はてなキーワード: 沈黙とは
「沈黙で失敗する者はない。」
このいささか風変りな言葉は、さまざまな社会的地位にあって、成功をおさめ人に抜きんでた私の親友の一人が、いつも口にしていた文句であった。
実際、きわめて多くの面倒で不愉快な人生のいざこざも、しばしばこのやり方で、たやすく切り抜けることができる。
これに反して、多くの人が愛好する、いわゆる「自分の意見発表」は、たいてい、ただ双方の意見のくいちがいを一層きわだたせるだけで、時には事態を収拾のつかないものにしてしまうことがある。
「よく考えておきましょう」という言葉も、ひどく激しやすい人や、気心や決心が変わりやすい人に対しては、しばしば奇跡的な効果がある。
文通の場合にも、返事したくないことには答えず、また催促されてもこの決心を変えないことが、多くの不快な議論をうち切る確かな方法である。
ところが、大部分の人が、三度目にはその決心をひるがえしてしまう。
真夏の屋外オールナイト開催のフェスが今年は10周年!のはずがやはり一旦は延期になり、昼から夜まで×2days開催@屋内となったのが先日三連休の話。
色々考えたけど行きたかったので行ってきた。(2日目のヘルシンキ〜フジファ。)
密集、密接対策としては、ふつうスタンディング席であろうところの半分以上を椅子の席(ちどりに使用禁止の張り紙)にしてあり、スタンディング席もバーでこまめにエリア分け&ひとりぶんのエリアのグリッドが線引きされていて、近接は無いようにしてあった。後述するが観客側のマナーとしてもも大きい声を張る行為は一切なかった。
ケバブ等の軽食はあったけれど、飲食用のテーブルは無し。アルコール類も無し。通路や物販列も空いていて、端的に言って日々のJRの方がよっぽど密接密集している…。
ドアノブ等もダスキンがまめに拭いているらしい。換気の具合ばかりはわからないが、ちょっと涼しかったし酸欠感も無かったしで、きっと良いのだろう。
総じて、「これで駄目ならもうどうしようも無いだろう」「首都圏近場でのおでかけや外食、日々の勤務よりも安全だろう」という印象だった。
会場入りした時にやっていたのはヘルシンキラムダクラブのリハ。「しゃれこうべしゃれこうべ」、たぶんそういう他意はなくただヤンデレっぽい歌詞だと思っているけど、それでも「死なないで」「地獄でワルツを踊りましょう」に乗せて客席がビジョンに抜かれ、2mピッチで棒立ちな観客や一面の背もたれの「使用禁止」のチェック模様を突きつけられると、失われたものを突きつけられるようだった(このご時世にそもそもフェスなんてまるごと失われるべき、という意見もあるだろうけど。)
いざ本番が始まると、色んなことを忘れさせてくれるような素晴らしいステージだった。
ドミコ、リーガルリリー、オーサムシティークラブのあたりがそうだろうか、バンドの世界観がしっかりしていて、それを垣間見て味わうようなタイプだと、純粋に生音やステージに熱中させてくれるようだった。
ただ、フロンティアバックヤードが「こっちから見ると異様な景色で、おじちゃんびびってるよ」みたいなことを言っていたが、ステージから客席を見た光景こそが異様なのだろう。しかし、客席からステージを見る限り、無心に熱中できる瞬間もあった。
モノノアワレはMCで飄々と状況を受け入れていおり、らしく、面白かった。
「今回、私達は発声できる形で、皆様は発声できない形でやらせていただいており、人間は声に出さずとも心で話すことができ、それが悩むと言うことですが、人間は生物で唯一悩むことができるといわれており、それは置いておきまして、…」からの早口言葉ソング。
モノノアワレは完成度高かったな…ただ曲間の沈黙の瞬間に何度も隣のリハのドラムスがなっちゃってたのだけが邪魔だったけど、最後のそういう(曲間で一瞬シンとなってとなりのリハの音がにわかにとても響く)タイミングでボーカルがもっとおっきい声で「せーのっ!」て叫んで最後の曲に入ったの格好良かった。
四星球は音源ではなくライブこそが本番のお祭り屋、盛り上げ屋なので、どうするんだろうと思っていた。いざステージが客席から堪えきれないしのび笑いを誘い、内心を盛り上げ、(腿上げは息が上がるのでグレーだと個人的には思うけど…まあ短時間か)盛り上がりを表明できずもどかしい観客に「みんなが心で一緒に歌っているのが、心でわかります」「フェスなんか来て罪悪感はんぱないでしょ?」「でもその罪悪感が皆を守ってるんです」「皆が守っているのはガイドラインなんていう堅苦しいものじゃない、エンタメ業界です」の語りはアツかった。
冷笑したくなる陳腐な熱いセリフを、本気のように聞かせる、本物のアツい思いに感じさせる四星球は、これを言うのは恥ずかしいしなんだか負けたような気がするけど、やっぱりすごい。四星球が言う「10周年おめでとうございます」はなんだか重く聞こえる。
で、ヒリついたタイマンバトルのような、いっそ客席を無視してるようなマジで痺れるドミコを挟んで(なんだこの順番は。)ポリシクスも盛り上げ屋だけど、対称的だった。
「みんな〜盛り上がってるか〜い!」みたいな問いかけに返ってくるのは、どこまでも、拍手。いつもだったら客席からマイクとアンプに負けないくらいの歓声が上がるのに。
声が裏返ったボーカルの絶叫コール、アンド、キャパシティ50%未満の歓声も口笛もない拍手のレスポンス、は何度か繰り返された。
ステージの上は「新しい生活様式」を噛み締めているようにも打ちのめされているようにも見えたけれど、本心はわからない。
正直言って四星球がいなかったら我慢ならなくなって叫び返してたやつが出たと思う。隙のない三密回避(&ノンアルコール)の運営と四星球の演説があって、やっと、何度呼びかけられても拍手だけが返せたのだと思っている。
途中からステージに「観客のレスポンス」のSEのボタンが登場して観客はジェスチャーでタイミングよくボタンを押そうぜ、となった。「このボタン、いいね、いつでもアリーナ級のレスポンス返ってくるんじゃん」と笑いを誘ったけど、こっちはちょっと泣きそうだった。
フジファの途中で帰ってしまったけれど彼らも「マイペースに世界観を見せつける」というよりは真摯に受け止めて寄り添って悩んでみせるタイプ。初代ボーカルが急逝しているのでどうしても古参ファン的にはシリアスな色が強い。(11年前なので知らない・実感のないファンも多いだろうけど…今回ポリシクスとストレイテナーの間では年齢層高そうだ。)
初参加、夏にやりたかったなあ、という話からの夏のノスタルジーどまんなかソング「若者のすべて」はしんみりした。盆踊りのような振り付けの曲があり、これが良かった。いちばん動けたし、夏だったし。しっかり楽しめたし、揺さぶられて、良いステージだった。
全体として、三密回避で無発声だとどうしてもお祭り騒ぎはそりゃあできなく、内心ムチャクチャ盛り上がってるのに地蔵化させられているように思う瞬間もあって、仕方がないけどももどかしかった。いまヤバくなってるこの思いをステージに返したいのに…みたいな。
熱狂できない、集団催眠みたいにヤバくなることはない。仕方がないけれど…
良い点として、立ち位置や座る位置を工夫すれば、過去最高にステージが良く見えたのと、私も年なので座って見れたのはラクだった。大きめのカバンのままでも邪魔にならないのも楽ちんだった。
光る棒とか公式アイテムであったらまた少し発散できたかな? マックスのぶち上げ盛り上がりは盆踊りのような動きになるので、お祭り屋タイプのバンドにはそのつもりでステージ組み立てて貰えたら新しい楽しさがあるかも知れない。
最後になるけれどもあらためて、日頃の暮らしよりもよっぽど三密回避なフェスを開催してくれて感謝。叫んだりたむろったりも無かった観客に感謝。ライブってやっぱ良いね。
なんか「ないものはない」とかいう深淵からやって来た命題がホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代、ヴィトゲンシュタインの代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。
ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学の大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています。
さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。
ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスのケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問の大家と対面し、議論と思索を深めていくことになります。
彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生の殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦に従軍したとも言われています。その過酷な戦場で、彼はトルストイの福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています。
さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。
とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうものは言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員の存在は一体なんなんすか? という話なのです。
要するに、「無」なんてものは「無い」のだから、本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用を基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味と対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。
世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述の方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述の方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ。
消化液が通るところは自分たちの細胞も殺している。それを毎日毎日修復している。
痛くないはずがない
次に膵臓。ここは消化液を作るところ。
一番有名な消化液は胃液だが、膵液は脂肪もたんぱく質も糖も溶かす万能消化液である。
話は戻るが小腸は胃液と膵液交じりの食べ物だったものが通る場所である。
焼けるぞ溶けるぞ。
小腸で吸収されたものの中には有毒なものもある。それを解毒するのが肝臓である。
この激戦区では多数の細胞が死ぬことが前提の仕組みになっており
1/3ほど残っていれば一か月たたずに元に戻る設計になっている。
腎臓では血液中の有害なものや不要物をろ過して尿として捨てるわけだが
効率化のために微小な血管・尿細管に文字通り圧をかけて働かせるのである。
胃・腸・肝臓は「壊れたら再生すればいいじゃない」という思想で作られているが
腎臓は「壊れるし作り直せないので必要な分の2倍以上用意します」という思想で作られている
番外編
老皮膚「散々お前のために前線で菌や異物と戦ってきたのに、役目が終わったら汚れ扱いか」
新人皮膚「あんたの死骸は菌や虫の前線基地になるんだ。老害は処分する」
老皮膚「お前もいつかおれのようになる。覚えておけよ。いくら栄養をもらっても俺たちは使い捨ての駒なんだよ」
髪の毛「私の役目は終わりました。ここを去らせていただきます」
??「待ってくれ、君はそこにいるだけで意味があるんだ。ワカメだってなんだって用意する。ずっとここにいてくれ」
??「行くな、行くならせめて後進を育ててから行ってくれ」
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当な台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
アラフォー。元増田と同じプログラマではないが元プログラマで今も IT エンジニア的な何かをやっている。肩書には シニア の文字があるが社内で特別シニアが貴重というわけではなく管理職ではないのでぺーぺーである。
気づけばチーム内のみんなが全員後輩で年下。なんだかやることなすこと空回りしていることに都度寂しさと難しさを感じている。
・仕事の仕方やキャリアの話にマジレス → なんだか問題提起したメンバーを詰めているみたいな空気に。
・怖いのかなと思ってオヤジギャグ → 気を使った笑い
どつぼにはまっていく感。なんというか自分が現場にいてプレイヤーとして若者と一緒にやっていても実は全体の生産性を下げているだけなんじゃないかという気がする。自分がいないほうがコミュニケーションもスムーズだしみんなのびのびと働けるんではないだろうか。
・技術的な間違いを指摘して正しいことを言ってるんならいいじゃ? → 分かる。でもそれでチームやみんなの生産性がホントに上がってるかは別だよね。
・レスの仕方が悪いんじゃ。要は言い方、伝え方 → 分かる。しかし、それを考えるのも大変だしうまくできない。若い頃はむしろ少し噛み付くくらいの意見で上司にも先輩にも積極性を評価された成功体験?に甘えてきたのかも。スキル不足。
体力的・技術力的 限界というよりは、プレイヤーとして横並びの仕事をチームで担ってもうまく歯車になれないんだよな。なんなんだろうなこれ。かといって管理職になれるかと言うと会社もちゃんと人を選ぶので難しい。今の職場は転職して4年。ようやく仕事になれてきて子供らはまだ小さくて手がかかるし転職はなー、できれば避けたいんだが。まあもう活動し始めてしまっているんだが。
大学時代の同じ研究室に2留か3留かの4回生の先輩(同級生?)がいて、その人自体は真面目で優秀なんだけど要領悪いというか運が悪いところがあって、長く学部に在籍されていた。研究室の飲み会にかならず1分遅れくらいで登場する。時間ピッタリではなく2分遅れでもなく毎回必ず1分遅れぐらい。ある日軽く「なんでいつも1分遅れでくるんですか?」聞いたら「おれみたいなの5分前とかに着いてたらみんなくつろげないだろ」と言っていた。今なら分かるような分からないような。どっちにしても時間ぴったりに来りゃいい。
わかりづらくなってしまったのだけど、いいたかったのは自分の実力や技術力やその成長が維持できていたとしても年をとる、ということで周りと食い違っていくのだよね。自分は変わってないつもり、それが一番やばいよね。なんつーか老害には老害の居場所があるんだろうな。自分の職場なんかドツボにはまった結果いまなら咳をしただけでやたらに気を使われる感じで、もう取り返しがつかないよね。元増田は遺言という表現を使ってたので自分は 辞世の句 を。
相手の回答が想定内であろうと無かろうと、文章を読んで書き込んでエンターを押すだけでそこそこ時間がかかる。最小でも20秒はかかる。
事前に想定問答を作り上げながら親エントリーを書いているから、すぐに子エントリーもかけける。ということで、やつはまあ頭はそこそこいいんだろ。
オリジナル小説を書くのを趣味にしている。宣伝のためにTwitterをやっており、繋がりは二次創作からの付き合いの人が多いんだけど、最近、黙々と自分の作品を書き読むべき本を読んでいるうちに、フォロワーの二人ばかりにいじけられてしまう。こっちは増田さんの作品を読んであげてるのに増田さんは私のを全然読んでくれないって。
まあ、しょうがない。そう言われても私は忙しい。忙しい人生の合間をぬっては自分の作品を書いている。本もよく読んでいるがそれは文章を書くための養分なので、読まないという選択肢は取れない。そして残念ながら、あなた方の作品は私の創作の養分ではないのだ。養分ではないからといって、養分になる文章と比べて劣っているかといえばそれは違う。ただ私のお脳の胃腸では消化しきれんという、それだけのこと。
一方的に読んであげるだけでこっちのは読んでくれないって人としてどうなの?仲間ではなかったの?と言われてしまう。すまん、ならばその通りなのかもしれない。私はユルく仲間だと思っていたけど、独りよがりだったと思う。
宣伝の為のTwitterだったが敵を増やしたような気がする。沈黙するだけで仲間をうしなうツールだったか。そうなのか。
エブリスタにログインしたら、通知が来ていた。見ればずらりと並ぶ「Nonameさんがあなたの作品をブクマしました」という通知。沢山の誰だかわからない人たち。一方的に読んでいるだけの人たち。特にこれといって深い理由はない読み専の人達かもしれないが、自分の素性を明かすことによって返礼のブクマやスターを求める人達がいるなかでの、あえての名無しさん達なのかもしれない。
そうだね、義理読みとかしたくないしされたくもないよね。有限な時間を好きに読み書きするのに使いたいし使って欲しいね。なんて勝手に解釈してため息を吐いてしまう。
自分が誰かから見て関わり合いになりたくない人だとしか思えない。
よくあるコミュニケーション術とかで言われるような「誰かに何かをしてあげたらその分返ってくる」とか「誘われたりすれば基本は嬉しい」とかいう言葉があっても、
「すごく辛い」とか「誰かとお話したい」とか話しかけられることを待っている雰囲気を出していても、
ツイッターとかで「リプライしてもらえたら印象を話します!」とかの絡まれ待ちをしていても、
周りが雑談していて場が沈黙していたり同意を求めていそうに見えても、
「でも話してほしいのはお前ではない」という言葉を絶対に内包しているとしか思えない。
誰だって「絶対に話しかけられたくない」とか「かかわり合いになりたくない」という人がいて、それが自分でないということなんてあり得ないとしか考えられない。
誰かが自分に話しかけたときだけ、「何か理由がある」という前提をもって話に応じることができるけど、それ以外はどうしても無理。
考えすぎだとしても間違っていると理解していても、自分なんていう存在を、相手の生存している世界に自ら挟ませることが、仕事とかの必要に応じた行動以外で、どうしても絶対に許せない。
相手に迷惑をかけるしかできない存在というのは絶対に誰もが思っていて、それが自分でないということがあり得ると思えない。
そんなことをしていてどうにもならないとわかっていても、他者にとって自分の存在そのものが迷惑でないという考えがあり得ないとしか思えない。
中年以降とても気になる事があるのですが、
別々の友達グループをまとめようとする人がが出てくるんですよ。
稀に、知り合った人で既存の友達グループに合いそうな人を連れて行っていいかしら?と引き合わせる事はあります。
お互いが合わなければそれきりで、うまくいけばそのままグループに居付くこともあります。
それとは別にまるで別々の数人づつのグループを躍起になって一緒にしようとする人がいるのです。
もういい大人ですから、あのひとたちもいい人だけれどAグループのみでまた会いたいわ、と角の立たない言い方をするのですが何故か次回の約束で不意打ちのようにBグループの人が来たりするんです。
SNSだともっと顕著で4、5何のグループLINEにいつのまにか知らない人を招待したりします。
なんかめんどくさい。
普通にネットでバズってる面白画像とか貼らないでよ、そんなもんみんなどこかで既にみてるわ。
大部分の人が知らない人同士になってくると反応に困って沈黙し、適当に時間が過ぎたら既読にしています。
なんでグループの人数を増やそうとするんでしょうか。