はてなキーワード: キャラクタとは
いやちょっと待てw
一つ上で書いたことは今回のディズニーの件とは関係ないですよ。まず、著作権が存続している間は著作者人格権どうこう以前に著作権上の問題が当然存在しますから、同人活動は決して合法ではありません(多くは親告罪ですが)。また、商業キャラを用いて利益をあげた場合は商標権の侵害となるケースがほとんどだと考えられます。
一方で、著作者人格権を根拠として商業/非商業問わず創作活動を制限するケース、つまり「俺のキャラの性生活を勝手に描くなんて侮辱だ!やめてくれ!」というような法的主張はあまり聞かない気がします。その辺まだちょっと詳しくないですが(※1)。著作権や商標権のみならず人格権についてもきちんと主張しておかないと、何十年後か、著作権の切れた自分のキャラクタが合法的に好き放題レイプされてしまうかもしれません。
また、あくまで一般的「エロ」表現の話をしたのであって、「首を刎ねて殺す」という表現は全く別ですよね。
他人の著作物を虐殺するなど常識で考えて許される表現ではない、どうあれ侮辱的な表現であると私は思うのですが、その認識がどんどん薄らいで今回のように「ディズニーが訴えないならミッキーの首を刎ねても悪くないよね、作者さん叩いてごめんね」なんてめちゃくちゃな認識が広く蔓延してゆくと、いつか本当に「自分の作ったキャラクタの首を刎ねられたくない権利」が消滅してしまう可能性も考えられるのです。だから我々は、断固として「そういう問題じゃねえ!」と叫ばなければいけません。
ありましたね。
性描写がない作品を元にして、性描写を内容とする作品を作成、販売したことを理由に、同一性保持権の侵害を認めたケースがあります(東京地判平成11.8.30「どぎまぎイマジネーション」事件)。被告は、同人文化の一環としての創作活動であり、違法ではないと主張しましたが、退けられました。
同一性保持権については著作者の『意に反して』とされ、著作者の主観的意志がキーポイントになります。著作権者死亡後の争いにおいては、その意志を推測するしかありません。故に、うっかり事実上黙認したまま死んでしまうと、別に意に反してなかったよね!という既成事実が形成され、同一性保持権を失ってしまう可能性があるでしょう。
一方、名誉声望保持権ではその名の通り著作者の『名誉又は声望を害する』行為について禁じています。よって、著作者の死後、該当行為は特に名誉を傷つける行為ではないという認識が一般的になれば、社会的状況が変化したと見なされ権利が消滅する可能性があります。
しつこいようですが、知財関係の権利はきちんと行使しないで黙っていると、権利を失ってしまうということが往々にしてあるのです。
かもしれない。
この騒動、「ディズニーが訴えないなら問題ないな」的な空気で終息しそうな気配だが、そういう問題じゃないよというおはなし。
まず、著作権とは別に存在する権利、「著作者人格権」というものがあります。
著作者人格権(ちょさくしゃじんかくけん)とは、著作者がその著作物に対して有する人格的利益の保護を目的とする権利の総称である。著作物には、著作者の思想や感情が色濃く反映されているため、第三者による著作物の利用態様によっては著作者の人格的利益を侵害する恐れがある。そこで、著作者に対し、著作者の人格的利益を侵害する態様による著作物の利用を禁止する権利を認めたものである。
今回の問題では、日本においてミッキーの著作権の一部が既に切れている可能性を以て適法であるとする意見が散見されますが、実はこの著作者人格権に関しては、保護期限に関する規定が存在しません。
ベルヌ条約6条の2(2)が著作者の死後における著作者人格権の保護を要求していることから、著作者の死亡後も、著作者が存しているならば著作者人格権の侵害となるような行為を禁止するとともに(60条)、一定範囲の遺族による差止請求権や名誉回復措置請求権の行使が認められている(116条)。
つまり、ミッキーに関する著作者人格権は現在も法的に保護されているということになります。
著作者人格権として具体的に保護される権利として、この2つが挙げられます。
同一性保持権(どういつせいほじけん)とは、著作者人格権の一種であり、著作物及びその題号につき著作者(著作権者ではないことに注意)の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利のことをいう(日本の著作権法20条1項前段。以下、特に断らない限り、引用法令は日本のもの)。
著作物が無断で改変される結果、著作者の意に沿わない表現が施されることによる精神的苦痛から救済するため、このような制度が設けられていると理解されている。もっとも、元の著作物の表現が残存しない程度にまで改変された場合は、もはや別個の著作物であり、同一性保持権の問題は生じない(「パロディ事件」(第1次)、最高裁判所判決昭和55年3月28日)。
著作物の改変を伴わない場合でも、その利用態様によっては表現が著作者の意図と異なる意図を持つものとして受け取られる可能性がある。そのため、著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、著作者の著作者人格権を侵害する行為とみなされる(著作権法113条6項)。例として、美術品としての絵画を風俗店の看板に使用する行為などが該当するとされている。
要するに、著作物に対し、著作者が傷つくような変なイメージを付けたり改変したりしてはいけないよ、ということですね。
知財関連の権利、特に著作権に関する諸権利については、多くが親告罪であることが知られているかと思います。つまり、被害を受けた権利者が提訴しない限りは犯罪とならないし、賠償請求すらもできない。だから、ディズニーが提訴しないなら問題ないよね、という意見。これも散見されますが、誤りです。
実は、著作者人格権の侵害については刑事罰が定められており、しかも著作者死亡後の名誉声望権侵害は非親告罪なのです。(※下線部追記:著作者の生存中は親告罪です)
第60条
著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。
第120条
第123条
第119条、第120条の2第3号及び第4号、第121条の2及び前条第1項の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
つまり、『その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められ』ない場合、ディズニー社の意向に関わらずお縄になるリスクがあるということです。
まぁ、実際にディズニーの意向を無視して逮捕されるかというとこれは怪しいですね。そういうケースを聞いたことがありませんし、実際のところ大丈夫なんじゃないですか。しかしだからと言って、これが合法でクリーンな行為だなんて事は決してない、というのは当然のおはなしですね。あえて非親告罪とされているというのはそういう意味です。
著作者人格権は、著作者の死後、著作権保護期間が切れた後も保護されます。作者が死んで著作権が切れているからといって、作者の意に反してキャラクタを侮辱する自由は決して「当然認められる」ような権利ではありませんし、刑事告発される可能性があります。首を刎ねるという表現が『著作者の意を害しない』と言える理由を明確に説明しなければいけないでしょう。
アニメキャラクタのファックを描くことはもはや黙認されてしまい実際の権利行使もそう簡単にはいかない状況ですが、社会通念上「殺害」という表現が「ファック」以上にキワドイのはもちろんのこと、首を刎ねるというのは特に侮辱的表現であるとされる可能性が強く考えられます。
作者は「悪いことをしていない」と言える明確なロジックをもって、それができないなら「悪いことをしている」という自覚と覚悟を持って、同人活動をした方がいいですね。認識が甘すぎます。
ディズニーからの正式な抗議ではなかっただろうことは想像できます。
著作者死亡後の差止請求権は著作者の孫までの遺族にのみ認められており、ディズニー社にはその権利が存在しません。また、今回のような場合は出版権にも関係しません。
(差止請求権)
第112条
著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
(著作者又は実演家の死後における人格的利益の保護のための措置)
第116条
著作者又は実演家の死後においては、その遺族(死亡した著作者又は実演家の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹をいう。以下この条において同じ。)は、当該著作者又は実演家について第60条又は第101条の3の規定に違反する行為をする者又はするおそれがある者に対し第112条の請求を、故意又は過失により著作者人格権又は実演家人格権を侵害する行為又は第60条若しくは第101条の3の規定に違反する行為をした者に対し前条の請求をすることができる。
故に、ディズニー社からの要求としては法的根拠がなく、不可解です。(繰り返しますが、それとは別に誰かから刑事告発される可能性はあるんですよ)
ディズニーから訴えられるとすれば、商標権についての争い=商業的活動に限られると思われ、無償での同人活動には民事では関与できないものと考えられます。
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
お金払えば払うほど俺つえーでバランス崩壊という過去のモデルに対する人気は崩れてきている
MMORPGの場合、本当にプレイヤーの満足度の高いアイテム課金は
ゲーム内のバランスを維持しつつ、皆が気持ちよくお金も出させる方向性にシフトしてきている
レガシーなアイテム課金は、アイテム課金しない層の重課金層への反感がとても強い
ステータスアップや強さを買うのではなく
アバターやお洒落着を買ったり、イベントのサポートといった経験にかかわるサービスを買ったり
(アイテムの誤操作による紛失の救済、ゲーム内結婚式、キャラクタネームの変更、キャラスロットの増加が有料なのはこの類)
普通にゲーム内で手に入れられるアイテムと同じ性能のものや、スキルがあがるのが早くなるチケットを時間のない社会人向けに売ったりする
そこに至るまでの時間や、直接プレイの上限にはかかわらない利便性や体験(アバターなど)を売るようにする
モバゲーとかはやらないので知らん
なんか、何だろ、この気持ち悪さ。
例えばヤフーのトップに出てるビデオカメラの動画広告。こども撮り三原則ー! とかやってるやつ。
なんか小学校低学年くらいの女の子がクラスのみんなの前に立ってビデオのいいとこアピールしてる的な。
あれきっとシチュは授業参観に学級討論ぶつけた感じで「わが子らの! ちょっといいとこ見てみたい!」な親の欲望を「見るだけじゃなくて撮っときたい」っていう風に持ってくつもりなんだろうけどでもなんだろうなんなのこのもやもやする感じ。
あれターゲット間違えてね?
あるいはモノを間違えてる。
あの広告って子ども宛だよね、本来。「子どもでも撮れる! ビデオカメラ」みたいな。
いやその路線でビデオカメラが子どもの興味を引くかは別として、そういう文脈じゃね?
作った側が想定する主な商品使用者層(=購買対象層)と同じ属性のキャラクタを使ってアピールする手法でしょ。
何でそこで背後に親置いちゃったの? っていう的外れ感がすごい。不快。
「わが子の活躍をキレイに!撮りたい」という親の欲望はある程度共通だろうけど、じゃあそいつがそのままひっくり返って子どもから発される声であるかってそんなわけないやん……っていうのがすがすがしくも無視られてる感じが不快。
あとヤフーの広告と言えば新築マンションの動画広告もキモイです。「結婚!」「子どもが生まれる!」「頭金が貯まった!」「もういいトシ!」みたいなやつ。
1ヶ月に1度くらいのペースで巡回している某Web漫画について。
中身が更新されていたのだが、新規キャラクターが10人くらいぞろぞろと出てきた。
正直、一気に出過ぎな気がする。
これだけのキャラクタ、本当に扱えれるのか?
収拾つかなくなって「俺たちの戦いはこれからだ」もしくは「みんなそれぞれの道を歩みました」的な展開で終わるのは勘弁してほしい。
まあ、フリーで公開してくれている漫画なんだから、あれこれ文句つけるのが間違いで、「嫌なら見るな」の一言で済まされるのかもしれない。
でも、見る側としてはストーリーの伏線が投げっぱなしで終わられると、夢オチにされたような脱力感を覚えるのも事実。
以下、最期ががっかりだったフリーの作品。匿名とはいえ、名指しで言うのは憚られるのでどんな作品かを書く。
web漫画A:
主人公はある日突然何者かに殺害されるが、赤ん坊に生まれ変わる。第二の人生を生きる傍ら、どうして生まれ変わったのかなどの過去を調べたりしていったのだが、突如のハーレムエンド。生まれ変わりについては断片的なことしか明らかにされず。特に主人公の分身的な存在に関しては、ほとんど何の説明もなし。
脱出系ホラーゲーム。主人公は幼女。家の中を捜すと自分や自分の家族が殺されたことになっており、混乱する。
結局、幼女は本当の幼女ではなく幼女の記憶を部分的に引き継いだ妖怪だったというオチなのだが、じゃあなぜ幼女や幼女の家族が殺されたのかがはっきりしないまま終了。演出もホラーゲーム特有の恐怖を煽るものがある一方で、ポケモンフラッシュのようなプレイヤーの健康に直接影響を与えるようなものも多用されており、最期のオチのがっかり感をより深くさせた。
(メーカー名は当時のものと、現在のものが入り混じって表記されています。ご了承ください。)
■92~94年 黎明期
それまで、液晶を搭載した台はなかったので、登場するとしても、
パチンコの盤面に描かれる
スロットの台パネルに描かれる 例:「バニーガール(オリンピア/1988)」※1
パチンコの役モノとして、動きがある部分に小物として取り入れられる 例:「ニューモンロー(西陣)」 ※2 「ビンビンバラエティ(西陣)」※3
程度でしかなかった。
もちろん、これらで登場した場合でも、実写調であったり劇画調であったりするのが普通だった。
萌え市場というものは、80年代にソコソコ形成されていたことを考えると、パチンコ/パチスロの萌えの取り入れはやや遅かったのかもしれない。
1991年、初カラー液晶搭載パチンコ「麻雀物語」(平和)※4 が登場。
この初カラー液晶において、大当たり直後に女性の1枚絵が出てくるが、この時の女性のタッチが、既にアニメ調であった。
そして、この「麻雀物語」の大ヒットを受けて、パチンコメーカー各社は、一気にカラー液晶搭載に突き進む事になる。
しかし、データ保持領域が大量にある訳でもない当時においては、荒い画素数で数カットの女性が登場する程度のものばかりであった。
そんな中でも、大手メーカーは、それなりに「頑張った」萌えモチーフを投入してきている。
平和が、初出の麻雀物語以降、「プリンセス物語(平和)/1993」※5 「弾丸物語(平和)/199?」※6 等、「物語シリーズ」として、この手の台を出し続けた中、
これに対抗し、爆発的ヒットを飛ばしたのが、「フィーバーパワフル(三共)/1992」※7 となる。
今でも三共のマスコットキャラクタとして、ここの出す台のあちこちに顔を出したり、主役となったりしている「夢夢ちゃん」の最初の作品。
そしてもう1つ特筆すべきは、この台の姉妹機として、「フィーバーガールズ(三共)/1993」があること。
パワフルに比べて台数は出なかったが、
「版権と組み合わせた」「オタクを直接ターゲットとした」「萌え女性そのものを完全と主役としていた」「物語性を持たせた」
という意味で、「萌えパチ」として挙げられるべき、初めての台は、この台が一番相応しいかもしれない。
「おたくの星座(FC用)」の版権を使い、キャラクターデザインが江口寿史…という辺り、実に80年代溢れるテイストがタマラナイ台。
(またこの声優陣が、千葉麗子とか高田由美とか井上喜久子とかね…)
http://ameblo.jp/hi-up-turbo/entry-10006810607.html
※2■「ニューモンロー(西陣)/1991」
http://ameblo.jp/hi-up/entry-10005413668.html
http://blogs.yahoo.co.jp/newmitsuborn2008/13239836.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80%E7%89%A9%E8%AA%9E
http://retropachi.blog18.fc2.com/blog-entry-55.html
http://ameblo.jp/hi-up/entry-10044450859.html
※7■「フィーバーパワフル(三共)/1992」
http://ameblo.jp/hi-up/entry-10005687824.html
http://www.geocities.jp/pachinko_palor_teruteru_777/newpage31.html
【パチスロ】
この頃はまだ動き無し。
■95~99年 普及期
【パチンコ】
連続大当たり規制&カード化、台の設置許認可ルールの変更など、業界として大きな事件が続いた。
そんな中で、液晶搭載機が普通となり、データ量も格段に増えていく中で、萌えモチーフの台も、それなりに受け入れられていった。
いわゆる「萌え」が、たった3年程度で、あっという間にパチンコを侵食していったのは、かなり面白い事と思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6455634
「ミルキーバー(ニューギン)/1995」
http://ameblo.jp/hi-up/entry-10110632872.html
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4852532
96年には、(版権としてはちょっとしょぼいが)既にゲームメーカーとの開発連携は始まっていた。
当時爆発的に導入された「CR大工の源さん(三洋)/1996」も、アイレムとの連携/版権モノである。(打ってる人は全く知らなかっただろうけどw)
http://ja.wikipedia.org/wiki/CR%E5%A4%A7%E5%B7%A5%E3%81%AE%E6%BA%90%E3%81%95%E3%82%93
http://www.youtube.com/watch?v=WFOU4Cp4OKg
しかし、今のように「まず版権を取って、その版権の人気にあやかる」という動きが出てくるまでには、もう少し先にすすまないといけない。
※個人的にはこの辺りも結構衝撃だった。
絵的に十分なレベルに達したと、初めて思わされた台
「CR乙姫(メーシー)/1998」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9814525
及び、バカだなと笑いつつ、「絵柄が揃うだけ」から1歩踏み出した(踏み出しすぎた?w)台
http://ameblo.jp/hi-up/entry-10009539191.html
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6300433
【パチスロ】
なぜか、パチンコへのカラー液晶搭載とは背を向けたかのごとく、2000年まで、パチスロ台へのカラー液晶搭載は無い。
但し、萌えモチーフは欲しかったようで、パネルやモチーフとしての進出は、少しずつ始まっていた。
http://777.nifty.com/cs/kuchikomi/777_777/freeList/n3_1/n3_2/aid_onsentengoku/1.htm
(この後しばらく、テクノコーシンは、この女性キャラクタを用いて台をリリースし続ける)
■00年~ 氾濫期
【パチンコ】
既にこの頃には、「液晶は当然として、どのような絵を使うか」という面で、コンテンツ不足が目立ち始めてきた。
完全オリジナルな路線に走るケースよりも、有名人/アニメ/ゲームなどの版権を持ってきた方が楽で、客が付きやすいという流れも出来つつある。
但し、オリジナルキャラで一発当てて…という夢は捨てがたいらしく、今でも各メーカーは様々な手法を試しているというのが実情かもしれない。
パチンコオリジナル版権で、オタクファンがそれなりに付いた台として幾つか。
※完全に趣味の為、偏りがあるのはご容赦を。
「CR 超絶合体SRD(サンセイR&D)/2007」
「CR 上にまいりま~す(エース電研)/2009」
【パチスロ】
2000年に、初のカラー液晶搭載機「ゲゲゲの鬼太郎(サミー)/2000」が登場以降、萌えの侵略が一気に進むか…と思われた。
しかし、実際にあからさまにそれをターゲットとした台は、「賞金首(NET)/2003」まで見当らない。
NETとテクモが提携して、オリジナルキャラで液晶演出を作り上げて、何作かリリースしている台は、どれも「あざとい」といわれつつも、オタク層を掴んだのだけは間違いない。
「賞金首(NET)/2003」
「SuperBlackJack(NET)/2003」※Rio初登場
以降、NETは全面的にオタク層をターゲットとし、オリジナル版権の確立に突き進んでいる。
また、2004年にパチスロの性能許認可の方針が変わり、ギャンブル性を抑えられた台しかリリースできなくなった事をきっかけに、他のメーカーからも、新規顧客層を狙ってか、萌えを用いた台のリリースが出てくる。
とはいえ、パチンコ同様、オリジナル版権で戦っているのは一部であり、アニメやゲームで既に知名度のある版権を引っ張って作り上げるケースが殆どである。
パチスロオリジナル版権で、オタクファンがそれなりに付いた台として幾つか。
※完全に趣味の為、偏りがあるのはご容赦を。
「快盗天使ツインエンジェル(トリビー)/2006」
「がんばれ満月姫!(トリビー)/2009」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA_%28%E4%BC%81%E6%A5%AD%29
パチンコ、パチスロに関して、既存の版権(アニメ/ゲーム/漫画/芸能人等)を片っ端から抑え、メーカーへ販売。
また、メーカーが作った台の、店への卸販売など。
この会社が各種版権を抑えに出る前に取得した、幾つかの版権は、繰り返しリニューアルされてリリースされたり。特定の版権の噂が出たり出なかったり。ドマイナーな版権でしか勝負してこない小さなメーカーが有ったり。
今や、パチンコ、パチスロにおいて、台を売るセールスポイントとなった版権について、ここの会社抜きにして語れない事が非常に多い。
本題とは別方向へ話を向けるけど、キャラで対話するコミュニケーション様式ってのが苦手だな。
当てはめられたキャラクターを演じることによって笑いを取るって云うスタンスがどうして好きになれない。
いや、そういったキャラクタの配置を不快にさせない演出方法というのもあることにはあるんだと思う。
明石家さんまとかはそこら辺がすごく上手い気がする。最近全く見てないから正しいかどうかは知らないけどもさ。
ただ、自分はヘキサゴンで徹底的にキャラクタ様式の番組編成に拒否感を植えつけられてしまった。
馬鹿を馬鹿にするというか、演じられた形而上の馬鹿を馬鹿にし更に貶めて笑いを取る様式がどうしても嫌いだった。
大学に入って暫くしてのことだが、某深夜アニメにはまってしまった。
そもそも大学入学まではアニメなどゴールデンタイムに観るぐらいしかなかったし、ジャンプなど漫画雑誌も購読していなかったので、そういうものに疎かった面はある。
初めて買ったゲームを朝までやり続けたように、どの程度が異常なのか、それともよくあることなのかがわからなかった。
きっかけはなんだっただろうか。放送をぼちぼち見始めて、世界設定や元ネタ、キャラクタを調べているうちにどっぷり浸かってしまった。
たとえ入口が一つであっても、そこから先は広いと分かった。それこそ考察・カップリング・作画・声優・公式・非公式・メディアミックス……全てに手を付けたわけではないけど、きっと望めば望むほどコンテンツは存在し、それが枯渇すると今度は自分が供給に回るのだろう。自分にはそれが深淵のようにも見える。そして自分はそれに覗き込まれてしまったのだろう。覗き込んだのは、どちらも自分自身だというのに。
気づけばアニメ系まとめサイトを逐一チェックし、公式のメディア展開に一喜一憂し、日常生活でもキャラクタ名を空目する自分がいた。それについて割と恐怖したし、自分を律しようと試みた。今のところそれは成功しているように思える。毎日のweb巡回ルートと、日々保存される画像を除いては。
またはサブカル系の考察や思想に手を出してみたが、こちらはちょいと微妙である。コンテンツと消費の話は個人的には面白いのだけど、妄執を解決するには至らなかった。
頭ではあの世界が、あの作品がフィクションであると解っている。解っているのにそれでもフィギュアを見たりアニラジなんかを聴いたりすると混乱する。混乱すると判っているのに、その情報を検索するのを止めない。
たまにSSや同人のたぐいを目にすることがあるが、自分自身はそれを好まない。メアリー・スーよろしくキャラクタとオリキャラを絡めたりするものもあるが――自己嫌悪に陥ってこれまた混乱する。少しでも想像すると自己中毒になる。
誤解しないでいただきたいのは、作品自体を批判したり、ファン活動や同人活動を嫌悪しているわけではない、ということだ。むしろ、何かに夢中になったり自分を捧げるというのは素晴らしいことのように感じる。自分にはその覚悟がなくて、自分で引いた境界線の前から、此岸から彼岸の人々を見ているに過ぎない。ぶどうを取れなかった狐のように、指をくわえて。それでもその線を越えようとしない、越えたくとも越えられないのは、越えれば自分が自分でなくなるとでも思っているのか、それをよしとする自分が許せないのか。
この「病気」とも言えるものは、きっとそのアニメのコンテンツを全て絶つか別のコンテンツに移行するか、同人も含めた全てが終わらない限り、一生治らない依存症なのだと思う。このまま距離を取り続けて、それがオワコン化しても耐えられるだろうか。……それはまだわからない。どこかで折り合いを付けるか、そこから別のものにシフトして昇華させる必要があるのだと思う。孤独な誰得チキンレースである。
増田は良い。立場を背負わないし、立場を利用することもできないが、書いたものを立場でフィルタかけて見られることもない。だから俺は増田で書く。
ブログはどんなにやり直してみても、自分のキャラクタが出来てしまって、その日の気分や書きたいこととそのキャラが違うと段々面倒になってだめだ。
自分が増田で書いたものを見直すと、別人が書いたのではと思えるほど色々ある。よく見るとめちゃくちゃなようで、何種類かの増田が自分の中にいて、書きたいことによって使い分けてるのがわかる。
大体このパターンのうちどれかだ。でも嘘や空想で書いたものはない。どれも自分にとっては本音、経験、望んでいることを元にして書いている。
増田は良い。
「プログラマー」と名乗っている人をあんまり信用しないほうがいいというのはよく言われる話だが、最近そのことを痛感している。今やってる仕事の一環として、「ほかのプログラマーにプログラムを書いてもらって、それをレビューする」という作業があるのだが、この「ほかのプログラマーが書いたプログラム」というのがひどい。クズみたいなプログラムばっかりだ。
ってな、黒夢の『C.Y.HEAD』という曲の歌い出しですけど、最近この部分がぐるぐるぐるぐると頭を回るものだよ。
ええ、わかってますよ。仕事相手の悪口を公的な場で言うなんて、問題があるって言うんでしょう。まあ、それもそうなんだけど、たいしたプログラムも書けないくせにプログラマー名乗ってる奴らに本当に腹が立つからせいぜい堂々と書きますよ。
「忙しくってコードの質が下がってる」っていうような事情もあるでしょうが、まともに納品が出来ないなら仕事なら受けるべきでないわけだし、ビジネスの世界は「結果責任」を負うものですから、「事情」なんてのは知ったこっちゃないね!
……っていうふうにね、「仕事」というのは基本的に「事情」を無視するものなんですね。だから基本的にはあんまり僕は「仕事」が好きじゃない。とはいえ、今いっしょに働いている人たちはかなり「事情」というものを意識していて、おかげでそれほど辛くはないんだけれども。ただ「ほかのプログラマー」みたいな、外部の人たちは、事情を共有することができないので、「あー! クズみたいなコード送ってきやがって!」ということにしかならない。「事情」を共有できるような、近しい距離の人たちとのみ、仕事をしていたいものですよ。
で、そのコードがどういうふうにダメなのかというと、主に2つの側面がある。
【1】文法が正しくない、プログラムが読みづらい
【1】はもう、そのまんま。文法がおかしいとか、同じ様な処理をコピペで5回かいてるとか、1メソッドが長すぎる上に変数が"hoge"とかでわかりにくく、意味を取るのに困難があるとか。「こんなプログラムに金を払わなければならないのか……」と思うとめまいがする。何せ、それを「まともなプログラム」にレビューするのは僕なのだ。で、その作業に対してお金は一銭も入ってこないのだ。
不具合・先祖返りなんかは誰にでもあるミスだし、それを点検するために僕がチェックしているわけなので、そのあたりはいい。しかし文法の狂っているプログラムを修正するというのは、時には全体を書き換えなくてはならなくて、非常に労力である。それに、受け取ったコードは「ほかのプログラマー」さんの「成果物」であるので、あまり手を加えすぎるわけにもいかない。それが「仕様書」をもとにしたコードの場合、あまり修正するとクライアントに「自分はこんなこと言っていない」と思われてしまう可能性もある。だいいち、こんな作業にあんまり時間をかけたら、ほかのもっと大切な作業をする時間がなくなってしまうのだ。こういった様々な事情を考え合わせ、うまいことバランス取りながら、修正の妥協点を探していくわけだが、これはとてつもない頭脳労働である。疲れる。
【2】は例えば、「バリデートチェック」のためのコードなのに、「intは2バイト」ということばっかり書いて来るとか。「intは2バイトはわかったけど、いつからバリデートチェックになるのだろう」と思って読み進めても、最後までintは2バイトしかチェックしていない。依頼主であるからSIerは、そんなプログラムに金を払いたがるだろうか?
もっと具体的な例。ゲーム会社が、「我が社のキャラクタ版権を利用して、凄く売れるSNSゲームを作ってくれ」と依頼してきたとする。プログラマーが打ち合わせに行くと、企画者は「動的フラッシュも使って、100万ユーザーが遊べる。。。」という話を延々とする。プログラマーは「了解しました」と言って安請負する。そのプログラムはメイン処理だけで1000行というもので、memcachedの「mem」の字もないし、「オブジェクト指向」といった概念も勿論ない。これでは仮にSNSゲームがリリースされたとしても、100人さえも遊べない。
このくらいならマシなほうで、ひどいのになるとフリーランス会社から紹介されたプログラマーで、「SQLはselect文くらいしかやった事がない」とか平気で送りこんでくる。たった一人で。
また、意味のないコメントも多い。ループ処理に、「イントのiに3を代入する」と書いて、何の意味があるのだ? せめて「処理速度改善の為にIntegerは使わずにプリミティブのintを使う!」というふうに書くのが本来だと思う、まぁ嘘なんだけど。だって、そんなコメントみて、「なるほど」って誰が思いますかね?
コメントには必ず「目的」というものがあって、次にソースを読む人は処理の概要を知りたいのだから、「プログラム」をそのまんまコメントにしてもダメなんですよ。そういう単純で、最も重要なことが意識できないで、どうして堂々と「プログラマー」なんて名乗れるのか知らん、と思うぜ。
一番、腹が立つのは「偽SE」ですね。「プログラムはだれでもできるでしょ、重要なのは業務知識でしょ!」みたいなのが偽SE。こういうのを本当に思っているのがいる。業務の画面遷移さえ理解してないSEがだよ。
上の例はさすがに大げさでも、「僕は、プログラムが好きでソフト開発者になりました」とか言ってまともにプログラムが書けない奴は、頻繁にいる。自分でサーバ建てろよ。自分で簡単なサービスつくる事もできないなら、向いてないから辞めてしまえ。
「オレはサーバエンジニアじゃないからコマンド打てない」みたいなね。
世も末だ!
ここに挙げたのは「最低限」のことで、「より読みやすく」「より自然に」「より美しく」というところを、自分の能力の限界まで突き詰めてこそ、プロってもんじゃないんかね。もちろん時間や諸々の事情と相談してのこととはいえ、「26歳の若造が吐き気を催すような拙いプログラム」を送ってくる、30代40代のプロプログラマーってのはいかがなもんでしょう?
身の程を知れというか。
なんでプログラム書けない人がプログラマーなんかやってんだろ?
んで、なんでそういう人に「仕事」があるんだろうか?
身の程を知れよ。
自分の欲望ばっかり考えやがってね。
もしくは、いかにして物語るために構成を必要とし、また必要としなくなったか。
「けいおん!!には物語が無く、その構成とはつまり、ついに物語ることを止めてなお作品であり得ることを示した」
この言説は、正しくもありまた正しくもない。
つまり、どの時点と比較して、何と比較してという点を明らかにしていないから矛盾が生じうる。
まず第一話にて平沢唯がギターを弾いている。それに合わせて主人公達が楽器を持って登校する。
これは前作からの繋ぎであると同時に、その成長を感じさせる。練習は新歓ライブのためのモノだ。
そして最終話は(番外編と銘打たれているが)、中野梓がまたギターを弾いている。
練習は新歓ライブのためのモノだ。それに合わせて主人公達は、楽器を持たず下校する。
非常に明確な代替わりの話であり、また、その前段の担任宅への訪問もそれを連想させる。
つまり、主人公達は居なくなるわけでも、物語が終わるわけでもなく、続いている。
写真を見る山中さわ子は学校に居続けるし、その彼女もまた高校生だった過去がある。
そして、当時のメンバーが訪ねてくる。
主人公達の話の枠外にも時系列が存在し、続いているという強烈なメッセージでもある。
さて、ではなぜこれを物語が無いと言って正当性があると言えるか。
演劇、特に高校演劇では顕著だが、ストーリーテリングにはいくつかの手法が確立されている。
簡単に説明すれば、
これらは誤解を恐れずに平たく言えば「日常には何も起こらない」と言っていることと等しい。
会話劇であって会話が無ければそれは劇ではない。そう言っているわけだ。
ごく当たり前と言える。
(何もない日常を描く場合、大抵それは通常でない人たちを集めた3つめの手法であることが多い。
たとえば究極超人あ〜るの何もない日など)
そう言う意味で、
ストーリーを動かす外部性が無く(イベントは起こるが日常を進める要因ではなく)、
外部性のみで描き出すわけでも無く(場面と場所は設定されているが、起こるのは日常)、
そこにはストーリーテリングが存在しないと言ってしまっても良い。
ここまで敢えて触れなかったが、「テーマ」もしくは「観客の感情を揺らすなにか」が演劇には必須であるとされている。
「何が主題なのか」「喜怒哀楽のどれを意図したモノなのか」が必要であると言われている。
サザエさんやドラえもんは、その環境(場面、キャラクタ)から何かを伝えようとしている。
(これは演劇屋さんによって言うことが違うので、酷く難しい問題ではある。「何を伝えたいか」と言い換えても良い)
ではボーイミーツガールでもなく、社会批判でもなく、人間の愚かさを示すわけでも、爽快感を意図したモノでもなく
「けいおん!!」は何を伝えたいのか。
成長と代替わりをずっと行おうとすることから何を伝えるか。
写真が記録の代名詞として何度も登場することから、そして色味を変えて何度も描き出すことから、それは「郷愁」だと言える。
いや、それは「同調」でも良いかも知れない。「憧憬」かも知れない。
「期待」かも知れないし、「絶望」かも知れない。
そう、過去があり未来がある「高校生活」というある時間と場所を切り出した作品なのだ。
外部性はなく、主張も見えない。
高校というシステムの永続性を描き出して、何も起こらない。
高校という枠の外にも時間軸があり、写真で時間を止めてもそれは切り出した一部であるという明確なメッセージがある。
つまり、一般的な過去の「こうすれば何かを相手に伝えられる」という手法からは逸脱した作品である。
そしてまた、日常生活を丁寧に描くことでそこに思い出と永続性と一時的な時間を同時に表現している。
始まりと終わりがある物語ではなく、始まりも終わりもない物語ですらない。
始まりも終わりも無い桜高軽音部を枠として、その枠の始まりから終わりまでを丁寧に描いた作品。
伝えるために手法を必要としていない、より原初の演劇。
いかに「日常系」の作品とて、劇場版になれば始まりがあり終わりがある。出来事の開始から終わりまでを語られるのが映画という100分くらいの尺なわけで、いままでの「けいおん!!」のように最後はお茶してとりあえず終わり、な話は構成できない。
従って、今回の劇場版では劇場化に際して何かしら映画コンテキストからのアプローチが図られ、結果として物語が成立するようになるのだと思われるが、それが何であるのかがいまだに見当がつかない。
ドラえもんの例でいえば、例の如くのび太くんがドラえもんに無茶を言ってドラえもんの道具で遊んでいたら、そこで(ドラえもんという日常の)物語の外部から使者(ザンダクロスとか、恐竜の卵とか)が現れ、やがてそれらは大きな事件へと発展していく。いじめっ子だったジャイアンは一時的に心の友となり、イヤミなスネオはメカやコンピュータに詳しいオタク的立ち位置を獲得する。ジャイアンが暴力で物を解決し、スネオがアイデアと資金力で物事を解決する。のび太はボケて、ドラえもんがそれに突っ込む。しずかちゃんは脱ぐ。それぞれ役目が割り振られて、大きな物語を解決するに至る。
それはクレヨンしんちゃんやケロロ軍曹にしても同じことであり、大体の家庭用アニメの劇場版は似たような構成になりがちだ。
さて、けいおんに戻ると、ドラえもん方式のこのやり方を、劇場版でも通用させるのであろうかということである。
いつも通りの放課後ティータイムのメンバーがギター弾いたりお茶飲んだりしてるところに、ある日突然転入生やら異星人やら吸血鬼がやってきたりするのだろうか。あるいは、放課後ティータイムというリアリティに則って、出てくるとすれば「無愛想な転入生」やそこら辺だろうか。
我々のロジックからすれば、さもありそうな流れではあるが、「けいおん!!」に関して言えばそれはあり得るのか?
先日から話題になっているアイドルユニット育成ゲーム「アイドルマスター2」がある。アイドルマスター2(以下IM2)では前作で搭乗していたキャラクタは一部わき役扱いとなりNPC化し、代わって完全な男である男性アイドルユニット三人組グループ「ジュピター」が新規にアイドルマスターの世界に「認められた」。少なからず、公式ではそういうことになっている。それに対して、既存のファンはどう思ったであろうか。
『異質』である。女性アイドルグループを育てようという中に、まったくの外から(本当は知っているはずだが、あえて知らないふりをしていた)機知外である「男性」は、その世界観に親和性などなかった。よって、排除の対象とされた。今でもIM2でのその男性キャラを排除する運動が盛んであるという。
けいおんに、放課後ティータイムやその他クラスメイト達以外の存在が、急に割り込んでくる余地があっただろうか。
ケロロ軍曹なら、毎週のように新キャラが登場してくるからさりとて珍しいことでもないだろう。しかし、けいおんではそれはありえない、と見る。理由は前述の通りだ。既にけいおんでは体制の硬直化が作品それ自体の本質として認知されている。新たなる関係性の示唆は、作品に対して保守的なユーザーが多くを占める「けいおん!!」にとって諍いの種でしかない。つまり。
あくまで筆者の予想でしかないが、劇場版ではおそらく大胆な構成も図られなければ新キャラの登場もなく、あるいは物語の核となる「事件」そのものも起こらないであろう。
しかし、それで映画の体を保ちたいというのであれば、興行主が考える手法は一つである。
テレビアニメ版では、主要メンバーのすべてが同じ女子大に通うことになった、という話で区切られている。
物語の延長線上では、放課後ティータイムは崩壊後ティータイムとなっており、バンドを組めないのである。
そうでなくとも、諸々の保守的思想から導き出すに、女子大生となった彼女らのキャンパスライフを描くことは、創作者にとっては容易いが、視聴者には受け入れづらいものになる。高校生の記憶を共有できる視聴者は数多くあれど、女子大ないし大学の思い出を共有できる視聴者はそう多くないからだ。
つまり、女子大生の日常は、それがもともとファンタジー的な女子高生の日常を描いたものだったという前提があったとしても「SF」くらいまでにリアリティが薄まってしまうことを意味する。
ならば、そんなのは書かないほうがいいに決まってる。
じゃあどうすればいいか。「想いで」を再編集するのだ。
かつて、京都アニメーションという会社は「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメシリーズで、「全く同じ話だけど微妙に構成が違うだけの話」をなんと8回も放送した、という記録が残っている。結果は不評であった。それはともかくとして、作品の制作方法として、原作1話があればそれを多角的な観点から再構成しなおし、ストーリーは同じでも別の話のように見せかける技術はこの試みによって研鑽されたのではないかと推測する。
今までのものは実験作だった、と仮定するならば、「けいおん!! 劇場版(仮)」がその本番になる可能性は否定できない。
マクロスフロンティアだってそうだった。エヴァンゲリオンだってそうだった。
「リメイク」である。
テレビアニメではなしえなかったあの表現、物語の構成を、劇場版ではより高クオリティでやりなおしてくれるのだろう、京都アニメーションは。
期待して待とう。まだ制作開始すらされてないっぽいけど。
例えば、「うだつの上がらない青年がある日化け物と遭遇して魂を抜かれてしまったと思ったらそこにおっきい刀をもった少女が登場してなんだかよく分からない力を使って化け物を倒してくれた上に自分に代わりの魂を吹き込んでくれた」ような話がおおむね殆どのラノベなんだけど、そこに作者の現状が反映されていると、1ミリでも思うのかね。
主人公に与えているコンテクストは、作者の現状なんかではなく「読者がそうであろう、感情移入のしやすい器」であって、決して作者が思いを入れて動かしているものじゃあねえぞ。
装置をどれだけうまく使って演出を施せるかが小説(フィクション)の醍醐味なんだが、そこに入ってくるのは演出論であって現状がどうとかまったく関係がないだろ。むしろ隠し味でしかない。
作者の願望っていう意味ではその通り。作者のイマの願望を妄想エンジンにてブーストして味付けをファンタジーにしたりリリカルにしたりシリアスにしたりするのが小説。そこに異存はない。
AIONはベータテストから参加していて、当初からゲーム自体は良くできていた。問題は運営。ちなみに正式サービスは月額3000円であった。
1.アカウントハック
正式サービス開始が2009年7月中旬で、下旬-8月にはアカウントハックだらけの状況だった。50人弱ギルドの1/3が被害に遭ってたような状況。アカウントハック(第3者にログインされ、装備やアイテム、所持金を丸はぎされる)が発覚しても運営は何も告知しなかった。被害者は泣き寝入りで、ギルド内でお金を支援するなどしていた。
その後の告知「windowsupdateを行え(8月)」「被害は申告された後調査し仮想通貨で返す(1-2ヶ月以上かかった)」「パスワード変更キャンペーン(9月)」「セキュリティカード導入(10月中旬)」
一方、先にサービスを開始していた韓国でもアカウントハックは同じく起こっており、韓国のテストサーバにセキュリティカードが導入されたのが2009年6月。
後に "4Gamer.net ― 「The Tower of AION」,事前アンケートデータからアカウントハックの傾向を検証する" http://j.mp/1mxwQU
他インタビューの中で「当初のスケジュールを優先させた」などの発言から、正式サービス開始以前、あるいは前後には既に問題を把握していたと思われる。
把握していたのも関わらず正式サービスを強行したのは大変残念だ。同運営社の別のゲーム「リネージュ2」では既にセキュリティカードは導入されており、サービス開始を延期し、セキュリティカードを導入することもできたはずだ。また、発覚後の告知も遅く、被害を拡大させた。
アカウントハックの原因を、「アカウントハックはwindowsupdateをしておらず変なサイトをみたユーザのせい」(公式には言っていないが)としているが、ギルドの1/3が被害に遭った状況などから、とてもそうとは思えなかった。
2.BOTの横行
ベータテストでもBOT(ユーザが操作しない自動プログラムによるキャラクタ)はいたが、正式サービス開始後は急増した。敵NPCを倒したいのに、BOTが複数で占有し、まったく狩りにならない場所も発生した。運営は「BOT通報機能」を実装したが、BOTは一向に減らなかった。運営曰く「BOTか判断するのは難しい。BOTのような動きをしていても、ユーザが操作しているかもしれない」
(私のかなり偏向した見方だが)BOTもお金を払ってくれればユーザ、という認識のようだ。
私は3ヶ月でAIONをやめた。
以来なんどもウェルカムバックキャンペーンというメールがきている。1週間で30時間(?)無料でプレイできるそうだ。
そして今。AIONサーバ統合のお知らせのメールがきた。9のサーバを統合し5つにするという。AIONの醍醐味は対人戦にある。
たとえゲームがどんなに面白くても、ユーザが最低限楽しく遊べる環境を作るのに努力もなにもしない運営のネットゲームは、残念ながらダメゲームである。ベータテスト中に見抜けなかった私の責任でもある。
鷲宮って、作者の出身地とかではなくて、登場キャラクタが住んでる場所のモデルだよ。
原作中では「鷹宮神社」ってもじってあるけど、アニメ版ではしっかりと背景が鷲宮神社。
まあ、作中で出てくる場所をモデルに観光資源にっていうことなら、実写映画の世界なら昔から色々あったのは事実だけどね。
それこそ「ローマの休日」やら、日本だと「網走番外地」シリーズなんてのが代表。
とはいえ、アニメの場合だとらきすた&鷲宮の、あの大規模な大成功っぷりはエポックとみなしていいと思うし、
「らき☆すた」だな。
別の言葉で言うと「社会現象という言葉の意味を変えた」作品だから。
作品の出来とか面白さとかどれだけファンを増やしたとか、そういう意味での「人気」「出来」ではハルヒが00年代では突出している。
その意味でなら「らきすた」は、ハルヒの足元にも及ばないだろう。
しかし、「らきすた」は、従来にない現象を起こした。そこが他の00年代人気アニメとも、従来の「社会現象」アニメとも一線を画している。
今までのアニメなどで使われる「社会現象」とは、突き詰めて言えば「どれだけ売れたか」「どれだけ人気があるか」「どれだけ広く知られたか」以外の意味はない。
一般人も虜にした、構成も内容も素晴らしい、関連グッズも沢山売れた、それ自体は素晴らしいことだが、
それらというのは、単に「規模」や「数」の違いでしかない。
ところが「らきすた」は違う。「鷲宮町」という地方自治体ひとつを「らきすた」に染めて見せた。
鷲宮町の人たちは、その殆どは作品のファンでもなく、キャラクタのファンでもなかっただろう。
でもそういう人たちにその存在を受け入れてもらえ、作品と共存共栄の道を歩んでいるわけだ。
恐らく「らきすた」がなかったら、鷲宮町は「関東最古の由緒ある神社を持つ田舎町」のまま緩やかに寂れ行く町になっていただろう。
そして逆に、恐らく鷲宮町の現象がなかったら、「らきすた」はもうアニメファンにも忘れられていた作品になってたはずだ。
しかしこの両者は現実として手を取り合い、共存共栄の道を歩んでいる。
そこまで考察できたらもう答えが出たも同じだと思う。
お饅頭のような顔をしたキャラクターが、ただ「ゆっくりしていってね!」と言っているだけだ。
これのどこに面白味を見出せばいいのだろう?
受けたのはキャラクタ、ゆっくり饅頭のあのキャラクタの造形がウザくも可愛くもありっていう微妙なラインだったのがウケたんだと思うよ。
フレーズは多分なんでもよかったんだろう。「働きたくないでゴザル」でも「ストリングプレイスパイダーベイビー」でもよかったんじゃないか?
それがたまたま「ゆっくり」だっただけで、別に台詞の意味とかシチュエーションとかそういうのでウケたんじゃないんじゃないでしょ。