はてなキーワード: 悪魔の証明とは
シャーレの中に、細胞が見つかった。
これはね、すべてOさん1人の責任だ。
もちろん、チェック体制が機能していなかったという部分では、私らにも責任はあるので、
その点については反省しなければならないと思っている。
だけど捏造そのものについてはOさん個人の独断でやったもので、
悪意のある捏造だと断言できるね。
真夜中、ピカピカって緑色に光って、あぁ私夢でも見てるのかしらって、
ピカピカって、ピカピカって、ね。
いや、Oさんみたいな、ああいう女いるんだよね。
俺もね、昔そういう女に振り回されたんだよ。
本当に酷い女だったね。だから女は嫌いなんだよ、まったく。
社交性は人並み以上にあるので、普通に接しているぶんにはまず気づかない。
なんというのか自然すぎて、「ナチュラルサイコパス」と私は呼んでますがね。
特に、そういう人は不利になると必ず悪魔の証明に持ち込んでくるんですよ。
たとえばね、
「S細胞が見つかった」って言われて、証拠を見せてと聞くと、
「でも証拠はないよ」って言われると、普通は嘘だと思うでしょ?
そこで「うそでしょ!」って攻めると、泣きながらこう反論してくるわけ。
「あなたはS細胞が100%無いって、言い切れるの?!」ってね。
それは悪魔の証明だ。UFOが絶対に無いことを証明できないのと一緒だ。
「もしかしてS細胞はあったのかもしれないし、責めている自分は悪者なんじゃないか」
信じない自分が悪く、疑って人を傷つけた自分が悪人であるという考えになった時点で、
あなたはナチュラルサイコパスのコントロール下におかれてしまう。
え、本当にそんな人いるのかって?
やだなぁ、疑ってくるなんてなんてヒドイ人だ!
ナチュラルサイコパスが居ないって、あなた証明できるんですか?!
あたしが何細胞ですかって?
そんなのあたしが知る由もないわ。
前の記憶なんか持っていないので当然でしょう。
ただ、光ったのは認めますわ。
あたし、光りましたわ。
あたしはぴか、ぴかと光ったのは真実ですの。
思い出しても、ちょっと、はずかしいくらい光っておりました。
あたしの意志に反して、激しく光り続けて、んもう、誰か止めて欲しいっ、
ああ、思い出すだけでも、恥ずかしい・・・!
とにかく尖ったナイフみたいなオンナでしたよ。
我々みたいな研究者の大体はね、社会において「羊」なんですよ。
そんな中、そのオンナがやってきたんです。
我々みたいな「羊」の群れに突入してきたんです。
そのオンナはしもべの女子を数人引き連れ、
ユニットリーダーにまで登り詰めた。
私も最初は反対だったんですがね、実績もない奴がこんな地位にいるのがね。
でもとある日、なんといいますか、いわゆる、お、おっぱい、を、
私の腕にくっつけたりする事件があったりしてですね、
なんというか、研究所へ行くのが楽しくなってしまったのは事実でして。
それはもう完全に「中毒」でしたね。
怒られたい。縛り上げられたい。踏みつけられてボコボコにされたい。
毎日そんなことばかり考えておりましたよ。
そんなわけで、正直私に非がないとも言えないのですよ。
割烹着?あれを普段着ているのは私ですよ。
■結末
なんというか、あたりは酷く混沌としていた。
どうまとめようにもまとめられないカオスな状況で、全てが腐敗しかかっていた。
この中で誰が嘘をついているのかー・・・
いや、嘘など誰もついていないのだろう。
嘘というのは各々の頭の中で正義となり、事実と化するものであるから。
暗く濁った神戸の闇が、だんだん、だんだんと街全体を覆い尽くしていくー。。
完
何でお前が説得される側なん?
危険だと思うなら危険だと思う証拠をお前が突きつけて説得して見せたらいいじゃん。
悪魔の証明じみたふざけた真似はやめろ
いや、そうですよ?犯罪として定義されてる時に、罪を覚悟で行うことは理性的とは言えません。
まず、それを訂正するよう活動するのは理性的ですが、制度が変わる前に実行するのは理性的ではありません。
それくらい理解できません?
日本でギャンブルは禁止ですが、海外では合法なところはいくらでもあります。
ですが、だからといって、ギャンブルは人間が行うことは正しい!と言い放って日本でやりだすことは理性的とは言えません。
悪魔の証明でも何でも無く、害はある、ということが明らかなので。
はあ。で、すべてを弾圧する根拠にはならないわけですよ。
こういう幼稚な話をしだすんですからねぇ。
全てをとは言ってません。勿論どこかで線引があります。
ただ、小児性愛について、デメリットを上回るメリットが全くない、のが事実です。
あなたはそれを1つも上げられてません。
小児性愛者と、成人との恋愛の意思を持ち、主体性と理性のある子供です。
と既に説明してあるわけです。いい加減にしてください。
いい加減にしなさい。
主体性を持ってその後傷ついて人生終わった人間がいるからそれを保護してるのでしょう?
同じように、主体性を持って、パズドラで100万課金して、さらにサラ金から借金して借金まみれになって子供の時点で自己破産、なんてことがあっても
こりゃ、もう駄目ですね。
えーとね、何度も言うけど、社会のルールってものは、この長い歴史の中で培ってきたものなわけ。
なので、あんたがいみわからん論法を立てるよりもまず、非常に合理的なのね?
その中で、時代とともに非合理的になって行くものもあるでしょうけども、
まず大前提として、合理的なのよ、その辺のバカがちょっと考えたことくらいよりは。分かります?
という偏見を何度唱えても、それは論証にはなりません。
「ドラッグ」という定義は依存性があり、それにはまり金銭的、肉体的に破綻する可能性があるもの。いい?それはいい?だから法律的に禁止されてるの。
そこは正しいよね?
一方、「同性愛」というものは「異性愛」に対し、同性を恋愛対象としてるもの。
その先に性的行為があろうがなかろうが、異性愛と同様、合意のもとで行われてる限り、当事者間にも他人にも何も問題がないもの。
子供を作ることが出来ない、と言う意味で、生物的に人間という枠から見れば問題はある。
が、それらを弾圧して消すよりも、他の労働等で社会に貢献してくれればそれで十分貢献がある。
実際、ペンギン等でも、メスが襲われて死んでしまった後に、子供が残された時、オス同士で夫婦の様に育てることなどもあるらしい。
同性愛とは少し違うけど、そんな感じで性別の枠を変えてでも役に立つことはあるということ。
この二つに対して、どうですか?これらは偏見でしょうか?まず、そこについてきちんとご意見をお願いします。
で、小児性愛はどうか。小児性愛とは、あなたは何度も矛盾した発言をしているが、こちらとしては、「小児を性的な対象として見る」と捉えています。
そうでないただの子供好きなら問題ありませんので、話は終わりです。
小児に関して言えば、あなたの定義でも体が成長し切るまえですから、性的な接触があった場合に問題が起こることは100%明らかです。
害はあります。
それとも貴方はまた、見るだけで何もしない人もいるんだーとか言い出しますかね?
ですので、それを公言することは明らかに理性的ではありません。
もし、本気で小児性愛が正しいと思っていて、それを認めさせたいのなら、それを公言する前に、きちんと社会と交渉しなければいけません。
そうでなければただの理性のない人間とみなされるだけです。
横だが。
本国でこの発言を取り上げられた記事はなかったはず。
http://www.reuters.com/article/2014/01/21/japan-environment-dolphins-idUSL3N0KV2X820140121
そもそも、「自分はこういう調査方法でこういったサイトを調べたけど、その範囲では記事はない。ある程度話題になっているならこの調査方法で発見できるはずだから、発見できないということは、大して話題になっていないということだ」という証明はできるでしょ。
ケネディーの発言が米国の記事で取り上げられるかどうかがなんで重要なのかはわからないけどね。
アメリカの大使の日本に関して発言したときに日本でニュースや自治体、官房長官から反応があったらそれで十分重要でしょう。本国で軌道修正する発言が出ない限り、とりあえずそれがアメリカの意思なんだし。
たぶん、この認識を前提にしているから、海外で記事になっているかどうかを気にしたのだろうけど、そもそも、この認識の根拠が示されてない。
日本語で発言して、日本の政府、自治体、マスコミから反応があった案件について、「実はケネディー大使は日本の反応はどうでも良かった」と主張するなら、相応の根拠が必要だよ。
☓ 妄想だ、というなら、妄想で無い、ということを1つ事例上げて貰えれば簡単に証明できますよね?
おもっくそ間違えた、ごめん。
◯ 妄想だ、というなら、妄想だ、ということを1つ事例上げて貰えれば簡単に証明できますよね?
こちらの話を妄想じゃない、というには悪魔の証明になりかねませんが。
少なくとも、スプナントカも田嶋陽子も、まともな女としての生活送ってないのはこちらの証拠ですね。
後、高校生も、有名私立ではしてるのですかね?聞きませんが。いずれにしろ、公立行けばいいだけの話ですけどね。
朝鮮学校の話は、例えば逆に日本人の海外駐在員なんかはそうやって子供が大きくなると教育のために単身赴任、なんて人も多いですね。
そちらの証拠は?
のどちらかだろう。靖国参拝したから安倍政権不支持になりました!とかいうやつがいたらちょっと頭おかしいと思う。
諸外国の心証が悪いのは間違いないと思うが、実際にどういう影響が出るかなんて正確にはわからない。有り得ない話ではあるが、中韓とは事前に話をしていて「支持率やばいから靖国参拝してくれ、反日キャンペーンするから一時的に関係悪化するけど支持率上がったらお礼するから」みたいな依頼がなかったとは誰も言い切れない(悪魔の証明的な意味で)。政治家や官僚がどんな情報を持っていて、裏で何を考えて、どう動いているかわからない以上、過程ではなく結果で判断するしかない。また、その結果はすぐには見えないんだから現状で支持/不支持の判断は下せないだろう。
大人しく推移を見守りながら大掃除しようよ
掛け算には順序があるよ (順序肯定派)
| └─ 教科書もそう書いてあるんだからそうなんだよ (教科書固執派)
| └─ 学習指導要領にもそう書いてあるよ (実は書いてない派)
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├― 理解を深める、理解力を測るために必要なんだよ (教育論派)
| ├─ 根拠はあるよ (根拠教えて派)
| | └─ 日本の数学の教育水準は高いよ (相関因果混同派)
| └─ 根拠は無いよ (論外派)
| └─ 逆に順序がないという証拠を見せろよ (悪魔の証明派)
|
| ├─ 授業の終わりまでだよ (不正解否定派)
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| └─ 不正解を貰うことで子供は考えるよ (正解を不正解にする派)
| └─ この程度で萎縮するようじゃどの道挫折するよ (マッチョ派)
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├― 逆が正解だよ (変則肯定派)
|
├― 順序に反対したところで教育現場は変わらないよ (消極的肯定派)
|
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└― 受けと攻めははっきりしておく必要があるよ (カップリング派)
掛け算に順序はないよ (順序否定派)
|
| ├─ 数え方で順序は入れ替わるよ (トランプ配り派)
| └─ 面積を教えるときどうするんだよ (縦横派)
|
| ├─ 不正解にすることで子供が萎縮するよ (萎縮危惧派)
| ├─ 順序を重視するなら問題文に記せよ (無記述否定派)
| └─ "×"を使わず独自の記号を使えよ (算術記号原理派)
├─ 算術記号の"×"と言語の"掛ける"は別物だよ (算数国語分離派)
| └─ ×は「掛けるまたは掛けられる」という算術記号だよ (新定義派)
├─ 順序は教えるための道具でその場限りのローカルルールだよ (順序道具派)
└─ 順序があるとする根拠が何も無いよ (根拠見せろ派)
『生野区連続通り魔事件』の削除について 該記事は特筆性無しとの主張により数度の削除を経て、現在削除(白紙保護)という状態に陥っています。 経緯 ①(初版作成) ②Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130526(削除5、存続4)、管理者Muyo(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ③Wikipedia:削除の復帰依頼/生野区連続通り魔事件(復帰26、削除15)、管理者Freetrashbox(ノート/履歴/ログ)氏により復帰 ④Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130618(削除31、存続26)、管理者Triglav(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ⑤(復帰強行) ⑥Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件20130629(削除8、存続1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時削除、白紙保護 ⑦Wikipedia:削除の復帰依頼#生野区連続通り魔事件 - ノート(復帰1、反対1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下 ②③④ の段階では削除、存続意見が拮抗している状況が伺えます。つまり、特筆性無しでコミュニティでコンセンサスが得られている状況ではありません。しかし、④ の段階で削除が実施され、⑤にて手続きによらず復帰強行、⑥にて即時削除(白紙保護)がなされています。そこで、⑦にてわたしのほうから手続きに則り復帰 依頼をかけましたが、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下されてしまいました。事由としては<同じことを繰り返すな>ということですが、そもそもわたしの理解ではコンセンサスなき削除状態をただす依頼であったため、<同じこと>という認識は誤りだと考えています。 本件につきまして皆様のご意見、果たして特筆性無しというコンセンサスが得られているのかどうか、をお聞かせください。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月29日 (土) 14:54 (UTC) コメント ④の削除は、②の削除で合意不十分として③で復帰した経緯を全く無視したものに見える。よって⑦が提案されたものと考える。しかし、この経緯が理解されなかったらしく、⑦が即時却下されたため、まずここで認識の違いを埋める作業が必要だと考える。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月29日 (土) 16:23 (UTC) コメント この中で一番問題なのは⑤ですね。なので⑥は当然の処置、⑦は却下されて当然です。一方、②から④の判断が適切だったかどうかは削除依頼を隅から隅まで熟読していないので、判断は控えます。--JapaneseA(会話) 2013年6月30日 (日) 01:11 (UTC) コメント ②および④では、「特筆性あり。存続すべき」ということの妥当性を保証できるような情報がついに提示されなかった、ということでしょう。ですから、少なくとも④については、それぞれの経緯を踏まえた上での、問題のない判断だったと言えます。(個人的には、③では「復帰すべき」とするコンセンサスが得られていない状況だったので、復帰が適切だったのか、少々疑問に感じています。結果論ですが、あのまま「復帰せず」でも良かったのではないかと・・・)⑤は行為として最悪なので論外、⑥は当然の処置、⑦は却下されても仕方がないでしょう。⑦は、削除状態を「正す」のではなく「質す・糾す」依頼であったというふうに私の目には映っています。--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 02:26 (UTC) コメント 各依頼について、 ②の時点では存続意見より削除意見のほうが妥当(この時点から資料にニュースでは不十分、以後の経過次第では復帰可能と示唆されています)。 ③については削除依頼で不参加の利用者が多く参加した(何故最初の削除依頼で意見を言わなかった方々がこれほど参加したか原因は予想できますが)ため、意見の合意が出来てないという理由。 ④については意見が十分に出尽くしWP:DP#CLOSEで言うところの『審議がまとまった』(自分は削除意見と存続意見の大勢が出揃ったと解釈しております、意見がまとまったという意味ですと『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあります』と相反するものになるので)ところで、削除意見のほうが理にかなうという判断。 ⑥はGFDL違反が絡む案件。 ⑦は新たな材料が無いため③,④の焼き直しとなることは自明。 現状ではこういう解釈をしており、どの管理者の行為についても問題は無いものと考えます。そもそも特筆性を問題にされている案件なのに二次資料の提示がされないことが現状での特筆性の無さを示していると考えます。よそでも言ったのですが『現状では確認できる資料が新聞レベルでありその域を越える資料が提示されていないため、特筆性(WP:GNG)を担保する二次資料(WP:PSTS)がないためウィキニュースか最近の出来事止まりということです』。 ④において無効撤回も含め賛否コメントの内容を大分すると 削除意見「現状特筆性が無い、特筆性を裏付ける資料が無い、特筆性を担保する資料が出てきてからでも遅くは無い」27「ウィキニュースの範疇,報道量の不足」4「雑報である、単なる嫌韓感情」1 存続意見「犯行理由等が特異,人種にまつわる事件」10「特筆性の理由は不適」1「特筆性はある、資料は十分」11「ネットニュース,削除依頼などで多く関心を持たれている事が特筆性の証紙」3「発展性がある」3「削除に足る要件を満たさない」2「議論不十分」1「事件の大小は問題無く十分百科事典的」1--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) 分量が多いので若干見落としがある可能性などは否めませんが、だいたいこんなところです。加えて一度コメント入れて議論しない方もいますので編集者間の審議の合意は無理です、審議の内容であるコメントや議論に基づき管理者・削除者が削除の提案に合意をすることはあるでしょうが。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) コメント 大勢という文言を使ってらっしゃる方がいますが、基本的にWikipediaは多数決ではないと思っています。ですので、④の時点で「削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています。この間違いを糺そうとしたのが⑦の当方依頼および今次の議論提起です。削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です。多数決ではないんです、コンセンサスが取れているかどうかなんです。何回も書いているんですが、ここの観点でのご意見を伺っているのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:21 (UTC) コメント ヒートアップしすぎです。お茶でも飲みましょう。いま、生野の件の参加者を平等に招集したところでありますから、皆さんの意見を聞きましょう。 もう一点。返信を乱発するのはよくないので、私のコメントの一部を撤回しました。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月30日 (日) 05:30 (UTC) 仰ることはわからないでもないのですが、本議論を提起したことによりこちらWikipedia:投稿ブロック依頼/BlueSkyWhiteSunでわたしにブロック依頼がかけられています。わたしがブロックと決したならば、本議論も自動的にクローズとされてしまうでしょう。あまり時間は残っていません。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:37 (UTC) 『大勢』は『たいせい』であり大体の状況という意味です。すなわち削除意見、存続意見が大方出揃いコメントの傾向が定まったということです。 元々の英語版の『Wikipedia:Deletion policy』にある『Deletion discussion』によると「削除依頼に参加する編集者は削除するか否か見解を出せる」「可否は多数決により決まるわけではない」「参加者は各々が自分の見解について説明し方針を参照する」といった内容であり、利用者の間で合意形成をするのではなく、利用者各自が見解を述べ管理者・削除者に対し合意を得るというのが本義であると考えます。そういった意味ではWikipedia:削除の方針の削除依頼のところは主語が省略されており誤解を招きやすい表現です。 自分は削除依頼は利用者の間で合意形成をするものでは無く、個々人の意見が集まったところで管理者・削除者が判断し閉じるものであると解釈しております。今回の件に関しては存続方の見解が削除方の見解に比べ具体的な証左に欠けていたのではないかと考えます(特に資料が新聞・ニュース止まりで特筆性を押し出すには力不足であったと見ております)。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 08:03 (UTC) すべての合意は利用者間でなされるものと理解しています。管理者等は利用者間の合意に背くことはできないと存じます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 09:47 (UTC) 特筆性という『弱い』制約にしたがって削除するには合意のレベルが低い。合意が取れているのか自体も明瞭でない。--60.34.102.131 2013年6月30日 (日) 07:46 (UTC) コメント 「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています」とおっしゃられている方がいらっしゃるのでコメントします。そもそも、④の時点で「削除票が存続票より5票多いから削除しました」などという低レベルな判断・処置が行なわれたのではなく、削除票、存続票の中身をよく吟味し、検討して、総合的な判断の結果として、④で対処なさった管理者の方は「それぞれの投票時のコメント内容を見る限り、削除が妥当」と判断なさった、ということです。ですから、「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当』という解釈」があったかどうかということは問題になりませんし、④の時点での管理者の方の判断には「糾す・糺す」必要のあるような間違いもありません。「削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です」とのご意見については、結局のところ、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんから見た場合に、意地悪な言い方をすれば「全有効投票数における削除票の占める割合がある一定量以上でないと『削除』という判断を下せない」ということになってしまいます。そもそも、「削除票が相当な大勢を占めねばならない」とする根拠が不明です。ウィキペディアでは票の数でコミュニティのコンセンサスが得られたかどうかが決まるわけではありません。投票の際に、どのような理由を述べるか、が重要なのです。ぶっちゃけた話、仮定の話として「方針文書・ガイドライン文書と照合した上で、具体的に理由を述べた削除票5票」と「個人的・主観的な理由を述べているだけの、適当な理由付けの存続票5票」があったとした場合、表面的には「票が同数」ですが、これは「存続」以外では判断できないということなのでしょうか。そういう事ではないと思うのですが・・・。「多数決ではないんです、コミュニティのコンセンサスが得られているかどうかなんです」との仰せですが、一連のコメントを拝見する限り、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めねばならない。大勢を占めていなければ「削除が妥当」とするコンセンサスが得られたことにならない」という意見は、削除票を不当に軽く扱うものであると思います。その理屈ですと、「票の中身を検討する必要性」が度外視されているように感じますし、何よりもまず、「削除票と存続票の扱いや重さに極端な差をつけている」ように感じますが、ウィキペディアにおける「票」の重みは、「投票時のコメントの中身」によって決まるのであって、「削除票だから軽い」「存続票だから重い」というわけではありません。削除票が相当な大勢を占めていたわけではないことをもってコミュニティのコンセンサスが得られていないとするのはかなり無理があるのではないでしょうか。投票時のコメントの中身や説得力次第では、表面上の票数とは関係なしに、票数が少ない側(④のケースだと、「削除」側)の主張が通るケースもあるでしょう。しかし、④のケースでは残念ながらそうではなかった、ということでしょう。長文失礼いたしました。(結局のところ、「④の判断は誰が何と言おうと間違っていた。④の削除処置を糺し、正すために、記事を復帰すべきだ」ということなのでしょうか)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 08:18 (UTC) コメント そういうあなた自身が存続票の存在を不当に軽くみているとしか思えません。中身中身と仰いますが、一体どこで削除票には中身があり、存続票には中身がないということがあきらかになったのでしょうか。存続票に中身がないといっているのはあなた個人であってコミュニティはそのような判断はくだしていません。くだしていない以上、双方の見解票は同等の重みをもって扱われるべきでしょう。なお、「正す」「糺す」論については本論とは無関係なため割愛させていただきます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) 返信 (BlueSkyWhiteSunさん宛) 票の「中身」は管理者の方が判断材料としてよく読むわけです。そして、その結果として、記事は削除になったり存続になったりする、ということです。私は「存続票に中身がない」とは一言も申し上げておりません。強いて言うならば、存続票が削除審議に与えた影響力の結果は、管理者の方々のご判断(処置)に現れているのではないでしょうか。なお、「(存続票の中身についての判断をコミュニティが下していない以上)双方の見解は同等の重みを持って扱われるべき」とおっしゃられていますが、そうであれば「(削除票の中身についてもコミュニティが判断を下していない以上)存続票と削除票は同等の重みをもって扱われるべき」ということです。ということは、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という意見は説得力を失います。なぜなら、票の重みについていかなる予断もないはずの状況で、最初から「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」(語釈に忠実に言うならば「削除票は議論において相当な力を持つ中心勢力・メインストリームとならねばならない」となるでしょうか)とすることは妥当性がないからです。「相当な大勢を占めない限り、『削除票』を投じても記事は削除にならない」ということであれば、存続票に比して、削除票がクリアすべきハードルが高い(「相当な大勢」を占めねば考慮されない)という状況を招きます。しかしながら、「双方の見解は同等の重みをもって扱われるべき」であるおっしゃれたということは、「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という見解は撤回又は否定されたものと考えられます。なぜなら、「削除票の側だけ、クリアすべきハードルが高い」ということはなくなるからです。(翻って、存続票について考えた場合、存続票も「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」とお考えなのであれば、まだ話はわかりますが、一連のコメントを拝見する限りはそのようなお考えは読み取れませんでした)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 11:06 (UTC) あー、ごめんなさい。同等に扱われなければいけないのは「双方の見解」ではなく、「双方の票」ですね。これはわたしの2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC)のコメントを読んでもらえればわかると思います。それと作成された記事はWikipediaでは存続が基本です(誰でも勝手に記事作成はできますが、誰でも勝手に記事削除はできませんよね)。記事に対して削除すべきというのであればそれ相応の根拠がなければいけない。その根拠をまとめたのが削除の方針です。削除の方針を適用するためには根拠を述べて審議を通さなければいけないのです。なかでも削除方針ケースE(特筆性)は立証が難しい、というかほぼ不可能。であるならば、コミュニティの大勢を以って判断するしかないわけです。それが最前から繰り返しているコミュニティのコンセンサスです。もし、コミュニティの大勢が一致していない場合、つまりはコンセンサスがない場合、ケースEについては削除主張者は根拠立証不可であり、作成された記事は基本存続の原則に立ち戻るわけです。つまり、「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」ということはないのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 11:36 (UTC) コメント 私はもう、この事件に関連する議論はもう疲れたのであまり参加したくないのですが、会話ページにお知らせがありましたので、お知らせがあったら必ずコメントする義務はないのですが、一応コメント残しておきます。あと機種依存文字である丸囲み数字は代替できる時には使用を控えるべきかと思いますが・・・。 まず私からすれば、②の削除措置は私個人としては問題のない事だと思っていましたが、まぁ仮に合意が取れていなかったとしましょう。そのための③があり、現に復帰しました。私からすれば、復帰する合意も取れていないので、削除の合意が得られていないとする意見に対して復帰の合意が得られていない意見が出なかったの不思議なのですが、復帰依頼で十分な人数と期間を持って議論をすべきという意味合いがあったのかもしれません。では、その間で特筆性を有する資料をどなたか提示したでしょうか?私は無かったと考えています。特筆性が「ない」の証明は複数の状況から総合的に判断するしかないですが、特筆性が「ある」と証明するのは、たった1つの資料を提示すれば済むことです。それを悪魔の証明というかヘンペルのカラスというかは分かりませんが、そういうことです。 なお、⑤に関しては論外です。仮に前の復帰依頼で削除の合意が得られていなかったとしても、それは復帰の合意が得られている事と同義ではありません。議論を無視した復帰は方針に反します。したがって⑥の削除は全く問題ありません。 そして⑦についても問題ありません。というか、この議論もほぼ同義かと思います。④の削除でも言われていますが、記事の復帰にはこれまでに挙げられたもの以外の、全員とは言わずとも10人中8人くらいが「この事件には特筆性がある」と言える資料を提示すべきです。私はこの議論に対して最初から削除派を貫いていますが、そのような資料が提示されれば考えを変えますし、提示されても尚考えを変える気がないと判断するのでしたらいつまでも納得しない人としてコメント依頼を提出するなどの事は構いません。ですが現状では、はっきり言ってしまえばそういう現状を変えるような客観的な根拠を提示せずに復帰に固執する方が納得しない人に該当するのではないでしょうか?そして、各議論で「削除票と存続票は拮抗している」という意見が散見されますが、多数決主義ではないという方針は何度も述べられていますが、仮に票数を数えるとして、存続票のどの程度が中身の濃い、具体的な意見を述べていたでしょうか?依然出た意見とかぶるものもありますが、存続票が多いのに削除を断ずるのは不当だという意見は、中身の濃さを見ずに存続票と削除票のそれぞれの重さをないがしろにする意見かと思います。 --Kiruria281(会話) 2013年6月30日 (日) 08:33 (UTC) コメント 票の中身論については上にコメントしましたので割愛します。特筆性においての削除(削除ケースE)やその他の削除ケースは、削除要件によって削除を行うものです。そして、そのケースに該当しない場合、多くの記事同様、存続が適用されるわけです。削除を訴える側は自らの主張にともない、削除要件を立証する必要があると理解します。立証が不可能であれば削除を申請することは不可能です。ケースEについてはもっとも立証が難しいものでしょうが、コミュニティとして記事の特筆性がないという判断がくだれば、立証に代えることも可能でしょう。コミュニティとしての特筆性がないという判断、すなわち、コミュニティのコンセンサスが得られるかどうかが、ケースEの適用是非を決定するということになると考えます。しかるに本件の数次にわたる投票がなされている現況を顧みれば、コミュニティのコンセンサスが得られていないのはあきらかです。それを問うているのが本議論です。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 私は②には参加してませんが、読み返すと④の時以上に、②の存続票が酷過ぎるなと感じました。5対4と言ってもスピード違反の論理な意見が二つにそれと同調する意見だけでは、他の削除票と同価値と呼べるものではないでしょう。②の時点で削除で決着ついたと言わざる得ないでしょう。その後状況の変化があったわけでも、加筆されたわけでもない④の削除が正当か不当かなんて論じるまでも有りません。⑤⑦に至っては問題外でしょう。加筆さえされて充分量の内容になったのであれば、復帰に協力でもしますが、現時点ではあり得ない話です。--あな34(須魔寺横行)(会話) 2013年6月30日 (日) 09:25 (UTC) コメント 票の中身論については上に述べましたので割愛します。充分量の内容というのはどの程度の量か、具体的にご提示いただけますか。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 論点を整理します。ケースE(特筆性)による削除は立証は難しい(これは削除側にとっても存続側にとっても同様)、したがってコミュニティのコンセンサスを以ってその有無を判断せざるを得ない。本件については長期にわたってその特筆性の有無が審議されており、直近の正常審議の行われた④の投票においてもコミュニティとしてのコンセンサスが得られている状況ではない。票の中身云々については立場によってお互いが相手の票の中身を判断して良いものではなく、基本的にその票の重さはいずれのものであっても同等に扱うべきである。なお、わたし自身の特筆性を有りとする論拠は日本では稀有(初?)なヘイトクライムであること、外部のニュース媒体からWikipedia編集に関して報道があった、こちらも稀有(初?)なケースであることです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC) コメント 二度同じことを言うのもなんですが、削除の方針について日本語版のベースとなっている英語版では利用者各自が方針に則り削除すべきか存続すべきか意見しその審議内容から削除者・管理者が判断するようです。日本語版でもWP:DP#CLOSEに『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあり
人生のいくつかのタイミングでADHDであることを友達に告白した。告白するたびに言うべきではなかったと後悔してしまうのだが、つい我慢できずに言ってしまう。特に酔っている時か。
「そんな病気はない。ただの怠け」だという一般的な反応が来ることはなかった。大体の場合は理解を示してくれる。ただそれは、示しているだけで本質的な所を理解してくれているわけではない。
いくつかの事例を紹介したいと思う。
友達1
友達1「あー、その病気知ってる。食事が原因でなる奴だよね?」
俺「まあ、食事によって状態が作用されることもあるけど……」
友達1「食事さえなんとかすればすぐ治るって聞いたよ?」
という感じで、それから自分の食事に口出すようになってきた。「それはADHDには悪い食事」と説教をしてくるんで非常に疎ましくなった。
理解を示しているというより、説教をしたがっているだけのようにも感じてしまった。ADHDに限らないが「○○の原因は~~だ」と、それについての勉強をしたこともなければ、身近にそういう人がいたこともないのに何故か確信を持っているタイプがいるが、何故なんだろう。
友達2
が口癖だった。別になんでもかんでもADHDのせいにしてないし、「病気だからできませーん」なんて言ったことは一回もないのに、こちらが失敗するたびに言って来た。要は俺が何かしでかしてしまうのは、病気に甘えているからだという発想らしい。反論をしても「心の底に、甘えがあるんだ」で済まされる。悪魔の証明みたいなものだ。
友達3
が口癖で、こちらの行動の原因すべてを病気のせいにする人だった。失敗した時だけでなく、うまくやった時でも「そういう障害を持っている人は発想力がいいって言うもんね」と病気に還元してた。
やはり発達障害が理解されることなどほとんどないと思っていい。大体、迷惑をかけている側が理解を求めるなど傲慢。そもそも病気を告白するという行為自体が一種の暴力なんだ。「理解しろ。配慮しろ」という言外の圧力を相手に与える。理解を示さないとひどい奴の烙印を押されるでしょ? それは一応は「大変だね」とは言うよ。
でも、何回か嫌な目に合わされて、障害を告白することの暴力性に気づいても、俺はまた勢いに任せて言ってしまうかもしれない。
「俺、ADHDなんだよね」
って。やっぱり誰かに理解されたいから。
人は苦しむ
そして、その解決策を探す
どこかに自分を納得させる魔法のようなセオリーがあって、それを見つけて理解する事で自分自身が救われるのだと
そして、今は自分の怠慢や能力不足のためにそれが見つけられていないから辛いのだと信じている
しかし、"本当にそのような魔法のセオリーが存在するのか?"という問いには答えられない
むろん、それは"カラスはすべて黒いのか?"という命題に等しく、証明困難な悪魔の証明だ
しかし、直感としてそれをどこまで信じられるか、主観的な視座において論拠があるように感じられるかについては別であろう
すなわち、可能性として"世界のどこにも、自分を納得させる様な魔法のセオリーなど存在しない"という命題が成り立つ可能性について想定できているかという事だ
「 私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。 私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあはれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言つてゐることは、真理でも何でもない。たゞ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあはれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言ふ必要はない。たゞ、あたりまへの話だ。人は死ぬ。物はこはれる。方丈記の先生の仰有る通り、こはれない物はない。 もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。 私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。」
坂口安吾のこの節における真理を、"自分を納得させる魔法のセオリー"として置き換えて考える事が出来る
人間はどこまでも自分を救う究極の理論や答え、真理というものが存在すると信じている
そして、それを得る事で自分は納得し、辛さや苦しみにに一定の決着がつき、心持が安らかになると信じている
しかし、その実存について(何度も繰り返すが、それが存在するかどうか)は真剣に議論されないように思う
現実的に考えれば、たかが理論や事実などで苦しさや辛さが綺麗さっぱり無くなるとは考えがたい
人は論理や思想や思念だけで生きているのではないので、理屈や真実を突き付けられただけで楽にはならないのだ
しかし、人は真理を探そうとする
そして、時にそれはある種の成功を収め、人生観や世界観や哲学としてその人の認知的な枠組みとして機能し始める
つまり、ある一定の(その人固有の)論理構成や理屈付けの仕方が、その人自身の救いになる、指針になる
そして、それはその人自身には壊せない程度に堅牢であるだろう、思考錯誤の結果だからだ
しかし、やはりそれは部分的なものであって、生物的・生理・社会的な制約(例えば神経伝達物質の異常や個人が変容不可能な環境の要因など)をうけるので、"すべてを救い、納得と平穏をもたらす様な魔法のセオリー"足り得ない
ネットは現実に影響を及ぼさないって主張する事で自分をまっとうな人間だと思い込むメンタリティーってあるよね。
ネットの影響を受けやすい分野もあれば受けにくい分野もあるし、社会にネットが浸透することで影響は拡大していくのは間違いないだろうに
悪魔の証明であえて不利な方を選んででもその事実を認めず、いつまでもネットをくだらないものだと嘲笑して
ネットに価値があると言う人物をみると誇大妄想狂だと罵る感じ。
まぁ、なんとなくそう思うだけだけどね。
過大評価する必要もないけど過小評価してもしょうがないんじゃないかな?
ネットは便利だしいろいろなところに影響を与えているよ。
ゴミwww
無いものはない意外にないだろ?無いんだよ、何も。
悪魔の証明さすな。
あるなら出すのは簡単だろ?何か1つでも出せよ、それで一発で終わるだろ?
本人だとしても勝手な思い込みだけど。「何を言っても受け付けない」なんて悪魔の証明だし。受け付ける言葉くらい何かあるわな。
だから、じゃあ逆に、具体的にどの様な事を言ってどう対処するのが一番の正解なんだよ?
本人に対し、
「周りの人は貴方を悪く思ってなんて居ないよ、なんとかしようとしてくれてるんだよ。
たとえそれが間違った方向だとしても、その気持は分かってあげて?
そうすることで見えてくるものがあるよ?」
というのと、
「あなたは何も間違ってないよ、すべて親や周りが悪いんだよ、だからもうすべてなげうっても何も悪くないんだよ」
と言うのとどっちが正しい、ってんだ?そうやって人を否定し続ける事を肯定するのが正しいのか?
これは誰がどう見ても、一般的なアスペが行うべきと言われる対処法だろう。
そんなことはない
や、そういうことを学習出来てこなかった人間が"アスペ"とくくられるわけで、
まあ、アスペって言葉もなくなるし、それも"普通"の人間と捉えられる様になるみたいで、世の中正常になりそうで嬉しい話だけど、
なんだ、そうやって悪魔の証明的な方向へ持ってくのか...?
じゃ次は、それがなんでイケハヤを叩いていいことの理由になるのか、を言ってみよっか
それに対する反論があるのでしょうか?
法を変えるために運動を起こしたり政治家になったりす事は良いですが、
現状法治国家で、法を犯すのも個人の自由だ、後は罰を受ければ良い、と言うのは許されません。
で、よく分かんないんだけど、あなたは、店長を叩くな、って立場で、
店長を叩くなんて辞めようよ、って人に対しては、他を叩いてるのに店長だけ叩かないってどういうことだ、っていう立場、と言うことで良いんだよね?
で、俺はイケハヤは法を犯す事も正しいと主張しているよ、と言ったわけで、ソースも持ってきたわけで。
理由付きで。
別にその店長なり青二才を叩くのは良くない、とか馬鹿らしいとかヒトコトも主張しませんけども。
それらと差別化する程知りませんけども、
少なくともイケハヤブログは叩かれても仕方ないだけの内容である、と言う事をいっただけで、
論理的に答えてね。
どうやったら、トナカイに乗って空を飛んだりするサンタクロースがいないという事を 証明できるんだ?
そんなことは不可能だ。
サンタクロースがいないということを証明する方法はない。なぜならばそれは悪魔の証明だから。
いると言う事は、もしいれば、科学的に証明できるが。(つれてくればいいんだから)
いない、ということは、どうやっても科学的に証明できるような事項じゃない。
サンタクロースを連れて来られないことは、サンタクロースがいないという事を証明しない。 サンタクロースは隠れているんだから。
証拠もなしに、信じることも疑うこともできないよね。
変な話だけど、この文章は書いてあるだけで、立証する(教唆ではなく自発的行動であるとする)証拠が添付されていない。
この事実から、神奈川県警が証拠より供述を優先し過ぎているということが逆に分かるんじゃない?
今回警察側に求められているのは、犯行の調書の記述が教唆や誘導によるものではないと証明することであって
実質それは悪魔の証明だろうに。難しいと思うよ。
あと、蒸し返さなくてもいいだろうに。当事者同士て穏便に解決を測ればいいじゃないか。
当事者に対して適切な保障が行われて、証拠主義が徹底されることが重要であり、警察の落ち度を逆説的に叩こうとするのは良くないよ。