はてなキーワード: 社会派とは
エロマンガや音声作品で発表することからジョークとして捉えられがちなこのジャンル。
しかし、現実の性教育や規制、あるいは人間の矛盾に満ちた「恥」と「子孫繁栄」は矛盾に満ちてるからこそ、それらを痛烈に皮肉った作品でもあるのです。
オナニー税なんて聞いたら、みんなジョークと捉えると思います。
しかしながら、日本に限らず世界中の国家は、何でもかんでも税金を取ります。
オナニー税はさすがにないと思う反面、これだけ色んな税金があると
「本当にオナニー税も導入されるかもしれない」
すごーくスパイスの効いた風刺だったりするから、コンセプトがもう面白いんですよね。
エロ系コンテンツでしか描けない「一見ぶっ飛んでるけど、実は理にかなってるし、本当にあってもおかしくない社会派作品・ディストピアSF」としてもすごく面白いので、エロの好みに関係なく触れてみてほしい作品でもあるのです。
風刺のつもりで描いたわけじゃないのに、
特に漫画やドラマはそれが顕著で、4歳で初めて読んだ漫画は親の持っていた昼ドラの題材にありそうな漫画で、あまりにものめり込んで読んでいたので漢字や言葉はその漫画から覚えた。
(今でも持っているのだが、「不倫」や「離婚」といった言葉に親の字で振り仮名が振ってあり、親はどんな気持ちで振ったのだろうと思いなんだか心配になった。)
幼稚園児だった頃は女児向けアニメのごっこが流行っていたが、それよりも昼ドラや親の見ていた韓国ドラマが好きだった記憶がある。
小〜中の頃も、恋愛ものの漫画も勧められれば話を合わせるために読むが、それよりも社会派のドラマや映画、青年誌に掲載されているような漫画の方が好みだった。
様子が変わり出したのは高校生くらいの頃だ。ふと見た女児向けのアニメがとてつもなくおもしろいと感じ、のめり込むようになってしまった。私が幼稚園児のころは見ずに通り過ぎてきてしまったものの数々が途端に面白いと感じるようになった。
大学〜社会人の今もその傾向は続き、今度は女子小学生から中学生が主な対象だと思われる漫画の数々が面白くて読み漁っている。
(単行本を買うのが少し恥ずかしいが)
昔見に行った映画は周りの年齢層が高いものが多く浮いていたが、今では周りの年齢層が低くて浮いている気がする。趣味嗜好が年齢に合わないので友達との話も合いにくく、なかなかに難儀だ。
https://myjitsu.jp/archives/299257
「鉄道・アイドルなど熱心なオタクは多かれど、アニメ・声優オタクの異常性は特に狂っています。匿名で本音が語れる掲示板では特に顕著で、キャラや声優の実名を挙げて『脇で握ったおにぎり食べたい』『尿を加湿器にかけたい』など、〝気持ち悪い〟の一言でも足りない書き込みが日常的に溢れ返っています。某女性声優に熱愛が発覚した時も、『○○(自主規制)膜から声が出てない』『○○○(自主規制)しゃぶった口から出る音を俺に聞かせるのか』など、品性・人格を疑う意見が噴出しました。結局は、オタクのこの熱心さ・異常性がいけないのですよ。彼らが声優をやたらと祀り上げなければ、声優側も需要に基づいてプライベートを暴かれたりはしませんからね」(社会派ライター)
ひどいなーこんなこというのかー
「保育料が高すぎる!」
「なんで四人全員同じ園に入れないんだ!」
「一人でも待機になったら働けない!死ねというのか!」
「子どもがたくさんで育児が大変なのに入れないのは許せない!」
回答:いったい何を考えて子供を作ったんですか?
「妻も働かないとローンが払えない。死ねというのか!」
回答:いったい何を考えてそれ買ったんですか?
回答:家にいるのにフルタイム勤務の方と同じ11時間預けるのはなぜですか?
「なんで育休中の人が居座ってうちが入れないんですか!」
回答:↑の方と相談してみては?
「非接触体温計を頭に向けると脳が壊れる!」
「なんでコロナで休園するんですか!」
回答:何をするつもりですか?
もうタイトルだけで言いたいこと全部言っちゃったけどさあ。そういうことなんだよ。
例えばいい年こいてガキンチョ向けのトレーディングカードで遊んでるキモいオタクどもにしたって、自民党のジジババが主張してるような前時代的な規範とは相いれないはずなんですよ。
「男の趣味」と言えばせいぜいゴルフにプロレス野球観戦あたりで、それ以外はアニメだろうが手芸だろうが平等にクソ。そもそも一定の年齢をオーバーした奴らが趣味なんぞにかまけていること自体けしからんわけです。
でもそういうのなんか持ち上げたくないし、「なんたらロールからの解放」とか「男を降りる」とかそういう話にもしたくない。
しまいにそいつらが「男が○○なんておかしいですか?」なんてハフポス語操ってこようものなら、自分らが真っ先に耳塞ぎたくなる。
最大限の譲歩として『娼年』で自分らのズリネタになってくれた松坂桃李だけ例外的に許して、それでもう終わりにしたい。
もうおわかりですね?
自分のお気に入りからはみ出した途端、「呪い」を自分らがかける側に回りたくてしょうがないわけだ!
ほんっとねえ。
わざわざああやって社会派面しなきゃよかったんですよ。「はあそういうのがお好きなんですね」で終わる話で、後は単なる野暮なんですから。
「呪い」とかイキらなきゃよかったんですよ。こうやって突っ込まれることもなかったんですから。
みたいな意見が多すぎて「男性の問題について何故か首を突っ込んでくる女性」ってマジで多いんだな…って気分になった…
女性が他人に対して過干渉気味で理解者気取るのはもうそういう性質なのかもしれないなぁ…
女性が描いてる男性って時点でもうどこか現実の男性とどこかズレてるのにそれを「さあリアルな男性の悩みを描いて問題提起したぞ!」って社会派気取る女性めっちゃ多いし…
逆の立場で考えれば女性だって男性が生み出した女性キャラに「何考えてるのか分からん、つまらん、リアリティが無い」って思う事あるでしょう…?
というよりは「自分視点での感想」をさも「考察」であるかのように語る輩が多すぎるということかな。
ネットで感想を書き続けると人間の次式は肥大化してゆくゆくは感想と考察の区別がつかなくなるのだろうか?
だがこのまま私が黙って「感想と考察の区別もつかねーのかこのカスは」と思い続けていても自体は解決しない。
どうやら私が書いてやる必要があるらしい。
「おおかみこどもの雨と雪の考察」を。
脚本の奥寺佐渡子は細田守の考えを「一般人に伝わる形かつ、一般人も楽しめる形」に落とし込むための存在であるため、作品において「なんでここがこうなったの?」に対しての答えを彼女に求めても「作劇的にその方が面白くなるから」以外の要素は出てこない。
だから考察をするのならば奥寺佐渡子の意図はあまり考えなくていい。
気をつけたいのは、「でも細田守がそういう意図を持っていたのなら、作品の質を落としてでもここはこうしたのでは?」という部分に関しては「奥寺佐渡子がうまい具合にハンドルやブレーキを操作した」と判断すべきであるということだ。
脚本に2人が名前を連ねていることが、おおかみこどもの雨と雪の考察を若干難しくする。
おおかみこどもの制作が始まる2年前、サマーウォーズの製作中に細田守は母親と祖母を無くしている。
父親の方はそれより11年前に既になくなっている。
おおかみこどものキャラクター造形において、この3名の死は深く関わることになる。
この辺については詳しくはインタビューを読んで貰ったほうが早いので手短いに言うと、細田守が自分で「作品作りにおいて影響があった」と口にしているのだ。
主人公が母親であること、父親が途中でなくなること、そういった要素についてフェミニズムだの男女平等社会だの社会派気取りだのあーだこーだと考える必要はなく、「そのときの細田守の境遇がそういった家族像を作中に描くことを求めた」で説明は終わるのである。
母親のモチーフが細田守の実母であるということは、おおかみこどものモチーフは細田守自身となるわけだ。
ちなみに細田守は幼少期に吃音症を患っており、この感覚が社会に普通の子供として上手く馴染むことが出来ない幼少期の雨と雪を形作っていくことになるのは想像に難くない。
それぞれは自分の性質や出会う人物に合わせて、人間社会と山という全く別の社会における適応を目指すことになる。
また、それぞれが目指そうとする場所は途中で交差して入れ替わる。
全く異なる2つの社会をそれぞれに目指す姿は、細田守がアニメ業界という力と才能が支配するオタクの世界と、宣伝や社会性が重視される一般的な社会という2つの世界を行き来しながら有名アニメ監督となった細田守の人生観の反映であろう。
つまり、山において師匠に野生の生き方を学ぶ雨は、アニメ業界で才能を頼りに生きることを選んだ細田守であり。
一方、現実世界で恋をして普通に生きることを選んだ雪は、細田守の妻子持ちとしてのプライベートの姿である。
才能を振り回しケモノとして生きる道と、人間らしく生きる道に対して、細田守が感じる二足のわらじの感覚が、おおかみこどもを二人にするという設定を構築しているのだ。
と思った人はバケモノの子や未来のミライを通して答え合わせをして欲しい。
おおかみこどもの雨と雪はいわば細田守考察における出題編であり、その後のバケモノの子と未来のミライによって、おおかみこどもで考えた考察が深読みだったのか、実際にそうだったのかが徐々にハッキリするという構図になっている。
バケモノの子は7月9日の金曜ロードショー、未来のミライはアマゾンプライムビデオで見ることができる。
それはおおかみこどもの雨と雪だけでやるとゲスの勘ぐりみたいになる。
バケモノの子や未来のミライで伏線回収が終わってから戻ってくるとまあ露骨にそうなんだよねって分かりはするんだけどさー。
分かると言えばサマーウォーズの家族観とかもあとから見るとなるほどねーってなるんだけど、この辺もやっぱバケモノとミライを見てからじゃないと分かりにくいんだわ。
答えから逆算すると簡単な迷路ってたまにあるけど、細田守映画の世界観もあとからだと分かるけどサマーウォーズとかの頃は上手くやってるなーって。
まあまさにこれは「奥寺佐渡子がハンドルとブレーキを上手く使ってた」ってことなんだけどさ。
凄いわあの人も。
かつて「病気の中でも精神の病気は別格だ。他の病気なら、手足が動かなくなっても、内臓を摘出されても、自分は自分のままだが、精神の病では、自分が自分でなくなってしまう」
また、主人公の「自分が自分でなくなってしまう」という変容の恐怖を描いたホラー小説もあります。(朝松健には統合失調症の症状をモデルにしたと思しき小説が複数あります)
時計を盗まれた、と主張し、盗まれていなかったことが客観的に証明されたのに、誤った考えを訂正させるのが不可能である、というシークエンスのように、明らかに妄想であるとわかる客観的描写があり、身近に老年性の認知症の人がいる人にとっては「あるある」な描写も多く、本作は真面目なーいわゆる社会派のー映画です。
しかし、メインは認知症の患者の主観を中心に描いているので自分が狂ってしまう恐怖を味わうことができる、ホラー映画の側面も持っています。
原因をよくよく考えてみると、ニートたちが遊べるサイトやコンテンツがなくなったからだ。
具体的にニートたちが遊べるというのは次のようなことをいう。
④社会に参画している気分になれる。
ここで挙げたい例は2ちゃんねる、ニコニコ動画、あとはここはてな匿名ダイアリーなどだろうか。
①について、2ちゃんやはてなは匿名だから社会的地位にこだわっても無意味だし、ニコニコの時代は動画投稿者は素性をあまり明かさなかった。
②2ちゃん、はてなは文字を打つだけなので特別な技能は必要ない。たまに画像を上げて祭りになることもあるが所詮素人レベル。
ニコニコは動画投稿のスキルも今のyoutubeより低いし、コメントだけでも参加している気分になれる。(「ニコる」とかで評価された)
④一方的な受け身ではなく参加している気分になれること。2ちゃんの祭りなんかは実際に社会を動かしている実感があった。
一方今はやりのネットカルチャーは無能なニートたちには厳しいものとなっている。
youtubeは莫大な資本を持った企業勢や有名人がビジネスをする場になった。
Twitterは肩書が大事で発言力は元来の知名度に依存するようになった。
Steamもネットフリックスも金を払ってコンテンツを買うだけだから論外。
youtubeでvtuberに投げ銭をして、v活動に参加している気分になる人や
匿名でTwitterやはてなで政治を語って社会に参画した気分になっている人はよく見かける。
本当はお金を投げて応援するんじゃなくて、自分が発信した気持ちを多くの人に受け止めてほしいだけなんじゃない?
政治にイライラするよりも、仲間と世の中を少しでも面白い方向に変えるような行動を起こしてみたいんじゃないの?
何も持たない無能のニートは今、いったいどこで楽しんでいるのだろうか?楽しめばいいんだろうか?
「利益も生み出さない社会悪のニートは黙ってろ」と社会派増田に言われそうだから少し自分語り。
私は学生時代に2ちゃんやニコニコの文化を浴びて、今は何にも心が動かない社会人です。
vtuberの配信は確かに面白いけど、テレビと同じですごい人が一方的に話しているだけに感じてしらけてしまう。
社会人になればもっと金銭的にも行動的にも自由になれる気がしたけど、
自由を夢見たインターネットは資本にがんじがらめでチェーン店が立ち並ぶ街並みのようにつまらなくなってしまった。
あの本当に自由だったインターネットは誰でも、キモくて無能なニートでも参加して活躍できるものだった。
ワクチン接種した医者が宴会を開いた事をタグ付きで書き込み、プチ炎上したらしい。
自分はそれを見て何とも言えない気持ちになった。正直言ってこの問題には結論は出せない。
心理学には「スパイト行動」という言葉がある。端的に言えば「他人が得をするなら、自分が損をしてでも足を引っ張る」という行動の事だ。日本人にはこれが多いという研究もある。
今回の事例もスパイト行動の一種だ。ワクチン接種した医者の宴会を許せば、『将来自分がワクチン接種をした時にスムーズに宴会』が出来る。本来最適な行動は「ワクチン接種した医者の宴会を許す」事な筈だ。
しかし悪く言われがちな「スパイト行動」だが、勿論良い面もある。「特権」という社会の不均衡を無くす働きだ。医者に優先接種したのは医者が宴会を開く為ではなく、国民の命を救うためだ。
ワクチンを打っても感染する事はあるし、このような「特権」が恒常化すれば本来国民が受ける事が出来るワクチンまで医者に優先接種される慣習が出来かねない。
人間は合理性ではなく、感情と言う法則で動く生き物だ。その法則を踏まえた上でこの医者は動く必要があったと思うし、この医者達にも「自分たちはコロナで頑張ってるのだから、これくらいいいだろう」
という一種の「スパイト行動」が含まれていたのだろう。しかし割りを食ってるのは一般市民も同じで、コロナで医者の生活が脅かされる事は無いが飲食店は潰れた所も多い。
「命を救う」という価値基準で動く医者の言説で「若い人間を見捨て老人を拾った」という憎しみを医者に抱く人も多いだろう。
「接種した医者は宴会して良いよ」と市民が言い、「そういうわけにはいきませんよ」と医者が言うのが現実的で最適な行動であったと思われる。しかしそれが出来るほど社会派成熟していなかった。