はてなキーワード: 法則とは
いわゆる宗教四世で、生まれた時から新興宗教の会員やってた。ネットだとよくおもちゃにされがちな、三色旗のとこ。
小さいころから家に仏壇があって、母親と祖父母が超熱心な人で、言葉をしゃべり始めた時から経を読まされてたし、ちゃんとやればみんな褒めてくれるから悪い気はしなかった。
母親が熱心な場合って厄介なんだよな。おかげさまで土日は宗教関連の予定でつぶれるし、父親も母親に勧められて入ったひとだから止めないし。そんなわけで、20数年生きてきて、最近やっと初めてちゃんと神社に参拝したような始末。だから、一般的な人間と自分の宗教観がかなりかけ離れてる、ってことに最近気が付いた。まぁ、それが当たり前だったんだけど。
高校の時とかはそれなりに真面目に、っていうか結構がっつりやってて、たぶんその時の周囲の何人かは幹部クラスになるんだろうな、って人間ばっかりの団体にもいた。
割と勘違いされてそうだけど、いやもう常識なのかな?一般的な認識が全くわからんからあれだけど、s大学行くのはもはや当たり前で、幹部になろうと思ったら、何かしらの宗教の団体に所属してたことがほぼ必須になるんだぜ、笑えるよな。
高校生はそうやって過ごしてたけど、大学に入ってから恋人ができて、その人が何というかこう、自分の所属してるとこ以外も含めた宗教全般のアンチだった。
今思えばものすんごい幸運なことに、現実社会の親しい人にそんな人がいなかったから大いに嘆いたし、なんで自分が、とも思った。でも、今は割とその出会いに感謝してる。
ここまでが前置き。すまんね長くて。
まぁ、親に「信仰捨てたいです!」とか言える訳も無くて。だってそんなことしたら普通に絶縁されそうだし、妹たちも割とがちがちに染まってるし。あと我が家、割と毒親気味で過干渉のケがあるから、最悪今住んでるところから連れ戻されかねない。
それは困る、だって実家には自室が無いし、プライバシーもへったくれもない。未だに帰省するとめちゃめちゃ消耗する。二週間とかしか滞在しないのに。実家を出るまで、自分のスペースと言えば本棚のついた机一台だけだったし、その中身も親が勝手に開けて改める始末だったから、秘密とか絶対無理だった。
かといって、じゃあ真面目にやるか?と言われるとそれは心がしんどい。
そもそもの話、自分は「信仰とは人生の杖であり頼り切るものではない」って思想を高校時点で持ってて、現指導体制に不信感しかなかったし。
やれって圧を掛けられて、今渋々試験の勉強してるけど、それにしたって普通に気色悪くて嫌になる。だって仏教ってマインドフルネスの一手法でしかないし。それだって、多様な方法がある現代社会でわざわざそんな化石みたいな方法、って思う。
そもそも悟りってざっくりいえば「この世のすべては気の持ちよう、自分の気の持ちようで天国にも地獄にもなる、それなら天国みたいに考えられるようになった方がお得じゃね?」的な考え方だし、唱題にしたって、「悟りを開けないお前らが悟りを開くための一助にしろよな!」的なものだから、自力でメンタル立て直せるようになった人間には必要ないんだよ。そもそも仏教って「人生なんて全部しんどいんだから、しんどいことそのものはもう諦めて楽しくやっていこうぜ」的なあれだし。ガバガバ解釈だが。
その上で、何もかもを宗教に依存して、生きてくための目的そのものを宗教にしてるの本当に頭おかしいと思う、それお前の人生じゃなくて教団の人生やんけ。生きてる価値ある?って思う。言わないけど。
確かに苦しい時に縋れるものは多い方がいい、人生かなりしんどいし、税金高いし内定はもらえんし、何もかもままならんし、ここからってときに病気になったりするし、なんかすげーもんに縋らないと生きてけない気持ちもわかる。
でも、その気持ちもわかるけど、それでも自分で立って自分で歩かない道に価値はあるんか?って思う。だって信仰してると、どんなに血反吐を吐くような努力をしたって、どんなに周りの人に恵まれたって、どんなに運がよくたって、それ全部「信仰のおかげ」にされちゃうんだぜ。そこに至るまでの努力とか、工夫とか、人間関係とか、そういうもの全部自分の成果じゃなくてなんかようわからんもののおかげになるんだぜ、それって悔しくないか?自分はそれを恋人に指摘されて初めて気が付いて、すごく悔しいと思った。だってここまで努力したの自分だし。別にすがってる”なんかすげーやつ”が何か叡智を下賜してくれたわけじゃないし。苦しいのも悲しいのも悔しいのも自分が背負わなきゃいけないのに、喜ばしいこととか楽しかったこととかは全部他にかっさらわれるって思うとはらわた煮えくりかえらんか。自分はキレそうになる。
そもそも、他力本願の他宗派をめちゃめちゃ批判する癖に、何かあったら馬鹿の一つ覚えみたいに「ご本尊に縋れ」だの「お題目を」だの普通に矛盾してて笑える。それはお前らの言う所の他力本願じゃないんか?あと題目とか言う呪文的なあれを大事にしてる割に、唱題の時の発音みんなガバゆるだよな、何それ。ダブスタまみれで普通に気色悪い、反吐が出る。
と、まぁ最近はこんな事ばっかり考えている。親には勉強したらわかるって言われたけど、勉強するほど意味わからん~~きしょい~~~ってなるの中々芸術点高い。って言うかそもそも子供の許諾を取らずに宗教に入れるな、はっ倒すぞ。これはどの二世問題でも共通だと思う。四世なんだけど。ウケるね。
ちなみにこの宗教だとよく取りざたされるのは政党の話なんだけど、自分は政策はまぁましな方なんじゃないかな、って思う。そこから声の汲み上げするの????正気か???って思うような政治を国政ではよくやらかしてるけど、地方政治だとそれなりに要望の反映早いし。政治と宗教観は切り分けて考えるので。まぁ今後の動向にもよるかな…でも宗教活動の一環で選挙活動やらされるのは普通に最悪で気色悪さの極みだからやめた方がいいと思う。実質強制の投票の「お願い」はお願いと言わない。海外から来た同じ宗教の人に選挙ばっかりしてるのどうして?って聞かれて、日本では信仰を広げることが十分にできたから、今度は政治の方からも生活をよくしていくんだよみたいなこと指導してるの聞いたことあるけど、それ普通に公職選挙法違反なんじゃないですかね。政教分離の法則死んでないか?
これを見て同じ宗教の人がどう思うかは知らんが、自分が納得できてないならなんかしらの答えにはなるんじゃないんですかね。がちがちの幹部ルート辿ってた人間がこう言ってるんだから、それなりに信ぴょう性はあると思うよ。
今から入りたいって思ってる人、人生に発生する損害と天秤にかけて、本当にそれじゃなきゃダメなのか一か月真面目に考えてみ、そんなことないから。周りからの偏見の眼はものすごいし、結婚したいと思った人ができてもめっちゃ苦労したりするぞ、自分は今死ぬほど苦労してる。
今しんどい思いしてる人、お互い頑張ろうな。自分は今何とかして家にあるご神体的なサムシングを親にバレないように滅殺する方法考えてる、なんかいい方法あったら教えてくれ。
マジで徒然なるままにって感じだなこれ。乱文で本当にすまぬ。ここまで読んでくれた人ほんとにありがとう。自販機でジュース当たるくらいの幸運が訪れますように。
追記:みんなコメントありがとう、ほんとに正気に戻れてよかったと思う。なんでカルトの話から仏教に?ってコメ見たんだけど、それはだな、s学会は曲がりなりにも仏教を名乗ってるから、仏教を学ばされるんだよ…だからです。
まぁ、s学会のは「ブッダの」仏教ではなく、日蓮とかいうなんかよくわからん狂人が急に悟っちゃったものを信仰してるんで、仏教かと言われるとかなり怪しいけどね……昨日このエントリ書いたあと、勉強の動画流し見してたらそんなこと言ってて笑っちゃった。仏教名乗るの辞めたら?
自然科学とかSDGsとか信仰してそう、って言われたのはマジでそうなりかねんからほんとに気をつける。一応これでも科学をやってる人間だから、変なのには引っかからないと思いたいけど…こういう気持ちが落とし穴だとは思うのでね!科学的思考大事。すごく苦手だけど。
つい最近エントロピーの増田記事を見たが、ワイもちょっとだけメモすんで。
ユニタリ量子力学を想定した宇宙論があるとして、系・観測者・環境という3者がそこに存在すると考えられるわな。
だから熱力学の第2法則は「系のエントロピーは観察者と相互作用しない限り減少できず、環境と相互作用しない限り増加できない」と言い換えられんねん。
観察者と系の相互作用については、量子ベイズ定理から得られるわけや。
宇宙論的インフレーションで生じる長距離エンタングルメントがあるが、宇宙エントロピーは観測された情報ビット数に比例するのではなく、指数関数的に減少して、特定の観察者が脳が保存できる情報量よりもさらに多くのエントロピーを減少させられるってわけや。
給与が高くもないがそれほど忙しくもない仕事というのは、のんびりして平和そうに見えて、だいたいギスギスしてる。
受注が右肩下がり。
それでギスギス。
業務改善したってしかたないので、みんな労働時間が8時間なら、ルーチンとして8時間きっかりかかるように仕事をしてる。
実際はそれより少し足が出る。
「自分はボールを投げた。返答待ちで遅くなってるだけで仕方ない。」
等々。
そういうことがあるから、ルーチンワークを効率化して、余った時間をバッファタイムにすればいい、という発想には至らない。雇われ人だからだ。
じゃあ経営者が言うかと言えばそれもない。
経営層は自分の任期を全うできればいいと思ってるし、いよいよとなっても取引先に迷惑がかからない自主廃業できればいいとすら考えてる。
現場に踏み入ってまで波風を立てたいとは思ってない。
承前:https://anond.hatelabo.jp/20230916001142
前回の記事の反響の中で、「エンタルピーについても解説して欲しい」というご意見を複数いただいた。
エンタルピーはエントロピーと同じく熱力学・統計力学に登場する概念で、名前の紛らわしさもあってか、初学者がしばしば「分からない」と口にする用語の一つである。
だが、実は、エンタルピーの難しさはせいぜい「名前が紛らわしい」くらいのもので、エントロピーと比べてもずっと易しい。
本記事では、「エンタルピーがエントロピーとどのように関連するのか」というところまでをまとめておきたい。前回の記事よりも数式がやや多くなってしまうが、それほど高度な数学的概念を用いることはないので安心して欲しい。
まずは、円筒形のコップのような容器に入っている物質を考えて欲しい。
容器の内側底面の面積をAとし、物質は高さLのところまで入っているとしよう。物質の表面には大気からの圧力Pがかかっており、物質のもつエネルギーはUであるとする。
この容器内の物質に、外から熱Qを与えると、物質が膨張し、高さが⊿L高くなったとしよう。このとき、物質がもつエネルギーはどれだけ増加しただろうか?
熱をQ与えたのだからQ増加したのか、と言えばそうではない。物質が膨張するとき、大気を押し上げる際に物質はエネルギーを消費するからである。このエネルギーはそのまま大気が受け取る。
力を加えて物体を動かしたとき、物体には、力と移動距離の積に等しいエネルギー(仕事)が与えられる。
物質に与えられた熱Qは、物質がした仕事Wの分だけ大気に移り、残った分が物質のエネルギーの増加分となるから
⊿U = Q - W
いま、物質が大気に加えた力は F = PA であるから、物質がした仕事は W = F⊿L = PA⊿L となる。
物質の体積は V = AL であり、その増加量は ⊿V = A⊿L であるから、仕事の式は W = P⊿Vと書き直せる。従って
Q = ⊿U + P⊿V
とすることができる。
さて、ここで
H = U + PV
この状態量の変化量は
⊿H = ⊿U + (P + ⊿P)(V + ⊿V) - PV
≒ ⊿U + P⊿V + V⊿P
⊿H = ⊿U + P⊿V
とすることができる。
これは先程のQと同じ値である。つまり、圧力一定の条件では、物体が受け取った熱は単純に状態量Hの増加分としてしまってよい。この状態量Hが「エンタルピー」である。
既にお分かりと思うが、この「エンタルピー」は「エントロピー」とは全く異なる状態量である。
だが、熱力学においては、この二つはしばしばセットで登場するのである。それは、前回記事の最後に述べた「エントロピー増大の法則」と関係がある。
しかし、それについて述べる前に、エントロピーについて一つ補足をしておきたい。
前回記事では、エントロピー変化と温度の関係を「エネルギーのみが変化する場合」について考えた。
エンタルピーとの関係を考えるにあたっては、体積が変化する場合についても検討しておく必要がある。
そこで、「エネルギーと体積が変化するが、物質量は不変」という場合を考えよう。
(ここで、「物質量が不変」とは、物体を構成する各成分の物質量がそれぞれ全て不変、という意味である。すなわち、化学反応や相転移などが何も起こらないような変化を考えている。)
この場合には、エントロピーと絶対温度の関係はどうなるのだろうか?
結論を先に言えば、「物質が外にした仕事」に関係なく、エントロピーを一定量増加させるために要する「熱量」で絶対温度が決まるのである。
仕事の分だけエネルギーが流出するにも関わらず、なぜそうなるのだろうか?
体積の増加によって物質の構成分子の配置パターンが増加し、その分エントロピーも増加するのだ。この増加分が、エネルギーの流出によるエントロピーの減少分をちょうど補うのである。
このことをきちんと示すには、体積一定の物体A(エントロピーSa)と、体積が変化するがAに対しては仕事をしないような物体B(エントロピーSb)を考えればよい(どちらも物質量は不変とする)。
両者を接触させ、絶対温度がどちらもTになったとしよう。このとき、AからBへ流れる熱とBからAへ流れる熱が等しく、巨視的には熱が移動しない「熱平衡」という状態になっている。
このとき、AからBに移動するわずかな熱をqとする。物体Aは体積一定なので、T = ⊿E/⊿S が適用できる。すなわち
T = -q/⊿Sa
となる。
熱平衡はエントロピー最大の状態であるから、微小な熱移動によって全体のエントロピーは増加しない。また、エントロピーは自然に減少もしないので、
である。
としてよいことになるのである。
(この論法がよく分からない読者は、Aのエネルギー Ea を横軸に、全エントロピー Sa + Sb を縦軸にとった凸型のグラフを描いて考えてみて欲しい。エントロピー最大の点での接線を考えれば、ここで述べている内容が理解できると思う。)
では本題の、「エントロピーとエンタルピーの関係式」を見ていこう。
ビーカーのような容器に入った物質Xと、その周囲の外環境Yを考える。
Xは何らかの化学変化を起こすが、Yは物質量不変とする。X,YのエントロピーをそれぞれSx,Sy、エンタルピーをそれぞれHx,Hyと定める。X,Yの圧力はP、絶対温度はTで一定とする。
Xが化学反応を起こして熱Qを放出したならば、エンタルピー変化はそれぞれ
⊿Hx = -Q , ⊿Hy = Q
となるであろう。
一方、Yについては物質量不変より
T = Q/⊿Sy
であるので、
⊿Sy = Q/T = -⊿Hx/T
と表せる。
⊿Sx + ⊿Sy ≧ 0
は
T⊿Sx ≧ ⊿Hx
と書き直すことができる。これが最初に述べた「エントロピーとエンタルピーの関係式」である。
「エントロピー増大の法則」をこのように書き直すことにより、「自発的な変化が起こるかどうか」を「物質自身の状態量の変化」のみで考えることができるのである。これが、エンタルピーがエントロピーとセットでよく出てくる理由である。
導出過程を見直せばすぐに分かるが、エンタルピー変化は「物質が放出した熱による外環境のエントロピー変化」を表すために用いられているに過ぎない。
本質的には、「自発的に反応が進行するかどうか」はエントロピーによって、すなわち、微視的状態のパターン数の増減に基づく確率によって決まっているのである。
「エントロピー」という概念がよくわかりません。 - Mond
https://mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
「エントロピー」は名前自体は比較的よく知られているものの、「何を意味しているのか今一つ分からない」という人の多い概念である。その理由の一つは、きちんと理解するためには一定レベルの数学的概念(特に、微積分と対数)の理解が必要とされるからであろう。これらを避けて説明しようとしても、「結局何を言いたいのかすっきりしない」という印象になってしまいやすい。
「エントロピー」を理解し難いものにしているもう一つの理由は、「エントロピー」という概念が生まれた歴史的経緯だと思われる。
エントロピーが提唱された時代は、物質を構成する「原子」や「分子」の存在がまだ十分に立証されておらず、それらの存在を疑う物理学者も少なくなかった。エントロピーの提唱者クラウジウスは、「原子や分子の存在を前提しなくても支障がないように」熱力学の理論を構築し、現象の可逆性と不可逆性の考察から「エントロピー」という量を発見し、非常に巧妙な手法で定義づけたのである。
その手法は実にエレガントで、筆者はクラウジウスの天才性を感じずにはいられない。だが、その反面、熱力学における「エントロピー」概念は簡単にイメージしづらい、初学者には敷居の高いものとなってしまったのだ。
その後、ボルツマンが分子の存在を前提とした(よりイメージしやすい)形で「エントロピー」を表現し直したのだが、分子の存在を認めない物理学者達との間で論争となった。その論争は、アインシュタインがブラウン運動の理論を確立して、分子の実在が立証されるまで続いたのである。
現代では、原子や分子の存在を疑う人はまず居ないため、ボルツマンによる表現を心置きなく「エントロピーの定義」として採用することができる。それは次のようなものである。
例えば、容積が変わらない箱に入れられた、何らかの物質を考えて欲しい。
箱の中の物質の「体積」や「圧力」「物質量」などは具体的に測定することができる。また、箱の中の物質の「全エネルギー」は測定は難しいが、ある決まった値をとっているものと考えることができる。
ここに、全く同じ箱をもう一つ用意し、全く同じ物質を同じ量入れて、圧力や全エネルギーも等しい状態にするとしよう。このとき、二つの箱の「巨視的状態」は同じである。では、内部の状態は「完全に」同じだろうか?
そうではあるまい。箱の中の物質の構成分子の、それぞれの位置や運動状態は完全に同じにはならない。これらの「分子の状態」は刻一刻と変化し、膨大なパターンをとりうるだろう。
このような分子レベルの位置や運動状態のことを「微視的状態」と呼ぶ。
「微視的状態」のパターンの個数(場合の数)はあまりに多いので、普通に数えたのでは数値として表現するのも難しい。そこで「対数」を用いる。
例えば、巨視的状態Aがとりうる微視的状態の数を1000通り、巨視的状態Bがとりうる微視的状態の数を10000通りとする。このとき、Aの「パターンの多さ」を3、Bの「パターンの多さ」を4、というように、桁数をとったものを考えるのである。
この考え方には、単に「とてつもなく大きな数を表現するための便宜的手法」という以上の意味がある。
先の例では、AとBを合わせた微視的状態の数は1000×10000=10000000通りであるが、「パターンの多さ」は7となり、両者それぞれの「パターンの多さ」の和になるのである。
「微視的状態のパターンの個数」をΩ通りとしたとき、エントロピーSは次のように表現できる。
S = k*logΩ
(ただし、kはボルツマン定数と呼ばれる定数であり、対数logは常用対数ではなく自然対数を用いる。)
この「エントロピー」は、同じ巨視的状態に対して同じ数値をとるものであるから、「体積」や「圧力」などと同じく「状態量」の一つである。
このような「目に見えない状態量」を考えることに、どのような意味があるのだろうか?
その疑問に答えるには、エントロピーとエネルギーの関係について考える必要がある。
再び箱に入った物質を考えよう。この箱に熱を加え、箱内の物質のエネルギーを増加させると、エントロピーはどうなるだろうか?
まず、総エネルギーが増加することにより、各分子に対する「エネルギーの分配パターン」が増える。さらに、個々の分子の平均エネルギーが増えた分、可能な運動パターンも増える。このため、エネルギーが増えるとエントロピーは増加すると考えていいだろう。
では、エントロピーの「上がり方」はどうか?
エントロピーは微視的状態パターンの「桁数」(対数をとった値)であるから、エネルギーを継続的に与え続けた場合、エントロピーの増加の仕方はだんだん緩やかになっていくだろうと考えられる。
ここで、多くのエネルギーを与えた「熱い物質A」の入った箱と、少量のエネルギーしか与えていない「冷たい物質B」の入った箱を用意しよう。箱同士を接触させることで熱のやりとりが可能であるものとする。
物質Aには、熱を与えてもエントロピーがさほど増加しない(同様に、熱を奪ってもエントロピーがさほど減少しない)。言いかえると、エントロピーを一定量増加させるのに多くのエネルギーを要する。
物質Bは、熱を与えるとエントロピーが大きく増加する(同様に、熱を奪うとエントロピーが大きく減少する)。つまり、エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギーが少ない。
箱を接触させたとき、AからBに熱が流入したとしよう。Aのエントロピーは下がり、Bのエントロピーは上がるが、「Aのエントロピー減少分」より「Bのエントロピー増加分」の方が多くなるので、全体のエントロピーは増加するだろう。
もし、逆にBからAに熱が流入したとするとどうか? Aのエントロピーは上がり、Bのエントロピーは下がるが、「Aのエントロピー増加分」より「Bのエントロピー減少分」の方が多いので、全体のエントロピーは減少することになる。
エントロピーが多いとは、微視的状態パターンが多いということである。従って、「AからBに熱が流入した」状態パターンと、「BからAに熱が流入した」状態パターンとでは、前者のパターンの方が圧倒的に多い(エントロピーは微視的状態パターン数の対数なので、エントロピーの数値のわずかな差でも、微視的状態パターン数の違いは何十桁・何百桁にもなる)。これは、前者の方が「起こる確率が圧倒的に高い」ということを意味している。
これが、「熱は熱い物体から冷たい物体に移動する」という現象の、分子論的な理解である。
冷たい物体から熱い物体へ熱が移動する確率は0ではないが、無視できるほど小さいのである。
物体が「熱い」ほど、先程の「エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギー」が多いといえる。そこで、この量を「絶対温度」Tとして定義する。
エントロピーの定義のときに出て来た「ボルツマン定数」kは、このTの温度目盛が、我々が普段使っているセルシウス温度(℃)の目盛と一致するように定められている。
さて、ここで用いた「エントロピーが減少するような変化は、そうなる確率が非常に低いので現実的にはほぼ起こらない」という論法は、2物体間の熱のやりとりだけでなく、自然界のあらゆる現象に適用することができる。
すなわち、「自然な(自発的な)変化ではエントロピーは常に増加する」と言うことができる。これが「エントロピー増大の法則」である。
ただし、外部との熱のやりとりがある場合は、そこまで含めて考える必要がある。
例えば、冷蔵庫にプリンを入れておくと、プリンの温度は「自然に」下がってエントロピーは減少する。
しかし、冷蔵庫が内部の熱を外部に排出し、さらに冷蔵庫自身も電気エネルギーを熱に変えながら動いているため、冷蔵庫の外の空気のエントロピーは内部の減少分以上に増加しており、そこまで含めた全体のエントロピーは増加しているのである。
最初に、「エントロピーの理解には微積分と対数の理解が必要」であると述べたが、なるべくそうした数学的概念に馴染みがなくても読み進められるようにエントロピーの初歩的な話をまとめてみた。如何だったであろうか。
筆者は熱力学・統計力学の専門家でもなんでもないので、間違ったことを書いている可能性もある。誤りがあればご指摘いただけると幸いである。
クラウジウスによる「原子・分子の存在を前提としない」エントロピーの定義については、筆者よりはるかに優秀な多くの方が解説記事を書かれているが、中でも「EMANの熱力学」https://eman-physics.net/thermo/contents.html が個人的にはおすすめである。興味ある方はご参照いただきたい。
製造業は古い、時代はソフトだ、サービスだ、GAFAだと言っている間に、ハードもソフトも強くなければどうしようもなくなった気がしている。
そして、製造装置の最適化だったり、OSや、OS開発に耐えられる開発環境(ハード・ソフト両方)必要だったりしている。
あと、抜けているのは製造業のためのソフトではないだろうか。TSMCだと「cuLitho」のようなリソグラフィのためのソフトのようなものだ。
物理法則をコードに起こし、数値計算して、ハードを差別化するためのソフトだ。
「哲学者の永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分が馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010
このブコメの話。
自然科学におけるリチャード・ファインマンの権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバーの権威性を並べちゃうのは典型的なダメな議論という気がする。
人文系の教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学の教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学の社会学科でヴェーバーを読んでいない学生はモグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学」シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。
現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバーの著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代の人文科学の議論は、過去の学者がつくりあげてきた概念(言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバーの理論が現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通の言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈や文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバーの議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。
他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質の一般的な性質などについてあれこれいうために特定の原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタインの原論文を読解することと、相対性理論を理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学の教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。
なぜなら現代の物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっとも妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的に法則と定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈は関係がない。
物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名の研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史を理解する必要は基本的にはない。ファインマンは特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。
多変数微積分の問題に没頭していく中で、数学の魅力と深遠さを再び見つけました。
関数と曲線の振る舞いを探求し、微小な変動が全体に及ぼす影響を追求する過程で、数学は私にとってまるで美術館の中の至宝を鑑賞しているかのように感じられました。
数学の問題はその複雑性から挑戦的でありながら、それを解明する喜びと充実感は何よりも素晴らしいものです。
数学は単なる計算や公式の羅列ではなく、知の探求の旅でもあります。
微積分を通じて、数学は宇宙や自然の法則を解き明かす手段であり、知識の宝庫であることを改めて理解しました。
関数と微分方程式の背後にある論理的な構造や、微小な変化が物理現象や経済の動向にどのように影響を及ぼすかという洞察力は、数学の美しい魅力の一部です。
数学の世界は無限大であり、それを探求することは知的好奇心を満たすための果てしない冒険です。
新しい概念を学び、新しい問題に挑むたびに、私の思考能力が高まり、知識の深化が加速します。