はてなキーワード: グラデーションとは
実際にはその3要素ってグラデーションなんでしょ?
天つゆのような少し甘めの出汁で食べるかき揚げうどんや蕎麦が旨いと思うのだ。
そして立体的なかき揚げは、氷山のように出汁の外に出ているプレーンな部分のサクサク感と、少し出汁に浸かった部分のサクとろ感、そしてしっかり出汁に浸かってもはやトロっトロになったぐじゅぐじゅ感が奏でる絶妙なハーモニーは、至高の幸福感をもたらしてくれるのだ。
食べ始めは無論七味唐辛子を入れない。
初期状態のまま食べるのだ。
かき揚げは出汁に浸からなければ話にならないが、浸かり過ぎてもダメだ。
そして食べ進めるうちに状態は変化してゆき、前述の三態が偶然にも最高の比率で揃いグラデーションが織り成された瞬間に七味唐辛子を投入することで僥倖が訪れる。
七味唐辛子の量は「その時どう思ったか?」だけを基準に決定されるものであるべきなのだ。
迷いにより僥倖を逃すことは、なんと言う不幸であろうか。
意識してはならない。
集中すべきは「食べること」ただ一点である。
その上で瞬間的に現れる絶好のチャンスを逃すことも許されない。
そしてその好機がこの世界に顕になった瞬間、すでに数秒先の未来は脳裏に浮かんでいるはずである。
すなわち、ほのかな香りと味わいを求めているのか、多めの刺激が必要なのか、あるいは挑戦とも言える程度の辛さを欲しているのか、それは事前に決まっていることである。
従うことでのみ、その先にある幸福をも手に入れることができるのである。
あたかも瞬間は偶然であるかのように述べたが、実は必然である。
「瞬間」は必ず訪れる。
逃すな、諦めるな。
このところのポリコレ関連の話題を見ていて、差別の定義が人によって違うことが無駄な議論の要因の一つのように思えたので備忘録的に。
公的な空間における制限が差別か否かを議論する際には論者が考える差別が対称-非対称or正当-不当のどちらに基づくかを明確にする方が無駄な議論が避けられて良い。
例えばちょっと前の増田になるが女性専用車両が差別かという投稿がある。
元増田は女性専用車両は③非対称かつ正当とした上で、非対称であるから差別だと提起した。
これに対して差別ではないとする意見では、一つは正当である、もう一つは対称(女性専用車両に男性が乗ることは禁止されていない)であるという2つの理由があり、その分離が曖昧な意見が多かった。
このように「差別」という言葉の定義が異なるために無駄な議論で消耗するのはもったいない。
※なお個人的には女性専用車両(女性専用とは言っていない)などという鉄道会社の命名と運用が悪いと思う。
問題のない①対称かつ正当と明らかに問題な④非対称かつ不当の間には、②対称かつ不当と③非対称かつ正当のグラデーションが有る。
現代では正当-不当を差別の要件とする派閥が大勢のようだが、私は対称-非対称を要件とするべきだと考える。
対称-非対称の判断基準は正当-不当のように社会通念という時間や場所によって異なるものに依存しないため明確であるため議論の前提にしやすい。公的空間においてすべての非対称がない社会が理想であることを前提とした上で、③非対称かつ正当な制限について現状許容するかをすり合わせ、定期的に見直していく方が建設的な議論ができるのではないだろうか。
また、この定義では②対称かつ不当な制限については差別とは別の論理で議論する必要がある。案件によっては非対称性に置き換えることも可能かもしれない(例えば補足で挙げたスラップ訴訟を訴訟に対応する能力が非対称だから差別だとする)が、基本的にはすべてのグループに対称な制限を差別の論理で議論することは筋が悪いだろう。
①公的な空間においてすべての人間に対する制限は平等であるべきだ
(私的な空間では平等でなくても良い。例えば私の家に入れる人間と入れない人間を私が独断で決定することは問題ない)
①グループ:人間をその属性(性別、国籍、宗教、階級など)で分けた集合のこと。
②対称-非対称:あるグループに属する人間に対する制限が、別のグループに属する人間に対する制限と同じもしくは代替の利用コストが無い場合を対称、制限が異なるか代替の利用コストが有る場合を非対称とする。
③正当-不当:ある時代・場所・状況においてその社会を構成するおおよその人間が道理に合うと認めることを正当、道理に合わないと認めることを不当とする。
ある属性で分けられた複数のグループに対する制限について、対称-非対称と正当-不当の2軸で分類すると以下の4つになる
①対称かつ正当
②対称かつ不当
③非対称かつ正当
④非対称かつ不当
①対称かつ正当の例としては公園での火気使用禁止や隣り合った男子・女子トイレを挙げられる。火気使用はすべてのグループに対して一括で禁止されているため対称である。また男子トイレに女子が入れないこと(またその逆)はあるグループに属する人間に対する制限が、別のグループに属する人間に対する制限と異なるが、隣に女子(男子)トイレがあれば代替の利用コストが無いので対称と考えられる。またどちらの制限もおおよその人間は正当と認めるはずだ。
(以前話題になったマクドナルド上大岡カミオ店の店内トイレを日中は女子専用とすること(http://news.livedoor.com/article/detail/13296334/)は男性に利用コストをかけるため非対称と考えられる。マクドナルドは私企業なので今回の議論には直接関係はないが。)
②対称かつ不当の例としてはスラップ訴訟を挙げられる。提訴する・される権利・義務は社会的な地位に関わらないため対称である。しかしながら、政治家や大企業が市民や被害者に対する恫喝を主目的として訴訟を起こすことは現代の社会通念上は不当とされる場合が多いし、実際にカリフォルニア州では「反スラップ法」が制定されている。
③非対称かつ正当の例としてはアファーマティブ・アクションを挙げられる。特定のグループに対しての優遇措置=別のグループへの制限は明らかに非対称であるが、そのグループの不利な現状を歴史的経緯や社会環境に鑑みた上で是正することは理念としては正当とする人間が多いと思われる。(具体的な改善措置についてはもちろん種々の意見はある)
④非対称かつ不当の例としてはアパルトヘイトを挙げられる。現代では黒人隔離政策が非対称であり不当であることに異論はほとんどない。
あくまで2次元は2次元と割り切ってるのと、3次元では無理なのでその代償としてというのに分けられるだろうけど、実際のところほとんどの人はその両端の間のグラデーションのどこかなんじゃないかな?まあ、本人がそういってるならそういうことにしておくのが吉
この話題って定期的に上がってくるね。
おそらく昔から再発見され続けている古いネタで、男性がかかりやすい病の一つなのかもね。
そう言えば、小中学生の頃の「女となんか遊べるか、女と遊んでもつまらない」などというノリを思い出した。同じクラスの男と女が対立したりとかね(まあ半分はポーズもあっただろうけど)。
あれを卒業せずに大人になったらこんなネタでドヤ顔するようになるのかね。
ただ、友達のそういうノリに付いていけず、むしろ女の子と気が合った自分は「俺は実は女なのではないか、男失格なのではないか」などと悩んだりもした。「オンナ男」というような侮蔑語もあった。男女という区分けは実は確然としたものではなく、グラデーションみたいなものなんじゃないかと思うようになったのはその頃だったかもしれない。
文中で「レズよりのバイ」って書いてあるけど、「ヘテロだけど趣味で女の子好き」だよね?どう見ても彼氏が本命でレズ風俗のお姉さんは遊びじゃん
文中のお姉さんの「きっと女性同士はノーカウントと思ってるんでしょうね」って言葉に「そうかも!」と喜んでる感じからよくわかる
本当にバイだったら、男女間の性行為と同性間の性行為を同じくらい大切にしてほしい。自分のエゴだけどさ。
こんな事書くのは自分がバイだからです。性癖も性自認も人それぞれだけど、自分からしたらパートナーがいるのに風俗行くってことは彼女いるのに風俗行くのと一緒です。
「彼氏からオッケーもらったからいいだろ」とはもちろん思いますが、相手が男の風俗だったらオッケーもらえたでしょうか?相手が女だからオッケーしたのではないでしょうか?
「どうせ女は遊びだから男の自分に帰るでしょ」という揺るぎない自信があるんじゃないかな
それは作者にも言えることです。女は遊びでしょ?
バイの人のグラデーションって人それぞれだけど、本気でないなら「レズよりのバイ」なんて名乗らないでほしい
いつか彼氏より好きな女の子できたら、彼氏捨てて女の子と付き合うとかしないでしょ?ただたんにヘテロだけど趣味で女の子好きって言えばいいのに…
それと普段「LGBTがー」「女性搾取がー」とか言ってるブコメがなんも考えずに「百合サイコー!!」みたいな雰囲気で気持ち悪かった
ある界隈では口にした瞬間にその場の全員から石もて追われ二度とその界隈の住人とは見做されなくなる恐ろしいワードである。うっかり口にしようものなら村八分確定であり、女性同性愛者を意味するスラングを気軽に口にするポリコレ意識のあまり高くない人たちからもぶっ叩かれる究極のポリティカルインコレクトネスである。だが、以前うっかりこの言葉を使ってしまいフォロワーさんから非難の大合唱を浴びた人間として、少々自己弁護を口にしてみたくもなる。
私たちが見たいのは関係性である。しかし関係性が好きならBLだろうが百合だろうが区別なく摂取すればいいのに何故百合ばかりを求めるのか、と言われればそれはイケメンの男の子よりも可愛い女の子が好きだからである。いやイケメンの男の子も嫌いではないし同性としてこいつ性的魅力にあふれてんなとは思うが性的対象ではないのである。これは逆側もそうではないのか。BLを嗜まれるお姉さま方のけっこうな割合はヘテロセクシュアルであろう。関係性を楽しむとき、そこには当然に性的視線が介在している。
そしてその関係性には強弱がある。あるのである。一部の妄想力や発想力の逞しい方々は公式で何も会話していないキャラ同士の絡みを公式設定であるかのように信じて邁進することができるらしいのだが、公式から理由も分らずに押付けられたカップリングを大人しく受取って、理由も分らずに消費して行くのが、我々凡夫のさだめだ。とにかく、公式で「あっこれはガチで女の子にしか興味ありませんわ。そして両思いですわ」というキャラやカップリングもいれば(あーなたのうーたにーわたーしのーハーモニーかさーねてー♪)、「友達でも通用するし、男とくっついても違和感がないけど、でも××ちゃんと○○ちゃんが仲良くしてるのはいいなぁ……」という根拠薄弱なカップリングもあるのである。あるったらある。強いカップリングと弱いカップリングはありまぁす! 電磁カップリングとか重カップリングとかがあるのかどうかは知らない。
その弱々しい関係性の芽を大輪の百合の花に育てきるのが一流の同人作家だったりオタクだったりするわけだが、我々貧困な想像力しか持たぬ凡夫は惑うのである。あれ? この子とこの男友達って、いい感じじゃね……? などとヘテロフィルターがかかってしまうのである。大吉山で白ワンピ着て楽器吹いてイチャイチャしてたと思ったら普通に原作で男と付き合っていたりするのであり、では公式で否定されたから百合ではないのかと言われるとでもやっぱりこのふたりの関係性とか姉との繋がりとか眼鏡の先輩との絡みとかも恋愛感情に発展させていきたいよぉ! と二次創作がマルチバースであるのをいいことに色々な世界線をアラカルトでつまみ食いしたくなるのだ。凡夫は往々にして雑食になる。EMTEMTと言って天使と男が性交する薄いブックを購入することと天使とお姉ちゃんが百合百合する同人誌に手を伸ばすこととのあいだに特に矛盾はないのである。
この傾向に、最近の若い者がハマっている「そしゃげえ」というものが拍車をかける。これらのゲームではキャラクタはプレイヤーに向かって話かけてくる。そしてそうプログラムされているから当然なのであるが、彼女たちは同じゲームの女性キャラと仲良くするのと同時に、まるでプレイヤーに好意的であるかのような振る舞いを見せるのである。likeの範疇に留まっていればいいのだがどう見てもloveにしか見えない場合もあるし妄想力を働かせるとloveに聞こえてきたりもするし、一方では他のキャラとイチャコラしていたりするのだ。もー体触るのやめてよー。つまるところそこに現出するのは、「○○ちゃんが男とくっついていても女とくっついていてもどちらも公式設定として通用してしまいそうな世界」なのである。
そして頭の悪いオタクはマルチバースを統一するのが大好きである。某アイドルアニメにおいて赤髪ツンデレな医者のご令嬢のカップリング相手は小柄ツインテにっこにっこにーな上級生もしくは猫語尾の体育会系アホの子と相場が決まっているのだが、「あれ……? にこまき前提のりんまき、いいのでは……?」などと閃いてしまうのであり、これはりんまきに失恋モチーフの同人漫画が多いことからも容易に察せられる宇宙の真理なのである。秘めた恋心を自覚したときには既にふたりがにっこにっこにー(隠語)していたので恋を自覚するのと同時に失恋を味わい部屋でひとりで泣くCV飯田里穂のキャラはいて、それは間違いないこの世の真実なのだが、ともかくそういう風にマルチバースを統一したがるオタクの眼の前に「自分(プレイヤー)を好いている××」「別の○○ちゃんとイチャついている××」の2つの道筋が示されたらどうなるだろうか。加えて○○ちゃんの方も私に好意的な態度を取ってくれているのだ。
そう、「混ざりたい」のである。ようやくこの表題に辿りつけた。別々の世界線のままにしておくのもそれはそれで良いし、現に私は提督LOVE合同誌もBig Northな薄い本も持っているので、別々のままにしておいてもよいのだが、混ぜたくなるのである(はいここダブルミーニングです。テストに出ます)。自分と○○ちゃんの双方に好意を持っている××でいいじゃないか、という解釈を見つけ出してしまうのである。
「そういうのは『ハーレム』でいいじゃん」と言われるかもしれないが、ハーレムはそこに集められた女性同士の関係が良好であることを保証しない。極端な話どこぞの王侯貴族が作るハーレムなら同じハーレムの一員と一度も口を利かずに終わることもありうるだろう。そういうのも悪くはない、いやこれは欺瞞なのではっきり言うとある種の夢ではあるのだが、そういうのが見たければ素直にハーレムものを読みに行く。私はジェンガ艦橋を持つ姉妹がお互いに愛し合いながら私にもその愛情の一端を向けてくれる世界を妄想しているのである。私と彼女との関係だけが重要なのではなく、彼女ともうひとりとの関係性も尊いと思っているのであり、そのふたつの関係性をひとつの世界で縒り合わせようとした時に貧弱な発想と乏しい語彙を絞り出した結果として出力されるのが、忌み語として名高いかの5文字なのである。
この呪われし文字列は今や百合好きのあいだでの共通の敵となっており、普段はカップリング論争を繰り広げる諸氏もこの言葉が発せられた瞬間に一致団結するという驚異的な接着力なのでDIYに役立ちそうな語なのだが、発する側としてもそれなりに理屈があって言っているのである。しかし、ここまで摩擦を生む語である以上、「百合」とは棲み分けた方がいいという意見にも一理あろう。この5文字を聞いた瞬間に親を殺されたかのごとく怒り狂う人びとも、別にこのような関係性への志向を理解できないわけではなく、単にそれを「百合」と名指されたくないだけなのであろうから、共存はできるだろう。ただ私の中でそれらは連続的なもので、簡単に切り離したりできないんだよ、ということは伝えておきたかった。
当たり前であるが、上で述べた理屈は現実の女性同性愛者あるいは両性愛者のカップルに向けて「俺も混ぜろよ」と発言することを肯定するものではない。あくまで紙とJPEGで表示される女性のことを言っている(もちろんこの言明は、現実に女性2人男性1人で構成される愛のあり方を否定するものでもない)。また、そのような消費態度が現実の同性愛者に対して搾取的である、と言われるかもしれないし、実際に女性同性愛者の表象を簒奪しているという議論も成り立たないわけではないかもしれないが、バイセクシュアルやポリガミーのことを考えれば、男が混ざろうとするのはおかしいというのも別種の抑圧に与することになりはしないかという危惧はある(シスヘテロ男性が言っても説得力がないと言われたらまったくその通りであり、反論できない)。
あと、“男性向け”百合と“女性向け”百合を分けようっていうのは、私はあまり賛同しない。薔薇とBLは棲み分けているというが、近年腐男子という存在がそれなりに登場するようになっており、その中には男性同性愛者も一定数いると聞く。彼らにとって薔薇/BLという壁は窮屈なものなのではないか。というか百合好き男性の界隈で好評を博す作品にはプラトニックな作品が多く(私も好きだ。新米姉妹の部屋の居間に置かれた時計になりたい……)、女性の百合好きに好まれる作品とどのくらい違いがあるかというと、正直あまり違いがあるようには見えない。だったら無理に分ける必要もないように思う。“男性向け”百合と“女性向け”百合とのあいだに強固な壁はなく、なんとはなしのグラデーションの中で共存しているのだから、あえて「こちら」と「そちら」に分ける意味もあるまい。性描写の有無はR-18シール貼ればいいわけで。というか性描写で区切ろうとすると「百合とレズは違う!」とか言い出して「清らかな女の子同士の百合」と「レズ」を切断してレズビアン差別に加担する百合好きが出てくるというお排泄物みたいな現状があるからそこで区切るのは害が大きい。腐女子の“学級会”はよく揶揄されるけど、ほんと百合界隈もたまにはちゃんと“学級会”する必要があるんじゃないかと思うよ。
なんの話かというと、型月厨のお前らロード・エルメロイII世の事件簿読めよ、イスカンダル大好きなウェイバーちゃんマジ尊すぎんぞ、という話でした。というかあの作品はグレイちゃんが師匠に向ける思いも尊すぎてミステリ部分はガバガバだけど人間関係部分は尊さの塊なんや……
murishinai 「混ざりたい」だと、すでに成立してるカップル双方の思いを無視して割り込む感じがあるので良くない。この増田はポリアモリー的な物を目指してあるのであるから、もっと別の表現を探して使うべきだ。
なるほど「混ざりたい」への違和感の原因はそこだったのか! と目ウロコ。確かに日本語の語感としてはそうですね。
jet-ninjin 女性向けの夢にあたる概念は男性向けでは何て言うのかな。オリキャラ女主はよく見るが男性向けでオリキャラ男主ニーズあるのかな…。
というか、女性向けと違って男性向けでは所謂「夢」がデフォルトなので特別な名前がついてないという事情があるような(デフォルト、というのは実際の頒布数に占める割合ということではなく、「男性向け同人誌」と言ってパッと思い浮かぶのが百合じゃなくて女性キャラと男性がイチャコラしてる本、みたいな、イメージの問題です)。男性向けのえっちな本の多数派は百合ではなく(もちろん百合もありますが)女性キャラと男性(もちろん既存キャラである場合も多いですけど――キョン!AVを撮るわよ!――モブおじさんとか整備員とか用務員とかの所謂「竿役」はオリキャラのことが多いんじゃないかなと)がえっちなことをする本であったりするわけで、男性向けでの「俺の嫁」は文字通りの「俺の嫁」なのです。
seachel 長くてよく分からんけど夢女子と腐女子兼ねてる子は女にもよくいるので、自分自身すらマルチバースと捉えたらいいのでは? Aカプを愛でる増田、Bカプを愛する増田、夢男子の増田…みたいな切り替え方式。
この切り替えというのが難物というのはあるかもしれないですね。私にとってそれは全部連続性を持ったただひとつの私で、はぁこのカプ尊い同居してる部屋の目覚まし時計になりたい……という私と○○ちゃんとイチャラブしたい私というのはあくまでグラデーションの両端でしかなく、その真ん中を厳密に切り分けるのはなかなか難しいのですが、切り分けていかないとムラハチを食らうしこんなこと言ってる私も鶴賀学園の主将と副将に混ざりたいとか言われたらイラッとするので(ザ・自己中の極み)、場の空気を読んで穏便に使い分けて生きていきたいなと思いました。