はてなキーワード: 一般ピーポとは
それらも一般ピーポーの枠を出ないよね
こうやってわざわざ文章に取り上げている時点で自分の負けをさらに引き寄せるようなものだと思うんだけど、こりゃあ敵わねえな、と思ったから書いておく。
いま話題のプペルじゃなくって、西野氏がある大学の卒業式講演に来たときの話。俺も現場ではもちろん、動画を視聴したわけでもないんだけど、twitterのキャプチャで見たのね。
それで、たぶん最初に登壇したときの学生たちの反応が、そこまで芳しくなかったんでしょう。西野氏がこんなことを言う(経緯は俺の推測です。念のため)。
「今みたいなバラバラの拍手で西野を迎え入れるのか、それとも全員立ち上がって、西野をあらためて迎え入れるのか」
「僕自身はどっちでもいいんです」
ってやつです。
…
俺はこの画像を見たとき、これは敵わねえな、と思ったよ。というか、なんだろうな、この世界で「西野氏的なもの」にしてやられないように、こいつを回避し続けるのは、相当至難の業だな、と思った。
「どっちでもいいんです」と言いつつ、西野氏の希望は当然、万雷の拍手でみんなが自分を迎え入れてくれることなんだけど、西野氏はたぶん、仕切り直すことで学生たちが自身を全霊で歓迎してくれることを確信していたと思うんだ。なんでかというと、それは別に西野氏がスーパーな人物だからでも、彼へのはちきれそうな期待を学生たちから感じたからでもなくて、むしろ反対に、学生たちにとって西野氏なんて、特に興味もない、当初はそれこそどっちでもいい相手だったからで、西野氏もそれをよく理解していたからだと思うんだ。
たぶん、学生たちにとって西野氏なんてマジでどうでもよかった。だから、最初登場してくる西野氏に拍手していたときも、自分がどんなテンションで手を叩いてるかなんて意識しないで、漠然と手を叩いていただろう。「空っぽ」だったんだ。
それが、登壇した直後の西野氏のひと言で、まず自分たちに思わぬ選択肢が与えられていることに気付かされた。西野氏をもっと歓迎してあらためて迎えるかどうか、という選択肢だ。
そして、みんなで一体になって西野氏を歓迎した方が、どっちかと言えば雰囲気的にハッピーだな、ということを、ここではじめて「想像させられた」。
悪い言い方をすれば、それまでがらんどうのまま椅子にぼんやり座ってたところに、気持ちの部分で血肉が入ったんだ。
俺はその後のことを知らないけど(動画を観たくないから)、たぶん、二度目は割れんばかりの喝采で迎え入れられたんだろう。まるで魔法のように大勢の人を操ってみせた話だけど、こんなの良くも悪くも人間を冷静に観察し続け、相手をナメてかかることができる人物なら手のひらの上の話だ。たぶん、西野氏にしてみれば楽勝だっただろう。
「どっちでもいいんです」という登壇直後の発言も上手い。これが例えば、自分から拍手を強いるような言動があれば、学生の方にも抵抗感がある。歓迎するかどうか、あくまで学生の側に選ばせることで、かつ、自分たちでこの場をハッピーな雰囲気で満たすことができると想像させた時点で、西野氏の勝ち確だったのだ。
そこには「ほとんどの人間は通常何も考えないで生きているし、何にも興味を持たずに生きている。だからこそ、自分たちが主役として何かを選び、決定することができる機会を与えられたとき…自分たちこそこの場を盛り上げられると確信したとき、その魅力から逃れられない」という冷静な人間観がある。これは敵わねえよ。俺もその場にいたら拍手してると思う。きっとね。
…
そういう西野氏が『えんとつ町のプペル』をひっさげてエンターテインメント業界で数字を出せるか…はまた別の話なんだけど、それは西野氏が卒業式で見せたような手法が通じないからじゃなくて、反対に、エンターテインメントの世界こそ、西野氏的な方法が跋扈する世界だからだと思うんだ。西野氏の特異性って、そういう技法を非演芸的な空間で一般ピーポーに容赦なく使用したところにあるんであって、業界としてはありふれた手法、人間観だと思うんだよな。
こういっちゃなんだけど、どの作品のブームを仕掛けるのも、「人間ってやつは99%空っぽで、何も考えていなくて、でも自分には特別な見識や機会が与えられていると信じていて、自分で何かを決めることができるという幻想があって、人生を楽しむ権利があると思い込んでいて、できればそれを周りの人たちと共有できたら最高!」的な人間観で消費者を見てないと、市場になんて参戦できないんじゃねえかな。
具体的な作品名とブーム出したら不快にさせるだけだろうけど、例えば『ジョーカー』みたいなダークで暴力的な作品も、文芸的な邦画作品も、屈折はしてるけど、結局はそういう手法で仕掛けられてると思うんだ。俺には『えんとつ町のプペル』をめぐるプロモーションと、他のエンターテインメントの仕掛け方の本質的な違いって正直わかんねえんだよな。
もちろん、作品としての評価は別かもしれない。でも、俺たちが感じるような「ああ、いい作品だった!」「うーん、クソだった!」が、はたして、俺たちを無意識にがんじがらめる商業的な網から、いったいどこまで自由なもんだろうな? って気もする。
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商業的なアプローチから自由って話のひとつの余談として、俺が浪人のとき、気まぐれで古本屋に入ったことがあった。11月ぐらいのことだ。街も全体的に灰色だったし、俺の心も灰色だった。俺はこの受験に失敗したら死のうかな、と思っていた。
たまたま、カフカの『審判』という本が目に入った。新潮版だ。レア(たぶん)。
俺はカフカなんて『変身』しか知らなかったので、興味と呼ぶにも希薄な感情のまま、本当にたまたま、それをレジに持ってった。200円ぐらいだったと思う。
『審判』は俺の人生を完全に変えた。どちらかと言うと悪い方にだけど、とにかく、他のどんな作品とどんなかたちで出会ってもあり得ないくらい、深く俺をゆさぶった。
あれこそ、商業の魔の手から完全に自由な体験だった。そして、ああいう運命と呼べる体験しか、人と作品の出会いは本当には成立しねえんじゃねえかな…というのはロマンチックすぎるかもしれないけど、俺は割と本気でそう思ってる。
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ところで、あのとき『審判』を手に取る代わりに、西野氏のオンラインサロンに参加していたらどうなっただろう?
それでも俺の人生はきっと「完全に変わった」だろうな、と思う。むしろ『審判』で三日間くらい飯の味がしなくなるような体験よりよっぽどハッピーだろう。
結局、そんなもんなんだ。キングコング西野氏的なものはこの世界の至るところに、程度の差こそあるけどあふれているし、おおよそ感動はオンラインサロンの充実感で代替される。だから、俺たちはたぶん、キングコング西野氏的なものに永遠に勝てないだろうと思う。
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追記。
トラバで、「『審判』のくだりでお前が言ってる、商業的に自由っていうのは、仕掛けられたマーケティング接点では無い出会いだった(古本屋の偶然)という意味か、『審判』の中身・題材に関連したことか?」という質問をいただいて、これは前者のつもりで書きました。
ただ、カフカという作家についても、おそらく、「再発見された天才・カフカ」「俺たちの代弁者・カフカ」「いま、イケてるやつはカフカを読む! カフカで他のみんなと差をつけちゃえ!」的なかたちで仕掛けられたムーブメントがきっとあだたんだと思います。
『審判』もきっと、その延長上で古本屋の棚に並んでいたわけで、そう考えると消費者を小馬鹿にしつつも心理の隙間に入ってこようとする商業ってやつからは、千切っても千切っても完全に自由にはなれないのかな、と思いました。
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ところで、上記の「『審判』の中身・題材に関連したこと」という部分で思いついたことがあるので、それを付記しておきます。
『審判』のネタバレになること、作品の解釈はあくまで俺によることをことわっておくのですが、『審判』は、「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という話です。
カフカにはたぶん、いわゆる「自分探し」を揶揄するつもりはまったくなかったことをふまえて考察するんですが、物語の冒頭でなんの脈絡もなく訴えられた結果(罪状も明かされない)、
を考え、自分の無罪を信じぬいた結果、得体の知れない訴訟にハマりこんでいき、破綻する話です。
自分を「信じ抜いた」結果、破滅を迎える。俺が増田に『審判』の話を書いたのは本当にたまたまですが、『プペル』のキャッチコピーを考えたとき、ああ、この対比は面白いな、と思いました。
…
俺は上で、あえて「自分探し」という表現をしました。なんでかというと、こう思ったからです。
『審判』の「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という一つの解釈について、次のように補足・換言してみる。
「自分という存在(の可能性)について徹底的に考え続けた(諦めなかった)者は、(社会的に)必ず破滅する(≒冷遇される)」
…こうしてみると、この増田でも話題にしてきた別の「作品」が見えてこねえか? ということです。
俺は何十回でも強調するつもりなんだけど、俺は『審判』と『プペル』を同列に見ているわけではなくて(『プペル』も別に、読み終わった後しばらく飯の味がわからなくなるくらい衝撃だった、って言われたくはないだろうし)、ただ、この辺ってけっこう曖昧で危ういんじゃねえか、ということです。
「自己」「孤立」「理解不能なマジョリティ」「困難な戦い」、こういった要素を含む物語は、例え真逆のメッセージを送っていたとしても、じゃあ全然違う別モンだぜ、と胸を張って主張できるかと言うと、「いや、うん、全然違うよ、違うんだけど…ちょっと小一時間整理させてくんねえか」というところがある気がして、それが面白いな、と思いました。
強いて言えば、俺は子供に『審判』は絶対読ませたくないし、『プペル』は別にいいんじゃねえの、という感じです。
それは、『審判』が俺にとってスペシャルなのと、あと単に理解できても暗い気持ちになるからで、自分の子供がそんなんなったらイヤだからです。
……はぁ
こーいう人いるわよね
超能力者に変な夢を見たり
意味もなく怖がったり
そんなんじゃないから
冷静になって考えてみて
触って壊せるものを
触らないでも壊せるだけ
大した違いはないの
誰にでも出来ることじゃないかも
だけど誇れることでもないわ
それに日常生活じゃ役立たずよ
この世界って
わたし達を中心には廻ってない
セカチュウじゃないのよ
叫んでも白い目をされるだけだわ
アンタって左利き?
血液型は?
まー何でもいいんだけど
どうあれアンタは一般ピーポーよ
出来ることには限界がある
リミットっていうの
例えば高速移動できるとして
ジェット機より速くなんて無理
気圧にも耐えられないでしょ
ヒトでは制御できない力が
生まれつき備わるわけない
勝手に期待しないで頂戴
空を自由に飛んだりだとか
バッカじゃないの
飛行機に乗りなさいよ
2パターンあると思うんだ。言ってる本人が馬鹿で検査と隔離の区別もついてないようなケースと常日頃からそういう馬鹿と接したり観測している人で検査するといくら自宅に居ろと言っても軽症でも偽陰性でも病院に出向いて来てしまう医療崩壊させる馬鹿で溢れかえることを危惧しているケースの2つがあると思うんだ。
どちらにしろ日本中に馬鹿だらけなのがいけないと思うんだ。馬鹿の自覚がない一般ピーポーも馬鹿だし、世間に馬鹿が溢れ馬鹿の行動原理を知らない研究者も馬鹿だし、そういう私たちもいろんなレイヤーの馬鹿にあなたは馬鹿と説き、世間を知らない馬鹿に馬鹿がいかにたくさんいて世の中馬鹿だらけかを教えることができないからやっぱり私たちも馬鹿なんだ。みんな馬鹿なんだ。コロナも風邪も呪術も医学も区別がつかないんだ馬鹿なんだ。
あー…、今ちょっと手が空いたから…、考えながらポツポツ暇潰し兼ねて打ってるが…。
まぁ、分かる部分と「違うぞ」って教えてやらなきゃいけねー部分があんだよ。
……あのな? 悪い事したやつが法律で罰を受け終わったら全部なかった事にできるの? “みたいな”部分については、“分かる”から、“同意”はする。
それから、法で許されれば何でもいいの? “みたいな”部分は、“たぶん人として正しい”から、「そうだよなー、法律と善悪って重なってる部分は多いけど違うんだよなー、ニンゲンは法律だけじゃねーよなー」って“言っておいてやる。”
それから、はてなーがホントに現実に生きてるの? って部分なんだけど、これは“スゲー共感”するな。ww それが良いか悪いかは置いといてだが。
……んで、な?
女の子をイジメてムショにブチ込まれても刑期が終わって出てきたら無罪放免で一般ピーポーヅラして人生エンジョイが当たり前とか被害者的に絶対許せないしそんなヤツが周囲で生活してると思っただけで(略 馬鹿じゃないの? 死ねば? 何がリベラルなの? 理屈じゃそうかもしれないけど被害を受けた立場の身になってみなさいよ引きこもりじゃないの? って“イイ感じに吹け上がってるように見えるある意味でヘイト染みた感情論”についてなんだけどな…?
オマエさんが言いたいのが『過去の悪事は絶対に許さないニダ! 千年でも一万年でもこっちの気の済むまで賠償させるニダ!』“ではないとして”言うが――、
そんな後ろ向きにしか物事を考えられない可哀想なニンゲン達と同じように見られたくてこれを書いたのか…?
細かく突っ込むとオマエさんの主張には数多くの勘違いと早合点と穴がありまくりなんだが、ここの連中はもう議論もできないし返信もしなくなってきてるからやめとこう。
(はてな全体、とか、馬鹿、とか、リベラル、とか、法治と倫理、とか専門家でも定義できてないだろ?w)
じゃぁどこを教えてやらなきゃならねーかって言うと、最大の問題は「仮に犯罪者の人権をそうでないニンゲンと違うことにしたらどうなると思う?」って部分なんだよ。
法律が全てじゃないのには同意したが、それでも犯罪者ってのはいるワケで、そいつらは一生、死ぬまで、どれだけ善行を積んで尊敬される事をして人助けをしても過去は消えないんだよな? そしてそいつは認められないし、いつ同じ犯罪をするか分からないから――、
…ええと、どうすんだ? 性犯罪者タグつけてGPSで周知させりゃいいのか? ……どうするか何も書いてないけど。現実問題として。
アレだよな、法律が全てじゃないのは法で裁けない善行や悪行や小さな行為、それに情の部分や法の不備なんかがあるからだと思うが、例えばGPS付けたとして、犯罪歴のないクソロリコン野郎がそいつを使って犯罪者のいく先々でガキにイタズラしまくったらどうなると思う?
それからロリじゃなくて普通の?強姦魔みてーのにも同じ事が言えるしできるよな? 「あの人痴漢です!」って叫ぶだけで幾らでも社会復帰を阻止できるんで、それを更に逆手に取って「叫ばれたくなかったら私が先に買おうと思ってた一本148円の大根から離れなさい!」とか、「私今身体が疼くのよこっちに来て奉仕しなさい!」とか、「貴方の手記は犯罪を基にしているんだから今住んでいる場所をバラされたくなかったら印税の1割を寄付しなさい」とか、まぁなんか幾らでもできちゃうし、“倫理感のないやつは法律が許せばなんでもする”んだからそんなの防げないよな?
法治上、犯罪歴のある奴とないヤツは同じように扱えないんだろ?
これ、実は意外とムチャな話でもなくて、裁判で過去の犯罪歴ってのはタイテーが引き合いに出されるから実際問題でもそーいう部分ってあるワケ。
ヒトとしてそれが正しいかどうかは別としてな?
んで、オマエさんは女の子に対するいたずらにしか目が行ってないみたいだが、これってあらゆる犯罪に通じる話だし、もっと言えばあらゆる行為に繋がる話でもある。
実はとてもとても、すごーくすごーく深遠な、難しーい話なんだよ。
法に触れなければいいのかって部分では、ある特定の集団を匿名で馬鹿呼ばわりするのは許されるのか?
大勢の人の目に触れる部分で「わかった」と書きながら何も分かっていない人間のレッテル貼りは社会にどんな悪影響を及ぼすか?
碌に考えもしないで現行の法体系を無知蒙昧な知識で批判し、ヘイトと差別を振りまくのは犯罪に当たらないのか?
そういった間違いを指摘して貰っても感謝の言葉すらなく無言で元記事を削除するような極めて卑怯且つ言い逃げの、匿名文化ひいてはwebの無償の交流と社会性自体を破壊する悪辣な焚書的善意の蹂躙行為は一体誰がどうやって捌き、どのように受け止められたら良いのか?(今までに何度もあった。誰も真面目に話さなくなるのは当たり前だ)
仮にこれらが法で裁けるようになったとしたら、オマエさんの「はてなーはみんな馬鹿で似非リベラル」発言は未来永劫オマエさん個人に紐付けられ、オマエさんがwebで何を言おうとも「あの人は感情でよく考えもせずにモノを言って人の欠点をどこまでも追及しレッテルを貼って周囲を攻撃した上に決して許さない人」ってのが拡まっていくワケだが……、
そういう社会ってどう思う?
いや俺は別に遊び半分で書いてるから半分笑ってるし大して責める気もないんだけど(笑)。
…まぁなんだ? 日本には人を呪わば穴二つって言葉があるが、海外でもあるんだってよ。
Curses return upon the heads of those that curse.
故事ことわざ辞典ってので出てたんだが、出典は分からなかった。
悪事を咎めるのは尊い行為なの“かも”しれんが、恨みでいつの間にか自分自身が悪にならんようにな。
別に返信もいらねーし元記事を消してもいいよ。俺はもう大してwebの善意に期待してないから。
ただ、もうちょっと落ち着いてじっくり物を考える癖を付けな。
最近VTuberにハマり、暇を見つけては動画を見て腹を抱えて笑っている。BANs、.LIVE、Balus、そしてぽこピーが自分のお気に入りである。
こういう楽しい光景を見て、ふと「俺もVTuberになりたいなー」と思うときもある。
しかし、思うのは「俺は魂の輝きが無いからダメだな」っていう現実が出てくる。
考えてみればVTuberで活躍している方は、何かしらの魂の輝き、即ち「一芸」「キャラクター」があって、それを表現するためにこの世界に入って、面白い動画を作ってる訳だ。
中には「所詮ニコ生の延長線だろ」という声もあるかもしれない。しかし、それでも何かしら表現するために動画/ライブをしてる時点で俺は尊敬してる。
しかしながら自分のような才能のない一般ピーポーは、多分中途半端にVTuberになって、迷走しまくって、飽きたらポイというのが御の字である。