はてなキーワード: 和尚とは
あー、やっちまったわ。
スマホ落としちゃった。
打ち所が悪かったみたいで画面がバキバキよ。
一応は使えるんだけどなんか一瞬凹むなぁ。
くよくよ凹んでても仕方ないので気持一瞬で切替よ!
本来私に降りかかるであった私の災難をその電話ちゃんが身代わり地蔵ばりに代わりに受けてくれたと思ったら、
なんてハートウォーミングなストーリーだと思うニューヨーク東8番街の奇跡じゃない?
そんでね、
直せるなら直してみようホトトギスと
すぐ近くに修理出来るところがあったからマジで5秒で駆け込んでみたら
スクリーンの在庫がなくて海外から来るのが1ヶ月以上かかるんだってー。
よく綾瀬はるかが出掛ける前にスチームアイロンでパリッとシワを伸ばして行くぐらいな級の綺麗なお姉さんのスマホの画面ってだいたいバキバキに割れてるじゃない!
だから私もその仲間入り!って思ってたんだけど、
やっぱり割れたままだと指に刺さったらいやだし
新しい携帯電話を買うことにしたの同じ機種をね。
そうファーウェーならね!ってやかましーわーい!
すごいのよ!もうさ画面修理代より本体そっくり変えた方が安いってなにそれ案件寺の和尚さんもびっくりしちゃうわよね。
今はそんな世の中顔かお金なのね。
それだけだと高くなっちゃうみたいなのでSIMと一緒に買わないといけないらしいの。
誰も何も傷つかないけど。
新しいの買うと分かったらもうくよくよしないわ。
ってーか画面が割れちゃっても案外私ケロッグ級にけろっとしてるわ。
物理傷以外の心の傷は何もないわ。
まあ落としちゃったスマホには、
たいへん悪いことしちゃったかなとゴメンな災難だけど、
そうあと便利なのがテレビの前に置いておいて、
とっさのメモに音声入力させて文字にさせてメモるのがめちゃくちゃ楽なのよね。
声で入力したらとても楽よ。
割れたままで可愛そうだけど。
ズジャーム!せーの!
シクシクしたってはじまらなーい!
なーんてね。
でも前向き駐車だと出るときにバックしなくちゃいけなく迅速に出ることができないから盗難対策になるってアメリカではほぼ前向き駐車がデフォなのよね!
バックして入れた方が出やすいじゃないって私も思っていた時代があったけど盗難対策なのね。
最初知らなかったし、
だからみんなアメリカの人は前向きで明るいんだなぁって住んでた頃思ったわ。
うふふ。
もちろんオムも好きよ。
冷たくしすぎると最近お腹痛くなっちゃい兼ねないことは無いことも無いけど、
夜煮出して常温になったやつが美味だわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昔、下関の阿弥陀寺というお寺に、パンティー法師の芳一という男がいました。
幼いころから目が不自由だったが、パンティーの腕は師匠をしのぐ程の腕前で、特に壇ノ浦の合戦のパンティー語りは真に迫るものがあったそうです。
ある蒸し暑い夏の夜、お寺で芳一がパンティーの稽古をしていると、身分の高い方からの使者がやってきて、パンティー語りを聞きたい、というので、芳一は使者の後をついて行き、大きな門の屋敷に通されました。
さっそく芳一は、壇ノ浦の合戦を穿いて聞かせると、大勢の人がいるのかむせび泣く声が周囲から聞こえてきました。
やがて女の声が聞こえ、「今宵より三夜間、パンティー語りをして聞かせてほしい。またこの事は誰にも内緒にするように」と、告げられました。
朝、寺に帰った芳一は、和尚から不在を問い詰められたが、女との約束通り何も話しませんでした。
そこで和尚は、夜にこっそりと寺を抜け出した芳一を寺男に尾行させると、ユニクロの前で、パンティーを穿いている芳一の姿を見つけたのでした。
亡霊に憑りつかれていると知った和尚は、芳一の体中に経文を書き、そして、誰が話しかけても絶対に声を出してはならない、と言い聞かせました。
その夜、また亡霊が芳一を迎えに来たのですが、経文に守られた芳一の姿は見えません。
しかし和尚が芳一のパンティーにだけ経文を書くのを忘れてしまったため、亡霊にはパンティーだけは見えていました。亡霊は、迎えに来た証拠に、と芳一のパンティーを脱ぎ取り帰って行きました。
朝になって急いで様子を見に来た和尚は、芳一のパンティーが取られている事に気が付きました。
和尚は、かわいそうな事をしたと詫び、しまむらへ連れて行き手厚く手当をした。傷が癒えた芳一は、もう亡霊に憑かれる事もなく、芳一のパンティーはますます評判になり、いつしか「パンティーなし芳一」と呼ばれるようになったのでした。
めでたし、めでたし。
タイトル通りだけど結末をバラされてるとそこに至るまでの展開が楽しめるから好き!という人が一定数いるようで、そんなのストーリーによるだろ!と思ったので、日本昔ばなしで検証してみる。
タイトル | ネタバレ | 受け取り方がどう変わるか |
---|---|---|
浦島太郎 | 竜宮城から戻ると地上は百年経っていて浦島は玉手箱でお爺さんに | 悲壮感アップして良ネタバレ |
かぐや姫 | かぐや姫は月に帰る | ヒューマンドラマがただの宇宙人のドタバタ劇に |
桃太郎 | 犬猿雉と組んで鬼に無事勝利する | それもう全部じゃん! |
舌切り雀 | 大きいつづらを選んだお婆さんはこらしめられる | ただのスカッとジャパンに |
鶴の恩返し | 娘の正体は鶴 | タイトルでネタバレしてるだろ! |
耳なし芳一 | 耳にお経を書き忘れて亡霊にもぎ取られる | 和尚!耳にお経書き忘れてるよ!やめてやめて!あーっ! |
ウサギとカメ(日本昔ばなし版) | うさぎは狼を撃退し英雄となる | えっ? |
昨日、祖父(享年93)の四十九日の法要があって、久々に実家に帰った。
法要が終わり、宴会場で食事をしているとき、和尚が眼鏡をずらして大泣きしだしてギョッとした。
そのあと、腰を上げて本家のおじさんと机越しに握手して、「もううち寺の味方は増田本家さんだけや...」
みたいなことを言って、肩を抱き合ってて、とにかく普通の雰囲気ではなかった。
そんな中、増田家が父に代替わりし、お布施の額が激減。すごく心細くなったという。
今回の祖父の葬儀では、父は2人しか坊主を呼ばなかったというのが「信じられない!」そう。
増田本家のおじさんは、常日頃から増田分家(集落に20軒くらいある)に対して
寺にお布施をするよう呼び掛けていて、
「うちは跡取りが婿でこのへんの人とは交流が乏しいから将来が心配だ」
本家のおじさんが和尚の立場に寄り添うような話をしたら、感極まって
「ああ、私より先に増田本家さんが亡くなってまったら、うちの寺はどうなるんだ」
と不安になって涙が出た、と。
食事に出席した分家のひとたちも、和尚の話を聞いてなんか笑ってるし、
「和尚さま、しかたがないなあww」みたいな感じで、その発言を許してる。誰も咎めることなく。
祖父は、私たちが子どものころ、朝夕お寺にお参りしてお墓掃除をする人物として集落でも有名だった。
お寺は、わたしと兄の集団登校の集合場所だったので、朝のお参りは、子供の見送りのついでだった。
寺までの道中、祖父から「あの和尚さまは偉い人なんだよ。礼儀正しくするんやよ」って言われていたので、
わたしも兄も、祖父の言いつけ通り、和尚を「和尚さま」と呼び、
そんなかんじで、祖父から尊敬するように教えられていた和尚から、この仕打ちかよ。
祖父は生前、この和尚から、「あなたはもう徳が十分だから、戒名のランクを上げなさい」と助言されていたらしい。
だがこの祖父は、なにかの機会ごとに2-3年に1回は、
「戒名のランクは絶対に上げてはいけない。一度戒名のランクを上げると、
子ども・孫にその経済的な負担を強いることになるから、絶対に上げてはいけない。
生きている間だけ世話してくれればいい」と言っていた。
「おまえらのお布施の額が少ないから不安になって泣けてしまった」みたいなこといわれないかんのだ。
いや、言いたいなら言ってもいいけど、本家ともなにしゃべってtもいいけど
二重に三重にどん引いた。
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代の武士、佐賀藩士。通称又左衛門。『葉隠』の筆記者。口述者山本常朝、その師であった湛然和尚、石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。
略歴[編集]
延宝6年(1678年)、田代小左衛門宗澄の子として生まれた。 元禄9年(1696年)19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、宝永6年(1709年)に御役御免となった。
宝永7年(1710年)、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉の口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716年)に『葉隠』として完成させた。
5代藩主宗茂の時代の享保16年(1731年)54歳で再び祐筆役となる。 寛延元年(1748年)71歳で没し、佐賀市田代の瑞龍庵に葬られた。
瑞龍庵で葬られた際の墓碑には「松盟軒期酔之墓」と刻まれていたが、後、墓所の存在は忘れ去られた。(その法名から浪花節語りの墓と考えられていた。) 昭和13年に再発見され、昭和19年に有志により瑞龍庵に顕彰碑が建立された。その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれている。「陣」は「陳」の俗字で戦乱の際などに使われるものであるため、田代陣基への思いを込め本来の字を使用した。
山本常朝
山本常朝
山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。
目次 [非表示]
1 略歴
3 史料
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
略歴[編集]
万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。
常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。
11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳に元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。
この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。
『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。
天和2年(1682年)24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。
5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。
同年5月16日、藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日に藩主の菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。
のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。
享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。
辞世の歌:
重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵
虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを