はてなキーワード: 御札とは
ふと思い出したことを語る。
関東地方の某大学に纏わる話。この大学の部室棟の一角に、開かずの間と呼ばれる空き部室があった。平成7年頃の話だ。俺も何度か立ち寄ったことがあるが、一目見てヤバいと思ったよ。
その部室は扉に「立入禁止」と書かれた錆びたプレートが打ち込まれ、裏に回ると窓は厳重に目張りされていた。あまりの物々しさから近隣のサークルの連中からは気味悪がられていたことを覚えている。
この部室は講義棟に近く、使いたいサークルは沢山あったはずだし、何よりも部室棟はパンク状態でもう入居できる部室がなかったから、こんな好位置の部室がどうしてずっと使えないのか不思議だった。物置で使っているというわけでもないらしく、部室が使われているところは誰も見たことがないらしい。まさに開かずの間だった。
ところで、開かずの間にはいくつかの噂があった。これはサークルの先輩から聞いたんだが、何年か前に部室棟に夜中残っていた連中が開かずの間の横にある便所の個室で用を足していると、横の壁からブツブツと声のようなものを聞いたらしい。他にも、興味本位で開かずの間の扉の鍵をピッキングで開けようとした奴が中からうめき声を聞いたという話もあり、極めつけは、一度何らかの方法で中に入った奴がビッシリと貼り付けられた大量の御札を見たという眉唾な話まであった。
当時、俺はそういう怪談の類が好物だったから、あの開かずの間の正体を知りたくて、サークルの自治会に行って開かずの間にかつてどんなサークルが入っていたのかを調べてもらった。自治会室の棚の奥からサークルの古いリストが載っているファイルを委員が取り出してきた。そして委員がサークル名の載った赤茶けた紙をめくっているとかつて開かずの間を使っていたとされるサークルが見つかった。
そこには「社会科学研究部」とあった。昭和30年代に設立されたかなり古いサークルで、他の資料を当たってみると、40年代頃まで存在していたようだった。そこからはワンゲル部かどこかが使っていたものの、入居してわずか数年で廃部となり、以降は空き部室となっているようだった。つまりあの部室はもうかれこれ20年以上使われていなかったのだ。
結局、開かずの間から聞こえてきたという謎の声は一体何だったのかは分からなかった。当時はネットも普及していなかったし、俺も忙しくなりこれ以上調べるのも面倒臭くなったからこの件についてはこれっきりだ。
この文章を書く前にネットで調べてみたが、やはりわからなかった。
一体あの開かずの間はなんだったんだ。
私は"普通の日本人的"宗教観をもつ家庭に生まれ、友達の家が聖教新聞をとっていた、以外に新興宗教とも関わり合いのないまま大きくなった(その家も別に勧誘してきてない)が、熱烈に宗教のアンチである。新興宗教はもちろん、既存宗教も本当はこの世になくてもよいと思っている。例の銃撃事件のずっと前からそうで、あの事件のあとからはより思想が強くなった。
そのようにこじらせた原因は、大学生のときに知り合った私がとても信頼をおく人が宗教2世由来で宗教を憎んでいる人間だったからだとずっと思っていた。彼の苦しみに私は同期して、私も憎むようになったのだと思っていた。
ただ、よく思い返すと高校生の時点で今の私の思想はほとんど固まっていた。高校には新興宗教を進行した結果教室に担任の置いた合格祈願の御札を嫌がる教師がいたが、その光景を見ながら「どちらも悪だよな」と思っていたことをふと思い出した。
そうなると、なぜそんな思想になったのかますます分からなくなる。あのころ宗教を持って私に攻撃してくる人はいなかったし、正月もお盆もクリスマスも"普通の日本人"としての関わり、過ごしてきた。アンチになる前の段階で、どうして宗教というものについて好き嫌いの結論がでるまで考えようと思ったのかすら思い出せない。
○
ところで、私は女性であるが、ずっとフェミニズム的な男性のことを「偽物」だと思ってきた。私自身は「フェミニスト」とも「アンチフェミ」とも言えない思想だが、世の女性が受ける問題について、当事者性がない人間が本気で取り組まないだろうと思っているからだ。当事者でもない属性に心から配慮しているとはどうしても思えなくて、こいつらは心の奥底では女を舐めていて、「こうすれば信頼を得られる」と考えた末のムーブだと推測していた。
○
でも、よく考えると私はずっと当事者性のないものについて真剣に考えてきた人生だった。そうであれば、あの男性の中にも本気で自分ではない属性の幸せを考えている人がいるのかもしれない。それは私が女性だから、というフェミニズムの観点ではなく、私の思考の、人生の肯定になるかもしれないと思うからである。
こんなん書いたせいか知らんがさっき家の前に消防車停まってなんや火事かはよ逃げなって猫叩き起こしてケージ入れて慌てて避難したら消防車から救急隊員出てきてなんやなんや何事やて思ってたら二階の角部屋に隊員さん殺到しはって急病人かな大変やね思って見守ってたら内側にびっしり御札みたいなん貼ってるきしょいドア開きよって無線でデカい声でリストカットや言い始めて隊員の一人がワンちゃん抱えて出てきはって可愛いワンちゃん飼ってんのに自殺なんかしたらあかんでホンマ言うてたら人工呼吸器つけて担架に固定されたアニメみたいな髪色の若い女出てきよってセルフクンニ専門学校首席卒業者実在しとるやんて一瞬思ったけどあのワンちゃん誰か保護してくれる人おるんかな保健所連れてかれんやろなとにかくワンちゃん心配やわ昨日は風呂に🪳出よるし今日はメンヘラ自殺しよるし不吉やわ堪忍してや
子供が亡くなった。病気を持って生まれてきて、一生懸命治療をしていたが亡くなってしまった。もうすぐ1歳だったが その一生涯を病院で過ごしたため生きているうちに家に連れて行くことは出来なかったし、それどころか呼吸器をつけていたため抱っこすら出来なかった。それでも急変だったから、心の準備なんて出来ていなかった。
第一子。自分たちの両親にとっては初孫。妊娠中 たくさんの人たちが御札やお守りも買って子が元気に生まれてくるように祈ってくれた。だが生まれた子は難病。闘病中だって 良くなって退院できることをたくさん祈ったけど、亡くなってしまった。
神も仏もいない。人並みに真っ当に生きてきたよ。なのにこの仕打ち。絶対神なんていないだろ。
元々信じている教えも宗教もないしね。
子が亡くなった次の日の、配偶者は居ても立っても居られなくて、仏壇屋に行って資料をもらってきた。確かに私達は親としてしてあげられたことってほとんどなかったし、何かしてあげたいっていうのはあるよね。
自分は子供を想うスペースは必要と思ったけど、別に仏壇って形である必要はないと思ってた。けど配偶者は仏壇がいいって言うから、話し合いの末 仏壇を購入した。
仏壇を買ったりして思ったけど、一般的な死後の考え方があまり受け入れられないなって。
仏壇の1番上 奥には仏様をおいてその下には位牌。位牌には亡くなった人の魂が入る。一段上の仏様が亡くなった人を導いてくれる。
チーンとならすおりんは極楽浄土まで音が届く。
→届くか?
死者は香りを食べる。だからお線香をあげて手を合わせる。ご飯をお供えする。
→香り届くか?
あの世で7日ごとに極楽浄土に行けるかどうかの裁判があり、49日はその最後の裁判。
→現世的すぎない?
おりんをならす行為 お線香をあげる行為で子供に心の中で語りかけたりするから、すべてが無駄だとは思わないけど なんか都合が良すぎないか?とは思ってしまう。
49日に至っては、子は赤ちゃんなのに裁判にかけられるなんて酷すぎないかと思ってちょっと嫌な感じするし。人の子を勝手に裁くな。
小さい頃から仏壇がある家で育った配偶者と、仏壇に馴染みのない自分と、仏壇に関する考え方が違いすぎて、どれにするか どのものを置くか まとまるまで少し言い争う事もあった。
私は 赤ちゃんの子供に厳かすぎる仏壇にしてしまうと、子が遠いものに感じてしまうような気がしていたため 何か子の象徴のような形にしたかった。配偶者はちゃんとした仏壇にして子を弔いたいと言う気持ちがあった。
まあお互い言っている事はわかる。
相互に妥協してちゃんとした仏壇にポップ目(ピンク色の仏具 パンケーキの香喰等)な仏具を置くことでまとまった。仏様は置かず 位牌も置かない。100センチ程の仏壇の上にはぬいぐるみを並べた。
だがおりんは置きお線香もあげられる。子を想い手を合わせる場所にした。お骨は仏壇に置いた。お骨は 夫婦生き残ったほうが先に死んだ方の骨と一緒に子のお骨も処理する とした。
私は今の形である程度納得している。配偶者もそうであってほしい。
亡くなったのが赤ちゃんだったから一般的な感覚とは少し違うのかもしれないけど、死んだら現世の煩わしさとか辛さ痛さからは 「無」だから何もしなくても開放されると思ってる。でも仏壇は親側の気持ちの行き場所 何もしてあげられなかったから誠意 手を合わせたいみたいな部分で意義があって買って良かったと思う。
けど、一つ一つのもの 事に対してはこじつけだしご都合主義過ぎないかとちょっと思っちゃったな。
仏壇に仏様置かないと導いてくれる存在がいなくて良くないって仏壇屋さんには言われてそれってどうなのって思ったし、それって仏様買わないことに対する脅しみたいなもんじゃんって。
納骨は子のためにした方がいいっていう親族もいた。
わかるよ。わかるけどね。
死や死後に対する考え方は人それぞれだと思う。正解なんて誰も知らないし ないのかもしれない。
夫婦という二人の間だけでもそれなりに揉めたのに、親が亡くなり、その子供が何人もいてその配偶者が絡んできてなんて場合、多くの人の考え方があって 墓や仏壇一つ買うのもすごい大変なんだろうなって思った。
エルデンリングは優れたアクションゲームであるが、俺の好きなゲームとしては完全に失敗している。
どこが失敗しているのか、なぜ失敗しているのかを以下に述べる。
俺の好きなゲームにとって最も重要な問題は「壁に登れるかどうか」である。
この「壁」とは、建物の壁だけに限らず、崖、岩、草木、あるいは「見えない壁」まで、あらゆる障害物を指している。
「ここは通ってほしくないから壁を置いておこう」
そうしてゲームクリエイターがプレイヤーをコントロールしようとして設置されるものが「壁」である。
俺の好きな「どこまでも自由に行けるゲーム」とはまったく正反対の性質のものであることがわかるだろう。
しかしその「壁」を登ることができるならば、障害物だった「壁」は、すべてが立体的な「道」へと変貌する。
たとえるなら、
お化け屋敷です、決められたルートを決まった順番に進んでください、
運営がそのルートに沿っていろんな怖い演出を用意しています、というのがリニア(一本道)なゲームだとしたら、
肝試しです、どの道を進んでも、あるいは道から外れても、崖を登っても、空を飛んでもいいので、
とにかく山の頂上の神社にある御札をとってきましょう、というのが俺の好きなゲームなのである。
どちらのほうがより良いとか正しいとかいうわけではないが、この二つを両立することは難しい。
エルデンリングは、俺の好きな仕組みを導入しながらも、リニアなゲームから脱却することができなかった。
見た目は俺の好きなゲームでありながら、ゲームデザインは極めてリニアである、というアンバランスな作品だった。
屋根にのぼって高所から敵を倒すとか、城の裏手から侵入して敵の手薄なところを探すとか、そういった自由度はない。
あるとしてもそれは開発者があらかじめ用意しておいた「ルート」の一つでしかなく、
自由な移動を保証した俺の好きなゲーム化の結果として可能になったものではない。
またエルデンリングでは、マップ上に点在する特定のポイントでしかリスポーンできない。
非常に死にやすいにもかかわらず、「死んだところだけやりなおす」ことができず、「最初からまた順番にやりなおせ」と強制される。
これは単体の戦闘ではなく、リスポーンポイントから始まる「ルート」をゲーム体験の最小単位として意図しているからだろう。
リスポーン地点から遠く離れるほど、死んで元の地点に戻されたときの徒労感は大きくなる。
死んだときに落としたルーンは、リスポーン地点から離れているほどそれを回収するのが難しくなる。
というかフィールドは広くてもイベントやクエストはスカスカだし敵を倒してもロクなアイテムを落とさない。
「あちこち適当にボスだけ置いたんで、寄り道して倒しにいってもいいですよ。それって俺の好きなゲームっぽいですよね?」
くらいにしか考えていないのだろう。
まあ開発陣はなんとなく流行りに乗っただけなんだろうが、
エルデンリングは優れたアクションゲームであるが、オープンワールドゲームとしては完全に失敗している。
どこが失敗しているのか、なぜ失敗しているのかを以下に述べる。
オープンワールドゲームにとって最も重要な問題は「壁に登れるかどうか」である。
この「壁」とは、建物の壁だけに限らず、崖、岩、草木、あるいは「見えない壁」まで、あらゆる障害物を指している。
「ここは通ってほしくないから壁を置いておこう」
そうしてゲームクリエイターがプレイヤーをコントロールしようとして設置されるものが「壁」である。
オープンワールドという「どこまでも自由に行けるゲーム」とはまったく正反対の性質のものであることがわかるだろう。
しかしその「壁」を登ることができるならば、障害物だった「壁」は、すべてが立体的な「道」へと変貌する。
たとえるなら、
お化け屋敷です、決められたルートを決まった順番に進んでください、
運営がそのルートに沿っていろんな怖い演出を用意しています、というのがリニア(一本道)なゲームだとしたら、
肝試しです、どの道を進んでも、あるいは道から外れても、崖を登っても、空を飛んでもいいので、
とにかく山の頂上の神社にある御札をとってきましょう、というのがオープンワールドなのである。
どちらのほうが「より良い」とか「正しい」とかいうわけではないが、この二つを両立することは難しい。
エルデンリングは、オープンワールドという仕組みを導入しながらも、リニアなゲームから脱却することができなかった。
見た目はオープンワールドでありながら、ゲームデザインは極めてリニアである、というアンバランスな作品だった。
屋根にのぼって高所から敵を倒すとか、城の裏手から侵入して敵の手薄なところを探すとか、そういった自由度はない。
あるとしてもそれは開発者があらかじめ用意しておいた「ルート」の一つでしかなく、
自由な移動を保証したオープンワールド化の結果として可能になったものではない。
またエルデンリングでは、マップ上に点在する特定のポイントでしかリスポーンできない。
非常に死にやすいにもかかわらず、「死んだところだけやりなおす」ことができず、「最初からまた順番にやりなおせ」と強制される。
これは単体の戦闘ではなく、リスポーンポイントから始まる「ルート」をゲーム体験の最小単位として意図しているからだろう。
リスポーン地点から遠く離れるほど、死んで元の地点に戻されたときの徒労感は大きくなる。
死んだときに落としたルーンは、リスポーン地点から離れているほどそれを回収するのが難しくなる。
というかフィールドは広くてもイベントやクエストはスカスカだし敵を倒してもロクなアイテムを落とさない。
「あちこち適当にボスだけ置いたんで、寄り道して倒しにいってもいいですよ。それってオープンワールドっぽいですよね?」
くらいにしか考えていないのだろう。
まあ開発陣はなんとなく流行りに乗っただけなんだろうが、
『ELDEN RING』ディレクターの宮崎英高氏にインタビュー! 著名な作家とのコラボレーションなどについて語っていただきました! – PlayStation.Blog 日本語
宮崎氏:プレイヤーには主に、今回私たちが注力した自由度の重要さを感じてほしいと思っています。ゲームをプレイヤーそれぞれの方法で楽しんでもらい、自分のペースで探索できるこの新しいオープンワールドで解放感を味わってほしいと思っています。
宮崎氏:はい、これは意図的なものですが、必ずしもゲームを明るくするためではありません。『ELDEN RING』では、広大なオープンワールドを探索することを考えると、鮮やかな色使いが必要でした。
フロム・ソフトウェアの宮崎英高氏が語る『ELDEN RING』開発の秘密 - Xbox Wire Japan
オープンワールドのデザインは、これまでの作品と創作のプロセスにおいてどのような違いがあったでしょうか。
宮崎氏:ゲーム全体のデザインで言えば、『DARK SOULS』などから変わらぬテーマである達成感に加え、未知と脅威に満ちた広大な世界に、自由に挑む「冒険感」を重視したことが大きかったと思います。
また、他オープンワールドゲームにインスパイアされた点はありますか?
宮崎氏:特定のゲームに特にインスパイアされた、ということはありませんが、ユーザーとしても、名作と呼ばれるオープンワールドゲームを多くプレイし、それぞれから素晴らしい刺激を受けました。
単なるゲームメディアではなくPS/Xboxの公式ブログにおいてもオープンワールドだと喧伝され、ディレクターもとい宮崎社長もオープンワールドだと言っているのに、「エルデンリングはオープンフィールドだからオープンワールドじゃない!プレイヤーが勝手に勘違いしただけ!」というのはさすがに詭弁ですね。
裸踊りというのは一例ですが、洗脳されている人の特徴に、普通なら誰もやらないような奇妙な行動を取ることが挙げられます。
始めのうちは家の中に御札を貼るだとか決まった時間にお祈りをするだとかですが、段々とエスカーレトしてそのうち人前でも大声でお祈りさせたりだとか、大事なものを破壊させたりとかし始めます。
例えばその一つが裸踊りです。
必ず裸踊りが選ばれるわけではありませんが、普通なら人前では絶対にしないような行為でも洗脳中ならしてしまえることの例として挙げました。
これらには共通点があって、必ず人前で、普通ならおかしいと思える行動が選ばれます。
なぜそういった行動を取らせるのかいくつかの理由が考えられますが、総じて洗脳する側にとって都合がよいからと考えることができます。
一つは孤立。
洗脳している側は相手を意のままに操りたいと考えるので、他者の存在は不都合でしかありません。
ありとあらゆる手段で関係を壊そうとしますが、その一つとしてこういった行動を取らせることで相手側から距離を置くように仕向けます。
良識側が他者に作られた自分にとって不利益な悪であると思わせることで、洗脳されている人間の行動のリミッターを破壊します。
それら行動を自らの力で成し遂げられたことが自信となり、自らの中での信仰心が高まります。
信仰心とは言い換えれば洗脳する側に対する依存のことであり、それを繰り返すことで自らが進んで洗脳をされているような状況になっていきます。
要約すると、裸踊り行為とは洗脳する側にとってのわかりやすい信仰心、影響力のベンチマークとなっています。
取らせる行動を少しずつエスカレートさせていくことで、どのくらいまでの命令まで従うのか、つまり洗脳できているかをチェックする役割があるわけです。
例えば人通りのある中での社訓や校則の読み上げ、駅前でのビラ配りや募金活動なども、それそのものの効果よりも所属する組織にどれくらい忠誠心を持っているかを確認することの意味合いの方が強くあるといえます。
多かれ少なかれ、世の中では当然のように組み込まれているものです。
また、これらはさせることよりもするかどうかが重要です。
特定の個人を狙い撃ちにする場合は別ですが、多くの場合は、不特定多数の中から振り分けていくことで洗脳されやすい人間を見つけ出すために用いられます。
少しずつ無茶な要求をすることで、相手がそれに応じるかどうかを見て絞り込んでいくわけです。
いわばこの裸踊り行為は、現在進行系で洗脳されている最中に、これから要求がエスカレートしていくであろう予兆と考えることができます。
逆を返せば、こうした予兆が見られた時点ですでに洗脳がある程度進んでいることの判断材料となり、実害がないからと放置しておけばあっという間に取り返しのつかない状況まで突き進んでしまうことを意味しています。
自らの実体験でここまで書き進めてきましたが、わたし自信は心理学の専門家でもなんでもなく、この裸踊り行為に名前がついているかどうかを知りません。
しかし、もしこの行為に名前を付けることができて、広く一般的な知見として知られることができたら、洗脳による被害者を減らすことができるのではないかと思い文字にしてみました。
確かに俺は恋愛経験に乏しいし、まともに付き合った女性もいない。けれどもそれがこの社会において何の価値があるのか真剣に分からない。
顔の骨格や目鼻立ちなどで元から圧倒的に格差のある要素が重要視される恋愛において、はなから勝ち目のない俺のようなキモオタクがイケメン君に勝てる訳がない。そんなことは小学生の頃から理解しているのだ。
当時、クラスのアイドルみたいな子を好きだった俺は、どこから噂が漏れたのか、放課後の校舎裏にアイドルから呼び出されて告白する前に拒絶された。遠くからいつもの取り巻きがこちらを眺めていた。嘘みたいな話だが本当の話だ。「なんていうかちょっと無理」だったらしい。
小学生にして「自分って、なんていうかちょっと無理なのか」と理解した俺は、それからの青春をなんていうかちょっと無理なりに過ごしてきた。
少なくとも自分から告白するのは控えた。その結果、中高の六年間で恋愛イベントの類いが発生することなく、フラグも立たず、男友達とだらだら絡んで青春を終えた。ギャルゲーならバッドエンドだ。バッドエンドの世界に俺は生きている。今もなお。
幸いにも勉強はできたから良かったものの、大学に入っても俺のバッドエンドは続いた。
終わりを迎えたはずなのにスタッフクレジットが流れてこない。ずっと真っ暗な画面が続く、そんな感じ。
高校の時の友人とはとっくの昔に疎遠になっていたし、大学でできた友人たちも、彼女ができると一気に距離ができた。
なんというか、身に纏った空気が違うのだ。B1の頃は彼女ほしいよなあとYoutubeを見ながらゲラゲラ笑って一緒に鍋を囲んでいたはずなのに、いつしか俺はその集まりに呼ばれなくなった。普通にショックだった。なんで呼ばれないんだろうと散々悩んだ。その答えに気が付いたのはそこそこの研究をこなして、そこそこの企業に就職してからだ。
俺は初めて、自分から声を掛けないと何も生まれないことに気が付いた。
もしかすると、俺は10年近く前にクラスのアイドルから言われたことをずっと引きずっていたのかもしれない。
風呂場の鏡に写るだらしない自分の身体には、「なんていうかちょっと無理」というラベルがべったりと貼られている気がする。このままではいけないと思い、数ヶ月前から週に2日ジムに通うようになった。おかげさまで少しは身体も引き締まってきたが、それでも出勤の前に鏡を眺めていると、自分のほっぺたに「なんていうか」のポストイットが貼られている気がする。それはまるで御札のようで、電車に乗っているだけで自分の周囲から女性がいなくなる効力があるのではないかとすら思う。
どこにも出会いがない。
職場の女性に話しかけようにも、殆どの人間には交際相手がいる。
こうなったら出会い系アプリを使った方がいいのかなと思い始めたところで、ようやく俺は自分のような男が「弱者男性」だと呼ばれていることを知る。
なんだよそれ。
俺のいったい「何が弱い」んだよ。
今でこそ少しは落ち着いたが、未だにふざけた呼び名を考えた「強者男性」と「強者女性」に怒りが収まらない。
勝手に人に強弱を付けやがって。扇風機じゃねえんだぞ。クソが。こっちは昔、一方的に貼られた「なんていうかちょっと無理」を剥がそうと懸命に努力しているのに、お前達はその上から笑いながらベタベタと「弱者」のラベルを貼り付けてくる。
ふざけやがって。
貼る方は気持ちよくて堪らないのだろう。どうせ俺みたいな弱者を怒らせたところで何も抵抗されないもんな。お前らは馬鹿のひとつ覚えみたいに、「恋愛だって弱肉強食だし」とヘラヘラしながら言うのだろう。それで自分達の加害性は全部肯定されると思っている。いかにもお前らが考えそうなことだ。
でもそれ、間違っているから。
お前らは「勝ちたい」がために無理やり「弱者」を生み出しているだけ。弱者がいないと自分が勝者である自信を持てないからだ。
ここまで書いたところで、どうせお前らは「そうだよw今日も俺らのために弱者してくれてごくろーさんw」くらいにしか思わないのだろう。それを書くのがまた堪らなく気持ちいいのだろう。でも、一時の快楽のために他人を傷つけるのは本当に良くないことだ。自分がどのような加害性を持っているのか、一度真剣に考えて欲しい。いつから恋愛を始めてもいいし、そもそも恋愛にどれだけ重きを置くのかも今の時代自由になりつつある。
だからこそ、「今はまだ」恋愛から遠いだけの人を弱者と呼ばないでほしい。
俺はいま、お前達に近づいている途中の男だ。
強くも弱くもない。そう思っている。
最低賃金が上がったことを、竹中平蔵は嫌がっているのではないか。
などと思ったので書くことにした。
ご存知の通り、この国には「政府」およびその一群と膨大な数の「私企業」と「国民」がいる。
「私企業」は「国民」を労働力として雇用し、商品を製造して「国民」に販売する。
「政府」は「国民」を雇用し、「政府」と「国民」から費用を徴収しつつ調整にあたる。
「国民」は「政府」か「私企業」から賃金を受け取りながら生活し、労働力などを提供する。
本当は、これ以外にもたくさんあるのだけどとりあえず単純化する。
「聖域なき構造改革」、「規制緩和」を振りかざした小泉改革の大きな点は、私企業にとって有利な様に日本のルールを変えていった点だ。
それは労働運動などで「国民」が勝ち取り「政府」が保障したことだ。
これは「私企業」にとっては非常に都合が悪い。
同じ製品が出来て、同じ値段で売れるのならば製造にかかる費用や、販売にかかる費用は安い方が儲けが大きいからだ。
そうして「政府」は「私企業」の要望に応えて「国民」の雇用に関する権利を保障することをやめた。
つまり、当時の政権では「私企業」を手厚くもてなすことにより競争力が上がり、結果として国の力も上がると考えたのだ。
これは、間違いだったと結果が出ている。
「私企業」も「政府」もすべては「国民」が構成し、利益の多くは「国民」を当て込んでいるからだ。
「国民」から搾取するかのような国家運営の結果、「国民」貧しくなった。当然、購買力も激減し、納税額も落ち込んでいく。
稼げる「私企業」というのは、豊かな「国民」の中から生まれる。
労働者の権利や保護という「聖域」は本来、侵すべきではなく「規制緩和」などするべきではなかったのだ。
余談になるが、水道事業民営化や『稼げる大学』のように、こういう「聖域」を侵す議論は続いている。
結果として一部を除く「私企業」はさらなるダンピングを続け「国民」を大いに貧しくした。
国も全体として貧しくなっていく。
竹中平蔵の罪とは、つまり「国民」への責任を放棄して「私企業」に富を積ませようとし、結果として「政府」も「私企業」も含めた国の全てを貧しくしたことである。
巨大な、消えない罪だ。
その罪がもたらした惨状をいやすためには、小泉政権が破壊した「聖域」を再び築き上げ、(行き過ぎた短期的利益を睨む)「私企業」から「国民」の保護が急務なのである。