人生のいくつかのタイミングでADHDであることを友達に告白した。告白するたびに言うべきではなかったと後悔してしまうのだが、つい我慢できずに言ってしまう。特に酔っている時か。
「そんな病気はない。ただの怠け」だという一般的な反応が来ることはなかった。大体の場合は理解を示してくれる。ただそれは、示しているだけで本質的な所を理解してくれているわけではない。
いくつかの事例を紹介したいと思う。
友達1
友達1「あー、その病気知ってる。食事が原因でなる奴だよね?」
俺「まあ、食事によって状態が作用されることもあるけど……」
友達1「食事さえなんとかすればすぐ治るって聞いたよ?」
という感じで、それから自分の食事に口出すようになってきた。「それはADHDには悪い食事」と説教をしてくるんで非常に疎ましくなった。
理解を示しているというより、説教をしたがっているだけのようにも感じてしまった。ADHDに限らないが「○○の原因は~~だ」と、それについての勉強をしたこともなければ、身近にそういう人がいたこともないのに何故か確信を持っているタイプがいるが、何故なんだろう。
友達2
が口癖だった。別になんでもかんでもADHDのせいにしてないし、「病気だからできませーん」なんて言ったことは一回もないのに、こちらが失敗するたびに言って来た。要は俺が何かしでかしてしまうのは、病気に甘えているからだという発想らしい。反論をしても「心の底に、甘えがあるんだ」で済まされる。悪魔の証明みたいなものだ。
友達3
が口癖で、こちらの行動の原因すべてを病気のせいにする人だった。失敗した時だけでなく、うまくやった時でも「そういう障害を持っている人は発想力がいいって言うもんね」と病気に還元してた。
やはり発達障害が理解されることなどほとんどないと思っていい。大体、迷惑をかけている側が理解を求めるなど傲慢。そもそも病気を告白するという行為自体が一種の暴力なんだ。「理解しろ。配慮しろ」という言外の圧力を相手に与える。理解を示さないとひどい奴の烙印を押されるでしょ? それは一応は「大変だね」とは言うよ。
でも、何回か嫌な目に合わされて、障害を告白することの暴力性に気づいても、俺はまた勢いに任せて言ってしまうかもしれない。
「俺、ADHDなんだよね」
って。やっぱり誰かに理解されたいから。
逆にどういう反応をすれば、「本質的な所を理解している」ことになるのか知りたい
こういう風に対応して欲しいという要望も言わないとあまり告白する意味はないかもね。 例えばアレルギーで肉が食べられないから具材に入れないで欲しいとかさ。