はてなキーワード: 無意とは
収蔵物が博物館のキャパシティを超えて保存され、その扱いに困っているという新聞社のWeb記事を見ていて、改めてそう思った。
昔、「正しい日本語」という概念が流行り、それが何なのかという議論が多数交わされたが、それらは結局のところ、世代対立に過ぎなかった。
そして、この収蔵物もそうなのだと思う。
若者でない世代が、自分たちが大事だと感じる資料を、「歴史的」というあたかも価値のありそうな形容詞で装飾して、
キャパシティを無視してでも、それに親しむものよりは若者だろう管理者に、たくさん押しつけようとした結果に見える。
どちらかいえば老人世代に近い自分だが、個人的には、キャパシティを超えた分はすっぱりと処分すべきに思う。
若者もきっと、歴史的と呼称した老人世代の未練に興味はないのだ。私たちの世代のものは私たちの世代で諦めるしかない。
そもそも、収蔵物の保存にはコストがかかるので、若者文化の発展はその分遅れてしまうし、
歴史的事物の保存という行為自体も、若者文化の発展には抑圧的に働くので、収蔵物の保存というのは若者たちに本質的に好まれない。
そして、誰も明言しないが、歴史的な資料は「古いものは尊ぶべきだ」という価値観を無言で内包している。
歴史的な資料は「文化『財』」という名称で、あたかも自然に財産然としているが、その実は若者にとってコストというか、若者文化を発露する際の重荷でしかない。
そして、歴史的な資料は「歴史」という教科となって、あたかも覚えるべき知識であるかのように振る舞い、若者のキャパシティまで削ってしまう。
個人的には、若者の認知は未来に向かって注がれるべきと思われ、合理的でも道徳的でもない偶然の連なりである「歴史」などに充てられるべきではないように感じる。
そもそもなんで、偶然でしかない、未来に決して通用することもない老人たちの教訓を、若者たちに記憶させないといけないのか。
そういった保守的な歴史のがんじがらめが、地元に流れる人間関係の重さと相まって、若者たちを都心部に押し出す格好になっている気がする。
すると文化財は、その費用からもその思想からも、若者たちを都市部に押し出すのを助けてしまっているとさえ思えてしまう。
掘れば遺跡が出てしまい、その保存で開発が全く進まない「文化財」だらけの地方自治体に、どんな若者が残り続けたいと思うのか。
思春期の子供が両親に反抗するように、若者たちはきっと、古い文化の象徴である歴史的な資料など捨てたい、
その保存コストを、古い文化の代わりに自分たちが享受したいと思っているはずなのだ。
つまりは、歴史的な資料は非明示的ながら、そしておそらく無意図的ながら、古い者たちの権力となってしまっていると思うのだ。
だから、一部の人たちにとっては無意識的に、歴史的な資料はコストをかけてでも博物館を占有していないといけないのだろう。
でも、歴史的な資料をとるか、若者主体の文化としていくかは択一であり、どちらが本当に重要かってことを、今一度考えてほしいと、この老いぼれはひそかに思う。
偉い学者が、日本の人口回復のためには、面倒みるべき親を早く捨てろと言ったらしく、それは耳が痛いことでもあるが、
どうあるべきという話を聞きすぎて、どうありたいかを忘れてしまう今日この頃です。
しかし誰かの意見を絶対なものであるかのように錯覚してしまうのは自分を見失う第一歩であるように思うのです。
何が悪いことであるのか、ということは、いい大人なのである程度わかっているはずなのです。
ところが、インターネットやテレビでは、平気で一線を越える輩を目撃します。
差別を正当化したり、特定の人の利益のために経済についての嘘を言ったり、誰かを頭が悪いと見下したり、バズるために誤解を生み出したりすることです。
そういう蛇たちの情報に影響されすぎて慣れてしまうと、自分が信じている善というものが混乱してしまいます。
私はインターネットが趣味なのですが、情報に触れることから遠ざかった方がいいのかもしれません。
コンピュータに触るのは仕事だけにする。コンピュータに触らずにできる趣味を作る。
コンピュータは汎用性があり、文書閲覧、ゲーム、動画・映画、コミュニケーション、小説、お絵描き・絵画の鑑賞、勉強、こういうものはコンピュータがあればできてしまいます。
しかし汎用的だからこそ、人につけ込む隙があり、搾取の道具にされています。
私はコンピュータを使ってこの文章を書いていますが、もしかすると誰とも共有せず、紙のノートに書くべきなのかもしれません。
社会からの目を意識すると、自分とは異なる何かが手を動かし始めるのです。
普段なら、趣味の検索をコンピュータを用いて行うところですが、それではダメなのです。
自分の頭で考えて、必要ならば本屋や図書館で本を探して、アナログに立ち返ってみること。
目的のための最短経路を一発で掘り当てるのは、もうつまらないのです。
ゆっくりと旅路を楽しんだり苦しむ余裕こそが重要です。コスパタイパを意識して映画を倍速再生するなんていうのは令和時代の病気です。
仕事では最適化やコスパが重要かもしれませんが、人生全体に対してそれを適用する必要はないのです。
そして「楽しみを最大化」なんていうのもまた令和の病気の一つでしょう。
ぼーっとする無意義な時間があってもいいし、楽しめないと思ったTVシリーズや本を最後まで見てもいいのです。
私は子供部屋おじさんなので、家の家事をもっと手伝うことができます。
風呂場の掃除と洗濯物の取り込みしかしていませんでしたが、自分が使った食器を洗うぐらいのことはできるでしょう。
家族と過ごす時間を増やすこともできますし、昼休みの時間に散歩に出かけることもできます。あるいは朝冷水シャワーを浴びてリフレッシュすることも。
「めんどくさい」などと言っているから、スパイスが足りなくなるのです。
あらゆることをコンピュータ上でやろうとするのも、最短経路を一発で掘り当てようとするのも、結局はめんどくさいという怠け病です。
SNS、YouTube、TikTok、ブログ。今や発信してリアクションを得られる可能性があるプラットフォームに触れていない人の方が少ないと思う。
鍵アカウントもあるが、公開範囲を限定しているだけで多くの人は少なくとも親しい友人やネットで繋がりのある人などが見られる環境を作っていると思う。
僕はまるで他者からのリアクションを求めていない、と言うような素振りをすることがある。まじ滑稽。
リアクションを求めないことは美徳でもなんでもないし、社会に生きる以上何かしらの発信にはリアクションが伴うし、誤解されては生きづらい。
リアクションから逃げることは「私は社会性がないです。」と言っているようなものじゃないか?言いすぎ?
とはいえ、リアクションを求めるがあまり、本心を隠したり言いたいことを歪めたりするのは不健全であると思う。
服を買う時、「これ少し自分っぽくないな」と思い手に取ることをやめたことはないか。自分みたいな人間がこんなお店に入るのは違うな・・・と入店を躊躇ったことはないか。
リアクションを求めないというスタンスに常に立って世捨て人のようなスタイルを保つことは非常に力のいることだし、この社会で生きる以上不用意にそんな振る舞いをすべきではないと思う。
しかし、たまには「うおぁぁぁぁ〜〜!!!!俺だ俺だ俺が全てだ!!!!」というムーブをすることも必要なんじゃないか。
我々はあくまでも個人。個人であることを忘れて集団のうちの一人であるという意識を強めすぎてしまうと、誰かが、もしくは自分が勝手に決めた自分が固着してしまって人生にセレンディピティが生まれないように思う。
自分では普段しなさそうだな、という選択をたまにすると人生がまるで豊かになったような気がしたことはないか。1人で旅行に行ってみる、
作ったものがない食べ物を作ってみる、なんかこれとこれでプリンみたいなもの作れるんじゃね?(レシピは知らない)とかなんでもいい。
自分の中に遊牧民を住まわせろ。そんじょそこらのノマドワーカーなんてものとはわけが違う。それはあくまで集団から少しだけ距離を置いて「特別なあたし」を楽しんでいるにすぎない。
ほんの一瞬でもいい、自分の精神的なパーソナルスペースをバカ広くして敢えて社会から隔絶したような心持ちで、自分の評価軸のみで物事を選択することをしてみる。
評価軸なんてない?やりたいことなんてない?小難しく考える必要はない。
例えばあなたの目の前に米が2合、野菜、肉、魚などなど様々な食材があるとしよう。普段なら米は2〜3食分に分けて、食材もいくつかのレシピを作るために小分けに調理するだろう。もちろんそれがあなたのやりたいことで、スタイルなのであれば好きなようにして構わない。そうでないのなら?
私は一介のサラリーマンで、特段見どころのあるような人間ではない。だが、眼前にそれらが広げられたら、今の私は豪農モード。全ての食材を余すことなく調理し、一食で食らう。
普段なら絶対にできないだろう。妻もいる、もちろん食費や向こう数日分の食材をまた買いに行かなければいけないという問題に豪農モード終了後にぶち当たるだろう。しかし、今の自分はその問題に直面しているだろうか?断じて否だ。
豪農がそんな生活をしていたか定かではないが、自分のイメージからかけ離れた存在になるということが重要で、それこそが日々社会で暮らす我々の数少ない寄る辺になると信じている。
今日は妻がいない。冷蔵庫には納豆がある。妻は納豆が大嫌いで家で食べることは普段絶対にない。なんなら結婚して以来初めて買った。
帰ったら大量の米と納豆、昨日こさえた温泉卵でパーティと行こうじゃないの。
そんなことをして何になるんだ?そんな問いは豪農モードの私にはナンセンスだ。普段自分がしないことをすること、無意義なことを行うことこそが肝要。
どうせ同じサイクルを繰り返して年老いていくだけなのなら、外界からは観測も接触も不可能な異質な自分を見出し、作り上げ、楽しむのもまた一興なのではないだろうか。
一日8時間の勉強、さらに集中力とのバランスを兼ねて最適化された学習環境を整えた
こんな家じゃどのみち無理だわーと思って家を出た
あと高3の時に父親が鬱で仕事やめて大学いけない可能性あったのも思い出した
結局あのあと数カ月副作用出てまともに受験なんて出来なかったし結局家の生まれや受験期の不運で努力が無碍になるんだよね
でも勉強自体すごく効率よかったから勉強時間が無駄だったかと云われたら動画も全部自分で無料で拵えたし随分早いスピードで学習できたから逆に世の中のガキ全員無意義な勉強させられてんだなって思えた
俺は高校も大学も女目当てだったから無意義な時間こそが有意義だったけど世間では有意義な時間こそが無意義なんだな
3年間まるまる費やしてコロナ副作用でオワタになったら最悪だよね
やっぱり俺の人生の選び方は間違ってない
あれ︆は俺︆がまだ小学︆生だった頃、お︆母さ︆んからもらった5︆00円(1︆00円 × 5枚)を持って、
当︆時流︆行っていたア︆ニメのカ︆ードダ︆スを5︆回やったんだけど︆、キラカ︆ー︆ドが出なかった。
その︆次の日もお︆母さ︆んにおねだりして50︆0円(100円 × 5枚)も︆らって、前日︆と同︆じ様にカ︆ードダ︆スを5回︆やっ︆たけどキラカ︆ー︆ドが出なか︆った。
とて︆も悔︆しくて悲し︆くて、近く︆の公園で一人でベン︆チに座︆って泣︆いていた。
そん︆な俺︆に、汚ら︆しい︆中年のおっち︆ゃんが声︆を掛けて︆きた。
そ︆こ︆からの︆会︆話はこ︆んな︆感じだ。
お︆っち︆ゃん「ボク、こ︆んなと︆ころで何一人で泣︆いてるん︆や?」
俺︆「あの︆ね、2日︆間連続でカ︆ードダ︆ス買ったのに、欲しいカ︆ー︆ドが当た︆らなかった︆の。もうマ︆マにお金︆出︆して︆もらえ︆ないの。う︆ぅぅ。」
お︆っち︆ゃん「そうかぁ。ボクはギャンブラーやなぁ。ん~、ほなおっち︆ゃんと一緒に︆遊ん︆でくれ︆たら、欲し︆いもん︆が出るまでカ︆ードダ︆スをやら︆せて︆あげるで。」
俺︆「うん!じゃあおっち︆ゃんと遊︆ぶ!」
そ︆して、俺︆はそのまま近所の工︆場の裏︆手︆に連れ︆ていか︆れた。
お︆っち︆ゃんは、約︆束を︆明記した契︆約書を作︆り始︆めた。
『︆少︆年乙こと増田くんは、甲ことおっち︆ゃんと遊んでくれたら︆欲しいカ︆ー︆ドが出るまでカ︆ードダ︆スをやら︆せてもら︆えることを︆ここに誓︆います︆。』
印︆鑑︆が無か︆ったので、拇︆印で契︆約締︆結をした︆んだけどその直︆後突︆然おっち︆ゃんは俺︆の︆パンツ︆とズボンを︆下ろ︆しだした︆のだ。
フル︆チンになった俺︆は「何す︆るの!!おっち︆ゃん、止め︆て︆!!」と叫︆んだが
お︆っち︆ゃんは興︆奮している︆のかハァ︆ハァ言い︆な︆がら俺︆の足首︆を︆両︆手でつかみながら俺︆のオ︆チンチ︆ンに頬ず︆りし︆たり、ぺろぺろ︆舐め︆たり︆してきた。
おっち︆ゃんはその後︆も俺︆のオ︆チンチ︆ンを弄︆ったりさすっ︆たりして挙︆句の果︆てに︆しゃぶっ︆たりしてきた。
俺︆は泣︆きなが︆ら「おっち︆ゃん、こんな︆の聞︆いてないお!やめ︆て!」
と︆言︆ったらおっち︆ゃんが「何︆言︆う︆て︆んねん、ちゃんと契︆約し︆たやろが!契︆約︆書見て︆み」と言った。
俺︆はちん︆ちんを舐︆められながら契︆約書を見︆てみると
や︆られた…!!契︆約書︆の余︆白部︆分に︆小さく
『遊ぶとは、オ︆チンチ︆ンを好きにい︆たずら︆す︆ることであ︆る。そ︆の終わりはオ︆チンチ︆ンから白いおしっ︆こが出︆るまで︆とする︆。』と書い︆てあ︆った。
契︆約︆書には更に『途︆中で行︆為を止︆める場︆合には申し︆出をした方が相︆手に1︆000億︆円を支払うも︆のとする』と書︆いてあっ︆たため、
俺︆はキ︆ャン︆セルを申︆し出︆ることが出︆来ず、そのままオ︆チンチ︆ンにい︆たずらされ︆てしまうこ︆とにな︆った。
俺︆はずっと泣︆いていた︆ん︆だけど、段々とオ︆チンチ︆ンが気︆持ち︆よ︆く︆なって︆しまい、最終的には「もっと触って!」と自分からおね︆だりしてしま︆っていた。
そ︆して、俺︆はし︆ばら︆くし︆て果てて︆しまっ︆た︆。
お︆っち︆ゃんは俺︆の白いおしっ︆こを飲み︆干す︆と満︆足そうに「ボ︆クの白いおしっ︆こ美味し︆かった︆わ!ありが︆とうな︆ぁ。」と言︆った。
そ︆して、俺︆はカ︆ードダ︆スを沢︆山や︆らせてもら︆った。
欲︆し︆いカ︆ー︆ドは手に入っ︆た︆けど、何か︆を失︆った気︆分でいっ︆ぱいだった︆。
そ︆の日の夜は、中年のおっち︆ゃんにオ︆チンチ︆ンをい︆たずらさ︆れたのと︆逝かさ︆れてしま︆ったことや、︆自分からお︆ねだり︆してしま︆っ︆たことも相︆俟って悔︆しさや、気︆持︆ち悪さ︆や、喪︆失感、快︆感などの感︆情がカ︆オス︆となり、吐きな︆がら泣︆いてし︆まった。
そ︆の︆後も、いけ︆ないこ︆とと思いつ︆つもおっち︆ゃんにオ︆チンチ︆ンを好きにさせる対価としてカ︆ードダ︆スを買ってもらう日々を過ごしていた。
し︆かし、そんな︆日常も︆長くは続か︆なかった。お︆母さ︆んにおっち︆ゃんとの一︆件がバレて︆し︆まったの︆だ。
バ︆レた経︆緯とし︆ては、
①︆お小︆遣いで︆買え︆る量以上のカ︆ー︆ドを俺︆が持っ︆てい︆たこと
②︆俺︆が寝言で「おっち︆ゃん、もっと僕のオ︆チンチ︆ンさ︆わって!しゃ︆ぶって!」と言︆っている︆のが聞こえてし︆まったこと
③︆②の後日、お︆母さ︆んに問い詰められ俺︆がついに自白し︆てしまっ︆たこと
そ︆の後、お︆母さ︆んは警︆察への︆通︆報をした。
通︆報を受けて俺︆の家に警︆察官3人が来︆て、お︆母さ︆んと俺︆と警官3人でおっち︆ゃんの︆家に行くこ︆とにな︆った。
おっち︆ゃんの家(アパート)に行くと、何やら空気がおかしかった。
身︆内の老︆婆(おっち︆ゃんのお︆母さ︆ん)が出てきて、話を聞くと何とおっち︆ゃんは︆つい先︆日交通事故でお︆亡︆くなり︆になったと︆のこと︆だった。
そ︆の後は色︆々な流︆れがあったが、大︆混乱︆の過程︆を経て結︆局は容疑︆者死亡の︆まま書類送検さ︆れることとなった。
一︆つ、︆分︆からない︆ことがあ︆り5日前︆におっち︆ゃんにオ︆チンチ︆ンをいた︆ずらされ、カ︆ードダ︆スを買っても︆らった︆のが最後︆の情事だっ︆たが、おっち︆ゃんが亡くなったのは2︆週間前と︆のこ︆とだっ︆た。
こ︆の︆2週間、俺︆のオ︆チンチ︆ンにいたずらしたおっち︆ゃんは何︆だった︆のかは今でも謎のままである。
こ︆の件は、警︆察の人に︆も話︆した︆のだが、うやむ︆やのま︆ま処︆理さ︆れる︆ことにな︆ってしまい、他言無用と釘押しをされてしまった。
怖︆い話︆も︆含まれ︆ているが︆、俺︆が小さい︆頃に欲しいカ︆ー︆ドを手に︆入れる︆ためにおっち︆ゃんにオ︆チンチ︆ンをいたず︆らされた話︆は︆以上だ。
大︆学時︆代に法︆律を少︆し勉強し︆たが、
①︆未成︆年のした契︆約は保︆護者︆の意思で︆取り︆消せる。
②︆公序良︆俗に反する契︆約は無効。
と︆いうこ︆とを知り、︆あの頃おっち︆ゃんとした契︆約は無意︆味なもの︆だっ︆たと︆知った︆時、俺︆は非︆常に︆悲しかった︆のも記憶し︆ている。
今までの︆話をまとめ︆ると
②︆法︆律に詳︆しくないから︆とい︆い子供︆をだまし︆てHな︆いたず︆らをしよ︆うと︆する悪い大人が︆いるということ
③︆売︆春は︆自由だけど︆欲し︆いも︆の︆を手に入れた︆いからと言いカ︆ラダを売る︆のは自︆己責任だ︆という︆こと
か︆な。
ご清︆聴︆ありが︆とうござ︆いま︆した。
VTuber本人が概要欄などでよく注意しているのはリスナー同士で話し合うなとかで
何かの切り抜きで発言を見かけた気はするが、それこそ特別な例なのではないか
リスナー同士の会話にしても配信内容によっては歓迎する配信者も中にはいるらしい
意味のあるチャットをするなと配信者がいうのなら従うのは吝かではないが
すべての配信に関して言ってもいないのに勝手に忖度して意志を放棄する必要は感じられない
意志を持つなという人間はチャット欄の一体感を崩されることが嫌なのではないか
配信者の要求のフリをして自分の好みを押し付けている太宰メソッドに思えてならない
配信者をさしおいて勝手に自治を行うという意志をもったリスナーになってしまう
矛盾している
歳をとると人生が有限であることを意識し出す人は多いけど、若いうちから有限だと自覚して生きてない限りそれで何かが変わるわけじゃない
あと夏を何回迎えられると指で数えられるようになってもテレビを見て、昼寝して、おしゃべりして無意な一日を過ごす人が多い
やることは大体変わらない
けどご飯はあまり食べなくなって、一日中沈んだような表情で、何もない最期を暮らす
これまで何もやってこなかったんだから仕方ないよな〜って思いながら、いつもアイスを出してあげる
でもこれって私刑なんだろうなとも思う
だいたい辛そうにしてるから
やりたいことがあるからたくさんあるけど、何かしらの理由でできなくて
それでも元気に走り回ってた夏
あなたはあれから何度も夏を迎えたけれどあの時やりたかったことはできたのかな
あと1週間
どうか夢の中で叶えてね
書こうと思ってたこと考えてたらこれが思い浮かんだのでタイトルにしました。
中学はとっくに卒業した年齢ですが、まだ青二才だと言われる年齢あたりです。だから一種の厨二病みたいなものかもしれません。
特に劇的な悲劇も成功もある訳ではないです。暇つぶしにでもしてください。
私はありがたい事に恵まれた家庭に生まれ、友人で居てくれる子もいて、勉強も特に苦労したことはなく、周りから見たら幸せに生きていると評されるような人生です。このような環境の人ごまんといると思いますし、だからこそ同じようなことを思っていても周りに理解されず相談できなかったと言う人、いるんじゃないでしょうか。そういう人たちに「わかる〜」と言って貰えば幸いです。合わなそうな人はここでやめてください。
(あと結論は最後に書いているのでなんだったらそこまで読み飛ばしてください)
幼少期、少し厳しいくらいの教育的な保護者と軽いいじめにあったことがきっかけで、私は自分の感情が分からなくなりました。環境的にどちらからも逃げることができず、私が行ったのは「これらの事情全てを肯定的に受け止める」ということです。私はいじめっ子のことを「唯一無二の親友」だと思い、家は「私のことを考えて将来を導いてくれているのだ」と心から思っていました。親友からひどく叱責された時も「私のことを考えて言ってくれているのだ」と思い込みました。保護者が面談で「(私)はこのような職業が気になっているようで〜」と言ったときに一蹴してやったと本人から聞いた時も「まあ今好きなことをやらせてもらっているんだからそういうものなのだろう」と思い込みました。
恐らくこのような思考は間違っていると思います。今は間違いだなと思えるようになりました。
ですが親友は今でも親友ですし、順調に保護者の言っていた通りの人生を歩んでいますし、一応は今の状態に納得しています。今では親友は割とまともになって、私の悲しい時は寄り添ってくれて泣いてくれたり、保護者も「別に好きな職に就けばいい」と言ってくれました。
今私は2人に対してどう思えばいいか分かりません。まともになってきたとはいえ、昔のトラウマでキツく詰め寄られると何も言えなくなってしまいますし、本当に将来に納得できているのか分かりませんし、心の底から大好きだとは全く言えません。でも感謝したいこともたくさんあります。
このような幼少期でしたので、私は「他人のために生きる」というのが板に着くようになりました。最初は普通にいじめられたくなかったからです。辛いから。
対面している人が何を望んでいるかを常に考えて動きました。そのとき、「自分の気持ちにウソをつかない」ということを常に意識しました。相手に合わせて意見を変えていたらそれはそれで敵を作ります。
このような状態でしたので、自己主張をできていないと言う訳ではありません。感情がないと言う訳ではありません。ただ、相手によって自分の出す感情は出して、これは友達には合わないなと言う意見は言わないというコミュニケーションの取り方をしていました。
だから、「好き」のような肯定的な感情がよく分からないことがあります。いじめっ子も環境に適応できるように強く思い込めば好きな友達になるので私に嫌いなものはありません。全部が全部好きです。それを対人の時は相手に合わせて出したり引っ込めたりするだけです。
それが10年ほど続きました。友人に初めてこのことを相談したのですが、「好きなものがなんで好きか分からないなんて当たり前じゃない?」と言われました。違うんだよな、と思いました。私はこの環境で生存するために強く強く思い込んだ結果、人を好きになり職に関連する学習内容を好きになりました。それは胸を張って好きだと言えません。でも私にはそれしかありません。
仲良くしてくれる友人たちは、自分の好きなものや嫌いなものがハッキリしています。自分の意見もハッキリしています。とても尊敬しています。私には全くできそうにないので
結論としては単純に「ある程度幸せだけど小さい頃自分の意見を捻じ曲げたせいで今の感情全てに自信が持てない」というものです。このような悩みを持つ人、きっといっぱいいると思います。そして相談もできていないと思います。だってその相談できる人を心からそうだって思えていないから(さっきの相談話も例え話などばかりで要領を得ないものをしてしまったよなと今では反省しています。でもそれが限界でした)
友人たちが大好きです。でも自信を持てません。
いつのまにか10数年経ち、小さい子供だった私は気づいたら成人年齢を超えていました。世間的には大人と言われますでしょうが、自分のこの人格は幼少期からずっと成長していません。外面だけしか成長していないので。
私は小中高と本の虫だった。
無人島に持っていくならスマホよりも本が良いと語るくらい本が好きだった。そう自負していた。大学に入るまでは。
大学に入ってから幾月が過ぎ、私はもはや本を手に取ることすらなくなっていた。理由はわからない。
あれほどまでにあった本への執着はもはや塵芥のごとく消え失せ、本以外に活力を見出せなかった私はそれから無機質なスクリーンを虚に眺めるだけの廃人と化した。
生気を失っていた。
それから何年経ったのだろう。あまりにも長い期間を無意に過ごしていたことだけは覚えている。私は誰からも必要とされないし、誰からも気にかけてはもらえない。かといって人目が気にならないわけでもなく、むしろ人目を怖がるようになった。私は身を守るために引きこもることしかできなかった。
うつ病だった。
気づいたらいつの間にか蝕まれている恐ろしい病魔。私はその中の茹でガエルの一匹に過ぎなかった。
それからは浮いたり沈んだりと地獄を行ったり来たりの毎日だった。
そんなときだった。ニコニコで「ひぐらしのなく頃に」がアップされていた。話には聞いたことがあった。だが見たことはなかった。ものは試しと視聴を始めた。
そこには普段忘れかけていた人の温もりがあった。それも痛いほどに。
何かが目の前を流れ出したのを感じた。まさしく浮かむ瀬だった。
この河を渡れば何か素晴らしいものが待っているのかもしれない。そう思って私は”ひぐらし”を見続けた。
私は舟を作ろうと思う。この流れを渡れるような頑丈な舟を。世間の波に揉まれても動じない舟を。
向こう岸に楽園があるのかどうかはわからない。ただ誰かが何かをやってくれるのを待つだけの人生は今日でもう終わりだ。
今日私は一歩を踏み出す。
増田みたいな限りなく無意義な、でも無料のもので時間を潰すことより
金払って映画行くとか、金払って外食するとか、金払って趣味でも作った方がいいのかもしれない
ただ、金を使って有意義とされることに取り組むと、使った金がなくなる
金は使い始めるとあっという間に減るものだ
だからできるだけ使わない方が良い
金を使わないことによって、金を稼ぐ必要がなくなる
が、自分が買い支えなければならないと思うほど必要なものは無い
こうして、娯楽に金を使う誰かにフリーライドして生活必需品だけを買い、老後のために貯蓄し、最低限の労働で生きることに、自分自身意義を見出せているかと言うと、全く見出せていない
じゃあ金を使えば有意義になるのだろうか
きっと金を使って得られるのは、お客様として承認されることで満たされる承認欲求だけだ
ドルオタは金を使ってドルオタというアイデンティティを買い、ドルオタとして存在する事を認めてもらっている
そこでこう思う、では社会参加することを有意義だと思わなければそれで済むじゃないかと
金を払って承認欲求を満たすキャバクラの客のようなことをするは虚しいことだ、そんなの必要ないと思えば、お金を払わずに済む
働かないこと、余暇を生むことを最優先し、結果生まれた余暇もまた「金を払わない」ために無為に過ごす
なんと無意味なことだろう
しかしこうも思う
お金を使って意味のあることをしなければならないのではないか、そのために労働な汗を流したほうがいいのではないかという焦りを感じるのは、資本主義に翻弄された考えに過ぎない
金を沢山稼いで沢山使うこと
金を大して稼がず対して使わないこと
両者に優劣はない。どちらもただ生まれ死ぬだけまでの通過点に過ぎない
こうして考えることもまた無駄なことだ
なろう系マンガに関する、取り留めのない雑感。あくまで“なろう系マンガ”の話ね。
馴染みがない人にはピンとこない話なんだけれども、なろう系マンガも一大ジャンルになってて想像の数十倍は出版されてるんだよね。で、まあ玉石混合でいうと「石」の方が多い。石は早々に打ち切られてることが多いし、玉は編集側が猛プッシュするから、そんな印象抱かない人もいるだろうけれども実態としては石の方が圧倒的に多い。
ちなみに、この前提を共有できていない人に向けてイチから説明はしたくない。なろう系マンガとは何ぞやレベルの人に理解できるような話じゃないもん。今まで数えれきれないほど読んできて、その都度ツイッターで感想を書き続けている身だからこそ「石が多い」と言っているのに、2~3玉ほど挙げられても意味がない。挙げられた作品も私は当然知ってるし、その何倍も石を挙げられる。
過去数年のなろう系マンガ全部リスト化して、それらに玉石判定したものを用意すれば説得力は増すだろうけれども、そんな知識マウントしなきゃ分からない人を納得させる必要性がない。傾向の話に知見がないまま参加して、杓子定規な意見しか言えない人間を説得したって何の得もない。ちゃんと知見を蓄えて相応の意見をしてくる人は私に指摘されるまでもないし。
で、本題なんだけれども、ここでいう“石”ってのは「なろう系のフォーマット」を“そういうもの”として割り切った上での評価ね。なので他のマンガジャンルとは“石の基準”が違う。もし同様の評価基準で定めるなら石はもっと多いだろうけれども、そこまで求めてしまうと「そもそもこのジャンルに触れるだけ無意義」って結論になるので。そうならない程度には期待できるジャンルよ。
まず私からいわせれば「なろう系のフォーマット」自体は批判点になりえない。俳句を「短い」なんていって批判したりしないでしょ。でもそれは賞賛にも値しないってことでもある。俳句を「5・7・5がいい感じ」なんて評価しないでしょ。要は「その部分を誉めても貶しても大して意味がない」ってこと。
使い倒された形式は、それ自体が評価対象になりえない。ガムは噛めば噛むほど味がなくなるけれども、それでも噛み続ける人はガムが美味くてそうしているわけじゃないでしょ。つまり「なろう系マンガだから石が多いわけじゃない」ってことは踏まえておきたいわけ。なろう的な要素を踏襲して面白い物が複数ある以上、(ダメな)なろう系マンガの問題点は“そこ”ではない。
では私が主観的に見ても客観的に見ても石が多いと思うのはなぜか。理由は大きく分けて三つあって、ひとつは「原作の問題」、ふたつめは「漫画担当の問題」、みっつめは「出版社や編集側の問題」。この三つの問題点は他の漫画ジャンルにも共通することだけれども、“なろう系マンガならではな”問題点も孕んでいると思うわけ。それらはまた気が向いたら書こうっと。我ながら大したこと書いてないのに雑感長くなりすぎ。
既存のメカニズムが問題を全て解決してくれないことと、他にベターな代替がないことは両立する。
増田の学校でも、こいつマジか?っていう先生がいると思う。あれは、何人が教師になりたくて学校は何人雇いたくていくらまでなら出せるか……みたいな変数が組み合わさった結果、仕方なくヤバイ先生が雇われ続けている。
コネがないと政治が進められないからコネがある奴しか政治家にならないこととか、一番マシな奴よりすごい奴が出てこないのに不満があるのは分かるが、体制に噛みつくのももっと丁寧にやらないと本当に無意義だよ。丁寧にやっても無意味なのは変わらないかもしれないが意義は出てくるかもしれないね。
そうなんだよな。根拠は複数あるが、わかり切った根拠を敢えて並べても滑稽なだけだ。ただ揺るがない真実としてサラリーマンよりフリーランスの方が「将来性があって」「余暇時間が多く」「お金をたくさん貰えて」「友達が多く」「楽しい人生を送る」ことは明白なんだ。そうに違いない。と、分かってしまうと、サラリーマンとして「無意な作業でお金を稼いでいる」今の自分がものすごく人生を無駄遣いしているように思えてならない。早くフリーランスになりたい。「時間の切り売り」はもうしたくない。何かを生産して、それでお金を稼ぎたい。サラリーマンに将来性はない。賢い人はみんな気付いてフリーランスになっている。なっていないのは俺だけ。