑だろ。
ピアノ、語学、右脳開発、水泳、絵画教室、舞踊、などなど、一人の子供が3つ以上の塾を掛け持ちしているのも珍しくない。まだ小学校前なのだけど。
周りは山あり川あり田んぼあり海ありの、自然環境に恵まれたエリアであった。
高校にあがり、私は音楽を志すようになり、その都市中心部にあった音楽教室へと通った。
そこの先生がことあることに「親御さんたちの教育への関心度が低い。高校3年からようやく進路を考え始めて、子供を通わせるとか。。」と、よく嘆いていた。
私もそのうちの一人であった。
今現在、私は海外のちょい大き目な都市で生活しており、子供が生まれた。
私の妻しかり、周囲も子供の教育には非常に熱心だ。 近所の人と会うと必ずといっていいほど、子供の習い事、子供の教育についての話で盛り上がる。
ピアノ、語学、右脳開発、水泳、絵画教室、舞踊、などなど、一人の子供が3つ以上の塾を掛け持ちしているのも珍しくない。まだ小学校前なのだけど。
私の親も含めて、周囲はやはり、私が学生だった20年ほど前と同様、子供の教育についてはほとんど関心を示すことはない。
「健康であればいいじゃないの」
「何もしなくたって、子供は育つし勉強もするようになる。勉強できないのはできないで道はある」
と、私の知り合いの旦那さんが言っていた。