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2015-02-18

AKBというか秋元康さんが「恋愛禁止」をほのめかすわけ

フジテレビノンストップ城之内早苗が出演しおニャン子クラブの昔話をしているのを見た。

おニャン子クラブ恋愛禁止であったという。

そこで思ったこと。

おそらく秋元さんにとって「恋愛禁止」とは逆説的な「恋愛擁護なのだろう。

恋愛禁止として語られることの多い彼のプロジェクトで禁じられているのは

承認欲求を肉欲で満たす事であって恋愛のものではない。

例の指原の「処分」が曖昧に感じられたのは、彼女がしたことが「恋愛」ではなく

ただひとえに「肉欲を満たす行為であると本人と秋元了解たからではないか?

恋愛が満たそうとするのは承認欲と肉欲の相互作用をも含むもっと広く大きく深い総体的ものである

その「総体的もの」を秋元絶対的擁護している。

そしてその「総体的もの」がほとんど全ての人間にとって絶対に満たされぬものである秋元は知っている。

たとえどんな大きな存在に禁じられたとしても破り犯す罪こそが「恋愛」であり

それゆえ恋愛を禁止することは原理的に不可能である

それをおそらく秋元は知っているのだろう。

そして「総体的もの」を絶対的擁護することが彼の活動目的なのだろう。

その活動成果物は僕はものすごく嫌いだけど。彼の志は尊敬する。

童貞とは肉欲を満たす行為を禁じられた(られていると思い込んでいる)若者であり

処女とは肉欲を満たす行為意味を未だ知らぬ若者である

僕が秋元康表象童貞臭さを感じるのは、

秋元の使命が童貞処女を救済することだからなのだろうか?

キリスト人間に似ているように秋元童貞に似ている。そういうことか?

やはり秋元成果物をオレは絶対に認めない。

言い訳

洗濯さなきゃ。

もっちょとちゃんと考えてちゃんと書かなきゃだめだあね。ぐずぐず。

覚え書きスケッチとして。

2014-04-01

落ち着き払っている奴が憎い

端的に言えば、落ち着き払っている奴が憎い。

俺にはアレが、男版ぶりっこに思えて仕方ないのだ。

例えば飲み会という状況になれば、誰かが口火を切らないと始まらない。誰かがその役目を担うが、望んだ役割ではないから、大したこと言えない。

大したことしか言われてなくても、他の奴からすりゃ、それに続かないとコミュニケーションが続かないから、やはり望む役割ではなく、適当な事言いながら話を続ける。

大人数での会話って基本的にこういう総体的にはわちゃわちゃしたもんだと思うのだが、落ち着き払っている奴は、そういう惨めな協同には参画しないで、ポイントポイントでいい事を言う。

結果、堂々としたあいつすげえみたいになる。

俺はわちゃわちゃ喋る方だし、みっともないからからもウケが悪いが、奴らはなんだかウケがいい。

不安ベースで動いているから、わちゃわちゃやるわけだが、落ち着き払っている奴は不安ベースの行動を見せないようにしている。

でも、そんなの、欺瞞だろう。落ち着き払っている奴だって明日死ぬとなったら、わちゃわちゃすんだろ。

2014-01-16

ポイ捨てをしないという民度

中国人などが時々、日本に来たらゴミポイ捨てが少なくてビックリした、などと記事に書いているのを見かける。私は中国に行ったことがないのでわからないが、中国の都会はそれほどまでにポイ捨てが多いのだろうか。日本では残念ながら近年は特にポイ捨てが増えており、そのために罰則が設けられている市町村が増えた。中国人に「日本人は昔は法令がなくたってポイ捨てはしなかったよ」なんて言ったら驚くだろうか。

日本人ポイ捨てが少ないのは、残念ながら、おそらくは、民度によるものではない。一部の外国人は、日本を訪れたときに気づくようだ。日本人ポイ捨てが少ないのは、道徳倫理ルール洗脳されてきたからだ。なぜ悪いのかということではなく、悪いと言われているから悪いのだと思っている。昔は、悪いものは悪いのだから人目がなくてもやらなかったが、いまは道徳倫理観ではなく法令順守と言うから、バレなければやるという人が増えたように思う。

近代西洋国家の「民度」というのはつまり民主主義国家から自分たちが決めたルールには遵う、という論理である。街も市民の共有物であるから自分のものを汚染しないのは当然だと考えている。ところがこの日本には、そうした民度はきわめて低く、ルールお上が決める、政治家官僚が決めるものだと思っている。

「徳」というのはもともと儒教から来ており、中国生まれだ。韓国日本も、中国科学を受容し、儒教道徳も輸入したのである日本人にとって、「道徳」とは少なからず、他人から教えられるものであって、自分で考えるものではないようだ。ついでに言えば、道徳先進国であったはずの中国からポイ捨てが多いのだとすれば残念なことだ。

さて、本来の倫理観というのは、他人から教えられるルールではない。地球暮らしているうえでの人としての責務である。例えばアボリジニでもイヌイットでもアイヌでもネイティブアメリカンでもなんでもいいが、彼らは自らを地球(という概念を彼らがもっているかは別として、そうした総体的感覚)の生態系の一部だと認識して暮らしており、だから他人のみならずあらゆるものに対して、汚染すまい傷つけまい努力する。ほどほどにとどめておくという意識が高い。ほどほどにとどめなければ、環境破壊でとっくに破滅していたはずだ。採り過ぎたら食糧はなくなる。

こうしたいわゆる先住民的な思想というのは、近代西洋人からはしばしば「野蛮だ」「未開だ」つまり「プリミティブだ」とも言われてきた。その近代西洋人たちは地球をことごとく破壊して生物を採り尽くしてきて、いまがある。

実は、日本人にしてももともとは先住民的な、「未開の」人たちで、国土と交じり合って暮らしてきた。だからいまでも農業漁業などの根本思想のなかには、採り過ぎてはいけない、ほどほどにしてつあいを保たなければならない、という発想がある。そうした「個人」や二分論のような理屈では割り切れない思想をもっていた日本人は、近代西洋人からするといわば「ぬえ」のような存在なのかもしれない。彼らからすると、日本人というのはいまでも、得体が知れない。

ポイ捨てをしないということを元来の日本思想でとらえればすなわち、国土を汚損しないように努めなければならないからである。それが本来の倫理観なのだ。こうした倫理観が欠如しているいまの日本人たちには、他人から教わるような成文法的道徳」だとか、あるいは「法令順守」だとかい理屈ばかりが出てきてしまう。言い換えれば、「思考停止」と言う。

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