はてなキーワード: 田舎暮らしとは
田舎が「帰省先」ではなく「非都会」という意味ならコストはどこに住もうが変わらない。
(田舎暮らしには当然田舎なりの別種のコストがかかり、そこコミで地価がつけられているのは自由経済だからあたりまえ。
そこコミでも割安なら人が殺到して高騰する)
帰省先なら小学校からの知り合いなどがいることによっていろいろなコネ・ツテが入り、せめてものイニシャルコストがさがることを期待していわれていたことなんだけど、高知移住のイケハヤ先生によって全く文脈上の意味がちがってしまったから「だまされた」って思うんだろう。
まあ若い男は生活感覚ない、年かさねた女なら自分自身を秘書としてなんとかやっていける。(西炯子の作品はこんな感じ)
まあ、これだけ野菜が高騰したら晴耕雨読自給自足は100円ショップのたねからでも始められるのよって優雅な顔していえるけど。
土地から金をゲットするつもりで農家始めるときはほんとにツテがないとキツいよ。
特産物や名産がある地域なら知らんけど普通の田舎で良質な素材を仕入れるなんて無理なんだよ。
村で作ってる農作物は新鮮そうに見えるけど大手スーパーの農産物の方が美味しい。
質は知らんけど味は間違い無く美味しい。全国を相手に生き残りをかけて日々しのぎを削ってるわけだし。
地域住人があれこれ考えて作った農作物なんてたかがしれてる。野菜というより原種の草を食ってる感じが近い。
村で作ってるの食べると土臭くて正直マズイ。すごく原始的な味がする。こういうのは都会の人が喜ぶんかね?
スーパーで売ってるのより美味しい素材を用意なんてできないから普通にみんな業務用の食材とか業務スーパーの物を使ってる。
たま〜に美味しいっていう店ができても調達コストや客の少なさを埋めるためにどこも高い。
美味しいと評判の店に行こうと思うと、田舎感覚ではお昼ご飯は1800円くらい、夜は3500円くらいを考える。
ほいでから田舎暮らしの人たちの給料なんて雀の涙で、お昼は吉野家とかなか卯とかで済ますし、そもそも外食なんてあまりしなくてどの家庭も自炊が一般的。
ディナーで外食なんてライフスタイルは田舎にほとんど無いから、結果美味しい店があっても高くてあまり利用しないから潰れることが多い。
たまに都会に出ると、1800円でありがたく食べてたレベルが700円くらいのランチでゴロゴロあってビビる。
さすが都会は競争と物流の戦国時代を生き抜いてるお店が多いからレベルたかいなあ!っていつも感心する。
(ネタバレ注意!!)
昨日、君の名は。を見てきた。
顔を見だけですぐにどこの誰だか分かってしまうとか、地元議員と建設業者の関係とか、まさにTHE田舎って雰囲気で。
気軽に、田舎暮らししてみたいとか、Iターンとか言っている人には、よく見て欲しいものである。
単なる青春ラブストーリかと思っていたが、少なくとも自分にとってはそうではなかった。
時に自然の力は、抗いようもない、途方もない力で人間の暮らしに迫ってくる。
2011年の東日本大震災ではその強靱さを改めて見せつけられた。
たいていの自然災害は、非常に長い周期で繰り返し発生している。
でも、人は忘れることが得意な生き物で、次に繰り返される頃には前回の記憶がほとんど無くなっている。
親から子へと、子から孫へと伝わる中で実体験が薄れ、どんどん遠い体験となってしまう。
そして、ふとした拍子に、何かのきっかけで消えて、途絶える。
映画のおばあちゃんは、忘れられた物語の未だ忘れられていない部分の語り部に思えた。
遙か昔の何か大切な事を伝えようとするけど、それが完全に伝わることはなく、祭や神社といった伝統としてかろうじてその痕跡だけが残っていく。
物語の組紐は、人と人との繋がり、時間を超えて伝えてきた物であり、まさにこの物語そのものだろう。
私の地元は東南海地震が発生するとものの数分で津波にのまれる。
幼い私には、それはとても遠い体験で、まるで実感がなく今となってはほんの一部しか覚えていない。
町の中には、津波の到達地点を示す物も残されていたが、時と共になくなりつつある。
代わりに、いたるところに海抜の表示は増えているが、それは実体験ではなくデータでしかない。
誰かが受け継いで、伝えていかないといけないけど、それが本当の意味で伝わることは難しい。
もう一つ、この話ではタイムスリップと入れ替わりで災害の日時が伝えられ、町の人が救われる。
瀧くんのようなヒーローが早く現れてくれたらと願うばかりである。
ただ願うばかりでは他力本願なので、自分もできることはやっていかないととも思う次第だ。
研究者の端くれとしては、役に立つ技術の一つでも残せれば主人公(ヒーロー)になれるのだろう。
さあ、はじめよう。地震予知。(違)
元増田です。あんど、かなり私見に満ちたレスになるのでそこは最初に申し訳ないと言っておきます。
ところで本題とは離れるが、「興味を持て」というアドバイス。これ、小さい頃から折に触れて言われるけども。
「他人に興味を持て」っていうのと「好きになれ」ってのは別のことだよ。
最終的に結果として好きになるってことはあるし、そうなると情報収集がはかどるってのは事実なんだけど、好きになる必要はない。むしろ、好きになろうとすれば面倒くさい(よって嫌気がさす)ので、好きになろうとしないほうが結果はうまくいく。
「他人に興味を持て」ってのは「好きになれ」という意味であるという前提で増田は悩んでるみたいだけど、「興味を持て」は、文字通り「興味を持て」でそれだけの意味なんだ。好悪とは関係ない。感情というよりも、実は、かなり技術的問題だ。今回はその技術を私見べったりで説明してみたいと思う。
まず、一番最初にチェックすべきなのは、自分の心身の健康だ。興味を持つってのはエネルギーを使うので、新進が健康じゃないと実行できないし、途中で疲れる。健康は大事だ。健康的でそこそこ余裕のある生活を送るべきなんだけど、それはほかにもたくさん記事があると思うので、そっちに譲る。いえるのは、週一くらいで目的もなく散歩だの自転車お出かけだのできる程度は、キープすべきだと思う。
次にマインドセットだ。
相手の人格とか性格とか個人に興味なんて持たなくていい。それは価値が低いし応用範囲も狭い。そもそも、好きな相手だったら、ノウハウも何も必要なく、魂の命じるままに相手に詳しくなっていくでしょう? 「興味を持とう」ってのは相手や物事に関心が無い場合か、どちらかといえば嫌いや苦手なものばかりな時に使う技術だ。にもかかわらず、行為を出発点にするなら、増田のはまっているワナ同様身動きできなくなるだけだ。
重ねて言うけれど、相手の人格や性格は入り口として不適当だ。同様の理由として、相手の趣味や、好きな芸能番組や、そういうのも、全部不適当だ。
じゃあどういう風にすればいいのか? ってことだけど、別の切り口から興味を持つべきだ。「やっている仕事(学問でもいい)」「出身地」「家族構成」だ。この三つは汎用性があって、興味をもてるし、広がりがある。
この切り口の素晴らしいところは、相手の人格と(とりあえずは)切り離されているという点だ。最初のとっかかりとしてはフラットともいえる。
たとえば「Aさんが嫌い。だけど(社会生活や人間関係を考えると)興味を持ってみるべきだとおもう」という状況で、「Aさんは布団の販売員」だったとして「布団の販売員は嫌い!」とは、普通ならない。たとえAさんが嫌いでも、全国の布団の販売員全員が嫌いなんてことは、ふつうないだろう。
布団の販売員という仕事にはそれなりに興味深い部分や面白いところは見つけられるはずだ。自分のやってる仕事と全く重ならない新しい発見かもしれないし、業界や業種を超えて似たような苦労をするという教官かもしれないけれど、ちゃんと話を聞けば布団の販売員は面白い。
どんな仕事でも、この世に存在するってことは、それなりの需要があって、そこに人間を配置する意味がある。ベルトコンベアの上で倒れたドモホルンリンクルを治す工場員だって、意味があるし、聞いてみれば、それなりのエピソードがあるはずだ。自分の知らない仕事の話は、たいてい楽しいし興味深い。もちろん全部が全部楽しいわけじゃないけれど、どこかしら、小さな部分であれ、興味が持てる部分がある(ないとしたら掘り下げが甘いとこの段階では思っておこう)。
似たような発想で「出身地」もある。例えば増田が東京生まれの東京育ちだとして、新潟出身の人の地元話は、知らないことや知ってることがあるだろう。給食や修学旅行の先が全く別かもしれないし、田舎暮らしという面白い経験を持ってるかもしれない。
家族構成もそうだ。兄弟姉妹の有無や、祖父祖母との同居など、誰もが抱えつつもバリエーションがあって、新しい発見があるというポイントが重要だ。
Aさんが嫌いだとしても「行き遅れの妹が家でニートしてる人全員キライ」とは、ふつうならない。その部分に興味を持つことはできるはずだ。
一方で「趣味の話」や「コレクションの話」なんてものは、一般にはお勧めの話題のように思われているが、実は相手に興味を持とうという段階では役に立たない。語ってるほうは気持ちいいかもしれないが、こちらはそもそもAさんに興味がないわけで、そこで趣味の話をされても、よほど話し上手でもなければ楽しめない。自分がその趣味の知識がなくてもつまらないし、たとえ知識があったとしてもわかってるうんちく語りなんて楽しいものじゃない。必要なのは「理解は十分にできるが実地の部分は知らない好奇心を持てる話題」なのだ。なので、お勧めは「やっている仕事」「出身地」「家族構成」だ。誰でもその三つは持ってるし、話を聞いてる最中、自分の似た経験と比較して考えたり質問したりできる。
一般的な仕事の人間関係や、学生のサークル関係、ご近所づきあいなどにおいて「相手に興味をもってよく見てみろよ」なんていうアドバイスの射程距離は、上記のレベルの好奇心や興味で十分だ。個人にたいする好き嫌いなんて関係ない。完全に社交技術とかマインドセットの問題で、やり方わかってれば確実にできる。
でもその先にももちろん道は続いている。
たとえば「いまいちいけ好かないAさん」がいたとしても「新潟出身の話をしてるAさん」や「布団販売員の話をしてるAさん」は、さほど嫌いにならないで済むかもしれない。
興味を持てるとっかかりが入手できれば、新しいAさん像にたどり着けるかもしれないのだ。
これは重要な点だ。そもそも、人間、ない面でも外面でもそんな一枚岩でぶれない存在じゃない。挨拶するたびに中身が入れ替わるけど顔が同じだから同一人物判定してる程度の、もやもやあいまいな存在だ。Aさんは嫌いだとしても、その一部分くらいは好きになれる。嫌いなAさんっていうのは、「まだ接点をうまく探せていない」だけだ。嫌ってるAさんは、Aさんの一部でしかない。
Aさんが自慢たらたらでおっぱいをじろじろ見てくる髪の毛の薄いハゲであるってのも、それはそれで事実であるかもしれないからだ(架空の人物に対してひどいなすみません)。
でも、だからといって、その理由で「Aさんのすべてが完全に興味の持てない最悪の屑である」保証はない、むしろ、どこかしらは面白い何かも含んでるんだろうな――って思ってたほうが、精神衛生上もいいし、話しかけるときのストレスも下がって得だ。「得だからやる」程度でいいんだ。好きにならなきゃいけないとか、いい子でいなきゃいけないとか、誠実でなきゃいけないとか、そんなの後回しでいい。最初は技術オンリーの人間理解でかまわない。
好きになるとか友人になるとか、この段階から見れば、まだまだずーっと先の話でいい。
まとめ
・興味を持つと好きになるは違う
・好きにならないまま損得で興味を持ってよいしそのほうがいい
・仕事、出身地、家族構成、世代あたりを切り口に相手の部分部分に興味を持てばよい
・全体としては嫌いでも一向にかまわない
以上です。
https://twitter.com/minowanowa/status/702485090937384960
尊師は「東京」を「ソウル」に置換すればおっけーにもちのろんとライトな感じに言っておられるが。
いや確かに韓国人も都会で消耗しているかもしれない。田舎暮らしを夢見るかもしれない。
だがしかし、そういった意味合いで出版したいのではないだろう?
単なる推測で恐縮だが、韓国人が「東京pgr」するためにもってこいのタイトルだから、出版したい!と言っているのではないだろうか?
つまりは志高き尊師の大切な本がぬわんと反日の本として韓国の書店で並ぶのだとしたら…?
何を言ってるかわかんねーだろーが略
そんな未来はまちここまっちんぐ!絶対に阻止したい!だめ!ぜったい!ぐりーにー!
俺の力ではこの未来を止めることなどできぬ!ハゲ子先生に直訴するに限る!田中正造ばりに直訴したいでごんす!恐縮です!
追伸 いやはやで笑ったら負けですぅ
なんてったって、東京中心の中華主義者、そういう類のスノッブにほぼ遭遇しないで済む。
日本中どこに行ったって、マスコミを通じて東京中心思想は浸透しているから、田舎にいる人はだいたい地域的な「格下感」を感じて生きている。
正直、他人を見下ろして生きている人よりも、見下されている自覚がある人のほうが、付き合ってて気分が悪くならないし、付き合いやすい。
(東京コンプレックスをこじらせすぎたような人は面倒くさいけど、そういう人はまず上京してしまうので、逆に田舎では遭遇しない)
手に入る服もファストファッションのものくらいだし、おしなべてみんな貧乏なので、身につけるものでマウントするような奴もほとんど居なくて
モノ・カネにまつわるマウンティングに巻き込まれなくて済むってのが、田舎暮らしの最大のメリットなんじゃないかなーと思ってる。
友人が田舎移住について語っていたので、どの程度の田舎か話を聞いていると結構な過疎のことを指しているようだったので、病院について指摘したら結構反発を受けた。
まぁ、友人からすれば酒の席で水を差すように捉えてしまったのだろう。申し訳ない。
自分の考えとしては都会暮らし・田舎暮らしについてはどちらも否定しない。
議論しても答えは千差万別だし、最終的には自分に合う形で選択すればよいと思う。
その会話の中で、もし自分が東京を離れるときには、それなりの規模の病院(簡潔にいえば大学病院レベル)に快適にアクセスできることが条件で、これは譲れないとその席で断言した。
そんな私に対して酔った友人はいろいろと言ってきた。
「医者にかかるにしても、定期的に健康診断などを受けていれば事前に異常は見つかる。それから大きな病院み診てもらえばよい。」
「過疎の場合ヘリを出してくれるところもある。」
…宵の席のため、こちらの意図を上手く伝えられない。
田舎も否定していないし、別に自分が長生きしたいとかでは無くて、家族の体調がすぐれないときに設備の整った病院に連れていってやれないことが嫌だ、ということを上手く伝えられない。
(※過疎地の病院レベルをバカにしているように受け取られたのかもしれないが、そこは否定しない。)
誤解が無いように補足すると、地方の過疎地にある民間病院が全くダメという事ではない。
軽い微熱や腹痛であったり、ある程度症状が明確なものであれば近くの民間で診断してもらって処方箋もらって、薬を持って帰れば良い。
それで様子を見てだめだったら紹介状を書いてもらって大きな病院で診察してもらえば良い。
ここまでは友人の言っている内容に沿うと思う。異論も無い。
こちらが問題にしているのは、家族がそれなりの大病を患ったときのことを想定している。
友人たちはタバコを吸う。なので、その場の例として「慢性閉塞性肺疾患(COPD)」を挙げたかったが、多分上手く伝わらなかったと思う。
また、正月早々快適な田舎暮らしを何気なし語っていたところに、
「山の中にある自宅で療養中に呼吸が出来なくなって白目向いて泡吹いたらどうするの?田舎の町医者じゃ対応できないかもよ?」
「健康診断で事前に異常は見つかるかもしれないけど、ずっと入院することはできないでしょ?自宅療養になって発作でたらどうすんの?」
「ヘリがなきゃ病院に移動できないようなところに行く意味ある? もしヘリで運ぶとしてその移動時間は無駄じゃない?」
「田舎暮らしに憧れて施設の揃った病院が無いような過疎に暮らすことで、家族死んだらどうすんの?」
「それなりの地方都市に住んでいれば助かった命なのに、大きな病院まで数時間以上かかるような過疎地に移ったことで家族が死んだら後悔しない?」
といったような反論をすることも憚られた。
そもそも反論がしたかったわけではなく、田舎に暮らしたいと考える友人に対して、こういうアプローチでも考えとかなきゃいけない年齢になってきているぞ、
ということを伝えたかったのだが、何故か田舎をバカにしている、という点だけフォーカスされてしまった。
モヤモヤとしたままその会はお開きになった。
こちらの思う意図を上手く伝えられなかったことでモヤモヤさせてしまったのは申しわけないと思う。
友人はとても行動的だ。海や山にも時間を作って出かけたりしているようだし、
彼がこのまま一生、東京で暮らしていくイメージも沸かないのでいずれは田舎に引っ越すときが来るかもしれない。
もし、そうなっていずれ身体にガタが来たとき、そんなことを言っていた友人がいたなぁと思い出してほしい。
※追記
大晦日ですし、高知愛を発散しておきましょうか。高知のいいところは、10;・みんな超適当10;・その日暮らし精神がすごい10;・酒飲みすぎ10;・野菜、米、魚、酒うますぎ10;・秘境多すぎ10;・新しいもの、よそ者好き10;・龍馬大好き、維新大好き10;・イケてる社会課題多すぎ10;なんてところですかね〜。— イケダハヤト (@IHayato) 2015, 12月 31
イケハヤって田舎暮らしに本当に向いてないと思うわ。— ボヴ (@cornwallcapital) 2015, 12月 31
東京でダメな奴は高知に行ってもダメ。— ボヴ (@cornwallcapital) 2015, 12月 31
高知はありのーままーのイケダハヤトを肯定してくれる理想郷でなくてはならないっていう願望を押し付けてるだけなんじゃねえの?
現在独身なわけだが、おかげで自分の好きなことにお金をつかえている。
貯めるもよし、つかうもよし、自由だ。
ふと、いつか結婚できたとして、自分の好きなようにはお金をつかえなくなったならこの上ないストレスだなー、何楽しみに生きたらいいんだろー、とか考えたときはっとした。
こんな考えじゃ家族支えていけねーよ。
ああ、だから俺は結婚できないどころか結婚"してはいけない"男なんだって思ったよ。
周りからは早く結婚しろっていわれるけどな、こんなんだし今後もそう簡単に変わることも変えることもないとなるともう「意図的に結婚しない」という選択肢しかない。
気になる異性の秘密を知って動揺する女の子。どちらも夏の坂のある街が舞台。
真琴と千昭以外の人が止まっている博物館のシーンは、日中なのに誰もがシエスタしていて誰もいないスペインの街とかぶる。
余談だけどラストのナージャの表情はどう見てもヤッた後の貌だった。
一作品に一下ねたの源流かも。
どちらも「2つの生き方が提示されている。どちらを選ぶか?」というテーマ。
また、人と人でないもののギャップや疎外感が作品の下敷きになっているのも共通している。
少々強引だがガラス作りを通して未来の生き方を知るどれみと、田舎暮らしを経て雨の生き方を受け入れる花の姿も似ているかも。
余談だが、この話では最後にどれみは未来さんに着いてく決断をしたと個人的には思っていて、
そういう「卒業すべきとされる世界」から卒業しない生き方もあるんじゃないかというのは細田氏のテーマの1つに感じられる。
ただ主要人物がケモノオンリーであったり、ファンタジー+バトル物であったり絵面的には共通性がある。
37話では同ポや、広角レンズを使った演出、キャラを画面の端に置く……などの細田守の作風が既に確立されているのでファンは要チェック。
27話はバケモノの子後半で重要アイテムとなった白鯨がモチーフの話で、氏のコンテデビュー作。これは監督も間違いなく意識しているハズ。
その白鯨に自分の姿を見いだして倒す訳だから、やっぱりバケモノの子は細田氏にとっての自分殺しでもあるんだなあ。
これは常識だね。
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さて、僕の住んでいる集落は山村で、四十戸ほど、統計によれば百人ちょっとの人口を有している。
幼児が二人、小学生が二人、中学生が二人、高校生が二人、二十代が二人とかそんな感じが男女を併せた若者の総数。
三十代は僕を含めて十人弱くらいいるかな。あとは世代が上がるほど人数が増えていく。
はっきり言えば大半が高齢者だ。
狭い集落で人間関係は濃く、僕が住み始めた頃、馴染めずに浮いていた。
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空気はいいし、牧歌的な風景は広がるが、何をするにも人手が足りないからだ。
都市部にいれば『誰かがする』で済む自治会活動も、ゴミ拾いも、消防団も、葬式の手伝いも、生活道の除草も、神社なんかの祭事も、PTAもぜんぶ『自分』でしなければならない。『誰か』がいないのだ。
だから休みの日には早朝からお寺の掃除や、農道の草刈りにかり出される。
大半は老人だから、昼過ぎには体力が尽きて作業は終わるが、今度は酒宴が始まる。
自治会の総会に参加するのが面倒、とかそういう問題ではないのだ。とにかくいろいろな田舎のイベントが開催されるが、これに当たり前の様に参加できるようになるまで僕も数年かかった。このまま、バックれ続けていると、何とも知れんやつという評価が下る。地区内ではいないものとして扱われてしまう。実際にそういう人間が僕の地区にも数名いる。
確かに休日はつぶれるが、それでもまだ呼ばれて参加するだけなら気楽な方だ。
これがやがて、自分で人を呼んで作業するようになると、煩雑なことやストレスが一気に増える。
しかし、同時に地区内での評価が一気に上がる。この辺から、何かあるとかばってくれる人が増え、多少無茶をしても話が通るようになる。
都市部の小学生を呼んで草鞋編み体験でも開催したいと相談すれば、老人が集まってきて指導者を買って出てくれたりする。
作業が減ることはないが、何かやりたいと思えば増やすのは気分次第、ということだ。
そうして僕は休日のたびに何かやっている。平日より休日のほうがよほど疲れ、今の時期だとどんどん日に焼けて黒くなる。
これを老人になっても、死ぬまで続けていかなければならないが、地獄の様と捉えるかやりがい満点ととらえるかは人次第だけど、まあ僕は何とか楽しくやっている。
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