2010-05-22

身近な人の自殺

従姉が20代の若さ自殺した。

幼い時は頻繁に遊んだりしたが、大きくなるにつれて疎遠になっていた。

一番最近会ったのは、もう2~3年前になるだろうか。

私は県外で一人暮らしをしているので、従姉の自殺は、私の家族からの電話で知った。

その時は衝撃こそ受けたが、涙は出なかった。

悲しくないわけではない。電話の向こうで、涙声で話す母や兄。

でも現実味がなかった。

それよりも、なんで自殺なんかするんだ、という気持ちの方が強かった。

しかし、通夜に参列するために帰省し、会場に着いてからようやくこれが現実のことなのだという実感が沸いた。

いつも気丈に笑っていた叔父叔母の疲れきったような表情、喪服の似合わない従弟の後姿。

正面の遺影で微笑んでいるのは、間違いなく私の従姉だった。

私だけまだ従姉と対面していないから、と叔父に背中を押され、

私は自分の父母と共に棺に眠る従姉のもとへ行った。

母が姪の名前を優しく呼びながら棺の窓(なんてよぶところか分からないが顔だけ見れる窓)を開ける。

そこには、沢山の花の中に眠る従姉の姿があった。本当に眠ってるような綺麗な顔だった。

突然涙がこみ上げてきて、止まらなくなった。

それでも現実味はなかった。

通夜のとき、喪主である叔父の挨拶で、私は初めて彼が泣くところを見た。

冗談を言うのが好きでいつもひょうきんな叔父が、

挨拶を言い終わると同時に、糸が切れたように声を上げて泣いた。

通夜が終わり、遺族を含めた親族で会食をする。

もう誰も泣いてはいない。いろいろな思い出話をしながら箸を進める私達。

従姉はすでに「故人」だった。

通夜葬儀を終え、私はひとりで自分アパートへ戻った。

通夜の時の叔父や叔母・従弟、そして棺の中の従姉の表情、姪を幼い頃から可愛がっていた私の父母が泣く姿をふと思い出す。

その時、感情が止まってしまう。仕事中でも、家にいる時でも、どんな時でも。

でも、こうやって私は従姉の死を受け入れようとしているのかもしれない。

身近な人が亡くなったのは初めてだからかもしれないが、なかなか死というものを現実として受け入れられない。

こういうものは、時が流れることを待つしかないのだろうか。

それと、自殺について。

自分の身近な人・大切な家族(親族含む)が悲しむようなことはしてはいけない。従姉にはそんな選択はしてほしくなかった。

私は、どんなに辛くても自殺は絶対にしないと今回あらためて思う。

自分の大切な人達のあのような姿はもう見たくない。

拙い文章を公に晒して申し訳ない。

でも自分自身のためにも、読んでくれる誰かのためにも、このことは残しておきたい。

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