はてなキーワード: 総体的とは
私はオープンワールドが好きだ(以下略)。ということで、ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下ゼルダ)はオープンワールドの新境地!みたいな意見や、それXXが通ってきた道なんですけど…という意見両方に対してもやっとする、それなりにオープンワールドのゲームをやってきた人から見たゼルダの感想というか、それをダシにしたオープンワールドに関する話。ネタバレはあまり含まれていないと思うけど、未プレイの人はこんな文章読んでないで早くプレイするべき。
まず、何が新しくないか、という言い方は語弊があるけど、ゼルダのゲームシステムには既存のオープンシステムから学んだであろう部分が多く含まれる。例えば、塔を登って周辺地図を開放するのはFarCry他のUBIのゲームからの引用だし、グライダーによる移動はJust Causeやバットマンのアーカムシリーズの影響を感じる。他にも食料、素材確保のためのハンティングや採取、細かく発生するサブクエスト、乗り物による移動やファストトラベルなど、「オープンワールド的な」システムが、ゼルダなりの味付けをした上で組み込まれている。
次に何が新しいか。この時代、真の意味で新しいというのは存在せず、何と何を組み合わせるか、何を入れて何を入れないかだとは思うけど、とにかくどこにでも登れるというのはかなり新しい。もちろん、源流としてのアサシンクリードやSkyrimにおける「登山」も念頭にあるのは間違いけれど、アサシンクリードでは実は点と点の移動にすぎない上下方向の移動が、面として移動できるというのはすごい。Skyrimで麓の街を経由せずにハイ・フロスガーに到達してしまった身としては、ちゃんとゲームシステムとして成立する形でクライミングが組み込まれているのはすばらしいと思う(これはクライミングを前提とした地形の設計も含めての話なんだけど、長くなるので割愛)。
実のところ、マップのあらゆる地形に立てるというのは、特にアクション系のオープンワールドでは珍しくはない。JustCauseでは飛行機からのダイビングとパラシュートでどこにでも行けるし、Crackdown(RIOT ACT)やSaints Row 4では自身の身体能力により高層ビルの屋上にも軽々と登れてしまう。ただ、こういうアクション寄りのオープンワールドは大味になりがちで、一番高いビルに登るには、ちょっと高めのビルを経由するだとか、戦闘も上空からミサイルぶち込みますみたいな感じ(これはこれで好きだけど)だったりするので、移動の自由さを確保しつつ、精度を持って成立させているところは他にはない感じがする。
精度という意味では、任天堂のいうところの物理エンジンと化学エンジン(http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1047403.html)による謎解きその他もすばらしい。これは従来のゼルダからの流れももちろんあるけど、手持ちのアイテムでスイッチが押せたり、ダンジョン内のオブジェクトで火をつける代わりに火の矢を射つだとか、思いついたことが実際にできて通用するし、従来Havok神の加護のもとでは成立し得ないと思われてきたことを実現しているという意味でも出色の出来だと思う。
ということで、ひとまずの感想としては
よくある洋ゲーのオープンワールドゲーを、複数煮詰めて煮込んでアクを取ってゼルダ味をつけたようなゲームといえば、そういう感じなのだが、これが、よくもまぁ最終的にキッチリとゼルダ味に仕上げたな、という出来だと思う。
にかなり近いんだけど、今までのオープンワールドの要素とゼルダ的なるものを組み合わせて出来上がったものが総体的に新しいプレイ体験を供していると言っていいんじゃないかなー、どうかなー。
以下蛇足
武器、盾、弓のインベントリ管理(具体的には「すてる」)が面倒なので改善してほしい。方向キー+Rスティックの左右で選択だけど、下で捨てるとか。
追記
追記カッコワルイのはそうなんだけど、滑空(グライダー)について。言葉が足りなかったのが悪いんだけど、空中である程度の高さにいれば常に滑空動作に入れることで移動の自由度が上がる例として挙げたので、神々のトライフォースや時のオカリナのコッコを指して(というか今作も出来るよね)すでにあったと言われても、うん、そうじゃないんだよねという感じ。これ以外のゼルダに関しての滑空についてはわからないのでごめんなさい。というか、神々のトライフォースも時のオカリナも(3DS版だけど)プレイしたし、洋ゲー好きな人は任天堂のゲームとかあんまりやらないんでしょみたいのも偏見ですよねー。
だから、あれを「型どおりの反抗、型どおりの和解、型どおりの成長」としか見れていない人は、
あれをそう捉えなかった人の目に映っていた高解像度の微細な捉え方をすべて無下にしている、そういう傲慢さがあるわけだよ。
あなたがそう思ったことは勝手だし、ファンの人が受けた衝撃や感動の「種」になっていたさまざまなウンチクには永遠に辿り着かないし、そんな「種」の存在があることも想像すら及ばないだろう。
そういう人がいることはそれでいいけれども、だからと言って作品を矮小化するなと言いたい。
自分より心から楽しんでいる人がいて、ついでに世間的にもヒットしているのなら、「自分には合わなかった」と思うだけでよい。
「見たけど下らなかった」みたいな事をあえて言う下劣な感性の人が、ネットには多すぎるから辟易しているんだよ。
特に、アイドルものなんかはジャンル自体への偏見もある上に、一部のファンの気持ち悪さゆえイジメられやすい。
だからそういうキモオタなんかを揶揄したい人間が、作品にその矛先を向けることも多々あるように感じる。
まるで「自分はまともだぞ」「自分はもっといい趣味してるぞ」「自分はそんなチャチなものどうかと思う」と言って、
けれども、どんな作品のファンにも必ず、自分より優れた知性を備えた人がいる。いい歳のいい肩書もった人がファンだったりもする。
例えばあなたが海外ドラマを高く評価していて、アニメはヌルいと思っていたとしても、その両方にあなたより精通していて、そのどちらも高いレベルで楽しみ評価している人がいる。
あなたに無い着眼点でみる人、例えばまどマギを仏教の文脈で語る僧侶や、ラブライブをマネジメントの文法で語る人などもいる。
とてつもない熱量で、自分では気づきもしなかった考察をブログで重ねている人がいる。
鳥肌を立てながら、そこまで考えて作られていたんだと気づき敬意を表する、そんな純粋さが馬鹿にされてはいけない。
そういう人の存在を無視して、一括りにファンは自分より感性下劣であり、作品も見下してしまってもいいだろうというような傲慢な判断をする人は、
そういう視点でつけるケチは、結局いつも表面的な部分しか捉えていないことを銘記してほしい。
ロックバンドのオマージュをするのが陳腐だからと言って、別に作品としてはその部分でいかに新しい表現をするかを競っているわけではない。
あの回の迷走の仕方はなんでもよく、あれを通して何を伝えたかったのか、そこに注目してみてあげるのが作品に寄り添う普通の見方だろう。
ネットには、瑣末な描写や言動や辻褄に「あーハイハイ」「なんでやねん」となって気を取られてしまい、総体的な評価をフェアに出来なくなっている人が多く見受けられる。
妙な「事情通」ぶった自負があるせいか、へんなところに神経質になって気を取られ続けているため、素直にみていれば感動に繋がるはずの布石を取りこぼしている。
あるいは、元から上から目線で鑑賞していて素直に楽しむ気が元からないせいで、些末なツッコミに躍起になるのかもしれない。
ともあれ、物事が「いかに深いか」を十分に言語化して語ることはものすごく難しいんだよ。前提知識が多く多岐に渡るし途方もなく長文になる。
対照的に、物事が「いかに浅いか」を語って揶揄するのは簡単だし、そういうネガティブ情報は感染力も高い。
だから、自分が良いと思えなかったものにも、自分には捉えられなかった「深さ」があるのだろうなと斟酌して、静かに離れていく美徳を身に着けて欲しい。
それは結局、デフォルトで他人を尊敬するという良き人格に繋がっていく。
逆にそれができないで、何かをこき下ろすことに快感を感じる性質を卒業できないままだと、いずれ何にも感動できなくなって脳が凝り固まってしまうだろう。
間違っても、今後はそんな「『○○でござい』なんて言ってて本当にいいの?」みたいに他人を冷笑する考え方に陥らないでほしい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えとしては「好き嫌いの表明は自由だが、尊重されるのはそこまで」といったところだ。
評価されるものというのは、総体的に見て賞賛と批判が表裏一体の存在である。
でなければ、それはそもそも評価に値しない(賞賛も批判もするような代物ではない)。
故にそれが評価に値するという前提が共有されているなら、「賞賛することそのもの」や「批判することそのもの」に是非を問うべきではない。
ここを混同して、意思の表明そのものまで脅かしたり、脅かされたと認識する人も少なからずいるが。
主張の是非について語る上で重要なのは大まかに三つの段階がある。
一つ目は前の回答の「行使」だな。
先ほどもいったが、意志の表明そのものは自由なので是非は問えないが、それをどういった筋道で表明しているかには是非が問える。
ザックリいえば、法的に、道徳的に問題のない、正当な範囲内での手段で意志を表明することだ。
三つ目は「内容」。
例えば正しい筋道で行使された主張であっても、内容の是非は別の話だっていうケースもあるし、主張の内容に妥当性があっても筋道が成っていないというケースもあるということだ。
だが、これら段階を常に一纏めにして解釈する人もいるのだ。
筋道のせいで否定されようが、内容のせいで否定されようが、結果的にはその主張を否定していることに変わりないこともあって、意思表明そのものを脅かされたと混同する人が出てくるわけだな。
当然、前の回答で語ったように意思の表明そのものを脅かすというのは、行使する権利そのものを否定したときであって、その筋道や内容の是非について語ることは可能なのである。
ああ、そうだ。わざわざ言うことでもないかもしれないが、私の答えはあくまで教養を必要としない人向きの答えだから、ちゃんとした答えを手に入れたければ君自身が勉強することだ。
ここで書き捨てている私がいうのも何だけれども、感想とかは各サイトのアンケートや、ツイッターで呟いたり、フェイスブックでシェアなりするのもオススメ。
まあ、他にも何らかの目的や拘りがあるなら、自分のブログとか別の媒体で書くのも大いにアリだと思うし。
コンテンツが盛んになる上で、そういったリアクションが表に出やすくなっている状態というのは、総体的には受け手にとっても作り手にとっても良い側面はあるんじゃないかな。まあ何の根拠もない主張だけれども。
今回の感想はとなりのヤングジャンプ
プロットはありがちというか普通なんだけれども、大真面目にやればやるほど非現実的な要素が余計に浮くんだね。
自分でもなぜか分からないけれども、「ピッカー」の時おもむろに手で顔を覆うマスターや、最後の柱コメントに書かれている「悟りきれない夜もある」とか、どうでもいい部分が妙にツボだった。
余談だけれども、同じ作者がツイッターで描いている別の漫画のまとめが、ちょっと前にホッテントリになってたね。
実はツイッター漫画はほぼノーチェックなので、ホッテントリになってるのを知ったとき「ああ、あれ描いているのと同じ人なんだ」と思った。
私とは逆に、『悟りパパ』を読んで「ああ、あれ描いているのと同じ人なんだ」なんて人もいるんだろうなあ。
おねしょなあ。
私はおねしょ含めて漏らしたことはここ十数年の間はさすがにないけれども、匿名ダイアリーでも漏らしたって話はちょくちょく出ていることから考えると、年齢問わず身近なことではあるんだろうね。
漏らさないよう気をつけても、漏らすときは漏らすんだろうけれども、だからといって気をつけて行動することが無駄ではない。
といったことを、しをちゃんが年季でもって語るかと思いきや、あのオチ。
長年生きているせいで、記憶の引き出しも滅茶苦茶になってるんだね。
その上で出てきたあのオチはご無体だが、本作は残念な不老不死を設定にしたコメディだから、長年生きた経験すら活かされないという展開は予定調和ではあるのか。
最近はこのテのアイテムに関しても知識として教えている学校あるらしいけれども、私のときはどうだったけなあ。
なんか妙な形状の器具ばかり覚えていて、「え、物理的に可能なのだろうか!?」みたいな記憶はうっすらある。
中には構成上全く無意義なのにも関わらず、唐突なギャグまで差し込むあたり全力疾走だ。
こういうスタイルのギャグ漫画って、1話ごと期間を空けて読む分には面白いんだけれども、緩急があまりないので一気に読もうとするとエネルギーの消耗が激しいんだよね。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
なぜなら、「騙す人間」という問題と、「騙されないように注意する」という問題は、因果こそあれ別の問題として捉えたほうがいいからだ。
昔、痴漢とかの話で「露出の多い服を着るのも悪い」とかいう主張があったが、では扇情的ではない姿ならば痴漢をされる可能性がゼロになるかといえばNOだろう?
様々な要因が絡み合う問題に一つだけの原因や是非を求めようとするからおかしなことになるのさ。
つまり「騙すほうが悪い」というのは、「騙されないよう注意する」という側面から見た場合には悪いねという話と解釈すればいい。
騙すほうを擁護しているってわけでも、総体的に見て騙されるほうが悪いってわけでもないさ。
まあ、中には本気でそこに大きな原因を求めたがっている人もいることは否定しないが。
そりゃあ、この世からなくすよう努めてはいるものの、完全にはなくならないであろう事柄はいくらでもあるからな。
そーいうものを「ある」という前提で臨むことは社会で生きていく上で基本の処世術といえる。
例えば人は嘘をつく生き物だし、嘘をつかれる生き物であることも周知だ。
例えば匿名ダイアリーに書かれた話をマジになる人間を迂闊だと評することは、決して不当ではないだろう。
私の質疑応答には嘘と本当を自ずと見分けられるノウハウがつまっているので、ぜひとも参考にしてくれたまえ。
子供たちがサンタクロースからリスクヘッジの重要性を学ぶように、私たちも常に研磨しなければな。
そんなこと私は知らんよ。
最寄のサンタに聞け。
そりゃゼロではないだろうけど、ホントに合法なAV業界やら水商売、性風俗なんかがヤクザのシノギとして現役なら、
もう少し今時のヤクザ界隈の金欠体質がマシになっているんじゃないかと思ったり。
実際のところは、非合法なやつも含めて、ほとんどヤクザには流れてないんじゃないだろうか。
金主だって利益がある限りは裏家業で稼ぐ連中がヤクザである必要はないわけで、
彼らに余計なリスクを負わせるよりもヤクザフリーで仕事させるでしょ。
元奈良県議(市議?)の事件でもわかるように、一般人がヤクザみたいな仕事を気軽にやってるのが現代的な現象で、
ヤクザじゃない連中がヤクザ以上にヤクザっぽいというカオスが現実なんだよね。
今回は裏サンデー
姫川先生の時オカもムジュラのコミカライズも当時読んだ身としては、これ見るといよいよ「キター」という感慨になるんだよね。
これまでも原作を踏まえた上で独自のオリジナル描写があってそれはそれでよかったけれども、トワプリ自体が異色の世界観だから実感が湧きづらかったというのもある。
おお、こういうのも描けるんだ。
人間の暗い情念と、それをどう実行するかっていう内容が凝ってて感心した。
私は作品を評価するとき、観念的な部分で合う合わないを決めることはあっても作品の出来自体は別と考えている。
例えば、今回は「合わない」けれども、総体的には評価したい出来だった。
まあ、どちらが勝つかは予想通り。
さすがに、今回ばかりは予想通りじゃないと期待はずれでもあるし。
スマートに勝ったように見えるが、一発でもモロに貰えばアウトな攻撃である以上、ギリギリだったともいえるし。
関節の決まらない相手をどうするかっていうと、骨を折ればいいじゃないというコロンブスの卵的発想は、まあ意外でも何でもないというか考えればそれしかないよねーとも。
ひでぇ!
散々バンジージャンプのことを語って、いざ跳ぶ瞬間になって回れ右するような肩透かしだよ。
まあこのあたりが理想と現実の狭間を反復横とびしなければならないマンガにおいては、落とし所として妥当ではあるんだろうね。
でもブスだからその人のすべてが嫌いだという人は少ないように、人間は総体的に評価される。
のだけれども、比重として大きくなりがちなのはどうしようもないわけで。
観念的な是非を語り続けても、その潜在的な認識はどうしようもないことを現実問題として分かっているからこそ、取り繕うのが現在の社会の正義であり、それもまた真実。
だから、作中の展開もある意味で「共同幻想」の範疇ではあるといえるから、責めるものではない。
ただ、私としてはアクセルを踏み切れないなら、最初から難しいテーマを弄んだり大言壮語を吐かないほうがいいと思ってしまう。
カンニングしたところで正解があるとは思えない設問に、なぜここまで執拗な制裁を加えるのかってなると、まあカンニングされたら困る何かがあるからってことになるんだろうね。
で、モブキャラもそれに気づき始めているあたり、ここに来るだけのことはあるってことがほんのり描写されているね。
設問自体は、やはりただのアンケートっぽいようだが、じゃあこの試験の意図がどこにあるかなんだよね。
ハンターハンターの「沈黙」みたいなのはできれば勘弁して欲しいけれども(あれも理屈としては理解できるんだけれども、問題としてズルいという印象が拭えないんだよね)。
まあ、それ以前にピンチだけれども、どう切り抜けるんだろうか。
どっちかっていうと、グルメというより、経営と家族コメディみたいな感じか。
主人公と妹たちが、親から任されたもんじゃ焼き屋を切り盛りしつつ、なんやかんやしていくんかね。
常連などが協力してくれる展開だとか、地元に根付いた店という設定がいい感じだな。
まあ、この方向性はウケるかどうかはともかくとして、間違ってはいないと思うよ。
いってはなんだが、もんじゃ焼きは絵としては映えないから、別のところで面白く見せる必要があるからね。
訛りで喋りながら気合の頭突きをお見舞いする場面はそこだけ抜き出す分には唸るんだけれども、敵が迂闊すぎる、大したことないっていう印象の方が強くなってしまうな……。
前の敵が身一つですごく強いタイプだったから、二人がかりで搦め手まで使って、片方は殺し屋でもない奴にやられ、もう片方はフラットな状態で戦った途端に瞬殺とかいう体たらくだと、ちょっと肩透かしと思ってしまう。
なんかメタ的に穿った見方をするなら、「前回の敵が異質すぎただけで、主人公はトップクラスに強い奴だし、警察も足手まといってわけではないんですよ」ということを説明するために適度な強さの敵をあてがわれた感じ。
今回は少年ジャンプ+
子供のころ、「何でもできるからって、何でもさせてはいけない」みたいなことを言われたことがあるのを思い出す。
何を対象に、誰に言われたかも思い出せないが、スマホってのもそれに当てはまるよなあ。
使いたいときに使えなくなるのが一番困るのに、それが往々にしてあるアイテムであるという認識が薄い。
本編の話は、シビれることで充電可能に、なら電気あんまなら電気ってつくくらいだからシビれるだろうっていう馬鹿な発想に不覚にもやられた。
しっかり酷いオチもついて、前回のぶっ飛んだエピソードよりは、これくらいの方が私的には丁度いいかなあ。
名前をつけるときは、その場のノリでつけると大抵あとで頭をかきむしりたくなるのに、その愚行を犯す人間は後をたたないよなあ。
様々な人物の思いが錯綜したり、色々な要因が重なった結果とはいえ、ミクニ自身に責任が全くないかといえばウソになるしなあ。
これだけカオスなことになっているのに、それらがミクニに集約されるってのが面白い。
まあ、かなり強引な展開だと思うが。
そんな中、敵役のささやかな激励ともとれる発言が、ミクニを鼓舞するっていうのはいいね。
私に露悪趣味はないんだよね。
それでも、総体的な評価にはしないから読んでいるわけだけれども、ちょっと雲行きが怪しくなってきたな。
そういうトーチャーポルノ的な部分もコンセプトに含めているのだろうけれども、メタ的にみて過剰ともいえる演出には眉をひそめたくなるなあ。
今後も露悪趣味全開でやり続けるならそれはそれで結構だけれども、メタ的に犠牲にしなくてもいいものまで犠牲にするのは、「ファイアパンチ」の作者と似たような悪癖を感じる。
前回とほぼ同じパターン。
でも、厄介なピザ対策にやっていることは前回と違って明らかに無茶苦茶だっていうのが面白いね。
まあ、展開そのものは同じパターンなので、構成面での面白みは薄いが。
次回もなんか変なピザ出てくるようだけれども、これでまた同じパターンだったら、さすがに多少違っていてもウンザリするかもしれない。
今回はコミックウォーカー
今に始まったことではないがレベル高いな……。
様々な性癖の意識の高さを、ここまで言語化しつつ個性化するって並大抵のことではないと思うんだが。
もちろん、もっと大局的に漁ればディープに取り扱ったものはあると思うんだけれども、このレベルのが一般誌で描かれているってのがスゴイ。
架空のTSっていう要素を風俗にするという、それだけで出オチなものをジャンルの醍醐味まで含めて語りつつ、ギャグにもちゃんとするとか。
今回はガッツリ紹介されたな。
人気の観光名所にあやかっている上、それが見向きもされていないってところに悲哀を感じる。
最近、「ねじの人々」という漫画で、漫画の登場人物の美醜について語られていたこともあって、どう評価すべきか戸惑うタイトル、テーマの漫画だな。
内容は、学級カースト下位の女子である主人公が、ある日クラスメイトのカースト上位に注目されるっていうストーリーか。
とはいっても、主人公がネガティブ思考で、謙虚というよりは卑屈感のほうが強くて、毒気がないといったらウソになるが。
まあ、そのあたりは意図的にやっているんだろうし、コンセプト的に仕方ないんだけれども、どうしても作風から漂うポルノじみた承認欲求をくすぐる要素が、鼻につく人は多いのかもしれない感じはする。
まあ私は、ポリコレ的な、コンプライアンス的な理由で合う合わないを表明することはあっても、それで作品の総体的な評価までを決めるタイプではないので、とりあえずは数話は読んでみてストーリー構成なり作風が合うかを確かめようかな。
「価値」とはなんでしょうか。
しかし前売りでのこのような市場にて飛び交う価格は、あくまでもタレント看板だけの「タレント価値(ネームバリュー)」であって、
有名著名タレントだからというだけに殆ど依存された状態にあります。実際の中身はここでは完全に度外視された状態にある・・
これが実に不透明であり、不安定であり、実態のない価格になる・・。
とある、何代にも渡り市場の中でステータスを確立して来た、Aという人気ベストセラー自動車が新型をリリースすることになったとします。
「今まで総じてよいデザインだったし、エンジンも作りも他より毎度抜きん出ていたから、今回も良いに違いないだろう」という前評判は生まれやすいでしょう。
これはいわゆる「期待値」。実車の写真やスペック等、メーカー発表も何もない状態の中、価格だけを先に発表。
それを受けて早くも市場にて、期待値のみで価格が変動、高騰していく・・
中身を全く把握されないのに、定価と過去の実績や経緯から生まれた「期待価格」だけで市場価格が先行していく・・こんなことはあり得ませんね。
ライヴに特化すれば、これがあり得るとし、事前にオークション販売にて価格が釣り上がって行くことが、果たして健全な商法なのか!?と。
「事前価値」はあくまでも「仮の価値」なわけです。決定価値ではない。
もし本当にオークション販売など主催者がやるとすれば、せめてゲネプロのプロモ映像やステージ写真等を参考資料として、事前に揃え明かさなければならないことになります。
ライヴとは、行って初めて分かる、「開けてビックリ玉手箱」の要素が本分でもありますから、それはそぐわない。
だからゆえ、プランに基づいた「制作費」を基礎に定価を定め、なるべく均等広範に売ることが結局はベターなのです。
「高額転売」のみに言及特化しようとするため、その手法のみに知恵を講じようとしますが、それ自体はよいとしても、
その有り様がライヴ興行のあり方や根本的構造、ひいては多くのファンの純然なものまで大きく揺さぶり変えるとすれば、
メリットに対してデメリットの方が勝ってしまう、ということでしょう。
よって、オークション販売などは多くのアーティスト側が望まないことは容易に想像がつきますし、
長いプロモーション活動の中に位置づけられるライヴを、点ではなく線で勘案しているアーティストサイドとしては、
このようなやり方は不健全であると認識するでしょう。無論、時として特別な企画を全面にし、このような方式がとられることは有り得るでしょうし、
またそのような他のアーティストとは一線を画した、特異なアーティストが現れることもあり得るでしょう。
そしてそのアーティストが独自手法で探求していくという活動を行うことも、それはそれとして構わないとは思いますが。
但し、後者の場合そうした「広範な音楽市場から分離した」、「二極化や孤立化された」状態で長く売っていくことはおそらく至難の業であり、
極々狭い領域と特定ファンだけしか対象にしないと端から決め打ちし、僅かの利益で細々と生きていくとするならそれでもいいでしょうが、
そう望むアーティスト等皆無に等しいでしょう。
ライヴにおける本当のWin-Winとは、グッズや付加要素で、小手先だけで埋めるのではなく、多くのファンが一律に目の前のステージにて
アーティストの価値を共有する、ライヴ自体の価値を共有する、そのボルテージや反応によって更にアーティストが昇華する・・
その場その時だけの特別な空間でボールを投げ受けし合う・・ものにも多少よるものの、そこが核であり、それをファンもアーティストも期待します。
その本分を中心に置けば、ファンが二極化してしまうような売り方は受け入れられない、となるでしょう。
なので、高額転売に対する方法論は、諸悪の根源とも言える手法を販売元が公式的に成り代わり行うことではなく、
本人確認等のテクニカルなものを探求し構築、法的な整備、そしてファン側のモラル・・多面的に、同時に回して機能させることが総体的な抑制となるってことでしょう。
今回は裏サンデー
うわ、もう殺しちゃうのか。
仮に死ぬとしてもしばらく先かと思ってた。
でも、う~ん……大してバックボーンがちゃんと描写されていない状態での退場だから、正直イマイチのれない。
世界観というか、この作品の方向性を伝えるという意味では十分な役割を果たしたとはいえなくもないが。
国王の理屈は、都合のいい解釈で、そもそも今回の事件を手引きした黒幕であるからすごく白々しい。
のだが、当事者の誰かがもう少し思慮深ければ起こらなかった、或いはそこまで酷くならなかった事態だったわけで、その点を考慮するとデュランは口をつぐむしかないわけだ。
後半のジンの答えは、大したことは言っていないのだが、まあ間違っていない。
そもそも、男女逆転させて性差を語るっていう発想は創作的観点からは面白い思うけれども、マジになって語ろうとすると安易というか。
身体的性差からくる、恋愛感やセックスなども含めた意識の違いというのは傾向として勿論あるのかもしれないが、そのほかの要素も加味して、総体的にかつ相対的に判断しないと、どこかで齟齬が生じるだろう。
しかも、ここに個の問題を含めて考えないといけないわけだから。
そもそも、たらればで地に足のついてない話で持論を担保するのって、結局は共感ゲームの延長線上にしかならないと思うし。
まあ、打ち切りですな。
まあ、まずは作風が読者の何割かを遠ざけたのは間違いない。
リョナとかトーチャーポルノとかは一般受けしないんだから、その他の要素で面白く描かないといけないわけだが、それも拙かった。
自分より体の小さい人間を盾にしたところで銃弾全て防げないだろ。
あんだけ規格外の握力とか腕力があるのに、普通に銃弾かれちゃうんだとか。
なーんか、ところどころ雑なところがあって、それが気になるせいでノりにくいんだよなあ。
で、本文についてですが。
これには複雑な興行の仕組みをある程度把握せねばならないと思いますし、多面的に勘案する必要のあることと思いますから、
一口にはとても言い切れないのですが、挙げられる複数の想定された大半の理由は少々穿った見方過ぎてどれも該当しないでしょう。
しいて言えば、6と10は関連性がある・・。
根本的に音楽業界・・とりわけアーティスト側の総じた意向としては、音楽は誰彼身分問わず公平広範に広めたいという核がありますので、ライヴも同じとみなしています。
今回の件で経済学者等の一部から「市場原理」等を基にした理論展開がありますが、元々音楽という文化はその原理とは異なる、同じにならない、
同じにしてしまうと理念の部分とは乖離してしまうので、独特のスタイルで発展して来た産業ともいえます。
先述の投稿内容とリンクすることですが、ライヴに特化した場合、オークションのようなスタイルにすることは、
仰るように転売等の抑制や排除に何らかの作用があるとしても、本来の理念とは逸脱してしまう・・ざっくり言えば
「ン万円にもなるチケットを時に若年層にも買わせてしまうことの道義的・倫理的問題が立ちはだかる」、ということでしょうか。
“いやいや、現実的に既にそうなっていて、それでも購入する者がいるじゃないか・・”という声もあります。
そこで重要になるのは、その客は積極的能動的な意思にあり「高額でも惜しまない、それだけの価値が有るのだ」としているのか、
それとも「本当は定価で買いたいが、手に入らないので仕方なく他所から買うしかない」とする“消極的理由”が背景にあるのか・・。
正確に分類把握することは難しいですが、おそらくは後者が多いだろうと思われます。
声明にもあるように、高騰することは次回やその他のアーティストライヴ、CDやグッズ等といった広範のセールスに影響が及んでしまうという
売り手側とファンの首両方を絞めることになる・・ということでしょうね。単発だけのライヴやその収支、ファンに拠る一つだけの出費や意思だけで観るならまだしも、
長期的・総体的に観れば決して好ましい販売方法とはいえなくなる、と。
一方でそのような販売体制は、販売するプロモーター側からすると、販売期間が定められ、短期間の中で売り捌かねばならない特性上では、
手間やコスト的な側面に加えて、金銭の計上的にも販売動向の数字上でも、販売管理全般がし難くなる・・。
結局アーティスト側、販売側、ファン・・どれを取っても利点は少ないと考えているわけですね。
勿論転売対策は必要であり、ファンサイドや転売屋方面に向けた「啓蒙」だけで解決するとは端から思っておらず、
取っ掛かりとして先ず大々的にこの件を打ち出し、モラルと共に広範で問題認識や議論を巻き起こしていく、最初のステップだと捉えているようです。
また、法的側面でデリケートな部分が障壁ともなっており、もはや業界内で何かテクニカルな手法をとっただけで解決しない領域に来ている・・
そのため行政方面にも間接的に問題提起させたいという意向は、既に明かしています。他方では、行けなくなった客に対する救済措置、
先ず、上の方の内容は一部誤解を生むと思いますので、訂正をかねて。
一般世間から観る「主催者」というのは、コンサートを運営している業者・アーティスト事務所・・それらひっくるめられ「全般」として解釈されている場合と
チケット販売やコンサート運営業者・・即ちプロモーターを指して言われる場合と混在していると思われますが、上の方が書かれているように
「主催者=コンサートプロモーター」とするのが正しいでしょう。厳密に言うならば、アーティスト事務所は主催名義ではなく「企画制作」という枠組みに入る場合が多く、
契約内容の如何はあるものの、現場は主にプロモーターが取り仕切り、アーティスト事務所は基本的に前面に立たないので、尚更プロモーターが主催者と捉えるのが適切と思います。
その上で。
>コンサートプロモーターと言う会社は、別にチケットが高騰してファンが困ってるかどうかなんて気にする必然性がありません
これは正しくないというか、粗い言い方であり誤解を生んでしまうと思います。
確かに完売が目標にありますから、一枚でも多くのチケットを売りたいし、売れることに尽力するのがプロモーターの仕事です。
プロモーター毎で年間抱えるライヴ興行は異なるものの、多くの催事を擁しており、これも各々異なるものの、全体の中で容易に売り切れるライヴはそんなに多くない・・
多少の程度にかかわらず「残券」が発生するライヴの方が寧ろ大半を占めるだろうと思います。
そんな中で、瞬殺完売のように短時間短期間で売り切れるものは楽ですし、逆に言えば人気のあるとされる代物ほど、何かの関係で売り残しが出てしまうことを避けたい・・
だからこそ、言葉はよくないですが「さっさと売り切ってしまいたい」という潜在的な欲求がある。
その意味では「売り主体」となり、売ってしまった後のチケットの動向など関与していられず、それを込めて「ファンが困るかは気にする必然性がない」、
つまり購入者より自分ら優先・・という言い方や解釈になっていると捉えられます。
しかし、あくまでもそのライヴ一本のみで捉え、極端な話その一本が終わればおしまいといった、個別だけで観れば“売りっぱなし”でいいかもしれませんが、
総じてアーティストの次回以降の開催にまで影響を及ぼすものですし、そのプロモーターは特段の事由がない限り次も仕事を請け負いたい(開催したい)はずなので、
顧客を蔑ろにすることは次回の販売へと影響をもたらすことに繋がり、「ファンが困ることを気にしない」姿勢はプロモーターの評判は勿論、
アーティストサイドの評判や評価、即ちタレント活動そのものに向いてしまい、悪影響を及ぼすこととなります。
なので一本だけ、個別のみに特化して単純に言ってしまえば上の方のような解釈になってしまいますが、実際そんなことはない・・
全国津々浦々大小のプロモーターがいますので、そのような資質にあるプロモーターは存在していて不思議はありません。
ですが、一本のライヴはタレント活動という長いスパンの中の「点」であって、プロモーションという側面で観れば既存ファンを維持しながら
広範の世代や新規ファンへと拡大したいという目的がありますから、「繋いでいく」以上、繋げていく以上プロモーターに拠るファンの動向は、
プロモーションとして請け負うことを本分にしているプロモーターであれば決し無視出来ず、ファンを蔑ろにしていいとは思っていないはずです。
もしそのような質の悪いプロモーターがいたなら、それはプロモーターではなく「イベント屋(請け負った催事をこなすだけの仕事)」の資質、体質にある企業と思います。
よって、多く買ってくれる転売屋は、チケットの売り上げだけ観れば結果的に“助かっている”側面は確かにある。
しかし現在の高騰市場の拡大は、タレントプロモーションを担っているという意識にプロモーターがあるなら、総体的にはやはり問題だと思っている・・
正しくは、益々無視できなくなって来たと認識しているはずです。
尚、意見広告にプロモーター名が入っていないのは、単に協会名に集約しているに過ぎないということで、
「名前を載せていない=各プロモーターが積極的に同意していないから」 とするのはあまりにもミスリードを誘う不適正な解釈でしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20160809152948
2ch辺りでアニメアンチたちのアニメ批評なんかを眺めてる時も、理解の断絶を感じることが多い。
アニメは言語化しないぶん、より意図を汲み取れないで妙な邪推してしまう人が多いよね。
偏差値というか、ASD傾向がある人あたりが、想像力障害ゆえに突飛な解釈をする→
長文で説得を試みられてもコミュニケーション障害ゆえ納得できない→
感化される人も増える、ってサイクル。
ものごとの妙味って複雑で多面的な要素が絡み合っているものだから、
でも言語化できないまでも、おおかたの人はなんなく汲み取れるんだよね。
本筋のメッセージ性とかの大事な部分を。だから総体的に評価ができる。
もう脳内補完をしてあげる事ができなくなり、理解が途切れてしまう。
結局自分の思い描いた筋書きしか受け入れられないようになってしまう。
このようにファジーな文脈解釈をするのに高度な脳機能が必要となる一方で、
作品にネガティブな印象を与えるには一面的なことを短文で罵倒するだけで十分。
健全なメンタルの人でも、その一面のネガティブ解釈に注目してしまえば、
こういうネガティブサイクルが、ネットのそこかしこで見られる。
それでどんな話題においても、プロ水準の造詣の深さや視野の広さを持っている人の声よりも、
素人のパワフルな罵詈雑言の方が支配的になるし、正義面をするのもうまい。
一番象徴的なのはヤフコメかな? でも最近のブコメも大差ないかな。
まあ、啓発が進んでる分野では、ネット素人の意見がプロのそれに近くなる場合もある。
たとえばエスカレーターは歩くなとか。
とはいえ、それはただ素人集団が条件反射的に流れに乗っているだけで、
彼ら一人一人が毎回書き込むたびにプロ並の思索を巡らしているわけではないようにも感じる。
こういうところが、ネットの闇でありネットの限界だと思うのよね。
ASDは自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群をさした言葉です。
トラバで指摘されて気づいたけど、
ASD特有っぽいやたら神経質な指摘をする人と、その指摘に乗っかってDisを始める人は
必ずしも同一とは限らないと思う。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
自分すら間違いだと思っていることを、何の理由もなしにやったりしないだろう?
仮に間違ったことをやったとしても、意図的であるということは動機があるということで、つまりその観点から見た場合「正しいと思ってやったこと」になる。
まあ、もしそれを皆に理解させるなら最低限、論理的に破綻していないことは大前提だろう。
ああ、いっておくが「正しさ」というものは様々な側面からみた「正しさ」というものがあるぞ。
その側面からみた範囲内での「論理的に破綻していないか」ということだから、誤解しないようにな。
当然、「正しさ」が複数ある以上、論理的に破綻していなくても、それは「その側面からみた正しさ」に過ぎない。
とある物事の是非を「一つの側面からみた正しさ」だけで判断することは、適切であるかという観点から見たとき遠ざかる可能性がある。
だから、「他の側面から見た正しさ」と比較することで、その「正しさ」が相対的に、そして総体的に見て妥当性を判断するわけだ。
まあ、みんながみんな論理的に物事を語れるわけでも、同じ「正しさ」を語るわけでもないから、そういう前提の共有すらしない議論は混沌としがちだがな。
それでも、正しさが原動力である以上、それを追い求めること自体は人間の性なのだよ。
……私か?
そりゃあ、私も正しさが原動力で、それに伴って行動しているさ。
まあ、その「正しさ」はあくまで“今の私にとって”だがな。
……ううん?
何を書いているんだ私は。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えはNOだ。
私は相手をどう印象付けているかでフォルダ分けはしていなくて、関係性で区分している。
いい人だとか、嫌な人だとかは気持ち的にはともかく、枠組みとしてはあまり意味がないからな。
一応、「他人フォルダ」とか「大衆フォルダ」とかはあるが、しばらくして使わなければ中身はごみ箱に入れる。
真に他人に臨むときというのは総体的に評価するときであって、仮に人をフォルダに入れるなら細分化された名前になるだろう。
なので、フォルダに入れても中にあるのは一人だけであまり意味がない。
逆にそもそも腰を据えて臨むつもりがない相手ならば、容量を圧迫するだけなので残さない。
価値観の多様性を認めることも、それらの枠組みも「自分が使いやすい、容量内で」という但し書きがつくのは周知だ。
でなければ私や君のPCはあっという間に容量不足になるからな。
こういう書き方をするとアレだと思われるかもしれないが、大抵の人にとってフォルダの分け方は当事者が期待しているようなものにはなっていない。
仮に君が「嫌な人フォルダ」に入っていたとしても、その中には君以外の人もたくさん入っているということで逆も然りだ。
サブフォルダがどうなっているかが重要だという話であって、そういう簡易的なフォルダ分けに一喜一憂する必要はないということさ。
……ん? ここらへんのメディアの人たちはどうかって?
エロゲーは1万円以内で購入できるし追加課金なしで全ヒロイン全イベント攻略可能
いつプレイしてもやり直せばどのイベントも見られるし基本的に回想機能がある
ソーシャルゲームは大抵の場合キャラは多いがそれ故に1万円課金した程度じゃ好きなキャラ(カード)やイベントと出会えるかすら分からない
エンディングや総体的な目標が存在しないものが多いから無限に課金してもゲームをクリアしたカタルシスが得られない(そこが売りで罠)
好きなキャラと出会えても各種イベントは期間限定だったり条件限定だったりのものがあるから、
一定期間ゲームプレイしてないと見逃してしまうし、その後は基本的にそのイベント等は金払っても二度と見られないものが多い
会社が倒産するまでもなくゲーム自体が終了すると課金して集めたカードもイベントも見られなくなる
適当な独断偏見も入ってるが、そんなわけでソシャゲーにハマる奴の気が知れない。
一応ハマってみる前提でやったことはあるがどれもすぐ飽きてダメだった。
子供を個別に考えるとそう思うのも無理からぬことなんだけどさ。
ずっと日本に住みつづける気なら、自分が生産できない年齢になった時に、暮らしてゆくのに必要な財やサービスを生産するのは、その時点の日本の生産者じゃん。極端な話、それまでに日本経済が破綻してたらいくら金持ってても必要な物やサービスが買えないっしょ。
その将来の日本の生産者にはバリバリのエリートも底辺のDQNもいるだろうけれど、総体として健全な経済が維持されてないと困らない? 例えば無教養、極貧の底辺層が増殖して経済を引きずり下ろすような状況になってたらまずいでしょ。となるとインフラとしての育児や教育を総体的に維持することは不可欠でしょう。
まあ、上澄みだけを掬って彼らが将来の経済を支えてくれることに賭ける、っていうのも方針としてはありだね。その場合は、独身税みたいなのに反対するかわりに、優秀な子供を援助するような基金なり団体なりにがんがん金突っ込めるような制度を支援したらいいんじゃないか。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ブサイクな人間が嫉妬や自虐に使い、肝心のイケメンの人格を排除している時点で、低俗なミームであることは自明だっただろう。
元ネタに込められた思いなんて、今では何処吹く風だ。
まあ“そういう人間”は、「ただし性格のいい人に限る」とかだったとしても分が悪いとは思うが。
最近ではそれがターゲットを変えて「童貞を殺す服」になっているのかな。
“彼ら”にはぜひとも逆に殺してやるくらいの気概を見せてもらいたいものだな。
なんなら「処女を殺す服」でも作ったらどうだ?
君の発明にしてくれて構わないぞ。
おいおい、君はまだそんな次元で話しているのか。
「ただしイケメンに限る」といった低俗なミームが風化してから何年経ったと思っている。
なのに、いまだそんな不毛な質問するのは、君の中で「外見だけで人を判断するなんて酷い」だとか、画一的な価値観を前提に語っているからだ。
君がよほど未成熟な人間でないのなら、そのような評価基準に是非を求めようだなんてことはナンセンスだと気づくはずだ。
そもそも人間は総体的に評価すべきで、各々で重視する側面はあっても、決して「それだけ」でいいわけではない。
住む部屋を探している人は何を重視するかはともかく、「その条件さえ満たせば後は何でもいい」とはまず思わないだろう。
また、現在進行形で対象を求めているかどうかでも、回答への真剣度は変わってくるしな。
いずれにしても総体的に評価すべき価値判断を、一つの要素だけ抜き出して語っても意味はない。
愛すべきは「要素」ではない、「人」だろう。
まあ、そこに君の求める真実があって、それで人生が豊かになるのならば好きにすればいい。
そ、そうか……。
偶然そうやって出会いに恵まれていない人を捕まえて「だから結婚できないんだよ!」なんて言うのはお門違いではあるのだが……。
君は高学歴高収入を「高望み」といっているが、もう少し考えてみて欲しい。
自分と同程度のスペックで、かつ一緒にいたいと思え、相手も君とパートナーになりたいと思っている。
それは、高学歴高収入と比べて本当にハードルが低いのかどうか。
それにハードル走も、それはそれで大変だと思うぞ。
……それらを踏まえたうえで結婚できるのか?
それは私が決めることじゃあない。
もしかしたら高学歴高収入の人と結婚できるかもしれないし、君のいったような条件の人と結婚できるかもしれない。
だが不確定要素が大きい以上、結婚の条件を弄ぶ人間に他者がいえることはそこまで多くないんだ。
いずれにしても、私がいえる教訓はこれだ。
「現実を見ろ」
陳腐な教訓だが、こんな所でいるかどうかも分からない人間を前提に語っている時点で、本当に理解している人は少ないんじゃないかな。
それにしても、いやはや……。
恋愛や結婚が自由になり、親戚などの「お節介システム」も廃れたのが現代だと思ったが。
今も形を変えて、そのシステムをお金を払ってまで求める人が多くいるとは。
各々が自由を追い求めた結果が今だとするなら、何とも難儀な話だな。
例えば付き合っている男女が喧嘩した場合に、女って友人とかにその話をして、共感してもらいたがる、みたいな現象ってあると思うんだけど、それはなんで喧嘩になったのか話し合って男女間で解決すべき問題だと思うんだ。そこをまず友人に話をして感情や気持ちを共感し合わないと気が済まないのって意味が分からないというか。むしろ共感し合う事で男に対する悪感情は益々強化されるわけで、総体的に見ればそれは状況の悪化でしかないと思うんだけど、状況を悪化させてでも自分が承認されることや感情が慰撫されることを優先するのって、端的にいって理性的ではないし愚かだなと思うわけです。
増田たちが言っている「解決してはいけない問題」というのが具体的に何を指すのか分からないのだけど。もう少しジェンダー論的なところで受けてる抑圧、みたいなものを想定しているのかな?
今回は言論関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ただ雑であれば「雑だ」と指摘される。
そして、それは至極まっとう指摘だ。
言論が自由であるなら、それに対しての言論もまた自由なのだから。
雑なのに、雑じゃないように振舞うこと。
その論でいうなら、これは争いではないし、かといって虐殺でもない。
ロクな装備もなければ、訓練もつんでいない愚か者がただ討ち死にする自然の摂理だ。
「僕は装備もなければ訓練もつんでいないけれど攻撃するよ。でも、反撃はしないでね」というのはムシのいい話だ。
無知は恥ずべきだ。
だが、無知であることに無恥な人間は、時に火傷をしないとその痛みに気づかない。
……雉も鳴かずば撃たれまい。
例えば、某研究者とかが「嘘はいけない」といったとして、反面教師として汲み取れる側面はあるかもしれないけれど、ほとんどの人は言論そのものを評価しない、しにくいよな。
フィクションの登場人物の名言集で、その中の何割かは本当は言っていないのに、信じる人が続出してしまったというエピソードもあるな。
要は「説得力」ということだ。
それが正当か、といわれれば私としては「半々」というしかないね。
言論は自由だが、社会に帰属する私たちはそれによって起こりうる責任を持たなければいけない。
とはいえ放棄することも可能で、実際にネット住人の大半はそうしている。
だが、誤解してはいけないのは「自由」なのではなく、「自由そのものは許されている」ということだ。
故に言論そのものが評価されやすいともいえるし、一笑に付される可能性も高まる。
何にしろ、私たちはそれを正当な評価かどうかに関わらず享受することになる。
もちろん、それら評価に対してのレスポンスも自由だ(黙することの美徳もあるようだが、あれは迷信だ)。
君のような人は自身の言論を「大したもの」か、「取るに足らない」ものにしたいようだが、生憎それは君の判断で担保されるものとは限らない。
そして言論が担保されない以上、「よく分からない人間の言論」という前提は無くならないんだ。
うん……まあ、シメに入ろう。
人格とは総体的に、そして相対的に判断され、言論もかくありき。
いずれ言論者の人格が普遍的でないにしても、判断材料としては不変だろう。
自由であることは同じだが、正当な言論には正当な言動がつきものということだ。
……私かい?
フジテレビのノンストップに城之内早苗が出演しおニャン子クラブの昔話をしているのを見た。
そこで思ったこと。
おそらく秋元さんにとって「恋愛禁止」とは逆説的な「恋愛擁護」なのだろう。
恋愛禁止として語られることの多い彼のプロジェクトで禁じられているのは
例の指原の「処分」が曖昧に感じられたのは、彼女がしたことが「恋愛」ではなく
ただひとえに「肉欲を満たす行為」であると本人と秋元が了解したからではないか?
恋愛が満たそうとするのは承認欲と肉欲の相互作用をも含むもっと広く大きく深い総体的なものである。
そしてその「総体的なもの」がほとんど全ての人間にとって絶対に満たされぬものであると秋元は知っている。
たとえどんな大きな存在に禁じられたとしても破り犯す罪こそが「恋愛」であり
それをおそらく秋元は知っているのだろう。
そして「総体的なもの」を絶対的に擁護することが彼の活動の目的なのだろう。
その活動の成果物は僕はものすごく嫌いだけど。彼の志は尊敬する。
童貞とは肉欲を満たす行為を禁じられた(られていると思い込んでいる)若者であり
キリストが人間に似ているように秋元は童貞に似ている。そういうことか?
(言い訳)
もっちょとちゃんと考えてちゃんと書かなきゃだめだあね。ぐずぐず。
覚え書きスケッチとして。