はてなキーワード: 自尊心とは
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これは、男性の方が不安や心配事が少なく、お節介な干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
しばしば指摘される中高年男性の自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分の苦痛や不安を認識する能力を社会に破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。
他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキングや海釣りや森林浴を想定してください)
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。
この論法は「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性のセルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズムと弱者男性論は真っ向から対立しています。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
今までも男性差別については、男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨なセクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、男性差別の根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係や恋愛や経済やジェンダーロール面の困難や、弱者男性の存在自体が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性も女性くらいに保護する方向と、女性も男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。
細かな調整が必要な問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。
あくまで私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性もケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります。
本エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!
【追記】
母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。
『男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります(anond:20220909191646)』
初日から飛び交うお世辞の応酬に吐きそうになる毎日を過ごしている
上司が昇進した時に「一緒に仕事をしている方の昇進ってこんなにうれしいものなんだなって実感してます」とか、俺は100回宙返りしても言えない、キモすぎ
お祝いする気があるならもっと真面目に文章書けよ真心がこもってねえぞ
ってかそんな嘘で塗り固められたコミュニケーションでどうやって信頼関係構築してるん?
あー、思えば元カノも社交辞令が過剰なのが嫌でどんどん嫌いになっちゃったんだよな
こいつみたいに社交辞令を過剰に重ねて男に言い寄られて、それでモテるって自尊心満たしてる子だったわ
不器用でもいいからこういう社交辞令言えない真っすぐな子がいいや
今の嫁なんですけどね、へへ
・寝てるとき: あたたかくてやわらかい布団きもちいい。幸せ。
・食事のとき: 自分の好きな物やおいしいもの食べてるとき幸せ。
要は3大欲求が満たされると「幸せ。」っていう単純な生き物なのだな自分は。
それで、それで、コンカフェに行っている時も、それに匹敵するレベルの幸せがある、と最近気が付いてしまった。
入店してから、店を出るまで、なんなら店を出た後もしばらくは多幸感に包まれる。
接客されて、おもてなしされて、これは何が満たされるから幸せなんだろう。
自尊心てやつだろうか。それとも何かの本能なんだろうか。性欲の一種なんだろうか。
「おかえりなさい」って言ってもらえるだけで涙が出そうになる。これは性欲ではない気がする。
・学歴(というより如何に難しいペーパーテストに合格したか)が全て。中国皇帝ですら科挙を合格した官僚に嫉妬。名家に生まれた首相や田舎生まれの集団就職から一代で成り上がった首相ですら東大卒キャリア官僚にコンプ。医師が尊敬されるのは世界共通だが東アジアでは仕事が尊いからではなく、入試が難しいから尊敬される。
・施しは嫌い。
・人助けや親切も嫌い。身近に親切な人がいたり、人助けが行われると居心地や気分が悪い。偽善者ということにして非難し自己を正当化。
・損をするのは大嫌いなので国や地域のために何かをする気は皆無。だけど恩恵は受けたい。
・プライドが高いということは人類共通だが、東アジアでは自分を高めるより他人を下げることで自尊心やプライドを保つ。
・人の長所を探すことはできない又はしたくない。人の粗探しは得意。
うちの子はADHD→アインシュタインやエジソンになれるかも!!特殊な才能があるかも!!ってあれやこれや手当り次第に習い事させて、結局どれもうまくいかなくて子供の自尊心つぶしちゃう親も多いらしいね。
子どもが生まれてからツイッターで子育て系のツイートとかまとめを見ることが増えたけど、
母親がベビーカー使ってるとなにかされるとか、そういう母親がかわいそうな話や子どもや母親の自分が実家や義実家に旧時代的なことを求めらてかわいそう、またはそこをきっかけとするスカッと系な話に異常に感情移入してしまう。
子育てが大変で、こんな大変なことをしている自分は子育てしていない人よりも偉いということを感じていないと気がすまない。
要は子持ちの方が偉いと、子育てしないと理解できないことがある(子育てしてないやつは視野が狭いみたいな)と認識させて、子育てしてる私を大変なのに頑張ってて偉いとか、現代母親小公女みたいに思わせないと気がすまないというか。
母親というものを悲劇の主人公だと思わせたいと考えてしまい、例に挙げたようなツイートをrtしてしまう…。
悲劇の主人公というのも、全くツッコミの余地もない悲劇の主人公だと思わせないと気がすまない。
たぶん、心のどこかで子どもがいなければ手にできた人生の可能性というのを考えてしまっていたり、
自分自身が子供が産まれて初めてわかった、と感じていたことが他人にとっては子ども産まなくても当たり前に理解できてることだというのを受け入れ難かったりしてて、
妊娠とともに退職したのでいま子育てくらいしかすることない状況で自尊心を保つものが子ども以外にないからなのかなと思う。
親が子どもを自尊心保つ道具にしていると言われたらぐうの音も出ない、実際そうだと思う。
そう思って社会性を持とうと、自尊心を感じられるものを他にも持とうと再就職のための準備を始めたいけど、ワーママになってもというか、ワーママだからこそ母親が悲劇の主人公でないと気がすまない精神をこじらせそうでもう怖い。
なんでこうなるんだろう。
お気持ち表明してるの、
ドル売りしてる若手女性声優、地下じゃないけど微妙な立ち位置の女性アイドルあたりにいくらでも先駆者おりますやん
プライベートでならお好きなだけ不器用可愛いアピール・生きづらいアピールしてもいいけど
仕事でファンに無限の理解を求めたら厄介が手に負えなくなるだけですし
社会人なら受けるだろう当然の指摘も一切ないまま年を重ねて社会と折り合いがつきにくくなるだけです
ウシジマ君でも厄介専用に売りを立てて売り上げ1位になってる風俗嬢とかいたし
現実でも厄介で売上出した風俗嬢やホストYouTubeで語ってたり本を出してたりするけど
どうして誰もそういうの狙いに行かないのか?って話ですよ
単純に自尊心の問題(客やファンの質が良い方が満たされる)もあるけど、文字通り厄介だからなんだよな
大手事務所のドル箱スターじゃないからイメージ・コミュニティ・身の安全の管理を誰もしてくれないので
自分ですべてしなきゃいけない
厄介相手に売ってなくてもおかしな人は有名になれば必ず出てきてしまうのだから、
うまいこと捌けないなら厄介売りはやめた方がいいです
何のこっちゃっていうタイトルだが、本当にそのままだ。
突然だが、私はクリエイターの端くれだ。それ1本で生計を立てているわけではないが、VTuber企業様からも多少なりともお金をいただいている。
とある私の携わった動画は、タレントさんの高い能力と知名度のおかげで、ものすごい再生数も叩き出したし、そこからさらに他のお仕事へ繋がったりもしている。
察しの良い方はここでお気づきだろうが、私が推しVのオリ曲を聴けない理由、それはあまりにも情けない理由だ。
嫉妬をしたのだ。私の推しVのオリ曲に携わった、私の友人たちに。
悲しいかな、私のちっぽけな自尊心は、こんなしょうもないことでズタボロに引き裂かれてしまったのだ。
私は"選ばれなかった"。
全部能力不足な自分のせいだなんてことはハナっから分かってる。それでも、自分の惨めなプライドが邪魔をする。
大真面目な話、私はとある推しVのオリ曲がリリースされてから1年以上経ってもまともに聴くことができなかった。聴いてしまったら、その作品の良さに飲み込まれてしまって、敗北を認めてしまう。何と闘ってるんだ、自分は。
こんなことでポキっとメンタルが折れてしまう自分は、きっとクリエイターに向いていないのだと思う。
だが、それすら失ってしまったら、私は何をして生きていけば良いのだろう。その先を思うのがとても怖い。
決して安くはない金額をつぎ込んできた機材・ソフトたち、積み上げてきた知識・経験・実績、これまでに得てきたファン・認知度。
ああ、情けないな。こんなものに縋ることでしか、自分の存在価値を見出せない。
そうしているうちに、私は推しの配信すら見れなくなってしまっていた。それが楽しみだった、それが癒しだった、そんなはずの配信に、必死にリアタイしようとも思えなくなり、アーカイブを追う気力すら湧いてこない。
私はあれだ、小さな箱でライブしてた頃から応援してたアイドルが大きなステージに羽ばたいて行くことを素直に喜べない、醜くて小さい人間だ。そうはなりたくなかったはずなんだけど、結局自分ってそういう奴だったんだって気づいてしまった。
「勇気」なんて言葉をいっちょまえに使ってみたけど、勇気なんてカッコいいもんじゃないよな。
そんな自分に自己嫌悪しながら、今日もパソコンに向かって作り続ける。きっと自分が望む自分になることはないだろうと、自分を諦めながら。
科学は病気や苦役による悲惨さを軽減し、娯楽や利便のためのたくさんの道具を与えてくれたかも知れない。しかし、科学は感嘆すべきもののない世界にわたくしたちを置き去りにしました。夕日はただの波長と周波数になり果てました。宇宙の複雑さは切り刻まれ、方程式の集合と化しています。人間としての自尊心さえもが、いまや重んじられていません。科学は、我らが地球も、そこに暮らす生きとし生けるものも、遠大な仕組みのなかの無意味なしみにすぎないと公言しています。単なる宇宙の偶然だというのです。
科学と宗教との古来の戦いは終わりを告げました。あなたがたの勝利です。ただし、あなたがたは正々堂々と勝ったのではない。答を示して勝ったわけではないのです。科学は人間を救う、とあなたがたは言う。しかしわたくしに言わせれば、科学は人間を破滅させてきたのですよ。
まわりをご覧なさい。科学が約束したことはまったく守られていない。効率化と簡素化は、汚染と混沌を生み出したに過ぎません。
科学とは、どんな神なのでしょうか。民に力だけを与え、その使い方に関する倫理の枠組みを示さないというのは、どんな神でしょうか。子供に火を与えるだけで、それが危険だと注意してやらない神とは、いったい何者ですか。科学の言語には善悪を判断する指針がありません。科学の教科書には核反応を起こす方法は書かれていますが、その善悪を問う章はないのです。
科学に対して言いたい。教会は疲れました。あなたがたの指針であろうとすることに疲れ果てました。
あなたがたは大量破壊兵器を量産しますが、世界じゅうを飛びまわって指導者たちに抑制を求めるのは教皇です。あなたがたはクローン生物を創り出しますが、人々におのれの行動の倫理的な意味を考えるよう釘を刺すのは教会です。
あなたがたは一貫して、教会が無知だと言い張ってきた。しかし、ほんとうに無知なのはだれですか。稲妻の性質を説明できない者と、稲妻の恐ろしい威力に敬意を払わない者のどちらでしょうか。
重力の強さや原子の重さがわずかにちがっていただけで、宇宙がこういう壮大な天体の海ではなく生命のない霧になっていたはずだと断言しながら、それでもなお、神の力を見出せずにいるのですか?億兆のトランプの山から偶然にも正しい一枚を選んだだけと信じるほうがたやすいなどと、本気で思っているのですか?数学的に不可能なことを信じるほうが、自分たちにまさる偉大な力の存在を認めるよりましだと考えるほど、人間の精神は破綻をきたしているのですか?