はてなキーワード: 判別とは
2年半も前に書いた時には全然ブコメ付かなかったもんがなんで今更ブクマついてんだよぉぴえん
増田としては「パス度の高いMtFは、恐らく現状でも密かに性自認と同じ風呂やトイレを(問題が起こらないように)密かに使用しているはずで、そこを下手につついて『MtFは一律解禁/一律禁止』と明文化して白黒つけてしまえば、シスの女性かMtFのどちらかに不利益が生じる。よって、現状通りグレー運用のままにしておいた方が良いのではないか」というのが当時も現在も変わらない意見です。
ーーーーー(↓以下からは2019年の5月に書いたもの)ーーーーー
MtFトランスの風呂トイレ問題が盛んに(自分の主観ではMtFの方々当人をほったらかしにして)取りざたされているようだが、自分は世間の一部が邪推するように、彼女らが女風呂で堂々と男性器を晒して周りの女性を怖がらせるようなことをするとは思わない。
自分を含む多くの女性は、ある日自分に男性器が生えてきたとして、それを同性の赤の他人にあからさまに見せびらかそうという発想を持たないはずである。男性の事情はよく知らないが、少なくとも女性に関しては、浴場で他人の裸体をジロジロ見るのも、生えていようがいまいが自分の裸体を人に無理やり見せつけようとするのも一般常識に外れた行為である。
MtFの知人を持つ人が「知人は適合手術をしてないけど女風呂に黙って入るし何も言われていない」と書いているのを時々見かけるので、つまり彼女らはそのような「一般的なマナーに沿った入浴」をしている結果、入浴拒否されることも女湯から追い出されることもなく、自然に性自認に沿った入浴を楽しめていることになる。
これはトランスの入浴が公に認められたとしても同じことだろう。心が女性の人が、わざわざ風呂に入るために他の同性から奇矯な目で見られるリスクを望むわけがないのである。ちゃんとそのリスクを避けるためのなにがしかの知見が共有されているのだろう。
そう考えると「MtFトランスの入浴」と「女湯によこしまな目的を持って入ってきた男の入浴」はまるで性質の違う別物であるとなんとなく理解できるように思える。
ただし、互いに裸体を見せびらかすこともジロジロ見ることもなく普通に入浴を済ませた場合、「MtFトランスの女性」なのか「MtFトランスを自称する(女装した?)性犯罪者」なのかについて外見だけでは判別できず、恐らくシスの認識における是非の論点はそこなのだろう。
(これについては自分も納得のいく対応策を思いつけずにいる。そもそも現状の男湯と女湯でも、性対象が同性の人は何ら罪に問われず自らの性対象の裸体を窃視できているからである。だからといってゲイは異性の風呂に入れ、あるいは公共浴場に入るなとはならないし、ゲイであること/ないことを証明しろとも言われていない)
けれど我々物知らずのシスがそうやって見当違いの場所をつつき合っていても意味のないことで、恐らくMtFトランスの人の望みは、性自認通りの性別のお風呂やトイレに入る時「貴方男ですよね。入らないでください」と言われない自由、その中でシス女性と同じように、迷惑行為を行わず排泄や入浴を行う限りは、他の施設利用者から「貴方男ですよね、出て行ってください」と言われない自由を獲得する事だけではないかなと思う。
「私は心が女なのだから、女湯に入って堂々と生まれ持ったままの男性器を露出する権利がある」とか、「外見が男性的であろうが、私は心が女なのだから女子トイレや女湯に入れないのは差別だ」とか、「男性器を見て女性が脅威を覚えるのは男性あるいはトランス女性に対する差別だ」とか言っているのは、恐らく我々シスの心の中にいる無知と偏見にまみれたMtFトランスでしかない。
我々がトランスジェンダーの方々を正しく理解するために必要なのは、前述した「無知と偏見にまみれたMtFトランス」という虚像を(揶揄、危惧などどんな意図においても)実在するかのように喧伝しないことと、「どのような差別の指摘をもっても、迷惑行為が正当化されることはない」という立ち位置を決してブレさせないことだと思っている。
ただ風呂に入ることを目的として、他人を不快にしたり、怖がらせたりしたい人なんかどこにもいないのだ。他人を不快にしたり、怖がらせたりするために風呂に入ることを手段にする輩がいるだけだ。
そしてそれは、風呂場やプールで人に刺青を見せ付けて萎縮させる行為と同じように、身体上/精神上の性別の如何を問わず許されないことである。
ただ風呂に入りたいだけなのに、自分の生まれ持った体の特徴の一部が誰かを恐怖させる事がある。しかし他人を怖がらせたくはない。そのような時に自分ならどうするかを考えれば誰でもわかるはずだ。
「私の生まれ持った体の特徴の一部を怖がるのは差別だ。私は私を怖がる差別者のために体を隠す必要を感じない。怖がる差別者が出て行くか、怖がらないように心を改めろ」と、怖がる人を追い出すだろうか?
彼ら自身がそれを望んでいて、自らそれを発言するなら自分には何も言うことはない。しかし彼ら自身がそんなことを望んでいると自分は思わない。
いくら外見が男性だからといって、女の心を持って生まれ育った身で男湯に入る不安を知っている人が、同性に同じ不安を押し付けたいと望んでいるとはあまり考えたくない。
と言うのなら、そもそも「男女限らず、誰かと寝たいなんて思ったことがない」女性も多いんじゃないかと思うけど
従来の性的志向云々って、男性の感覚で決められた概念じゃないかと思うんだよね
男性なら「誰に対してチンコ立つか」で大体わかるし、「相手は女でなければ絶対に嫌だ」と思ってる人がマジョリティってのもそうだろう
でも女性だとそもそも積極的な性欲を持たない人も多いし、立つチンコもないし、
相手がセックスしたいと言ってきてそいつが別に嫌いでもないとか、セックスすれば何か特になる状況ならしてもいい、って程度の人も多いんじゃないか
でもってそれが(自称異性愛者でも)男でないと絶対に嫌だって人もさほどいないんじゃないかと思っている
証拠出せと言われたら困るけど
プラレールの名前をどんどん暗記していく。新幹線系は余裕で、E5系はやぶさとかE3系つばさとかはかなり早い時点で覚えた。
微妙な違いの在来線にも強く、JR四国2700系とか、京浜東北線とかもマスターしてる。
型番まで覚えてるのがすごい。
数字は若干適当だけど、ある程度覚えていたり、プラレールは物によっては、ひらがなやカタカナだけでも判別できたり。
ジャンプの練習に踏み台があるんだけど、手すりがあるところに勝手に移動させたりもして、頭を使って身体を動かせる。
よちよちだけど、ストライダーもできるし。(身体が小さいからね~)
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いや、書いてて思ったけど、ただの親ばかでした。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
こういった大学の話になると、全く登場しないことで(自分の中だけで)お馴染みの北海道大学。きっと旧帝大の中では人権が与えられていないので遠慮しているのだろう。
ということで、帰省したものの朝まで寝付けなかった私が、タバコを吸いながら書いてみようと思う。完全なる自分語りとなることを許して欲しい。
生まれも育ちも北海道だったため、なんて事のない普通の市立中学に通っていた。しかしながら、赤ん坊の頃に白内症を患い、日中は殆ど目が見えず、親譲りの喘息と、アトピー性皮膚炎まで完備という、キャラメイク時のステ振りダイスが完全にファンブルっていたため、集団の中では嫌でも浮く存在になっていた。
自然光の中ではほぼ目が見えないので、通学途中に普通に電柱にぶつかったりするし、体育の授業でサッカーなんてやろうものならゴールポストにぶつかったりするし、10cmくらいまで近寄らないと顔も判別できないしで、他の人から見ればどう考えても頭のおかしいやつに見えたことだろう。当然ながらいじめもあった。小学生から中学2年生くらいまでが人生で一番きつかった(しかし小学生6年の時に面白キャラへの展望を見出し、そのおかげで幸運にも友達もいた)。
目が見えない道中はひたすら脳内にイメージを描いて妄想していた記憶がある。
そんか日々の妄想のおかげか、何故か文章能力だけはあったようで、小学生の頃書いたなんかの感想文が先生の心を打って、私に内緒で突然全文プリントに掲載されたり、中学の頃書いた読書感想文では国語の先生から「普段から小説書いたりしているの?」などと言われていたので、自分は将来文字を書いて生きていくことになるのかと思っていた。
そんな私の勉強法はというと、まず白地のノートが見えない(日中は黒板も見えない)ので、一度だけ集中して読み込んで、短期間で暗記することにしていた。なんの参考にもならなくてすまんな。人工光の中ではなんとか目が見えていたので、普通にテスト勉強などはした。
そして同じく人工光の塊であるテレビゲームが私の心の支えであった。喘息がひどくなっても、ゲームに集中していれば、なんとか発作をやり過ごすことが出来た。
ちなみに目は中学3年のときに手術を受けて人並みに見えるようになった。病院から帰る車中で見た、生まれて初めての鮮やかな景色の衝撃は今でも覚えている。
また、小学生の時から通っていた塾で出会った女の子のことを、中学から高校の終わり頃まで片思いするハメになるのだが、その子は頭が良く、とてもレベルの高い高校を志望していた。その子に出来る限り近づきたくて、志望校は少し無理をして高い所を目指したが落ち、このあたりからいよいよ根暗ロードへの扉が開いていく。
特待生だったので格安で通えるという理由だけで選び、格安で通える以外何も良いことは無かった。
例の好きな子のことはいまだに好きで、その子と話すためだけに塾を続けていた。高校二年生の時に人生で唯一告白されたときも、好きな子が居るからという理由で断った。その子は北海道のどこか偏差値の高い大学を受けるらしいということだけは耳にしていたため、その子との関係を続けたいがために、北大を目指した。というのは嘘だ。
実際のところは、高校受験に落ちたショックで完全に無気力になっていた。自分は何をやってもダメなんだと考えるようになっていた。物理や化学のテスト偏差値は当時30とかで、今思えば大学に行けるかどうかも怪しかった。特に行きたい大学も無かったし、先生からも見放されていた。
勉強に本腰を入れたのは高校三年の夏休みの終わり頃だったと思う。いよいよ将来を考えるという時期になった時、私は自分の心を支えてくれたゲームを作る側になりたいという気持ちが強くなったのだ。
そして、ゲームを作るのにはプログラムが必要だということを知り、情報工学系の大学に行きたいと考えるようになった。
そのことを塾の先生に相談したら、何をするにせよ基礎的な学問を学んだ方が良い、そのためには良い設備のある良い大学に行くべきだと言われ、東工大か電通大に行きたいと考えるようになった。
そこから毎日塾でセンター問題を解きまくった。学校の授業中も全て無視してひたすらセンター問題を解き、過去に参加した模試を何度も何度も繰り返した。
偏差値が最低のところからスタートしたのが、結果的に功を奏した。模試の過去問を繰り返すたびに必ず少しずつ点数が増えた。これが凄く面白くて、そこに自分はゲーム性を見出したのだと思う。
また、過去問を解くのに使ったルーズリーフを捨てずに毎日積み上げることにしていた。そこもゲーム化しようと思ったのだ。結果的に、自分のやったことがルーズリーフの山という形で可視化されて、それがモチベーション維持に繋がった。
そして願書を出す直前に受けたセンター模試でかなり良い結果を出し、今まで私のことは眼中に無かった担当教師も興味を示し始めた。
しかし流石に東工大には手も足も出ないだろうと思っていたので、前期も後期も電通大を受けようと思っていた。しかし件の教師にそれを伝えると、前期は北大の情報工学系を受けてはどうだろうかと勧められた。
かくして私は北大生になることが出来たのであった。
当時を振り返ると、理系志望者ながら国語と英語が得意だったため、センター対策も二次試験対策も勉強時間の配分を理系教科だけにほぼ全振りできたのが良かったと思う。
【その後】
どうして「起立性調節障害で学校にいけない状態」を「不登校」ということが問題なのか。
考えた結果、「起立性調節障害で学校にいけない状態」の学生に、不登校の学生と同じサポートをしても
学校に復学することは不可能なパターンもあるっぽいと思ったので書いておく。
文科省では不登校を病気の子供を含まないと定義づけていますが、その定義の中で、不登校の子に必要な対処をいくつか定めて通知しています。
(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1397802.htm)
これを受け取った各学校・機関は、これに従って対応するという流れになっています。
これは「学校に行きたくなくていけない生徒たち」へのサポートなので、メンタル面(気持ち)のサポートと親御さんとの密な連絡などが主です。
「メンタルのサポートのみでは復学できないが、身体機能面でのサポートがあれば復学できる」という生徒がいます。
現在の教育機関などでは正常な対応(身体機能面でのサポートを行うという決定)はほぼ不可能です。
でも、足を失ってしまった生徒がいたとしたら、学校側はバリアフリーの拡充など、できる対処は行うことになっています。
(障害者差別解消といいますが、これは障害者手帳の有無には関係ありません)
起立性調節障害の子も、そうしてもらえれば学校に行ける子もいるのに、
復学のためのサポートがきちんと受けられません。
なので起立性調節障害の子たちが「不登校」として扱うな、というのは、
当事者の子たちが言う「同じ枠にはめないでほしい」という感情的問題とは別に、大きな問題につながっていると思います。
起立性調節障害がどうして不登校という枠組みにはめられてしまうのかは、おそらく下記の問題がある。
1)朝起きれないという独特な症状
睡眠クリニックなどにかかればよさそうだが、起立性調節障害専門のクリニックにのみかかるパターンが多い。
軽症の生徒だけがいた(たとえば親の送迎だけあれば学校生活ができる生徒だけがいる)学校に
突然重症(たとえば立てないため車椅子での学校生活でなければ復学できない)の生徒が発生した場合、
学校側は軽症の生徒と同じサポートだけをすればいいはずだと判断しうるかもしれない。
だいぶ疲れたのでこの辺でやめておくが、おそらくここまで読まれた方は患者本人だったり、親御さんだったり
はたまた教育現場で働く方だったりするのだろうと思う。
皆さんどう感じられているのだろうか、議論はする気はないが、ご意見や気持ちなど耳にすることができれば参考にさせていただきたいと思う。
鯨イルカは手始めとして、肉を食べてはいけない理由に「賢いから、知性があるから」と言う奴はどうにも解せない
それなら動物の括りにある物は皆食べられないだろう
屠殺場の牛が涙を流すから食えないってんなら、同時に苦しそうにまな板でパクパクする魚も食えないし
毎日声をかけると大きく成長する、って主張する野菜にも人の声を認識理解する知性が備わっている
水だって「ありがとう」と言い続ければ綺麗な結晶を作るんだから人の感情という高度な機微を判別してるんだろ、だったら知性あるわ
んで、単純なH2O分子に知性があるならより複雑なパーツで構成される他の成分にも知性があるわけで
勿論理論的に否定する人や、こちらまで主義主張の括りに入れない人には申し訳ないと思っているし、分かり合えはしないだろうけれど理解はできなくはない
料理としての味の良し悪しとか、細かい違いなら分かるんだけど、素材そのものの違いとなると分からないんだが、これって味覚音痴の部類に入るのだろうか。
カレーとか蕎麦とか、そういう料理なら美味いとか不味いとか違いは分かる。
例えば米とかもっとも違いが分からない。流石にタイ米とかなら分かるけど、「ななつぼし」とか「ふっくりんこ」とか違いが分からん。
あと肉でも、ブラジル産の鶏肉と、ちょっと高めの国産鶏肉の違いも分からない。
だから外食とかでも「○○産の素材を使用!」とか書かれていても、料理としての良し悪しは分かるけど、素材の良し悪しが判別付かない。
朱に交われば赤くなるなのか、類は友を呼ぶなのか判別できない