はてなキーワード: 喪主とは
http://kyouki.hatenablog.com/entry/2014/09/07/090356
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ICHIROYAさんのブログで高齢のご両親の老い(痴呆)に関するエントリを読んだ。痴呆が進み夢の世界を生きているお母様と、だんだん小さく弱々しくなっていくお父様のエピソード。そしてその現実に対して自分には何が出来るんのだろうかというつぶやき。嘆き(?)。身に染みた人も多いようである。(cf.ブコメ)
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具体的に向き合っていたらこんなセンチメンタルなこと言ってられないと思うからです。お母様は施設、お父様も一人暮らしの様子。つまり老いた両親の日々の個別具体的なことには向き合っておらず時々コンニチハゲンキデスカーしてるだけで、普段は遠くで自分の人生を優先していて、そんで嗚呼悲しやいったいどうなってしまうのかむにゃむにゃって、・・・・・・ええい優雅だな!!!苛々する!もし本当にどうにかしたいと思ってるなら!戦え!それは現実だ!目を開けて見ろ!現実と戦え!今だ!今すぐだ!戦う気がないならグズグズ言うな!!!
と思うのでありました。
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上だけだとちょっとキツイというか意地悪というか「俺もやってるんだからお前もやれ」系の感じだなって自分でも思うんですけど、実際問題、一度きっちり向きあってぶつかったら、何であれ自分なりの答えが見えると思うんですよ。
「最後の時間を穏やかに過ごしてもらうために、こういうことを努力してみよう」なり
たとえば糞尿まみれのお父さんやお母さん及び糞尿まみれの室内と毎日(比喩じゃなくてリアルに毎日)戦ってみたりすると何か違う扉が開けてきちゃったりすると思うんですが、まあ、それはイヤ‥っていうか無理‥ってかんじですかね。でも施設の人はその日々個別具体的なものと向き合っているわけですね。向き合っていればこそ「まあこういうものなのだな」という自分なりの悟りや答えが見えてくるのではないかとね。
たぶん、仕事にしっかりと向き合ってきた人は「仕事と人生」に対する自分なりの解というか「こういうものだ」を発見すると思うんです。家族に対してもそうなんじゃないかなと。ああどうしよう…困った困った…悲しいなあ…。って仕事じゃそんなこと言わないだろと。ていうか「言ってらんない」だろうと。そう、真面目に向き合ってたらそんなセンチメンタルなこと言ってらんないだろって。ねえ!
具体的には一刻もはやくお父様の一人暮らしをやめさせるとか、日々誰かと食事をとるような生活ルーティンを構築するとか、なんかあると思うんですよ!お父様が「いやまだ一人で」って言おうがアホか!全然大丈夫じゃないわ!いいから来なさい!って引っ張ってくるとか一つ一つの作業は超めんどくさくてハートにクソ重労働です。で、それやってる感じぜんぜん受けないんですけど何してるんですか本当になんかしてるんですかしてたらグズグズ言うことなんて何もないとね!思うのね!いや色々やってるのかもしれませんけどセンチメンタル過剰な男子の語りは往々にして言い訳タイムだと思っているのですがどうでしょうか。もうなんでこんなセンチメンタルトークになるんだよ介護問題トークしたら個別具体的な情報交換の場にしかならないよ頑固じいちゃんのなだめすかし方プライドの利用法さりげない誘導のコツどの施設がいい何ヶ月まではOKデイサービスに紙おむつにウンコに徘徊にすべて目の前にある現実だよ!!腹をくくれ!!仕事だそれは!!(あっだから家事が仕事の主婦/女ばかりがこれをやるはめになるのか
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で、ここまでプンスカ考えてから、はたと下記のマンガのくだりを思い出した。
深く嘆き悲しむ妻は葬式の場でグスグスと泣きっぱなし。式中に具合が悪くなりすぎて、喪主なのに席を離れてしまうくらいダメになってしまっている。
「あの人はたいして病院にきちゃいないわよ」
「それでも本人はせいいっぱい看病してるつもりなのよ
「以前はものすごく腹がたったけど
それはそれでしかたないと思うようになったわ
許容量が小さいからってそれを責めるのはやっぱり酷なのよ」
みんな日々せいいっぱいだから「そんなんじゃだめだもっとやれ愚痴るな」って言うのはやっぱり酷かと思いつつ、目を逸らしている問題の後ろには汗かいてる人たちがいることにフタする思考には陥りたくないとも思いつつ(介護だけじゃなくてすべてのことに関して/でも一人の人間のリソースをそんなあちこちには割けないのでどこかにはフタをしないと仕方ないんですけど
オレはもう30になるのだがどこかで自分は年をとるけれども周りの環境はずっと同じような
状態が続くんじゃないだろうかとどこか期待していた.まあ当然そんなことはなく祖母は亡くなってしまった.
どちらが悪いというわけではなくお互い自分の居場所を守ろうとしてのことだったのだろう.
3人兄弟の長男だった自分は幼いころから母と祖母の板ばさみだった.
互いから互いの愚痴を聞かされながらも幼いながらにどちらかにつくべきではないと感じていたようで
お互いの愚痴に相槌を打つだけだった.どちらの敵にもどちらの見方にもならなかった.この環境は結構きつかった.
思春期で祖母のやや過剰な面倒が面倒くさくなり,距離を置いてしまった.
かつ末っ子は手を焼く存在だったのでその過保護っぷりなりを潜めていた.
そしてオレと同じ用に弟たちも次第に距離を置き始めた.
もう遅すぎるけれども今ではこのことをとても後悔している.
祖母にとって不幸だったのは祖父がずいぶんも前になくなっていたことだ.
オレが生まれたときにはすでになくなっていた.
オレたち孫が距離を置いてしまったせいで家庭内での祖母はやや孤立してしまった.
親父はこのことにはわれ関せずだし大学進学時点でオレが家を出て,
次に次男が,次に三男がという風に物理的な距離もだんだんと離れていった.
話が脇にそれるが祖父と祖母ははもともと自宅を事務所として小さな会社を運営していた.
祖父がなくなったと同時にこの会社はたたんだらしいが,オレの生まれる前の話なので詳細はよくわからない.
わかっているのはオレの親父とその兄弟はその会社を継がなかったということ.
おそらくだけれど,親父兄弟はまだその当時学生で学校を辞めてまでやりたい仕事ではなかったんじゃないかと思う.
祖父の死と一緒に切り盛りしていた会社をたたまなければならかったことで祖母の人生は大きく道を変えざるを得なくなってしまった.
祖母はお世辞にも常識人とは言えず,かなり変わった人格の人だったがこのあたりがなにか関係があるのかもしれない.
また先日の葬儀で初めて知ったのだけれどもこのとき祖母はすでに癌を患っていたらしい.
手術はしたけれども完全に取り除けたわけではなかったらしい.このことはまったくしらなかった.
実は祖母はかなり厳しい生活をしていたんだろうと思った.今となっては周りにあたりたくなるのもわからんでもない.
息子である親父は何をしていたかというとこちらは極度の面倒くさがりやで,
決して嫁姑問題をなんとかしようとはしていなかった.
子供のころのオレは親父のこういうところが大嫌いだった.
オレが大学院を出て就職するころには祖母はボケが進んでいたらしく,
おかしな言動が目立つようになったという話を母親づてに聞いた.
祖母は昔から懸賞はがきを出すのが好きだったようなのだが,明らかに詐欺めいた手紙が届くようになっていた.
母親は不仲ではあったがなんだかんだでずっと祖母の面倒を見ていた.
詐欺めいたはがきのことで注意したりもしたらしいが,祖母は頑固で母親に言われることが癪だったようで
やめる気配はなかった.注意してもけんかになるだけだし
家計に重大な問題になるレベルのものでもなかったのこの件は放置したらしい.
また祖母は自分の周りをごみ屋敷のようにすることが多かった.本当にごみ屋敷.
さすがにこれには母親も耐えかね,数ヶ月に一度たまったごみ(祖母にとってはごみではないのだけれども)を半ば強制的に捨てていた.
祖母はこのことにも大いに腹を立てそのたびにけんかをしていたらしい.久しぶりに実家に帰ると毎回こういったことの愚痴を聞かされた.
こういうこともあってたまに実家に帰ってもオレは祖母と積極的にコミュニケーションをとることはしなかった.
会社に入って数年すると,ボケも進行してきて両親だけでは面倒が見れなくなって,介護施設に入ってもらうことに決めた.
その当時は祖母本人も嫌がり,祖母の実家の家族も文句をたれた.
施設に入れるとは何事か.人でなし.人道にはずれたことをするなと.
さすがにこれについては親父も間に入って説明し,理解を得る努力をした.
最終的に理解は得られなかったが,実家でこのまま面倒を見ることもできないので結局施設には入ってもらった.
はじめこそやや問題があったものの祖母は以外にも施設になじんだらしい.
おしゃべりが好きだったにもかかわらず実家では話し相手がおらず,寂しい思いをしていが,
話し相手ができたのがうれしかったんだろう.これを聞いたときは結構胸がいたんだ.
施設に入ってもらってからは実家に帰ったときは母親に連れられて何度か施設に顔を見に行った.
以外にも施設に入ってからは母親との関係は同居していたときに比べてましになっているように見えた.
祖母はぼけが進み,孫のオレたちも自分の息子である父親も判別がつかなくなっていた.
ただ,近しい誰かということだけはわかっていたらしいく,たわいもない世間話をする分には問題がなかった.
母親は誰よりも祖母の面倒を見てくれた.
昔あれだけいがみあっていたのに本当によく面倒を見てくれた.
母親は介護系の仕事をしていたのでなれていたというのはあれど本当に大変だったと思う.
祖母もいつしか母親を信頼するようになり昔のようなけんかはなくなった.
むしろ祖母のよい話し相手になってあげていたようだ.施設に入ってから数年間は
お互いにまあまあ穏やかな時間をすごしていたようだった.
数週間前に祖母の容態は一気に悪化した.施設の人も驚くほど急なことだった.
それからはヘッドの上でほとんど動くこともできず点滴をされていた.
ただ,意識はあったのなくなる1週間前に帰ってちょっと会話した.
オレのことはたぶん誰だかわかっていなかったが,もうちょっとで元気になるから帰ったらパーティをしようとずっといっていた.
小説や漫画で言えばべた過ぎるフラグなわけだけれども,リアルに聞くととてもつらかった.
でも会話をしている限りは全体としてはつじつまはあってないけれども,会話のキャッチボール自体はできていた.
だからもしかしたら本当に元気になるんじゃないかと思いもした.
だけども先日その祖母が亡くなった.余命1週間宣告から2週間後のことだった.
オレは特別おばあちゃん子ではなく,むしろ高校進学以降はやや苦手だった.
でも葬儀の最後は涙がとまらなかった.なんの涙なのかよくわからなかった.
ただいなくなってしまうことのへの悲しみだったのか,やさしくできなかったことへの後悔なのか.とにかくとまらなかった.
こんなに泣いたのはほんとにひさしぶりだった.
オレたちは火葬された祖母の骨を拾わせてもらった.
比較対象がないのでわからないけれども年の割にはしっかりとした骨,ということらしい.
骨を拾いはじめてからはもう作業というかなんと言うか涙は出てこなかった.小さくなったなぁとただ思った.
葬儀の次の日は親父が死亡届やら銀行口座の凍結やらの手続きをして回るのについていった.
長男だし親のときはこういったことをしなけりゃならん可能性は高いしな.
さらに一日たって仕事にはいった.仕事が手につかないとうことはなかったが何かとてももやもやしていた.
というか何か書いて残さないといけないなという気持ちがうちからわいてきた.これもよくわからん.
祖母から特別何かを学んだということはなかったが,祖母の死は本当にいろんなことを教えてくれた.
通夜から葬儀終了までは大変だったいうこと,喪主は悲しむ暇すらないということ,人の骨は案外小さいということ,人は死んでしまうということ.
もう届かないかもしれないけれど,ばあちゃん,今までおつかれさま.ありがとう.
身内の葬儀があったのだけど、私の父が喪主だったので、葬儀の前に一家で僧侶から説法のようなものを聞く時間があった。
僧侶「そうですか。てっきりそういう風に見えましたので」
家族である私からすると、父の外見も口調も別に教育関係者っぽくは感じないので、
(そもそも『教育関係者っぽい』とは何だろう。やたら声が通るとかか)
ニュースでは教育関係者のイメージダウンにつながりそうな事件も見聞きするけど、
それでも未だに「教育関係者っぽい」と言われて嫌な顔をする人はそう多くないように感じる。
「教育関係者っぽさ」の定義が曖昧なうえ、文系・理系・体育会系(・芸術系)をカバーできる。きっと便利だ。
それにしても、あれに対して「よく言われます」のドヤ顔は正直恥ずかしかった。
実は外の人間から見たら、ほんとうに教育関係者っぽいんだろうか。
もしくは父がリップサービスを見抜き、それを制するためにわざと「よく言われます」と返したんだろうか。
私にはどうも「リップサービスを真に受け続けてきた人」にしか見えなくて、気が重くなった。
私がひねくれ者すぎるという点は自覚している。
http://anond.hatelabo.jp/20130914231818を読んで、自分はここ五年くらいずっと葬式の度に泣いているのに気付いた。
三十路を超えてこれまでに百回以上親戚・恩人・知り合いの葬式に参列している。
親戚の数が多いので葬式の回数も多い。
自分が小学生の頃に死んだ父の葬儀は自分にとって何回目の葬式だったのかは忘れたが、二十何回目かだったと思う。
その時期はあまりに葬式が続いて人の死に麻痺していたからか全く泣けなかった。
葬式で泣けるようになったのは八十何回目かに行った葬式から。自分は二十代半ばだった。
それから親戚だろうが知り合いだろうが誰の葬式でも泣いてしまうようになった。
昔お世話になった人の葬式ではご遺族の泣き顔につられて泣いてしまった。
あまり世話になってない人の葬式でもご遺族の言葉についほろりと涙が出た。
葬儀が終わった後でも、喪主さんやご遺族の言葉などを思い返して涙が浮かぶことがある。
歳をとったということなのかと思っていたが、回数の問題だったのかもしれない。
しておきたいというか、死ぬ前までに考えておかなければならない事を逆算しながら考えてみた。
埋葬してもらう墓地はどうするか(田舎の墓地に入れてもらうか、自前で用意するか)
残った財産や持ち物はどうするのか
病死しかも癌のように死期がわかる場合、自宅で看取られるか、病院やホスピスを選ぶか
死ぬのがわかった場合、何かやり残した事や、会いたい人は居ないか
自分の人生、満足/納得できる物として受け入れられるか、それに対する努力や行動はやってきたか
痴呆症で老人ホーム行きになった時、公立の安い老人ホームに入れるか、私営の評判の良い老人ホームに入れるか≒自分の年金支給額はいくらか
高齢者になった時、面倒を見てくれる家族または知り合いが居るか、それとも独りでどうにかしなければならないか
退職後のリタイア生活で何をするか、ボランティアでもするのか、趣味に徹するのか、それでお金が持つのか≒自分の年金支給額はいくらか
退職年齢は60歳で辞めるか、それとも遅く辞めるか、早く辞めるか、それにより退職金はいくらになるのか
どんなリタイア生活するか、それに見合った年金支給額は貰えるのか
希望する年金支給額を貰うためには、年収はいくらになるのか、その為のポジションルートは確保できているか
今の会社で働いていていいのか、転職すべきか、そもそも老後も職場も日本でいいのか
自分の親や兄弟が葬式や墓地を用意していなかった場合、墓や葬式費用を用意しているかどうか
自分の親が兄弟が病気で入院手術の金を用意していなかった場合、代理で払ってやる金は用意しているかどうか
今日はひとまずここまで めめんともり
昨日の夜、通夜に出席してきた。あと30分程で彼の葬儀が始まる。
でも、僕は葬儀には出席しない。広島から東京へ帰る新幹線の中でこれを書いている。
通夜にはたくさんの人が出席していた。
式場には車で向かったのだけれど、駐車場が一杯なので申し訳ないが近隣の駐車場を利用してくれと誘導員に言われた。
お経が終わっても、焼香を行う人の列が残っていたのは初めてだと、坊主は言っていた。
中学時代の同級生がたくさんいたし、おそらくは友人であろう同年代と思しき若い人達も多く見かけた。
本当に、本当にたくさんの人が、彼の死を悲しんで集まっていた。
けれど、その中の誰一人として、彼の自殺を止めることはできなかった。
きちんと誰かに確認をとったわけではないので、もしかしたら違うのかもしれない。
仕事に出て来なかったのを不審に思った同僚が彼の家を尋ねると亡くなっていたらしい、と書いてあった。
喪主である父親の挨拶の中には「事故」という単語も「病気」という単語も含まれていなかった。
彼は、自らの意思でその人生を終えた。何が彼をそうさせたかは分からない。
中学時代はそれなりに仲良くしていたが、卒業後ほとんど彼と交流はなかった。
最後に会ったのは確か大学二年か三年のときで、そのときの話だと彼は短大を出てもう働いていた。彼女がいるとも言っていた。
そしてそれから数年。中学を卒業してからほぼ10年。きっと、色んなことがあっただろう。
色んな人と出会って、色んな出来事を経験して、色んな苦悩があったのだろう。
でも、僕には分からない。彼の中学卒業後の人生を、俺は殆ど全くといって良いほど知らない。
坊主は彼の父親の知り合いのようだった。
万人向けで形式ばった、という感じのない、人間味を感じさせる説教だったと思う。
けれど、僕は涙を流すことが出来なかった。
自殺した人間に、この世での全ての人間関係を自ら断った人間を前に、自分はあまりにも無力だと感じていた。
彼の遺影を眺めながら、僕はただ、悲しい気持ちで途方に暮れて、そして、周りの人間に怒っていた。
親族や彼の父親の関係者以外の、彼自身の友人として参列した、自分を含めた全ての人間に怒っていた。
お前たちは何に泣いている?彼の死に対してか?だとしたらそれは間違いだ。
泣くな。彼は望んで死んだのだ。
例えどんな価値観を持って生きていようとも、自殺なんての簡単にできることじゃない。
彼はそれを行った。彼の胸中は想像を絶する凄惨なものになっていたはずだ。
その彼の亡骸を前にして、ただもう会えなくて悲しいなどと泣くのは間違っている。
彼はそれを選んだ。お前達にもう会えなくなって構わないと、彼は決めたのだ。
お前達の中には、僕を含む誰一人として
「あの人に二度と会えなくなるのは嫌だな。やっぱり死ぬの辞めようかな」
そんな奴らに彼の死を悲しむ資格はあるのか?
お前達が涙を流すとすれば、彼の自殺を引き止められなかった、自身の不甲斐なさに泣くべきだ。
彼は死にたいと願ったのだ。自らの手で決行しなければならないほど強く。
ここにいる人間は誰一人としてそれを止められなかった。
そんなことを思っていたので、久しぶりに会う人間も沢山いたが彼らとは殆ど話をすることもせず、
通夜が終わると早々に逃げるように式場をあとにした。
あの場で歯を見せて笑う人間達の顔など見たくもなかったし、
久しぶりに会った友人達と、歯を見せて愛想笑いをしそうな自分が何より嫌だった。
名古屋を出てしばらく経ち、時刻は13時半を回っている。
まだ、葬儀は終わってない時間だろうか。もしかしたら、もう火葬場かもしれない。
通夜のときに会った同級生の一人が、一緒に火葬場まで行ってやろうと、他の同級生に声をかけて回っていた。
平日の昼間にも関わらず、葬儀に出席して火葬場まで付いて行く人間が何人いたのだろうか。
そしてその中に一人でも、彼の死を思い留めさせることができる人間はいなかったのだろうか。
そんなことも少しだけ思ったが、葬儀にさえ出席していない僕にはそんなことを言う資格はないなと思い直した。
僕はせめて、彼のことを覚えておこうと思う。
この稚拙な文章を、書いて残しておこうと思う。
背が低くて、でも走るのが早い、野球部の、
明るくて、人を笑わせたり茶化したりするのが得意な、
25歳で自殺した彼のことを。
でも、俺はお前のこときっと忘れないよ。
ある人の葬式に行ってきた。
自分も大好きだったその人は、某大型宗教の敬虔な信者だった。夫婦ともに。
2ちゃんねるでよく叩かれているその宗教は、まあ選挙前になるとちょっと電話がわずらわしいけれども、直接の実害があるわけではないし、「自分にとってよくわからないもの」という不安はあるものの、取り立ててわざわざヘイトを表明する対象ではなかった。少なくとも俺にとっては。信じてる人に親切な人も多いし。
今回参加した葬式は、俺の知っている浄土宗だか浄土真宗だかの葬式とはいくつかの点が違っていた。
俺の知ってる通夜は坊主が来て、読経があって、お布施だのお車代を渡してといった感じだったけどそうではなかった。親族でも友人でもない、喪主でもはっきり誰なのかわからないような人がたくさんやってきて、その中で一番偉いっぽい人がリーダーシップをとってお経を唱える。皆がそれについて一斉に読経するのだ。通夜が終わったら誰だかわからない人たちはあっという間に帰っていく。
そんで葬式。
まず受付が違う。親族や友人、職場でお世話になった人用の受付と、その宗教の方々の受付が別に用意される。署名してお布施を受け取るんだけど、その宗教の方々専用の受付では署名しかしない。お布施を受け取らないから引き出物も渡さない。
会場は前後で半分に分けられる。前には親族や友人が。後ろにはその宗教の方々が。後ろ半分はあっという間に席が埋まる。座りきれずに立っている人もいる。どうやら故人は、県内でもわりと高いランクの人だったみたいだ。
葬式開始。
司会のおじさんがマイクで、県内でも偉いランクの誰々さんが来てくれている、みたいな説明をする。その人が棺の前に立つと会場後方のあちこちから数珠をこすり合わせるギョリギョリという音が聞こえる。俺が知ってるのと違う、長くて大きくてところどころ枝分かれしている数珠。
棺の前には、戒名の代わりに、今回授与された「称号」が飾られてる。二階級特進みたいなものかもしれない。
会場いっぱいに広がる読経の合唱。リーダーシップをとる偉い人、マイクを持った司会、会場後方の信者の方々が一斉に、はっきりした声でお経を唱えている。初めは凄い音量だなと驚いていたがあっという間に眠たくなる。
でも会場に三色の旗が飾られているわけでもないし、会場前方の席の皆さんは普通だし、これはこれで、そんなに大した差異でもないのかな(許容範囲かな)とか思ったりしつつ、何しろ故人が惜しまれて仕方がないわけで、ご家族からのお別れの言葉で俺はめそめそ泣いてるばかりだった。
そしたら俺の涙が引っ込むようなことがあった。リーダーシップをとってる偉い人(普通の葬式で言うところの坊主役)のありがたいお話のところだ。
故人のことも知っているらしく、思い出話をしつつ、故人が苦しまずに旅立たれたことがせめてもの救いだといった言葉もありつつ、人の命とは、残された我々はどうやって生きていくべきなのか、みたいなありがたいお話があった。内容はふつうに理解できる、何らかの方向に偏ったものではないように感じられた。
ただ、最後の言葉だけ違った。「~であるからして、皆さんもこれからも、この宗教を広めることをもっともっと頑張りましょう」という内容の言葉で締めたのだ。「広布」という単語を使っていたと思う。
葬式の最後は喪主の挨拶だ。メモを見ながらも自分の言葉で、故人が如何に家族や友人を愛し、愛されて過ごしてきたかを語る胸にしみる挨拶だった。俺はまためそめそ泣いた。ただ、ラストだけ違った。突然メモを読み上げるようにして、自分の言葉じゃないお決まりの文句のように「これからも広布に励んでまいります」的な言葉で締めた。
正直なところ、なんなんだ、って思ったよ。
どんな宗教を信じたってかまわない。心底良いと感じているものを好きな人におすすめするのだって自然だ。俺はやらないけど、故人が夫婦で信じた宗教なんだから否定したくないし、故人の本望なのかもしれない。
でもなんで、最後の最後で、会場にいる仲間に「これからも我らが宗教を広めるのを頑張ろうぜ」って言葉で締めくくらなきゃいけないんだ。親族にとっては、ご友人にとっては、故人を偲ぶ会で別れを惜しんでいる俺らにとってはそれは「求めてないプラスアルファ」だって感じた。なんで故人を偲んで終わりじゃダメなんだ。なんでなんだ。
俺は、俺の葬式では同じようにしてほしくないって感じたよ。例えば俺がものすごい極端なジャイアンツファンで、弔問客の9割がジャイアンツファンで坊主もジャイアンツファンだったとしても、最後の最後で誰かに「だからジャイアンツ優勝を祈念しましょう、ファンを増やしましょう」とか言われたくない。俺がジャイアンツ狂いなのかもしれないけど、それじゃなんだか……バカみたいじゃないか(ジャイアンツファンの方、関係者の方、すみません。たとえ話です。他意はないです。俺、野球興味ないのにごめんなさい)。
葬式を終えた今。それまでその宗教は「自分にとって良くわからないもの」というステータスだったけど、今はなんとなく、「故人の葬式を利用しようとしている」という点で、ネガティブポイントが追加された状態です。なんなんだあれ。なんなんだ、って思ったよ。
2011年12月31日、僕の父方の祖父、父の父が亡くなったと田舎から連絡が入った。
葬儀は三が日が明けた4日になるそうだ。父の田舎の風習で、先に火葬を行うとのことで、火葬を3日、葬儀を4日に行う予定だ。
父は長男なので、当然喪主となるべきところなのだが、数年前に脳卒中をしており、言葉と体が不自由だ。
近しい親戚がいるので、その親戚が喪主をすることになる。本来は長男である父がすることであるのはわかっているのだが、
挨拶が満足にできない、歩くのも立ち上がるのにも時間がかかる父が、喪主のような忙しい役目は果たせない。
親戚が喪主を務めることには誰も反対しなかった。大晦日の時点で、祖母もそれを了承していた。
我が家は田舎から離れているので、2日には現地入りができるように移動手段・ホテルの手配をした。
ここでも本来ならすぐにでも駆けつけなくてはいけないのだが、31日はまだ帰省ラッシュであり、新幹線も飛行機も取ることができなかった。
ここからが問題なのだが、1日年が明けた頃に親戚から連絡があり、父は出席をしないように、と母が言われたのだ。
田舎では、脳卒中のような病気で障害をもつと、狐に憑かれたとか、祟られたと思われるというのである。
父が脳卒中をして体が不自由なことも祖父母は近所に話をしていなかったそうだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
実の息子である父が、障害を持っているからといって、葬儀に参加できない理由になるだろうか。
そりゃあアメリカだって創造論や神の存在を一般市民が信じているのだから、日本の片田舎の住人が狐の祟りを恐れていても不思議じゃない。
しかし、親の死目に立ち会えなかった父が葬儀に出れない理由にはならないだろう。
無理解ゆえの憤りを、これほど覚えたことはない。
もちろん親戚や祖母も、父には来て欲しい気持ちがあるのだ。それは分かっている。
だからこそ、世間の目のために葬儀に出席できないというのは、やりきれないのだ。
父は言葉が不自由だからか、葬儀に連れて行かないことを告げても何も言わない。
おそらく田舎の考え方が分かっているのだろう。しかし、葬儀に出たくないはずがない。
普通の家庭なら、親の葬儀にはなんとしても参加したいはずなのだ。どうかしている。
長男不在のまま、長男の息子として出席する。おそらく何かしらの役目を果たすこととなるだろう。
きっと会ったこともないような祖父の知り合いなどに、父は病気で来れない、とか嘘をつくだろう。
そう言うように、という説明を親戚なりから受けるのだろう。
どのような顔をして親戚や祖母に会えばいいのか、まったく分からない。
親戚に不幸があって、約一年ぶりに帰省したんだけどさ、田舎の葬式マジすごい。
なにがって、とにかくデカい。
だいたい、220~250人くらい来てるの。
そういや、昔うちで葬式やったときもこれでもかってくらい人が来たが、そのときは驚きはしなかった。
椅子の数でだいたい人の数がわかるし、故郷を離れてから出席したほかの葬式もセレモニーホールだったんで、それらと比べることが出来るしで。
平日だってのに。
始まる前に腹ごしらえして「気合入れていくぞー!エイエイオー!」じゃないけど、そんな感じのノリでみな戦闘モード。
なんなんだろうな、この壮大なムダは。
最近、「坊主はボリすぎ」って意見がネットで散見されるけど、個人的にはそうは思わない。
むしろ、都会の葬式と同じ料金だったら割りに合わないと思う。
人が多けりゃ焼香の時間も長いし、部屋が大きければ声も上げないといけない。
今回なんか納棺前に「和尚さんどうぞどうぞ」通夜が始まる前に「どうぞどうぞ」終わったあとに「どうぞどうぞ」、葬儀前にry,葬儀後にry
といろんな人にひっぱられ、飲まされ、とまあそんな感じだし。
なにより、200人以上いる前で説法だし。
まあ、それよりお金の問題じゃない。
どうせ故人が生前貯めた金だ。
どう使おうが構わないと思う。
なにが無駄って、平日だってのに、みんなそんなに暇なの?ってとこだ。
「野菜もってけーれ、スーパーだとお金だして買わないとだけど、もってけばタダだべ。コメ用意してやるから、またけーってこい」
おいババァ、葬式の後の会話がそれかよ。
タダってあんた、ガソリン代いくら使ってきてると思ってんだ。
ちなみに、この地域では町内会の草刈りのため息子(といってももうすっかり中年だが)が有給とって東京からやってくる、などということがザラである。
町長、ちっぽけな一人の町人の葬式に出たりしてないで仕事しろよ。平日だろ?
まったくもう、イライラする。
無神論者なんで、故人を偲ぶとかそういうのはどうでもいいけど、どうなんだろうなぁ、このドタバタ感。
でも逆に、忙しいくらいのほうが遺族は悲しみに沈まなくていいのかななんて思ったりする。
それでもなお、やだ。
お願いだから自分の親には、葬式はしないでくれという遺書でも残して欲しい。
250人っていったら、一人と2分ずつ挨拶したって500分だろ?
死ねるわ。
5年ほど前に、夕方に職場で突然倒れて救急車で運ばれ、そのまま入院した。
両親には連絡がつかず、実家近くに住んでいる妹に連絡がとれたので、会社の人が来てもらうようにお願いしてくれた。
当時の妹は身重で、近所でパートの仕事中。なんとか都合をつけて、電車で1時間半くらいの距離をかけつけてくれた。
すぐに必要なもの(下着とか)を買ってきてくれたり、手持ちがないだろうとお金を貸してくれた。
ありがたく受け取って、入院生活を乗り切った。(借りたお金+経費相当分は退院後すぐに返しました。お礼つきで)
ここまでは「姉妹ってありがたいなぁ」と感謝してたんだけど、問題はそのあと。
ことあるごとに「私は身重で大変だったのにあんなにしてあげた」と言われる。
最初の半年は「ほんと感謝してる」。次の半年は「ありがたかったよ」。
でも1年以上経っても同じように恩を売ってくるのには閉口して、次第に腹が立ってきた。
結婚のお祝いをあげて食事をご馳走しても、式にも呼ばれず妹ダンナと顔合わせもなくお祝い返しもないことも、
(海外で2人だけの挙式+新婚旅行。新婚旅行のお返しは数ドルのチョコレート)
出産後の退院帰宅を手伝ったことも、(妹ダンナからはアドレス確認用テストメールと「生まれました」メールのみ)
子供に障害があるかもしれないと騒ぎ立てるのをなだめ続けたことも、(夜中に電話とメールを3ヶ月ほぼ毎日)
妹の気晴らし雑談につきあうために毎月呼ばれることも、(休日に片道2時間かけて行く。食事代とかもろもろはこちら持ち)
頻繁な子供話日記メールにつきあわされて、返事を強要されることもいやだった。
短い返事で済ませたり子供を大げさに褒めないと「愛情が足りない」あげく「たった一人の甥がかわいくないの?」
当日の夜8時までに返信しないとイヤミのメールが届く。こっちが残業でヘトヘトな終電帰りであっても。
突発とはいえたった1回お世話になっただけで、こんなにもご奉公しなきゃいけないのか?
どうしても耐え切れなかったので、連絡を絶つことにした。まずはメールの返信をしなくなった。
それでもずっと送ってきたので放置していたら、「返信しないなんて人間としてありえない」と言われた。
私が連絡したいことはほとんどないし、妹からの返信に困る日記メールを受けたくないと言ったら、
「じゃあ○○家と一切縁を切れ」「両親とも連絡するな」
(両親の葬式の喪主の話を振って「私はもう○○家の人間じゃないから」と言ったくせに)
なので、両親には申し訳ない気もするが、実家もひっくるめて連絡しないことにした。
一度メールがきて「そろそろ謝ったら許してあげなくもないよ」と書いてあったけど、鼻で笑い飛ばして削除した。
ついでに迷惑メールフィルタに登録したのでもう届かなくて済む。
妹と親は近居でべったり。親には妹に都合のいいような話が伝わってると思うので、連絡したくないし。
さすがに先日の地震のときは親に連絡を入れたけれど、それだけ。
いい年して大人気ないのも十分わかってる。
1.増田
・出たい
・出たくない
2.母
・出てほしい
・出なくてもいい
3.親戚
・出てほしい
・出なくてもいい
4.祖父
・出てほしい
・出なくてもいい
この四者視点を複合的に考えた結果の
弔い方なのかもと思ったけど
増田は一言も「行きたくない」も「行きたくない理由」も書いてないよね。
せいぜい「行きたくない人は行かなくていい」止まりだし。
祖父と何があったかしらんけど、そこをぼやかす理由が分からんし、分からんと何も言えないよね。
あとは、今回は増田の祖父の話しだけど、母親の時はどうするんだ?
母は葬式出ろと言うならば、少なくとも母は葬式をやって欲しがっているわけだし、長男の増田に葬式の仕切りをやって欲しいと思っているだろう。
#だいたい前の人を見ていれば分かるけど、間違えて柏手を打たないように。
#外国の人だと分からなくて柏手打ってしまった場合を見たことがある。
http://www.a-sougi.com/2007/10/post.html
■焼香の仕方(一般的な立礼焼香の場合)
1:順番が来たら後ろの人に会釈する
2:焼香台の少し手前で僧侶⇒遺族の順に一礼して焼香台の前に進む
3:遺影を見つめて一礼し、1歩前に出て合掌する(手を合わせる、数珠は左手)
4:左手は合掌の形のままで、右手(親指・人差し指・中指)で香(抹香)を軽くつまみ、顔(目の高さ)の前で捧げる
5:静かに香炉に香を落とします(宗派などによって異なりますが1~3回繰り返す)
6:再び遺影に合掌して一礼する
7:前向きのまま少し(3歩くらい)下がり、僧侶・遺族に一礼して自席に戻る
トラックバックの仕方ってこれであってるのかな?
・ハロワ行ってきました。既卒ITだと驚くほど仕事がありました。
使えないとか言っていじめられるのが怖すぎて応募できませんでした。
・「これからのほうがもっと大変。これくらいで死にたいとか甘い」みたいな人。
ならこの先も生きて行くのはもっと嫌です、いまのうちに死にたいです。
もういいでしょ。
・ぼーっとしてなーんにも考えたくないし考えられません。
実はこないだ書いたときには、
中学の友達とか元彼女とか、親しかった人と飲んだりしてきました。
お別れしてきたつもりです。
大学生になり自分が賢くなるに連れて親父の凄さが分かってきたところだった。本を読めば読むほど知識が増えれば増えるほど、政治経済から歴史に至るまで親父の知識の量と見識の深さに気付くようになり親父と話すことが一番の楽しみになり、話せば話すほど俺の考え方も知識も問題に対する切り口も論理構成力も一段上へと進化していっているところだった。自慢の親父で本当に尊敬していた。そんな時間が当たり前のものになっていた。
しかし親父は単身赴任をしていて50を過ぎているのに平日は一人で暮らしていた。週末帰ってくるので2日しか会えなかった。それでも平日は親父が購読しているメルマガから面白い部分を抜粋し俺転送してくれていて、週末帰ってきては趣味化しているコーヒーを豆から買ってきて自分で入れて飲ませてくれるのだがこれがまた最高に美味かった。
身長を高校生の時に数センチ抜かし体型はここ10年で明らかに太り、ハゲかかって前髪が後退した額は俺に将来の毛根の不安感を与えるのには十分だった。そんな日常は当たり前のものだと思っていた。
日曜日、俺はいつも通りバイトを終えて携帯を見ると着信が死ぬほど入っていた。
ー 親父が死んだ
そこからはよく覚えてないけど、心が折れた母の代わりに喪主を務め、葬式にきた人間からは「しっかりしている長男さんだね」とか「20歳なのに精神力強いわね」みたいなことを言われていた。
実態は、想像もし得ないことがあっさりおきたので気持ちの整理がつかなすぎて、感情が崩壊していたのだと思う。涙も出なければ死に目にあえなかったことも特段なんとも感じなかった。ただそこには、親父が死んだという事実しかなく、それを受け入れる準備ができていなかった分、その死がただただ自分の生にとって一つの通過点でしかないと本能的に感じていたのかもしれない。
親父が死んでも空の色は同じく、世間ではアホカップルが愛を誓い合い、時は流れ明日は必ずやってきた。しかし変化は微妙にあらわれる。
まず、平日、親父からメルマガが転送されなくなった。奇しくも、最後の転送されたメルマガは「戦争による死の矮小化」だった。土曜日がきても親父は帰ってこなかった。そしてコーヒーは入れられていなかった。しかたなく、自分で入れることにした。そこで始めて涙があふれた。
親父の記憶とともに膨大な後悔が脳裏に浮かび視界は水没した。こんなことすればよかった、こんなことしてやればよかったということ。もしこの日に死ぬと分かっていたのなら、もっと多くの時間をそしてもっと多くの感謝を形にしていた。その後悔が脳を壊し心がなくなったような衝撃が俺を襲い視界は真っ白になった。
俺は夢から覚めた。
あまりにリアルすぎる夢で焦ってリビングに行くと親父がコーヒーを入れていた。
「おはよう」
この日常が当たり前のものではなく奇跡の連続だと感じるようになった。
さすがに神が存在するのかと疑った。
ここまでリアルな夢を見るということ自体はたしかに縁起の良いことではないかもしれない。しかし、縁起が良かろうが悪かろうが、自分の家族、大切な人はいつかは必ず死ぬ。それが明日なのか20年先なのかはわからない。しかし、死なれた時にになって初めて後悔するのは馬鹿だ。大切な人が生きているイマを強く意識することで感謝を形にすることができる。その感謝の積み重ねがいずれくるべき時になり事実を受け入れることができるようになる。だから縁起がどうこうではなく、一度自分の大切な人の死をリアルに考えることが必要なのかもしれない。軽々しく死を扱うなとかは的外れな指摘だ。事実、命は軽く他人の死も一つの出来事にすぎない。
一方で自分の死んだ後を想像する人間もいるがそれは多いに間違っている。死後どう思われたいかなんて考える時点で宗教狂だと認定していい。死んだらそこで俺らの人生は終わる。死後にあるのは無であり実質そこには何もない。死後が現在を規定するというならどうやってそれを確認するというのだろうか。(これも一つの宗教なのかしら
死ぬの対義語は生まれるであって生きるではない。
生きるというのは状態であり対義語は死んでいるである。
だから、自分の生の流れの中に他人の死は起こり、自分の死はその生の流れを止める。
俺は常々目標や夢はその状態になっていないということが原因で自分に対するプレッシャーとなってブーメラン化する心の負債だと表現している。その原因は夢や目標といったものが極めて前向きであるからだ。今よりよくなるということを想定しているためどうしても向上的なものになる。しかし死について考える時、俺らはとんでもなく後ろ向きな仮定から始める。例えば「今日、母親が死んだ」とか「彼女が死んだと連絡があった」ということを考える時、俺らは、そうなってほしくはない未来について考えるためそれは心の負債にならない上に、もし本当に死んでしまった時への心構え、さらには後悔しないためにやれるべき事をやっておこうと考えるようになる。
http://anond.hatelabo.jp/20101125170955←このURLをクリックすると、「彼女が死んだ話」という日本語で書かれた、小説らしきものが読める。
思うところは人それぞれだろうから、僕もこれから彼女が死んだことを書き綴ろうと思う。
僕は生まれも育ちも同じ県で、地方の市立小学校に通い、そのまま市立中学校に進学した。
僕は、友達がするから、という薄い理由で吹奏楽部に入り、黒いから、という浅い理由でクラリネットを選んだ。オーボーは先に取られた上での、消去法だ。金も銀も好きじゃない。だいいちあすこの喇叭は緑青がびっしりで、磨きに失敗して管体は凸凹し、リペアに頼らない修復をしたおかげかバルブがありえない方向に曲がっていた。それでもあれは死んでないらしく、バズィングを終えた後マウスピースを填めて息を吹きこむと、ぼへーという気のない音が部室に響いた。
さて、吹奏楽部には定期演奏会というものがある。いわゆるおけいこの成果を、街の皆様方にアピールしようというわけである。しかしそれは建前であり、実際のところは街のお店から広告費をせびり、部員の家族うちで盛り上がろうという、極めてクローズな発表だ。広告主もたかだか三年むすこむすめがその部活に在籍していたというだけで、今後十数年、あいや数十年集られることになるとは、まさか夢にも思わなかったに違いない。
定期演奏会とはまじめなコーナーとふざけたコーナーの二種類楽しめる、ニコイチのようなものだ。先述したよれよれの金属体が、ぼえーとむせぶ、ゆるゆるなたいこが、どぅゎんどぅゎんと悲鳴をあげる。ニコイチでオトクな気分になろうとしても、こんな音では身内とて地獄であろう。
その定期演奏会では大抵、三年生のひとりひとりがソロのようなものを任されるのである。ソロのようなもの、というのは厳密にはソロではない、みんなで吹くところを無理に一人で吹かせたり、挙句には前に立たせて、キュプーと吹かせるのだ、たまったもんではない。足りないならば音楽の加工さえ厭わぬとは、正に儀礼、避けては通れぬというものだ。
では、実際私はどうだったか。
クラリネットは全体で10人からなるが、なんとその10人分を私一人に押し付けたのだ。一人で10人分の仕事をしろ、というのである。どんな馬力だ。
だいたいクラリネットというのはそんなに音を重ねても重ねた人数だけ音が増幅されるわけではない。いや、重ねただけ共和せず、うわあんうわあんという不快な耳障りばかりだけが気になるようになるだろう。そんな楽器なのだ、クラリネットというものは。
というわけで、私は一人で揚々とステージの前に立ち、バックバンドのきちゃない演奏に合わせて、これまたきちゃない、でも聴きやすい演奏をしたわけだ。
で、その時にどうやら僕に惚れてしまった後輩がいたようで、演奏会が終わってから告白され、付き合うに至った。これが10年前のことである。
これは先日の話だが、その彼女の葬式を執り行なった。喪主は彼女の兄である。彼女は白血病で亡くなり、僕にはどうすることもできなかった。来年には結婚しようという、ながい交際も一区切りするかしないか、といったところだ。
彼女は高校、大学と付き合いを重ね、別な学校に行っても、別な地方に進んでも、毎日の便りは欠かさなかった。彼女にだけはディジタルな年賀とは別に、葉書に依る絵と言葉を惜しまなかった。どうやら親にはバレていたようで、手段を変えてくれとメールで痛切に頼まれたものの、僕はそれをしなかった。思えばある意味で常識に欠けた配慮だった。
彼女の容態が不安定になったのはつい一昨年のことであるが、大学四回生で、卒業論文を控えていた僕はそれでも彼女の見舞いに時間を割いた。夕日を背景としてこちらを向く彼女は美しい。彼女の一挙手一投足が僕の人生の肥やしとなっていたのは言うまでもない。
しかしもう彼女はいないのだ。僕も先月親会社の倒産の憂き目に遭い、わずかばかり用意された最後の賃金を受け取り、それでなんとか首の皮一枚繋がっている。先に逝った彼女は僕に死んじゃダメ、とムチャクチャな約束をさせた。彼女のために生きるというのもわからないでもないが、僕は僕だ。僕のやりたいようにやる。
そこで早速駅から降り、歩いて十分とかからないおっぱいパブというところへ足を運んだ。彼女は胸が平均的で、乳首が大きく、吸いついていたとき、揉んでいたとき誠に幸せだったのだが、そのパブは誠に僕のささやかな幸せを叶えてくれた。
バカヤロウ、満たされれば誰でもいいのか、と言われるかもしれないが、けしてそういうことではない。あくまで僕のイマジンを促進してくれるために通うのであり、眼をつぶったとき、そこにいるのは間違いなく彼女なのだ。脱線などしようものか。バカヤロウはお前というものだ。
ときどきふっとやりばのない怒りが静かに湧き上がってきてどうしようもなくなることがあります。
焦点の定まらない分散した怒りで、かつ家庭内のプライベートな問題なので家族以外誰にも打ち明けられません。
文章をまとめるのが大変下手なので、非常に読みにくい長文になることをお許しください。ちょっとした短編小説くらい長いです。もちろん小説の足元にも及ばないほど読みづらくつまらないです。
最初にはっきり言っておくと、私の家族、主に祖母に対する愚痴です。読んでいて気持ちのいい文章ではありません。
ほぼ事実を書いていますが、特定されて困るようなことは変えたりぼかしたりしています。
それでもよければ、聞いてください。
私のうちは父・母・私・妹の4人家族です。
ものすごく仲が良いわけではないし、多少の家庭内事件などもありましたが、おそらく一般的な核家族家庭だと思います。
母方の祖父母と、父方の祖父はすでに他界しています。
父方の祖母は存命ですが、祖父が亡くなったのがもう15年以上前なので、それからずっと父の実家でひとりで生活していました。
父は3人兄弟の次男で、長男と三男はどちらも独身、かつ実家から離れた地域で暮らしています。
うちは父の実家から車で数十分ほど離れたところにあるので、祖父がいた頃からほぼ毎週末車で出かけるのが習慣化していました。
またほかの兄弟が遠方にいるので、墓参りや何かあった時の対処はすべてうちの父がやっていました。(祖父の葬式の際の喪主もうちの父)
幼い頃はそれを特に不思議には思っていませんでした。ただ、少なからず父に負担がかかっていることは薄々感じとっていましたが…
(母方の家族の話は関係ないので書きません)
私が高2の冬か、春になるくらいの頃だったと思います。祖母が転んで足を骨折しました。
その頃祖母はひとり暮らしなので、足を骨折した状態では日常生活に支障が出ます。治るまでうちに一緒に住むことになりました。
一時的なことですが、その間の部屋の割り当てが問題になります。
うちは一見ごく普通の2階建ての一軒家。しかし少し間取りが特殊で部屋数が少なく、ダイニングを兼ねた居間を除くと部屋と呼べるものは5部屋+1部屋しかありません。
2階が父の趣味部屋・父の寝室・母の寝室で、1階が居間と奥座敷、奥座敷と障子で仕切られたフローリングの部屋、その部屋の奥に、後から増築した離れ(物置状態)、となっています。
物置と書きましたが、離れはそれなりに広く、裏口から入るとすぐなので妹が自室として使っていました。
そして、奥座敷とフローリング合わせて12畳ほど?が実質私の居住スペースでした。
(小さい頃は2階の現父の寝室が子供部屋で現母の寝室が父母の寝室だったのだが諸事情によりこのようになってしまいました。別に父母の不和によるものではないはず…)
子供部屋ではベッドを使用していましたが、部屋と一緒に父のものと化してしまったので、私は普段座敷に布団を敷いて寝ていました。
祖母が座敷を使うことになるので、その間私は座敷ではなくフローリングの方で寝ることにしました。
薄情だと思われるかもしれませんが、私は祖母と本当にそりが合わないので一緒の部屋に寝ることなど考えられませんでした。
障子で仕切られただけの物音も明かりもダダ漏れの空間に一緒にいることすら嫌でした。
しかも奥の離れや座敷へ行くために通らなくてはならないところなので、部屋というよりは広い廊下のような空間です。プライベートなどとてもじゃないですがありません。
しかし何か月間かの辛抱だと思い我慢することにしました。
前置きが長くなってしまいましたが本題に入ります。
先にも書いたとおり、祖母が骨折したのは私が「高2の冬~春頃」の話です。
祖母はおよそ1年弱うちに滞在しました。
私が高3の冬までです。
高3の冬と言えば一番大事な時期。いくらマイペースな私といえど焦りには勝てず、根を詰めて勉強していました。
何もなくても、受験が近づいてくるだけでストレスが溜まる不安定な時期です。
そんなとき、先述の理由のために、私が自分ひとりだけになれる空間は家にはありませんでした。
妹が離れに行くたびに私の部屋を通ります。
座敷に行くために祖母が私の部屋を通ります。
私に用があるわけではないから、ノックなんてしません。
それは仕方ないのだと思おうとしました。
しかし、私にとって一番ストレスになっていたことは、祖母の存在それ自体でした。
祖母を邪険に思うなんて最低な人間だと思う方が多いと思います。
でも私は我慢できなかったんです。
夜中にぶつぶつと独り言のようにいろいろなこと(後述)を私に話しかけ続け、私が「もう寝たいから静かにして」と頼んでもやめてくれません。
むしゃくしゃすること(たいてい母との確執)があると、奇声を発し、ものにあたる(ベルトで何かを叩いたり)。
私に対し、母を鬼嫁と言い、またものを盗まれた、この家はとんでもない家だ、早く帰りたい、などとまくし立てます。(後述)
あまりの言い草に、私も少々かっとなりやすいところがあるので勢いで言い返してしまうと、
・あんなに『かわいがってやった』のに恩をあだで返すつもりか
・あの鬼嫁に似たのか。情けない。
・さては何か言われたのか。だから私にそんな口をきくのか。
しまいには
・孫にこんなことを言われるなんて、もう死んでしまいたい
こうです。
私も言い過ぎたなと思うことはありましたが、祖母の方が明らかに暴言を吐いているのです。
聴きたくないから黙ってほしいだけなのに、そう言うと「なぜ被害者の私が黙らなければならないのか」「言いたいことを言って何が悪い」と、聴く側の私の気持ちなど考えてくれません。
ちなみに、母の悪口は私が小学生のころからずっと愚痴られ続けてきました。
また、祖母が私に言ってくることは、母の悪口以外だと大体
・東京の大学になど行くものではない。地元の大学に進学して家から通うのが一番 ←私の意見(行きたい学部など)は考えていない
・私の就職について(公務員か銀行員、もしくは祖母御用達のデパートでなければ認めない) ←私が希望する職業など無視
・父が就職する際、祖父が反対して、採用されていたのに泣く泣く違う職についたという話 ←父をかわいそうだったという割には私をコントロールしようとしている。矛盾しないの?
・学生の男に引っかかってはいけない。働くようになってから結婚できる男を探せ。 ←話はわかるがまだ未成年なのにそんなに生々しいことを言われて気持ち悪い(19まで男女交際経験なしでした)
・お隣の国(お察しください)の悪口 ←昔(戦時中?)一緒に働いていたときよくない人が多かったらしい
・ご近所さんの悪口(わたしの家と、父の実家のご近所さんの悪口。庭の花を盗まれた、服を盗まれた、など)
でした。
私は人の悪口などを言うのも聞かされるのも好きではないので、このようなことを延々と話しかけてこられて精神的になかば参ってしまい、祖母が本当に嫌いになってしまいました。
言い返すと祖母が逆上するだけなので、無視をして布団にもぐりこんでも、布団を剥がしてまで話しかけ、それでも無言で抵抗していると孫にこんな風に扱われるとはなんてひどいあんまりだ、私は死にたくなった、の無限ループです。
しかも高3の冬です。ほぼ毎日それが続いたので、今思うとノイローゼになりかけていた気がします。
私は再三、祖母と隣の部屋で寝るのはいやだと言ったのですが、家族と言えど(母ですら)わかってくれる人はおらず、部屋はそのままでした。
年が明けると足が治っていた祖母はとりあえず家に戻っていったので、祖母が原因かはわかりませんが、センター試験の日に私は謎の胃腸炎を発症し、毎休憩のたびににお手洗いに駆け込んで戻しながらも(汚い話ですみません)受験はしましたが結果は散々でした。
幸いなことに、志望は私立だったのでなんとかなりました。
それにしてもよく発狂しなかったと自分をほめてやりたいくらいです。
しかし、祖母との関係が、今の私の厭世的な性格を作り上げた原因となっていることは間違いありません。
すみません。まだ終わりじゃないんです。
長い飽きたという方はこれ以上お読みにならなくて結構です。
祖母についてもう少し詳しく書きます。重複してしまうところもありますがご容赦下さい。
先に、私が祖母を嫌いになったと述べましたが、受験前のこのできごとが原因で嫌いになったわけではありません。
これも先述しましたが、私が小学生の時から、母の悪口や近所の方の悪口を聞かされ続け、また親切の押し売りをされたためです。
祖母は私の母ともそりが合わず、お互いに毛嫌いしていました。
父と母はお見合い結婚、しかも晩婚です。家庭環境が違いすぎたこともありますが、祖母は母を育ちの悪い、性格の悪い鬼嫁と見下している節がありました。
母が結婚後も家庭に入らなかったことも原因の一つかもしれません。専業主婦だった祖母からしてみれば、父よりも帰りが遅く、夕飯を父に作らせている(実際には父は喜んで料理しています)母には不満がたくさんあったのでしょう。
一方の母も、いい大人の父をいつまでも子供のように過剰にかまう祖母の愚痴をいつも言っていました。
私から見ても少し異常なほど祖母は息子たちに過保護なのです。(40、50の大人に対してです…。)
それで、お互い相手のことをよく思っていないことは明白なのですが、表だっては言い合わず、二人とも私に対して互いの愚痴を言ってくるのです。
おそらく妹も同じだったはずです。しかし妹は要領がいいのか、淡白なところがあるためか、性格がいいのか、あしらい方がうまいのです。
私であればつい言い返してしまうところを、実にうまく受け流していました。
なんというか、正義漢ぶるつもりはないのですが、性格がきついとか、私自身を悪く言われるだけならばまだ抑えようもあるのですが、そんなときは必ず母のことも悪く言うのです。
祖母は痴呆とまではいかないのですが、結構昔から忘れっぽいというか、すぐにものをなくしたりしていました。
大体祖母が自分で置いた場所を忘れるからなのですが、祖母はそれを母のせいにするのです。
母が盗んだと言うのです。
私はマザコンではありませんしむしろ反抗期は母によくつっかかっていましたが、こればかりは母側に同情してしまいます。
これが母に対する集中攻撃であれば(実質そうなのは変わりありませんが)まだ問題は小さい範囲で済んでいたかもしれませんが。
祖母は祖母の家の近所の人との関係も最悪なものにしてしまっていたのです。
かなり前から、近所の誰々さんに何々を盗まれたとか、あげく留守中に家に入られてお気に入りの服を盗まれたとか言っていました。
そして、あまりうるさいので父は祖母の家の玄関と勝手口に監視カメラをつけました。
泥棒が映ったことはありません。
祖母は、私たち家族(というのも嫌ですが)に対してそう喚くだけではなく、夜中に窓を開けて泥棒ー!と叫んで警察沙汰になったり、近所の方の家へ行って、おたくの息子は泥棒だ、というようなことを言っていたらしいのです。
実は私はよく知らないのですが、他にもその地域にいられなくなるようなことをしたそうです。
いろいろなことが積み重なり、骨折が治ってまた一人で暮らしていた祖母は、再びうちにくることになりました。
今度は、前とは違います。半永久的にいることになります。
そしてあいかわらず以前と同じように母(酷い時にはついに父まで)を盗人扱いし、近所の人の悪口をわざと外で言ったりしているそうです。
私はすでに進学した時点で家を出ましたが、そのおかげで帰省するのが大嫌いになってしまいました。
『親切の押し売り』についてですが、
両親が共働きなため、手がかからなくなってくると私と妹は割とほったらかされて育ちました。
もっとも、幼い頃は祖母が毎日うちに来て面倒を見てくれており、それは感謝しているのですが、とにかく祖母は異常に過保護というか、かまってくるのです。
小さい頃から、なにか行事のたびに服を買ってきてはそれを着せてくれたり(それ以外の選択肢はない)していたのですが、物心つくようになってくると私は自分で選んだものしか着たくないと思うようになりました。
しかし祖母が(こう言っては悪いですが)勝手に購入してきた服を、このような言い方はしたくありませんが押し付けてくるのです。
祖母からしてみれば親切というか孫をかまいたいだけなのかもしれませんが、はっきりいって迷惑です。
祖母は買い物依存症といってもよく、服だけではなくバッグと帽子、それに靴は数えきれないほど持っていました。
祖父がそれなりに地位のある人間だったため、祖父が亡くなってからも年金があるので高級品も簡単に買えるらしいのです。
そして、何を勘違いしているのか、自分が着ようと思って買った服などを、自分には派手だから、などという理由で私に着させようとしたりします。
ミセス用の服を着られるわけはありませんし、着たくもありません。ですがいらないと言うと「なんで」なのです。
それ以上にひどいことに、洗ってはありますが明らかに着用後の下着類を送ってきたりするのです。
自分が何歳だと思っているのでしょうか。自分が着用した下着を、孫ならば身に着けると思っているのでしょうか。
また祖母は買い付けの百貨店以外は「安物だからよくない」と決めつけ、私に服を買ってやるというときはそこでしか買いません。
年2回ほど、セール?のようなものがあって、そのときに必ず私や妹に「服を買ってやる」というのです。
それはとてもありがたいのですが、いつも大量に購入した服を送りつけてくるのです。
服って自分のセンスと、サイズってものがあるじゃないですか…。合わなかったら着たくないですよね?
それが昔からずっとなのです。さすがに毎年口をすっぱくして言い続けてきたので、最近では「一緒に行って買ってやる」に変わったのですが…
それでもその時期に帰省できるとは限りませんし、まず大体にして一緒にいるのが苦痛です。
祖母は店員の前で簡単に「安物」「品が悪い」などと言うのです。(ちなみに少し話がそれますが、祖母は今まで自分が買ったものの値段をほぼすべて覚えており、このバッグはいつどこで○万円で買った、このスカートはいくら…というようにいちいち教えてきます。私はそれが本当に不気味です。私が安物のコートなんかを着ていると、ものすごい目で見られるんです。)
祖母に、いらない、と言うと、なんでと言われ逆上されます。
なぜと言われても、服くらい自分で自由に選びたいのだといっても通じません。
そしていい加減に頭にきて私が切れると、また「あんなに可愛がってやったのに」です。
そんな風に恩を着せられるような、そんな愛はいりません。
すぐに「私はお前のためを思って」「私は世界で一番お前を大事に思ってるからこう言うんだ、だから言うことを聞け」と言います。
もう頭がおかしくなりそうです。
今までずっと冗談くさくしか言えませんでしたが、この際父にはっきり言ってやりたいです。
あなたの母親は頭がおかしい。と。
いくら痴呆が進んでいるからといって、自分の母親だからといって、自分の家に引き取って面倒を見ようと思えるのでしょうか。
ある意味尊敬しますが、母や私が受けてきた精神的苦痛は、祖母が家にいる限りずっと続くのです。
父の兄弟はたまに様子を見に来たりしますが、祖母を引き取ろうとはしません。
父はこんなに近くで、こんなに祖母に尽くしているのに、祖母はそんな父を(いつもではありませんが)「親不孝者」呼ばわりしたことさえありますし、たまにきてはまとまったお金を置いていくだけの、父の兄弟の方がかわいいようです。
何年も何年もうちと祖母の家を車で往復し続けてきた父よりもです。
私はそんな父のこともひどく哀れでなりません。
友人がいないわけではありませんが、友人にこんなことは言えません。
自分の祖母の悪口を言うなんて嫌な人間だとしか思われないと思います。
でもまだ実際ここに書いていない(書けない)ことがまだ山のようにあります。
私は故郷が好きなので、帰りたくないわけではないんです。
でも、家には祖母がいると思うと…
そんな風にみんなが苦痛を負いながら、むりしてうちで面倒を見る意味ってあるのでしょうか。
入院させてしまった方がいいんじゃない、という言葉が、何度私の口から出かかったことか。
でも父にそんなことをとても言えませんでした。
もしかしてこんな家庭はよくあるんでしょうか。
私のような思いをしている方は実はたくさんいるんでしょうか。
今はとにかく、帰省するのに気分が重いです…。
このような長文&駄文をもしもここまで読んでくださった方がいましたら、お礼を申し上げます。
ご気分を害された方がいましたらお詫びします。
これだけ書くのに、気づけば3時間も経っていました。
疲れましたが、ほんの少しだけ何か気が楽になったような気もします。ありがとうございました。
幼い時は頻繁に遊んだりしたが、大きくなるにつれて疎遠になっていた。
一番最近会ったのは、もう2~3年前になるだろうか。
私は県外で一人暮らしをしているので、従姉の自殺は、私の家族からの電話で知った。
その時は衝撃こそ受けたが、涙は出なかった。
悲しくないわけではない。電話の向こうで、涙声で話す母や兄。
でも現実味がなかった。
それよりも、なんで自殺なんかするんだ、という気持ちの方が強かった。
しかし、通夜に参列するために帰省し、会場に着いてからようやくこれが現実のことなのだという実感が沸いた。
いつも気丈に笑っていた叔父叔母の疲れきったような表情、喪服の似合わない従弟の後姿。
正面の遺影で微笑んでいるのは、間違いなく私の従姉だった。
私だけまだ従姉と対面していないから、と叔父に背中を押され、
私は自分の父母と共に棺に眠る従姉のもとへ行った。
母が姪の名前を優しく呼びながら棺の窓(なんてよぶところか分からないが顔だけ見れる窓)を開ける。
そこには、沢山の花の中に眠る従姉の姿があった。本当に眠ってるような綺麗な顔だった。
突然涙がこみ上げてきて、止まらなくなった。
それでも現実味はなかった。
通夜のとき、喪主である叔父の挨拶で、私は初めて彼が泣くところを見た。
冗談を言うのが好きでいつもひょうきんな叔父が、
挨拶を言い終わると同時に、糸が切れたように声を上げて泣いた。
もう誰も泣いてはいない。いろいろな思い出話をしながら箸を進める私達。
従姉はすでに「故人」だった。
通夜の時の叔父や叔母・従弟、そして棺の中の従姉の表情、姪を幼い頃から可愛がっていた私の父母が泣く姿をふと思い出す。
その時、感情が止まってしまう。仕事中でも、家にいる時でも、どんな時でも。
でも、こうやって私は従姉の死を受け入れようとしているのかもしれない。
身近な人が亡くなったのは初めてだからかもしれないが、なかなか死というものを現実として受け入れられない。
こういうものは、時が流れることを待つしかないのだろうか。
それと、自殺について。
自分の身近な人・大切な家族(親族含む)が悲しむようなことはしてはいけない。従姉にはそんな選択はしてほしくなかった。
私は、どんなに辛くても自殺は絶対にしないと今回あらためて思う。
拙い文章を公に晒して申し訳ない。
http://anond.hatelabo.jp/20091023133243
成人した子供に口出しする親ってのは考えにくいなあ。いや、実際いるだろうけど。じゃあさ。歳取って、焼香の列を乱すほど、身体が弱ってしまった親が「子供の嫁さんの親戚だから、出席せねば」と、がんぱって来てくれたら、どう思うのさ? 赤ん坊泣くのもダメで、スローテンポになっちゃった親はいいの? それとも両方ダメなの? 参列しようとしてくれた気持ちはどうするの?
200910240006追記
http://anond.hatelabo.jp/20091023135258
http://anond.hatelabo.jp/20091023135635
「あなたの常識は他人の非常識」って言葉はね。人は誰でも意外と自分の身の回りの狭い範囲で起こっていることを「常識」としてとらえているから、異なる環境に行くと「常識」と思ってやってることが「非常識」と見なされたりするってことだよ。
元増田の環境は「赤ん坊NG」なんて非常識なわけでしょう。一般的に冠婚葬祭は赤ん坊NGったって、この場合は実兄の結婚式でOKでもいい場合だよね。
奥さんの親戚ってことにしちゃうと、元の話とズレて「たとえ話」にならないってことは理解したんで、元増田に死んでもらうけどさ。喪主は当然奥さんなわけで、奥さんは「赤ちゃんNG」なんだから、赤ん坊を置いてくる方法がなければ、実兄の葬式に妹さんが出られないことになる。あり得ないでしょ? そこんとこ、元増田の奥さんが呑み込めないなら離婚しかないと思うんだけどなあ。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090821ddm041010083000c.html
こうした記事を読んだ人は、おそらく「どうして回転寿司で20皿以上も食べるのか。しかも毎月。意味が分からない」と思うだろ。もっともだ。その月に一度の贅沢をしなければ、すぐにスーツくらい買えることもわかるだろう。当然だ。
だがこのような報道だけで、「生活保護」と言うものを考えないで欲しい。
この記事はそのために、かなり覚悟をして書く。
私の同級生のKちゃんは、背の高い女の子だった。
彼女は学校が終わった後、家に帰ってすぐに着替えて、スーパーのクリーニング屋さんで毎日アルバイトをしていた。私たちは高専生だったので、実験などでどうしても、それがかなわない日もあったが、それを除いてほぼ毎日だ。
父は元々ヤクザで体を壊して働くことも出来ず、母は統合失調症に苦しみ実年齢よりは十以上も老けて見える人だった。妹はまだ中学生だったが不登校だった。
Kちゃんは奨学金で学校に通っていた。無論、成績を落とすわけにはいかない。彼女がクリーニング屋さんでアルバイトを選んでいたのは、凄く賢いアイデアだった。お客さんの少ない時は勉強する余裕があるし、スーパーの中だから安いものを買って家に帰ることも出来る。
「生活保護」の関係で毎日働いても、Kちゃんの給与は2万円程度だったと言う。だけど、Kちゃんはそれでも真面目に働いて、いつか役に立つと信じて貯金を続けた。しかもそれだけの事をやりながら、学科で常に3位以内という成績を保っていた。
ある時、Kちゃんが左目のあまりに青あざを作り、眼帯をして登校してきた。本人は周囲に驚かれると「転んでぶつけたの」と笑って見せていた。だが、もちろんウソだ。あれは父に殴られたためなのだと、私は偶然知っていた。
こんな漫画の様な言い訳を実際にして、周囲に笑いかける人間がいるなんて。
あまりにも残酷で、当時の私は彼女になにをしてあげるべきか、解らなかった。ただ真実を隠しておくべきだと思い、いつものように学食のメニューでなにがお得か、相談したりしていた。
卒業を間近にして、Kちゃんの父が他界した。
周囲は「あの父がいなくなる」事を喜んでいる様子すらあったが、Kちゃんは泣いていた。例えどんなことをされても、やはりお父さんだったのだろう。この頃、高校に進学できなかった妹さんもまた、うつ病になり苦しんでいた。だが通院しながらも、まるで姉の背中を見るように、アルバイトを始めた。
そして、卒業後。
Kちゃんは就職を選んだ。高専の学科で3位以内と言えば、普通は「進学して当然」だ。だが、それによって収入が得られないリスクから、彼女は「母と妹違う家庭」で、自分で生活費を稼いで働くことを選んだのだ。こうすれば「生活保護」のままでも、自分がいない分、生活が楽になるのだから。
数年後。Kちゃんの母が他界した。見つけたのは妹だという。
Kちゃんに「お母さんがトイレで死んでいる」と言う電話がかかってきたらしい。私自身、様々な事情があり、その頃偶然自宅がKちゃんの実家のすぐ近くだったので、事実を知り駆けつけた。
喪主はKちゃんだった。彼女は残業続きの仕事から、車で高速を走って急いでやってきたのに、ほとんど疲れた様子も見せずに毅然と振る舞い続けていた。
今、Kちゃんは幸せになっている。
偶然仕事で再会した同級生と恋愛し、結婚し、子供をもうけた。妹も病気が回復し、自分の意志で勉強などを行っている。近いうちに、学生時代にKちゃんと一緒に働いた貯金のおかげで、高卒の資格を取れるはずだ。
これはあくまで、私が出会った一例にすぎない。
だが本来「生活保護」は、Kちゃんのような人間が、こんな風に当たり前の幸せを手に入れるために必要で、そのためにあるのだと、私は信じているし、出来ればこれを読んだ人にはこの意見を共用して欲しいと思う。