はてなキーワード: 電化製品とは
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
スポイトでエネルギーを自律的に吸い取るようなイメージでお願いします。
大きなスポイトを使えば沢山吸い取れる
例えばね、扇風機は強弱のボタンがある、強にすればより沢山電力を消費する。
これは想像できると思う。
「過電流」を上流から既定値以上のエネルギーを無理やり押し込めれるようなイメージの人がいる。
ちゃう、シンク側(消費側)がもっと沢山もっと沢山と吸い取ろうとするから「過電流」が起きる
これの目的は発電所、電柱から変な電気が流れてきたときに家の中の電化製品を守るため、にあるのではない。
家の中の電化製品がぶっ壊れて「もっと頂戴、もっと頂戴」が過剰になると
まずそんな沢山の電流はケーブルが保たない、発熱して火事になる、
だから下側の故障の影響を上に波及させないために強制的に切断するためのものです。
今日は是非ともこれだけは覚えて帰ってくれ
https://anond.hatelabo.jp/20240609080350
https://web.archive.org/web/20170710055944/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201201
こないだ、食事に連れて行って頂いたレストランでのデザートが。。。
ココナッツのアイスと、ヨーグルトのムース?だったかな?(記憶曖昧)
グラスの中で組み立てるんだって。器用だなあ~~すごいなあ~~~
こういうの、ほんと見てるだけでワクワクする。食べるけど。
先週、誕生日だったので。
今年で17回、送って頂いたという事か。あれ?18回??
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日記---
あれ?急にアクセス数増えた?と思ったら、
初めまして。芦原妃名子です。
「BLACK BIRD」も面白いけど、「Piece」もよろしくお願いします。(宣伝)
今日は(あ、もう昨日か。。)小学館の偉い人からタダ券を頂いたので、
楽しかったー。
しかし・・戦後20年で、ここまでマッハな速度で発展を遂げたのね。
頭では分かっちゃいるけど、改めて、すごい時代だな~と。
って、うちの親の世代か。すごいな。
そんなこんなと、「やっぱり大森南朋が好き過ぎる!!どうしよう!!」とか
考えてたら、あっという間の2時間ちょいでした。
一瞬、自分がどこにいるのか分かんなくなった。
お尻イタイ。恥ずかしい。
体が冷えたので「野獣風呂」に入ったよ
真っ黒(笑)
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本・映画---
この可愛さは犯罪だと思うよ!
「ほぼ女子会」に、こういうシャンパンをセレクトして来てくださる
(私なりに物凄く褒めてるつもり!)、面白いです。ほんとに。
ユカイな人に出会うたんびに、「ああ、この仕事選んで良かったな」とか思う。
(あれ?気を遣われてるだけ??その可能性も大。)
杉本彩プロデュース「野獣風呂」は、以前他の人にも貰った事があるよ。
去年、私が「女豹になりたい」とか、ほざいてたからでしょうか。(あほ)
いつも接待して頂いてばかりなので、「今日は私が接待するわよ!!」的な
気分で、ご飯用意して待ってたんですが、、
結局また引っ越し祝いやらお菓子やら沢山頂いて、「私、何様!?」状態です。
取りあえず、「Piece」をがんばろう。
また遊びに来てくださいね~。
あ。酒飲み&通な編集さんを満足させるお酒を選ぶ能力が私にはないので、
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日記---
仕事机裏に3つ
ああ、魔除けね、魔除け!
夜中にお風呂入ってたら、いきなりブレーカー落ちて、怖いよりとにかく寒い思いしたり、
桜小路さんに「すっごい暖かいよ!!」と おススメされて買った暖房器具が、
なるほど超暖かかったんですけど、3週間で壊れたり、
相変わらずちっちゃな災難が、毎日いっぱいです。
逆柱の神様(?)、ほんとになんとかしてください。
うちの電化製品は、なんでいっつもすぐに壊れるのかなあ。。?
ほんとに不思議なんだけど。私、なんか発してる。。?
雪やんだかな。寒いなあ。
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日記---
使い倒してたi Pod nanoが、とうとうぶっ壊れたので、
全くおんなじやつを買いなおそうと思ったら。。
こういうの、ほんと目に見えて進化するよなあ~。
前ので十分満足してたんだけど。どこまで行くんだ。
消えて無くなるよ。
買おうか迷ってたi Pad も一緒に買ってみた。
黒×赤にしてみたよ。
こういうの、その時期の気分によって、選ぶ色が全然変わる。
コレ、楽しいな!バッテリー持ちいいし!いくらでも時間つぶせるよ。
ちゃんと使いこなしたら、海外旅行中でもお仕事出来るよね~なんて
カッコ良さげな事を夢想中。
何を言う。
リビングにまだ無線LAN通ってないので、リビングで使えない。
RICOHさん、早く~!
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日記---
新刊が、やっと家にも届きましたよ
遅いなーと思ってたら、やっぱり一度、引っ越し前の住所に
配達されてたみたいです。
よくあるある。
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お仕事---
和歌山在住・10年以上会ってない友人が誘ってくれたので、
すごく楽しみにしてたんですよ。
そしたら当日、神戸在住・これまた数年ぶりの懐かしい友人が、
「東京出張ができたので、今夜東京に着くよ!ご飯食べようよ!」って。
よ、よりによって、なんで被るのさ。。!
「前より元気そうだね。以前は、顔色青白かったよ。」とか言われる。
確かに私、前よか数倍元気。
風邪もひきにくくなったよ。
子供の頃、よそ様から頂いて、お正月によく食べてたよ、ゴーフル。
私はいちご味が好きです
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日記---
だらけてます。
だらだら自由業なので、人出の多い時期にわざわざ外出する事って
あまり無いんですが。。。
今年は敢えて観光地に飛び込んでみましたよ。
箱根神社
日本も、元気になるといいな!
単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数
経営者はみな頭を抱えることになる
***
***
『市川房枝集』に収録されてる
1930年に書かれた『現代の婦人問題』という文章にはこうある
まったく見られないといっても差し支えはない。」
***
黒澤明が戦時中に監督した国策映画『一番美しく』を見るとわかる
***
そのころの大学進学率はせいぜい30%台な
***
『「育児休職」協約の成立 高度成長期と家族的責任』(勁草書房)
という本によれば、1968年の専売公社職員の女性比率は43%(1万5600人)
平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造職
***
東京商工会議所は女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限を撤廃
左翼フェミではなく資本の側が女性労働の制限撤廃を主張していた!!!!
***
実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇にしろ運動」な
それが実現したのが1985年の男女雇用機会均等法なのだが……
***
「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み
だされたものではなく、国連の婦人差別撤廃条約を批准するため政府が成
立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト
を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」
「西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本の集中豪雨的な輸出
が貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解
――雇用機会均等法の成立は左翼フェミや労働組合の要望もあったが
俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが
***
という論旨なのであるが
***
いまだに定期的に
論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが
悪いけど完全に的外れなんだよ
ま、絶対に信じたくないだろうけどね
(サビ)
(1番)
"ええな、これは便利やわ!"と感じるぜ。
(サビ)
(2番)
"これが最新のスマホやで!"と教えてくれる。
"ほんまに?すごいな!"と驚くぜ。
(サビ)
子どもたちと接する機会があり、一緒に絵を描いていたらその親?に言われた。
子どもたち「絵、うま!どうして?」
親「ないないw最初から上手いから描き続けるんだよwいいな~ずるいよねw」
子どもの前で何をいってんだこいつ…と思いながらその場は適当にあしらった。
こいつに初めて描いた絵を見せたいもんだ。
ただのぐちゃぐちゃの線だぞ。
最近はオタク文化が根付いたのか絵描く子多いから今の子の方が上手いだろ。(おそらく)
というか「ずるいよねw」ってなんだ…。ずる…?
ふと絵描き人生でも振り返るかと思い、吐き出しがてらここに投げることにした。
*
初めて絵を描いたのは覚えていない。物心ついたときから暇だったら絵を描いていた気がする。
想像が目に見えるという楽しさで描いていた気がする。
しかし当時は
みたいな時代だった。それか自分の学校の治安が悪かったのかもしれん。
「うえ~wこいつ絵なんて描いてるぜ~wキッショ!」
である。
移動教室でちょっと自分の席を離れていたら、しまっていた自由帳を黒板に張り出されているし。
色鉛筆や道具箱消えているし。
女キャラを描いていたら
「おっぱい描いてるwきっも~~~www」
だ。
しばらくして図工教室に籠もるようになった。
担任も「絵なんて描いてないで外で遊ぼう!」しか言わんかったし。
その中でも絵を描く同士で集まって、出始めたころの初音ミクの衣装を考えてみたり、好みのイラスト本を共有し合っていたりした。奪われて晒されて怒られたこともあったけど。
同士がいることは本当に心強かったな。
絵がとんでもなく上手い奴がいたのだ。
マジで上手い。
な…なんだ…これ…背景?!…ぽ、ポージング?!横顔?!うま?!なんで?!
自分の絵なんて赤子どころではない。猿がかいた…いや猿の方がもっと上手い。
下手すぎる。なんだよ横顔をかけないからって逃げるなんて。
しかも鈴木は堂々と絵を描いていた。小学校時代に怯えながら描いていた自分とは違う。
「増田、どうしてそんなキャラをたくさん生み出せるの?!え、漫画も描いてる?!すごい!」
いいやつすぎる…なんだこいつ…。
私立だったからしらんけど、絵描きをいじめるやつはいなかった。
そして鈴木を中心にどんどん上手い奴が集まってくる。
「うまくならなきゃ!!!みんなに失礼のないように!」
鈴木がコミケに遊びに行こうと誘ってくれて、デジタルというのを知り親に頼んでみる。
「パソコンで絵が描けるみたいだけど、何か知ってる?」と父親に相談した。
父親は電化製品が大好きで、PCを自作するタイプの人間だった。
父親はペンタブという存在を知っていた。イラストソフトっていうのも知っていた。
「一緒に買いに行こう」と初めて秋葉原に遊びに行った。
すげぇ…あんなに迫害されていたオタクという文化が街に存在している…。
逆に渋くてかっこいいのもある!
ペンタブというものがあり、デジタルだとあんな絵が描けるというのも知った。
レイヤー?バケツ?解像度?ペンの種類多すぎじゃね?色どうやって作るの?絵の具とは違う?
でも毎日触っていた。機能がわからなくてもペンを動かすのは同じだったから。
このくらいからまわりが「アニメ絵やポップな絵が欲しいなら増田に頼む」という認識になった。
鈴木が「めっちゃ絵上手になれた。増田のおかげ」と言ってくれたこともあった。
自分にとって、鈴木は目指すところだし、憧れて悔しいところもいっぱいある。
でも一緒に上手くなっていくのが楽しかった。ライバルってこんな感じかもしれん。
鈴木にもようやく追いつけたぞ!と思った。
Twitterが盛り上がり時期で、このあたりでネットにも投稿し始めた。
ネット上にはもっともっと上手い人がいる。激うま。みんなプロじゃないのか?
でも自分の中では「自分はまだ高校だし」と思って、いつも通り適当に絵を描いていた。
大学受験が疎かになってペンタブを没収されるくらいに絵を描いていた。勉強しろって話だ。
変わらず授業中に絵は描くし、風邪ひいていても絵が描きたくて起きたり、兎にも角にも絵が描きたい!!!!!!!!!!という中高時代だった。
そう、これがやばい。
第二の衝撃。
みんな………………絵が………………うますぎる。
え?みんな先月まで高校生だよね?
え?え?
鈴木の絵は上手いと思っていた。まじでリアルの周りで頂点だと思っていた。全然だった。
鈴木の5000000000000000倍上手い奴らしかいない。(鈴木も十分上手い)
(ネット上だとプロとかもいるしと、なぜかフィルターをかけて「しょうがないよね」ってなってた。たぶんネットだから実感がなかったんだと思う)
比較して鈴木が下手の分類になると、必然的に追いつけたくらいの自分はもっと下手になる。
改めて自分の絵を見る。
へっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっただな!!!!!!!
クソみたいに下手な絵だな?!?!?!これで投稿していたんか!!!
みんななんで上手いんだ?!デッサンしたほうが良いのか?!
でも、デッサンをやっていない人ばかりだし、それでも絵が上手いってなんでだ?!
息をするように神うま激うま絵が出てくる!!
困惑しつつも、成人して鈴木と一緒にコミティアに出た。イラストと漫画。
計5部くらい売れた。終わり。
ようやく現実を突きつけられた。
「自分はうまくないんだ…」
鈴木は楽しそうだった。上手い・下手だけで生きていない聖人だったから。
「もっとうまくなりたい」とぼやいたら「向上心の塊か?なろう!もっと高みに行こう!」と言ってくれた。
何をすれば絵がうまくなるんだろうと悩んだ。
ペンを動かしても「違うよな…」となった。
塗り方を変えてみたりした。
たくさんのメイキングを見たり、ペンには何があるか、生物の構造は何があるかちゃんと勉強した。
なんとなく模写していたら上手くなっていたし、ちょっと意識すれば上手くなったからだ。
でも限界があった。
嘘みたいに絵を描く気力が落ちていった。
だって自分より上手い人なんてごまんといる。比べ始めてしまった。
絵を描いて…何がしたいんだろう。仕事にしたいわけじゃない。
どんなにインプットしても思い通りに描けない。アウトプットがうまくいかない。
授業中に絵を描くのは大学生になっても続いていたが、なんか満たされない。
片道2時間半の通学も車窓の景色を見つめてぼーっとしてしまう。
周りの真似や、メイキングをあさっても、なんかピンとこない。
「十分上手い」と言われても自分では納得できなかった。
つか、上手いってなんだ?何をもって上手いなんだ?
人体通りに描けていれば上手いのか?
でもそうじゃない人もいる。
崩しが上手い人、デフォルメが上手い人、モンスターが上手い人…。
ここで初めて「絵が上手い≠綺麗に人体が描ける」と思った。
絵が上手くなりたい。でも明確なゴールって?
鈴木を超えたら終わり?
楽しければいいと思っていたが、うまくなればもっともっと楽しい。
でも上手いってなんだろう?
『芸術は人の感情を動かすことができる。自己完結ではなく、第三者に影響を及ぼせる。
技術も科学も芸術も一人で終わってはいけない。第三者に影響させてこそ輝く。
社会貢献という形で自己の確立にもなるんだ。すでに君たちは与える側に立っているんだ』
その世界が伝わるから絵を見ることは楽しいし、すごいってなる。感動する。
絵を描き続けるだけが楽しいと思っていたが、元はそうじゃないって気が付いた。
想像を形にして、自分にそれが伝わるから楽しい。絵で感動しているからだ。
なら第三者に伝えられることができればもっと楽しいのでは?!感動させたら?!
せっかく芸術系の大学に入れたんだ!しかも他の学科も受けれる大学だ!
他のジャンルの授業を受けてもっともっといろんなものを見よう!
そこから自分が手にしたい絵柄、表現にたどり着こう!第三者に伝えられるように!
それでこそ自分の想像が完成する!自分の勘違いで終わらせない!
という結論になった。
流行りやあこがれで選んでいた絵柄は自分では表現しきれないと諦め、アニメ・ギャル塗りを極めようと絞った。
そして、好きなものは何だろう。自分が良く描くものは?と徹底的に自分が100%実力が出せるように調べた。
大変だった。
初めて絵を描いて「違う!!」「こんなの下手すぎる」となった。
漫画を描いてもストーリーはまた別の技術。これまた自己嫌悪になった。
何を描いても必ず楽しいにはならなかった。
「ゴミみたいな作品生みやがって…」と自分にキれることも増えた。
何作も描き終えては「ゴミだな…」となり、試しに小説を書いたりもした。
「くそみたいな話だな…微塵も面白くねぇ…」と二度と読み返さないのも増えた。
ふと、気が付いたらなんか想像していた通りの絵が描けた。
急にだった。どうした?
徐々に上手くなったのかもしれないが、突然意識して「あれ?上手くね?」となった。
無我夢中だったのか?
SNSでも反応が増え始めた。
完売した。50部
え…?
え……?
た、たどり着いたってこと?!
人生で積み重なって山になった自信がようやく噴火した瞬間だった。
つか作るのたのしぃ~~~!!
思った通りに!意のままに!絵が描ける!描けている!自分の勘違いじゃない!
賞をいただけて、意図が伝わっている!
伝わっているってこんなにも楽しいなんて!
20何年。ようやく堂々と絵が上手いと言え、それにうなずいてくれる第三者がいる。
なんとなく絵が上手いよねくらいじゃない、絵が上手い人にへと!
*
「「ずるい」は、自分に有利にするために、汚い手を使ったり、ごまかしたり、だましたりするさま。」ってgoo辞書にある。
どう見たってずるじゃねぇだろうがい!!!と叫びつつ、これをどうにか圧縮して投げつけたい。
「絵が上手いね。どうして?」と言われたら
「ずっと描いていたからね」と回答する。
とりあえずの最適解なんだよな。
でも、これを3年くらいでやってのける人間もいるしな~。世界は広いよな。
自分の絵は上手いと思うが、でもやっぱり去年の絵をみて「まだまだ」と思う。
だからおおっぴらに自慢できないけどさ、ここに残しておいてもいいよな。
AI絵とかできて自分の絵は不必要になるかもだが、それでも描いていたい。楽しいんだもん。
ちょっとでも誰かがすごいって感情が動いて、感動してくれれば、自分がこの現実に生きているって思えて嬉しい。
考えればこの親もずるいっていう感情が生まれている。嬉しいことかもしれない。
<余談>
鈴木のことは超えられない。というか超えるっていうの止めた。
鈴木も当然とんでもなく絵が上手くなっていて、すごいことになっている。
絵のジャンルは違うけど、いまだに嫉妬しつつ憧れているし、お互いの絵を褒め合って羨ましがって「いいだろ~」「お前上手いな!」と言い合っている。
紙使われてんのも嫌。スピーカーのコーンとか。最適解の素材として仕方ないんだろうけど。
使い捨てのものとして認識してるというか、紙ってティッシュとかコピー用紙とかそういうもんじゃん、せいぜい図工で使うやつじゃん。それなりの期間使うであろうプロダクトに使われてんのがなんかやだなあ、って思う。
和紙を使った服もなんか嫌。逆に綿素材を消耗品として使うのもなんか嫌。
防水スマホが接着剤で固定されてんのもなんか嫌。ネジで留めてあって欲しい。
ストラトがブリッジをバネで固定(?)してんのもなんか嫌。これはおれがアーム使わないってのが多分にある。テレキャス欲しい。
ガッチリと固定されてなくて、なんか絶妙なバランスのアレで保たれてる構造の橋も嫌。理屈は分かってもなんか不安になってくる。
でもアーチの石橋とかはセメントとかで固定されてなくてもなんか安心出来る。宮大工の手法とか校倉造り的なのも、釘で固定されてなくともなんか許せる。
この辺は物理の理屈が肌感覚にまで及んでるかそうでないかが問題なのかもしれんけど、紙はなんかマジで許せない。一瞬の付き合いであって長くは頼りたくない。
安物の家具の中身がダンボールとかだと、いくらハニカム構造が凄かろうが暴れ散らかしたくなる。
紙は長期的な劣化には強くとも簡単に引き裂ける。鉄は腐食こそしても捻じ切れない。おれは特殊攻撃耐性よりも物理対策に重きを置いてるっぽい。確かにドラクエも魔法使いより戦士の方が好きだった。
第一印象で言えば、増田で見かけがちな『挫折したエリート』『やたらと小難しい言い回しを好む人』と言った所か。
Eは「自分は以前いた会社でイジメられた経験がある」と言っていた。
何でも新卒で入社した会社はイジメで退職、次に入った会社もその事を弄られた事がきっかけで
おかしな人達に目をつけられイジメにあい、一時期は精神を病んでしまったという。
そんなパーソナル且つコメントし辛い事を入社そうそう言うのもどうかと思いつつ
イジメられた事自体は可哀想だと思うし、周囲も最初は同情していた。
今まで辛い経験をしてきたであろうEには配慮してあげよう、という事になった。
ところがEは、とんだ人間だった。
まず、相当に口が悪い。
正確に言えば口調「だけ」は丁寧だけど物言いが酷い。
例えば仕事でミスをしてしまった新人や若手に対し、ミスを注意するだけに留まらず
「こんな事(ミス)をする為の教育を◯◯大学(その人の出身大学)はしてるんですかね?」
「◯◯大学は幼稚園なのかな?あっ失礼、◯◯さんの頭の出来が悪いだけでしたね」(実際は大したミスでは無い)
「不出来な人間を育てたあなた(新人)の親御さんも可哀想ですね」
などという、社会人としてはあまりにもあまりにもな物言いを平気でしていた。まさに慇懃無礼。
勿論周囲や上司から注意されるけど、「私は先輩として注意・指導しただけです」と平然とするだけ。
当初のイジメの件もあり、周囲や上司はEにはあまり強く出れなかった事も災いした。
Eからの口撃に疲弊したのか、Eと同じグループの新人や若手はEが退職する頃には何人か退職してしまっていた。
目下(Eによる主観からしたら)の人間だけでなく、年長者にも同様の態度だった。
ある社員(N)は事情があって大学中退だったのだが、これもどこから知ったのか本人から無理やり聞き出したのか知らないけど
EがNの中退の事実を把握した途端、露骨に馬鹿にしたり挨拶を無理したりする様になった。
NはEとは別部署の管理職に当たるのだが、部署からの依頼でもN経由だと露骨にスルー。
Nさんが怒ってEに直接問いただした所
「あなたみたいな所詮大学中退の欠陥品、いえ欠陥人間の仕事を優先する理由があるとでも?」
といった事を言った。本当に言った。
Nさん当然激怒してEに「何故そんな事を言われなければいけないのか?」と怒鳴った。怒って当然だと思う。
しかしそれが不服だったのか、EはNに「周囲の面前で一方的に糾弾されパワハラされた。精神的苦痛を受けた」
として、人事を巻き込みN所属の部署の上の方にまで被害を受けたとある事無い事騒ぎ立て、結局NさんがEに謝罪する事で決着。
しかしNさんはその事を不服に思ったのか、程なくして退職・転職してしまった。
一方で、「その事が一方的に嫉妬されて前にいた会社では迫害され、イジメられた」と言っていた。
Eは自身を優秀であるかの様に自負していたが、残念ながら自己認識ほどに優秀では無かった。(寧ろ無能寄りだった)
業務知識「だけ」はあるが、それを実務に活かせない場面が多く、典型的な頭でっかちタイプだった。
また手抜きする上に確認を怠る悪癖があり、既存のコピペを多用するが変更すべき所も変更しないでそのまま出す為
結局は誰かが確認・修正の時間を取られ、修正もEには出来ないしやらないので、尻拭いをする羽目になった。
Eにその事を指摘しても
「上司の指導が悪い」「自分がミスをしたのは不可抗力であって私の責任では無い」
などと騒いで回り、決して自分の非を認めなかった。
尻拭いさせられた方が、Eから「勝手にEの仕事を盗む、ケチをつける」「(Eの成果物のケチをつけるのは)私に嫉妬しているんですか?」
また、先の通り普通に無礼千万で、取引先相手にも失礼なメール(ダラダラと持論を書き連ねた無駄な長文メールや、相手の会社の偉い人を呼び捨てにするなど)
を平気で送り付けたり、対面でも失礼な言動を重ねていた。
例えば、相手の会社でもMT途中で退席し、そのまま戻って来ず、勝手に帰社しており
理由を問いただすと「あいつ(取引先の担当者)の説明が退屈だったのでお付き合いする価値は無いと思ったので」と平然と言い放った。
その取引先は割と大きな所だったので、後日上司と自分が平謝りに行ったが、Eは同行をするとすら言わなかった。
一事が万事そんな調子だったので、Eが入社して数ヶ月経つ頃にはすっかりEは腫れ物扱いになった。
挨拶ぐらいはするし業務上のやり取りはするけど、それ以外は一切ノータッチ。
会社や課としての飲み会には一応誘う程度。(Eは酒なんて飲めないので行きません!って感じだったけど)
するとEは「周囲の連中にイジメられている!」と騒ぎ始めた。
「飲み会に一人だけ参加出来なかった!」(あなたが断っただけ)
「自分を飲み会などの集まりから省いて孤立させようとしている」(勝手に孤立しているのはお前)
「ランチは複数人の飲み会に自分だけ誘われなかった」(当たり前)
「そういった場で自分の根も葉も無い悪評を捏造している!」(そんな事実は無い)
「周囲に無視されている。雑談をしようとしても避けられている!」(当たり前では…)
本人が騒いでるだけならスルーするだけだったが、Eは本社の人事に事実無根のイジメ被害を通報するだけでなく
更にその上の上層部にまで「イジメ被害」の直訴のメールや書類を送り付けたり
周囲は疲弊したし、問題が大きくなったのもあって、最終的にはEの所属部署の上司が責任を取って退職。
同様にイジメ加害者だの騒ぎ立てられた何人かの社員も退職した。
Eも最後には「こんな幼稚なイジメをしてくる会社なんて居られない。地獄に堕ちろカス共」
というメールを本当に送って辞めていった。
多かれ少なかれEみたいな被害者様的なタイプはいると思うんだけど(増田でもちょこちょこ見かける)
後にも先にもEみたいな人間には出会った事が無いし出会いたくもない。
Eの自称を信じるのであれば、Eは優秀な学歴で、両親や親族も優秀な経歴の持ち主でそこそこのお金持ち家庭のご出身。
E自身も自慢しつつ何故か親を下げていたが、Eの年齢・ポジションの給料では明らかに不釣り合いな
高級腕時計を何個も所有し、高価な電化製品も事ある度に買い替え
便利な立地の高級マンションに一人暮らしで(親が家賃出しているらしい、と聞いた事はある)
にも関わらず、あそこまで攻撃的且つ他責性が強い割に被害者意識は異常に強烈な人間になってしまうのは
まさしく『育ちが悪い』としか言えなかった。
さすがにもう関わる事は無いだろうけど、Eが辞めてから結構経ってるのに未だに覚えてるし
たまに夢に出てきてうんざりさせられるぐらいに強烈な人間はEで最初で最後にしたいなって思う。
本当に、二度と会いたくないし関わり合いになりたくない。
それはまだ背中の羽根を無くした頃(Webメディアが今よりは多少元気だった時)の話。
今でこそWebメディアの記事=コタツ記事(取材を一切せず自宅から動かずに書ける様な代物)などと揶揄される事が多く
当時も似たような批判はあり実際に「ネットで調べた事をまとめただけ」で書かれた様な記事も少なく無かったが
ちゃんと実際に取材に行って記事を書く事も多かった。まだ多少は元気だったので少々ではあるが予算が出たからだ。
飲食店、美容関係(店舗)の記事が多かったが、実際に記事を読んでお店に行ってみた、みたいなコメントが増えて行くに従って
お店の側から「ウチの記事も書いて欲しい」と依頼される事が増えた。
「そういうのは宣伝になるので…」と穏便に断る事もあったが、結果的に依頼を請けて記事を書く事もあった。
さすがに金銭の支払いは拒否したが、「じゃあ代わり」にと次回の食事代を無料にして貰ったり(実際に行かない事も多かったけど)
美容関係だと実際にサービス・施術を受けてそれを無料にして貰ったり。
商品の宣伝だと、試供品を大量に貰って編集チームの面々で分け合ったりした事もあった。
高価な電化製品だと、自分はやらなかったが、こっそりオクに…という人もいた。
あくまでも「お金」を貰って記事を書いた訳では無いから問題無い――「という事」にしていたのだろう。
まだステマという言葉が一般的では無かった当時でもちょっとこれどうなの?と思う事もあったが
依頼する側も請ける側も特に問題視はして無かったので、「そういうもの」だと割り切る様にしていた。
記事を読む人は、自分達メディアが本当に良い、推せる!と思ったから記事を書いている、と信じていた人の方が多かったと思う。
記事を真に受けて大した事無い店に行って「実際に行って見たけど美味しかったよ!」とコメントを書くヤムチャみたいな人間は良い面の皮である。
ステマが問題になり、遂にステマ規制法なる法律まで出来たが、今でもステマ「的」なネットメディアはそこらにある。
例えば「◯◯先生のあの漫画は凄い!」とか、□□グルメの誰それが今もっとも推している!なんてのは大半がステマ「的」である。
記事を書いて宣伝する事により、別の媒体で誰でも(餃子みたいな坊主でも)書けそうな記事の仕事を「対価」として与えられるか
紹介の「お礼」としてお店で「接待」されるなど、あくまでも「金銭」は伴わない形での利益提供を受けている。
寧ろインフルエンサーやら人気ネットライターやらを標榜する人間が、一切のステマ的行為をした事が無い・利益を提供された事が無いという方が不自然だろう。
某ネットライターが某インフルエンサーを「ステマと指摘されたのは事実摘示の名誉毀損である」として訴えたという話を聞いて
当時の事を思い返しながら罪滅ぼし的に書いた。
話を聞く限りは確かにステマ「的」ではある。消費者庁の定義には引っかからないかも知れない。
しかし一般の目線からすれば「友人からの依頼で宣伝」「(人的資源の)利益提供」
があったという時点で「ステマ?」と思う人の方が多いだろう。
(ちなみに先程帰宅してきた家人に聞いた所「えっ?(それ)ステマじゃないの?」とあっさり言われた。一般人はこんなものだと思われる)
ネットメディアという虚業界人からすればこれが「ステマである」と認定されたら
自分達のやってる事の大半がアウトになるから戦々恐々になっているかもしれない。
既にライター業から足を洗って久しいし、今更自分に火の粉が飛んでくるとは思わないが
当時の自分達が書いた宣伝記事(PRとは書かれていない)を読んで真に受けたヤムチャ達からしたら
狼牙風風拳の一つでも叩き込みたくなる事だろう。
一般的に考えれば、例え金銭の支払い・商品の無償提供が無かったとしても
何らかの利益提供を受けて「これが私の一推し!」などと、さも本人が良いものであるる思って推している
かの如く宣伝している時点でステマ臭いとは思うし、何より読者・視聴者に『不誠実』だよね。
出来れば法律でガチガチに規制するのでは無く、界隈の良心に期待したい所だけど……難しいよね、やっぱり。