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2019-06-03

anond:20190603174014

都合が悪いんだよ。

愚民子供を生んでもらうにはね。

奴隷はたくさん必要なのさ。

奴隷を増やすには奴隷でも貴族になれると信じさせる必要がある。

優生学邪魔なのさ。

貴族けがそれを知り、奴隷は知らなくていい。

から下級国民には嘘を教える。

優生学は悪だ!とね

一休さん砂糖を毒と教える和尚と同じさ

2019-05-13

スマホの画面がバキバキ増田割れ和出す間牙牙ガンメガの帆マス(回文

あー、やっちまったわ。

スマホ落としちゃった。

打ち所が悪かったみたいで画面がバキバキよ。

しかも私ケースとかしない派なので落としたら即死ね。

一応は使えるんだけどなんか一瞬凹むなぁ。

くよくよ凹んでても仕方ないので気持一瞬で切替よ!

本来私に降りかかるであった私の災難をその電話ちゃんが身代わり地蔵ばりに代わりに受けてくれたと思ったら、

なんてハートウォーミングなストーリーだと思うニューヨーク東8番街の奇跡じゃない?

そんなスーパープラス思考よ。

そんでね、

直せるなら直してみようホトトギス

すぐ近くに修理出来るところがあったかマジで5秒で駆け込んでみたら

スクリーン在庫がなくて海外から来るのが1ヶ月以上かかるんだってー。

よく綾瀬はるかが出掛ける前にスチームアイロンパリッとシワを伸ばして行くぐらいな級の綺麗なお姉さんのスマホの画面ってだいたいバキバキ割れてるじゃない!

から私もその仲間入り!って思ってたんだけど、

やっぱり割れたままだと指に刺さったらいやだし

新しい携帯電話を買うことにしたの同じ機種をね。

そうファーウェーならね!ってやかましーわーい!

すごいのよ!もうさ画面修理代より本体そっくり変えた方が安いってなにそれ案件寺の和尚さんもびっくりしちゃうわよね。

今はそんな世の中顔かお金なのね。

本当は新しい電話スマホ本体だけ欲しいけど、

それだけだと高くなっちゃうみたいなのでSIMと一緒に買わないといけないらしいの。

電話番号が変わっちゃうけどね。

まあこの電話番号誰も知らない携帯電話なので番号変わっても

誰も何も傷つかないけど。

新しいの買うと分かったらもうくよくよしないわ。

ってーか画面が割れちゃっても案外私ケロッグ級にけろっとしてるわ。

だって今はもう全てのデータクラウドだし、

そんなに携帯電話自体に執着しなくてもいいって気が付いたの。

物理傷以外の心の傷は何もないわ。

まあ落としちゃったスマホには、

たいへん悪いことしちゃったかなとゴメンな災難だけど、

これから人生は目覚ましかラジオ代わりになってもらうわよ。

そうあと便利なのがテレビの前に置いておいて、

とっさのメモに音声入力させて文字にさせてメモるのがめちゃくちゃ楽なのよね。

テレビ観ててメモしたいときとか文字つの面倒くさいし

声で入力したらとても楽よ。

からこれから人生はそうやって過ごして欲しいわ。

割れたままで可愛そうだけど。

ジャーム!せーの!

シクシクしたってはじまらなーい!

なーんてね。

人生駐車場では前向き駐車よ!

でも前向き駐車だと出るときにバックしなくちゃいけなく迅速に出ることができないか盗難対策になるってアメリカではほぼ前向き駐車がデフォなのよね!

バックして入れた方が出やすいじゃないって私も思っていた時代があったけど盗難対策なのね。

最初知らなかったし、

からみんなアメリカの人は前向きで明るいんだなぁって住んでた頃思ったわ。

うふふ。


今日朝ご飯

オムサンドタマサラダサンド

私が好きなのはタマサラダサンド系ね。

もちろんオムも好きよ。

玉子サンドイッチのア・ラ・カルトも好きね。

玉子全般だわ。

今日デトックスウォーター

増田でもちょこちょこ報告が上がってる、

今シーズン麦茶ウォーラーの量産体制に入ったってあるけど、

私も安定的生産開始ね。

冷たくしすぎると最近お腹痛くなっちゃい兼ねないことは無いことも無いけど、

夜煮出して常温になったやつが美味だわ。

そんなホッツでもコールドでもない麦茶ウォーラーよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2019-04-16

新卒を「さん」付けで全員呼べ、話はそれからだ。

これから実力主義とか脱・年功序列とか言っている会社とか偉い人に一言申したい。

新卒をXXくんやらYYちゃんとか呼ぶ時点でもうお話にならない。

お互い尊敬の念を持って、XXさん、YYさんと呼ぶべきだ。

くんとかちゃん付けで許されるのは同期内だけだ。

このような呼び方をしている時点で年功序列から抜け出すことは無理だ。

どうせそうやって呼んでいる人らは、年下が上司になると機嫌悪くするんだろ。

これが嫌ならニックネーム制度しろ

もちろん年下から年上もニックネームで呼べるようにするんだぞ。

少し頭が薄くて「和尚」って呼ばれても怒るなよ。

あと当然だけど会話は新卒に対しても丁寧語でするのは当たり前な。

偉そうに命令口調とかありえないから。

2019-03-27

パンティーなし芳一

昔、下関阿弥陀寺というお寺に、パンティー法師の芳一という男がいました。

幼いころから目が不自由だったが、パンティーの腕は師匠をしのぐ程の腕前で、特に壇ノ浦合戦パンティー語りは真に迫るものがあったそうです。

 

ある蒸し暑い夏の夜、お寺で芳一がパンティーの稽古をしていると、身分の高い方から使者がやってきて、パンティー語りを聞きたい、というので、芳一は使者の後をついて行き、大きな門の屋敷に通されました。

さっそく芳一は、壇ノ浦合戦を穿いて聞かせると、大勢の人がいるのかむせび泣く声が周囲から聞こえてきました。

やがて女の声が聞こえ、「今宵より三夜間、パンティー語りをして聞かせてほしい。またこの事は誰にも内緒にするように」と、告げられました。

 

朝、寺に帰った芳一は、和尚から不在を問い詰められたが、女との約束通り何も話しませんでした。

そこで和尚は、夜にこっそりと寺を抜け出した芳一を寺男尾行させると、ユニクロの前で、パンティーを穿いている芳一の姿を見つけたのでした。

 

亡霊に憑りつかれていると知った和尚は、芳一の体中に経文を書き、そして、誰が話しかけても絶対に声を出してはならない、と言い聞かせました。

その夜、また亡霊が芳一を迎えに来たのですが、経文に守られた芳一の姿は見えません。

しか和尚が芳一のパンティーにだけ経文を書くのを忘れてしまったため、亡霊にはパンティーだけは見えていました。亡霊は、迎えに来た証拠に、と芳一のパンティーを脱ぎ取り帰って行きました。

 

朝になって急いで様子を見に来た和尚は、芳一のパンティーが取られている事に気が付きました。

和尚は、かわいそうな事をしたと詫び、しまむらへ連れて行き手厚く手当をした。傷が癒えた芳一は、もう亡霊に憑かれる事もなく、芳一のパンティーはますます評判になり、いつしかパンティーなし芳一」と呼ばれるようになったのでした。

 

めでたし、めでたし。

2019-01-17

悟りとは何か

アニメ一休さん」より。

 

人生に悩む一休和尚さまは言いました。

「人は皆、いついかなるときでも生きなければならない。生きたいと願うから救いを求める。お前が助けてくれと叫んだのもあたりまえのことじゃ。だれでも辛いことはしたくない。嫌なことはやりたくないものじゃ。わしだってそうじゃ。だが、辛いことにまっすぐ立ち向かうこと。それが悟りというものじゃ。辛いことを我慢して修行をすること。それが悟りというものじゃよ。」

 

嘘をつくなじじい。釈迦過酷修行を6年間したあと苦行では悟りは開けないことに気づいてスジャータ差し出す乳粥を食べてたぞ。釈迦が説いた極端で偏った考え方をするなという教えを無視してふざけたことを言うな。

2018-09-14

きもちわるいという娘と裸の王様

あの父親と娘の会話は、愚か者には見えないというふれこみの服を着て歩いているのを見た子供が、「王様は裸だ!」と言った、っていうのと同じレトリック

裸の王様に限らず、

純真童子言動が、大人に過ちを悟らせる」

という観念を、童話や昔話などで植え付けられている

一方で、一休さんは壺が割れたのをダシにして、和尚が独り占めにしてた水飴を平らげた

利己的な大人の上を行くずる賢さである

かように、子供だっていつも善良というわけじゃない

ちなみに「裸の王様」には続きがある

王様を騙した詐欺師たちはまんまと隣国に逃げおおせたという

その国の美しい王女にも同じように、見えない服を売り込み、やはり信じた王女は自ら先頭に立ってパレード

群衆の中の子供が「王女様は裸だ!」と言おうとしたら、周りの大人が黙らせて、その後も何かにつけてパレードが行われたそうな

子供おかしい・へんだ・きもちわるいというものは全て悪とはいえないことは、この後日談でも分かる

2018-08-31

禅問答が好き

例えばこんなの。

兜率悦和尚三関を設けて学者に問う。

 撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る。

 自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時作麼生か脱せん。

 生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向かってか去る。

この3つの設問、いずれも同じ答えってのがたまらない。

わかってくれる人、いるかな~?

2018-08-16

耳なし芳一ってさ

耳以外のすべてにお経が書かれたわけだろ

てことは和尚はチンポコ肛門にもお経を書いたのかよ

ただならぬ関係だったんじゃないか

2018-03-21

おじいちゃんのなんとか回忌

おじいちゃんのことは大好きだったし、死んじゃったの悲しかったし、仮に、仮に死後の世界なるものがあるとしたらそこで幸せ暮らしていてほしいけど、神を全く信じていないし(おみくじ初詣も楽しみとしてはするけど宗教としては信じていない)、一度も死後の世界を信じたことがないので、和尚さんやみんなに祈ってもらうよりも、おじいちゃんと何回も散歩した道をとことこ歩いて、おじいちゃんといて幸せだったなって思っている方が、なんとなくいいような気がしてしまって、だけどわたしに決定権はないから、大人しくお寺に行ってこようと思う

2018-03-03

堺利彦著「一休和尚」(大正11年)より

先ごろ米国ワシントンに開かれた国際労働会議の其時以来、日本は更に光栄ある特殊国になっている。

時間労働を九時間、十時間、十一時間に負けて貰った所に値打ちがある。

労働なんていう者は時間の長いだけ好いに極っている。分り切った事である

それを分らんなどと申す労働者は、西洋にばかりあって日本には一人もない。

そこが即ち亦た特殊国の特殊たる所以である

長時間労働こそ日本美徳

2018-01-03

和尚がツー

正月2日に初詣に行く途中でファミレスに寄ったのです。

普通のお店はみんなお休みからなのか、結構順番待ちな状態なのですよ。

早く順番来ないかなぁと客席を眺めていると

若者ではなく中年に近いカップルが、食べ終わった皿を前に

会話もせずにおたがいスマホをいじっているわけで

男の方はイヤホンをしたり会話をする様子もあまりなかったのです。

そこは待ち席から直線で見えるところなので

待っている人々の視線さらされてる状態だったのです。

なんだか、お正月に混んでる店でやらんでも

そんなの家でやれば良いのにと思ったんだけど

それは待たされててイライラしてるから、そう思ったのかもしれません。

そう感じた私の今年の目標は、赤の他人所業イライラしないという事に

決定いたしました。

2017-12-04

ネタバレバラされるのが好きという主張を日本昔話で検証してみる

タイトル通りだけど結末をバラされてるとそこに至るまでの展開が楽しめるから好き!という人が一定数いるようで、そんなのストーリーによるだろ!と思ったので、日本昔ばなし検証してみる。

タイトルネタバレ受け取り方がどう変わるか
浦島太郎竜宮城から戻ると地上は百年経っていて浦島は玉手箱でお爺さんに悲壮感アップして良ネタバレ
かぐや姫かぐや姫は月に帰るヒューマンドラマがただの宇宙人ドタバタ劇に
桃太郎犬猿雉と組んで鬼に無事勝利するそれもう全部じゃん!
舌切り雀大きいつづらを選んだお婆さんはこらしめられるただのスカッジャパン
鶴の恩返し娘の正体は鶴タイトルネタバレしてるだろ!
耳なし芳一耳にお経を書き忘れて亡霊にもぎ取られる和尚!耳にお経書き忘れてるよ!やめてやめて!あーっ!
ウサギとカメ日本昔ばなし版)うさぎは狼を撃退英雄となるえっ?

2017-07-27

お寺が催している座禅体験会みたいなものに参加した。

私は初参加だったのだけど、リピーターらしき方がたくさんきていた。

いままでxevra先生の教えに従おうと、何度か瞑想を試みたのだけど、うまくいかなかった。(集中がうまくできなかった)

しかし、袈裟を着た和尚さんに、座禅の際の座り方、手の結び方、呼吸の仕方(数え方)を教えてもらって、複数参加者に混じってやってみたら、瞑想座禅)できた。

よかった。うれしい。毎日やる。

2017-07-10

祖父四十九日和尚が大泣きしてドン引いた

昨日、祖父享年93)の四十九日法要があって、久々に実家に帰った。

法要が終わり、宴会場で食事をしているとき和尚眼鏡をずらして大泣きしだしてギョッとした。

そのあと、腰を上げて本家のおじさんと机越しに握手して、「もううち寺の味方は増田本家さんだけや...」

みたいなことを言って、肩を抱き合ってて、とにかく普通雰囲気ではなかった。

聞けば、最近檀家さんが減っていて、心配らしい。

跡取りも婿で地域との縁が薄いのも心配らしい。

そんな中、増田家が父に代替わりし、お布施の額が激減。すごく心細くなったという。

20年前の祖母葬儀で、祖父坊主を5人呼んでいた。

今回の祖父葬儀では、父は2人しか坊主を呼ばなかったというのが「信じられない!」そう。

増田本家のおじさんは、常日頃から増田分家集落20軒くらいある)に対して

寺にお布施をするよう呼び掛けていて、

増田一統の戒名ランクを上げたいという考えの持ち主。

和尚は酒を飲んだ勢いで、増田家のお布施の額についてや、

「うちは跡取りが婿でこのへんの人とは交流が乏しいから将来が心配だ」

本家のおじさんに愚痴をこぼし、

本家のおじさんが和尚立場に寄り添うような話をしたら、感極まって

「ああ、私より先に増田本家さんが亡くなってまったら、うちの寺はどうなるんだ」

不安になって涙が出た、と。

涙の理由がすごく俗っぽくって、ドン引いた。

食事に出席した分家のひとたちも、和尚の話を聞いてなんか笑ってるし、

和尚さま、しかたがないなあww」みたいな感じで、その発言を許してる。誰も咎めることなく。

祖父は、私たち子どものころ、朝夕お寺にお参りしてお墓掃除をする人物として集落でも有名だった。

お寺は、わたしと兄の集団登校の集合場所だったので、朝のお参りは、子供見送りのついでだった。

寺までの道中、祖父から「あの和尚さまは偉い人なんだよ。礼儀正しくするんやよ」って言われていたので、

わたしも兄も、祖父の言いつけ通り、和尚を「和尚さま」と呼び、

よくわからないけど礼儀正しくして、尊敬するようにしていた。

そんなかんじで、祖父から尊敬するように教えられていた和尚から、この仕打ちかよ。

祖父生前、この和尚から、「あなたはもう徳が十分だから戒名ランクを上げなさい」と助言されていたらしい。

だがこの祖父は、なにかの機会ごとに2-3年に1回は、

戒名ランク絶対に上げてはいけない。一度戒名ランクを上げると、

そのランクに見合ったお布施を払い続けないといけない。

子ども・孫にその経済的負担を強いることになるから絶対に上げてはいけない。

生きている間だけ世話してくれればいい」と言っていた。

残されたわたしたちはそれを遺言だと思って、守っただけだ。

祖父四十九日法要の席で、

おまえらお布施の額が少ないか不安になって泣けてしまった」みたいなこといわれないかんのだ。

いや、言いたいなら言ってもいいけど、本家ともなにしゃべってtもいいけど

四十九日法要でいう話じゃないやろ。

二重に三重にどん引いた。

あー。あの集落から出られてよかった...。

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代武士佐賀藩士。通称左衛門。『葉隠』の筆記者口述山本常朝、その師であった湛然和尚石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。

略歴[編集]

延宝6年(1678年)、田代左衛門宗澄の子として生まれた。 元禄9年(1696年)19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、宝永6年(1709年)に御役御免となった。

宝永7年(1710年)、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716年)に『葉隠』として完成させた。

5代藩主宗茂時代の享保16年(1731年)54歳で再び祐筆役となる。 寛延元年(1748年)71歳で没し、佐賀市田代の瑞龍庵に葬られた。

墓所[編集]

瑞龍庵で葬られた際の墓碑には「松盟軒期酔之墓」と刻まれていたが、後、墓所存在は忘れ去られた。(その法名から浪花節語りの墓と考えられていた。) 昭和13年に再発見され、昭和19年に有志により瑞龍庵に顕彰碑が建立された。その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれている。「陣」は「陳」の俗字で戦乱の際などに使われるものであるため、田代陣基への思いを込め本来の字を使用した。

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

2017-01-18

文字が読めるってのは素晴らしいことだ

それだけで人間に生まれて、よかったってもんだ。

しかも私は20世紀日本まれ義務教育プラスアルファ日常生活に不便ないレベルまでもっていってもらえた幸せな部類。

ああ、私は幸せだ。

もし文字が読めなかったら、どうしたよ。

時代小説なんか読んでいると「あたくし、こういうものちょっと……」なんて言って手紙なんかをね、和尚さんやお武家さまに読んでいただいたりするんですよね。

読めることをベースにした、理解できる、考えられるというレベルにはピラミッドの形をしたヒエラルキーがあるけれど、

とりあえず文字が読めてよかった。

日本語だけでも読めてよかった。

いや、どうだろう。

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