はてなキーワード: バイアスとは
https://anond.hatelabo.jp/20210407201659
これなどうまくまとまっていると思うが、おれ自身もどうかと思っていた通り、やはり一部フェミニストの言動はダメダメだったと思う。色んな人が一部フェミを批判していた。うなずけるものも多かった。
そう、君の批判はおおむね正しい。
なので君はそうならないよう、一部フェミの言動をちゃんと反面教師として、そうならないようにしてくれるんだよな。信じていいんだよな?
君は、一部フェミのようにダブルスタンダードに陥らないよう気を付けるはずだ。君は、一部フェミを非難したその言葉が、そっくりそのまま自分にあてはまるような、そんな愚かなことはこの後しないはずだ。
君は、あれという弱者の問題には最初から同情心をもって接しながら、これという弱者の問題には冷淡にならないはずだ。君は、弱者一般に優しくなるはずだ。
君は、男性という敵一般を設定して、それらをすべて丸ごと強者や抑圧者とするような、雑なカテゴライズをしないはずだ。君は、自分が批判するべき層がどういうものなのかを、きちんと精緻に考えるはずだ。
君は、とある言説のなかの最も極端な部分を、つまり弱者男性問題であれば「女をあてがえ」という部分を、全体に敷衍しないはずだ。君は、「とある言説の周りにはいろいろなグラデーションがあって、そこには賛同できるものもあれば、できないものもある」という冷静な視点をもったはずだ。
君は、「フェミニストと敵対しそうな意見だから、絶対に反対する」というふるまいを醜いと思ったはずだ。君は、ちゃんとどんな意見でも公平に、バイアスや色眼鏡なく、まずはきちんと接するという前提でいられるはずだ。
君も、おれも、他人の言動がダメダメだとわかったのなら、そこは他山の石として克服していこう。
一部フェミを批判する君たち、それにスターなど賛同の意見をつけた君たちは、その後、ちゃんと反面教師として自分を律してくれると信じている。一部フェミへの批判は、要するに君がよくないふるまいだとするものなのだから、それを君はまさかやらないよな――少なくとも、やるまいと努力するよな。
当たり前のことだ。
「女をあてがえ論」「下方婚も選べ論」はこれに当たる。
誰をパートナーにするかというのは個人の選択によるもので、より良いマッチング制度/機会は社会が提供できるかもしれないが。
また、反対の面で言えば「男性も女性と同じように家事、育児をしろ」というのもそうだ
一切家事をしなくても家族以外に責められるべきいわれは全くない。もちろんそれが離婚を招いたとしてもそれはその夫婦の選択である。
ジェンダーロールに乗らなくても、責められるべきではない。ヒモの男がいてもいいし、キャリアウーマンがいてもいい。
同様にジェンダーロールに乗っかって生きる事も一つの選択である。
傾向として、若い女性はジェンダーロールに乗っても乗らなくても一定の需要が、男はジェンダーロールから脱落すると著しく需要がなくなる。
外見の美醜は男女双方に影響を与えるが、男性の場合はジェンダーロールに乗っかってポジションを得ることによってある程度解消を狙えるが、女性は難しい。
乗っかると有利なジェンダーには乗ればいいし、不利なジェンダーには乗らなければいい。
不利なのに乗っかってしまっている例が多いジェンダーは理系文系の著しい男女差だろうか。男は理系、女は文系が得意というバイアスだ。
だが、キャリアを一時的に出産や育児等で中断する可能性がある女性にとって、専門職の方が総合職よりも有利である。(昔は専門職は総合職に待遇で劣るという風潮もあったが最近は減ったと思う。
・党派性の強い人
味方は甘やかそう、敵はケチをつけよう、というのを端から前提にしてる。とにかく日常的に、自分が支持している言説の「味方側が勝ってる」「敵側が負けてる」発言を集めては広めていてる。さらに何かの発言を見たとき、瞬時にそれが「味方側」か「敵側」かの判断をして、色眼鏡をかけて、味方側っぽい人の話はうんうんうなずきながら読む一方(時には読む前に広めてしまう)、敵側っぽい人の話はここにがどう間違ってるのかをあらさがしだけをするように読む。そして味方側の悪いところも、敵側の良いところも、なかったことにする
・属人性の強い人
頭の中に「味方側フォルダ」「敵側フォルダ」を分類していて、そのフォルダ分類に合わせて他人の意見を判断をする。何を言ってるのかを確認しない。「○○という名前を見てそっ閉じ」みたいなことを平気で言う(←これを「こいつの言ってることはどうせ間違ってる」ではなく「私はただ単に閉じただけです」だとか、言った本人も含めて誰も信じてない言い訳はやめてね)。
・敵側には何をしても許されると思っている人
「敵側」と判断した相手への公平さを一切考慮しない。最悪のところ、デマでも誹謗中傷でもなんでも許されると思っている。平気であやふやな情報による攻撃を率先して信じ広めるし、日常から「中傷的な名前の呼び方」なども平気で行っている。
また敵側と判断した相手に対しては、その他のあらゆる部分でとにかく攻撃的にならないといけない、否定しないといけない、譲歩してはいけない――と思っている。例えばある点でとても批判的な相手が別の部分でいいことを言ったりしても、絶対に認めない。あるいはある点でとても批判的な相手の、まったく別の本業の成果などに対して、端からバイアスをかけて否定しようとする。
公平さがない。
・訂正ができない、謝れない人
一度批判した相手は敵側なので、間違ったことを言ったり、中傷的なことを言ったり、なにか言い過ぎたりしても、訂正ができない。ましてや謝れない。「敵側」に対するなんらかの譲歩的なアクションはすべて、こちら側の失点であり、敵側の加点であると考えているので、「敵に対して訂正をしたり、謝ったりするなんて、できるか」と考えてしまう。それが明々白々な間違いでも、いやそうであるからこそ、やれない。
・口汚い人
「アホ」「バカ」「間抜け」などはもはや軽いジャブ、「人のクズ」「虫けら」「ゴキブリ」等々、とにかく口汚く敵を罵る。――なお、一般論として差別用語などを使う人間を批判する人の一部も、平気でこうだったりする。人を傷つけるのはやめようと思っている(ぼくも同意する)人が、なぜそうなるのか、よくわからない。
・自分に甘い人
以上、かなりの自戒を込めて書いた。
これを読んで「自分の考える敵どもって確かにそうだな!あいつらしょうもないな!」としか思えなかったら、それはやめてって思いますね。
おまけ
当たり前だが、最近よく見かけた……というのは、それが「多い」ことを意味しない。ましてや前より増えていたりすることをや。
心理学的に、ヒトは統計数字をうまく呑み込めず、「自分が思いつくこと」が統計的に多いのだと判断してしまうものらしい。何かが何かに比べて多いとか、何かが周りより突出しているとか、そういうのの根拠に「自分や周りの体験」「ネットで見たいくつかの件」を挙げたり、あるいは何かが少なかったりないという根拠に「見たことない」を挙げるの、エラーなんじゃないかなー。
ぼくはここ数か月で街で二回喧嘩を見たが(人生でもめずらしい体験だ)、それで『喧嘩は増えている』と言ったらおかしいのだと思う。そういうこと言う人が昔より増えている。
フランス人はストを支持するというのはリベラル出羽守によるバイアスあるよね。
https://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2014_10/france_01.html
ストライキ開始後6日が経過した6月16日に行った世論調査(注4) によると、76%の国民がSNCF職員のストライキに対して「反対」あるいは「どちらかというと反対」という回答を示した。逆に、ストライキに「賛成」あるいは「どちらかというと賛成」していたのは、22%に過ぎなかった(残りの2%は無回答)。これは、交通機関のストライキが国民生活への影響が大きいことや、恵まれた労働条件のSNCF職員の既得権益を守ろうとする姿勢に対する国民の反発がその背景にあるとされる。労働争議に対して、以前は国民の大多数の支持があったが、今日では支持されないことが多い。ほぼ同時期に実施された舞台芸術関係者(intermittents)の抗議行動に対しては、55%の国民が反対していた(Le Parisien誌)。国民の半数以上が舞台芸術関係者の抗議行動に対して批判的であったことになるが、SNCFの職員のストに対する批判はそれよりも大きかった。政府の対応も、舞台芸術関係者に対しては譲歩案を提示して理解を求める配慮があったのとは対照的であった(注5)。
オキシトシン過剰分泌は完全に良いこと扱いなので難しそうだな。人間社会のバイアスだな。
https://www.news-postseven.com/archives/20181102_790741.html?DETAIL
これは正直わかるんだよね。
呉座さんの職位は助教で、日文研の体制はどうなっているか知らないけど、英語のassistant professorにあたる地位だからテニュア(日本の場合は「定年までその組織にいられる権利」)を持ってない可能性が高いんだよね。
一方で北村さんは准教授。associate professorなので、多分テニュアだろう。
年下の女性准教授と年上の男性助教という構図、少なくとも「労働者としての安定性」という視点で見るなら力関係は北村>呉座になるという。男女差別とか年功序列とかの観点だと呉座>北村になるけど、テニュア持ってない研究者にとって一番大事なのってそこじゃないからなぁ。
だからこれ、「年下の女性研究者に対して男性研究者が」というフレームで処理されると絶妙に違和感あるんだよね。あれ? いつから助教の方が准教授より偉いことになってるんだっけ? っていう。
そういうのも含めてフレームの問題というか構造的な問題系に算入すべき属人要素はわりと注意するべきではあるなあ。 與那覇潤のように「知名度は呉座が上」という話をする者もあるくらいで
知名度については日本史家である與那覇さんのバイアスもあるでしょう。ぶっちゃけると二人の専門分野(英文学と日本中世史)が違いすぎていて「客観的な」知名度の比較なんてできないですよ。どちらも一般向け媒体で記事を書いたり一般向けの本を出していたりするので、同じ分野の他研究者よりも知名度はあると言えるかもしれませんが。ただ、誰でも名前を知ってる有名な一般書レーベル(中公新書)で本を出しているという点では呉座さんの方に一日の長がありますね。
終身在職権て日本にもあったんだ
えーと、日本でのテニュアは普通の会社で言うところの終身雇用のことであって、アメリカみたいな終身在職権じゃないです。日本だと定年制が合法なので……
そもそも職位は関係ない説もあって、私はそっちを推しますね。だってポストのない藤崎さんとか、そもそも学者ですらない川上未映子さんにも悪口言ってたわけでしょ。要するにリベラルやフェミっぽいことを発言する言論人が嫌いだったんだと思いますよ。
今回の件、「リベラル・フェミが嫌いなついったらーが鍵垢でリベラル・フェミ界隈の有名な言論人を相手に暴言を繰り返していたら、たまたまどっちも博士号持ちの学者だったせいで大騒ぎになった」というのが本質だと思うので、アカハラだ何だのというのがピンと来ないところが正直あります。まあ、だから許してやれよ、とは思わないですけど。どちらにせよ北村さんは暴言の被害者なわけだし。
そこまで言うならいかにBLが「正しくない」ジャンルなのかを説明してあげるね。まあどうせ釣りなんだろうけど。
なんか勘違いしてるかもしんないけど、BLの最大の問題点はエロとかじゃないからね。エロはあくまで付随的な問題。
女性を一方的に鑑賞される側におき、客体として消費することはフェミニズムにおいて長年批判の対象になってきた。女が、男に都合の良い客体である鑑賞物のように扱われることはよくないことである、という主張は強い賛同を集めてきた。とりわけ、女性差別が存在する現状においては。
であれば、同性愛者差別が存在する現状において、ゲイを、女に都合の良い鑑賞物のように扱うこともまた、よくないことだと言わなければならない。これは論理的に当然導かれる帰結だ。
要するに、BLはエロいから問題なのではない。マイノリティを客体化し、都合よく消費しているから問題なのだ。
とはいえ、抽象論だけ言われてもわけがわからないと思うので、具体的にどういう点が問題なのか説明してみよう。
何年か前、人工知能学会をめぐる炎上が起きたことがある。人工知能学会という学会が出している学術誌の表紙に、箒を持っている女性型ロボットのイラストが掲載されたのだ。これはまったくエロではないがフェミニストを中心に猛烈な非難が浴びせられた。
このイラストが批判されたのは、女は男に従属して家事をするものである、という女性に対する偏見やステレオタイプを助長するからだ。もちろん、日本には多くの専業主婦がいる。だが、たとえそれが統計的傾向として事実であっても「女は家事」というのは偏見でありバイアスである。そのようなジェンダーバイアスはけしからん、というのが批判側の主張だった。
NHKによるノーベル賞解説記事で聞き手役としてキズナアイが選ばれたとき、番組の構成や彼女の振る舞いに対して「男が解説し女はふんふん頷くものだというジェンダーバイアス」「女に理数系のことはどうせわからないという偏見」のような批判が浴びせられたのも記憶に新しい。
ところで、現代において、男同士のカップルには「男役と女役がある」あるいは「挿入する側とされる側は固定されている」というステレオタイプがある。実際に固定しているカップルもいるだろう。しかしそういう問題ではない。問題はそれが偏見やバイアスを助長するということなのだ。
つまり、攻めと受けとを固定している時点で、「女キャラは全員家庭に入って家事をしている/することを希望している」並の偏見に満ちた作品であるということになる。あるいはそれを暗示するのと同じことだということになる。
すなわち、CPの左右を固定している腐女子には、「この作品におけるこの描写はジェンダーバイアスなのでは?」などと物申す資格はない。
なるほど女がBLを真似て性犯罪を起こすことは身体の構造上ありえないかもしれない。だが女もゲイへの偏見の流布の加害者になりうる。
これはあくまで一例に過ぎない。他にも「『優しい世界』は差別の透明化なのでは?」「非当事者がマイノリティのセクシュアリティを題材に創作するのは文化の盗用だ」「同性愛かどうかを明示せずに『匂わせ』て視聴者を釣るのはクィア・ベイティングであり搾取だと思う」など、ポリティカル・コレクトネスの観点から見たときにBLは様々な観点から問題視されうる。
繰り返す。エロの問題ではないのだ。女性文化としてのBLは根本的に「正しくない」。
そしてもちろん、「正しくない」ことは「滅ぼすべき」を意味しない。開き直って「正しくない創作でも堂々と存在してよい。それが表現の自由だ」と吼えることもできる。というよりも、そう吼えるしか、BLにとって生き残りの道はもはや存在しない。
自分のスタンスを明示していなかったけど、各論としては選択的夫婦別姓に反対はしてない。細かい制度設計で気になる点はあるけど。
元増田の文意は、「リベラルってこれでいいの?」という疑問にあって、個別の制度自体の是非についてはあまり議論のモチベはない。
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
別姓制度を単体でみたときに、メリデメを合理的に考えればそうなる、という点で同意。
ただ、「文化伝統の維持」という主張に対する反論としては、議論のずれというか噛み合わなさを感じる。
そもそも保守思想というのは、人の考えうる「合理性」などたかが知れている、というスタンスであり、それゆえに伝統(現状維持)を志向するんだと思ってる。
確かに各論でみれば選択的夫婦別姓に反対する理由はないんだけど、そういった部分最適を積み重ねた結果、本当にみんなが幸せな未来(自由の侵害が最小化された世界)が来るのか、あるいはなんらかの予測しえなかった機序が働いて、もっと深刻な差別が発生するかもしれない、という懐疑論なのね。
そうすると、懐疑だけじゃなくて根拠をデータで示せよ、お気持ちじゃねーかよ、ってリベラルは主張するわけだけど、保守からすれば、そもそも人間がデータ化して認知し予測できる世界なんてまだまだ不十分だ、というのが基本スタンスなわけ。
実際に現代の科学でも株価も天気も予想できないじゃん。なら歴史に学んだ方が「合理的」だ、と。
なんで、「自由の侵害」を各論レベルでしか考えない反論、というのは、保守的な問題意識とは噛み合わんなーと思うわけです。「文化や伝統」というのは総論だから。
まあ保守側も「伝統を損なう」みたいなふわっとしたこと言うから、なかなかまともな議論にならんのですけどね。これは現状維持バイアスこそが保守みたいなとこあるんでしゃーない。
でもそこで、「保守を”ただの不合理なお気持ちバカ”とみなすような言説」がリベラル(?)に目立つんで、それはちょっと相手を見くびりすぎだし、多様性と相互理解を標榜するリベラルとしてどうなん?ということが言いたかったのでした。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
うーん。まあ前段はそうなんですが、私は保守派の理念をそこまで悪意的なものと解釈していません。はてなの左派言論において、保守思想に対する悪意的解釈が多くみられるように感じているので、それを指摘したい、というのが私の意図ではありました。
保守の言いたいこと汲み切れてないんじゃない?保守の主張が「一面的に他者の自由を損ねることをよしとする言説」に読めるのは、読解が足りないかバイアスかかってるんちゃう?ってことをリベラルに言いたい。
呉座さんの一件で、呉座さんの研究と性向との関係が問いただされている。トゥイターでは、エースの呉座さんがあんなのでは日本中世史は高が知れている、という話も出てきている。
ある人が書いたモノと、その人が持つ性格・性向をどこまで切り離せるのか? はよく話題に上る。私なりに今回の事柄において作品(研究)と作者の性向とがどう切り結ぶのか考えてみたいと思いつらつらと書き始める。
おおよそ史学では以下のプロセスで発表したり論考を著していく。
このプロセスを繰り返していく。
もちろん、あらゆる段階(ゼミ、研究会、学会発表、書評、反論の論文)で他者の批判にさらされる。
さて呉座さんの評判は、一件が露見するまで悪くはなかったですよね。
これはAからBにかけての能力に長けていたからだろうと思います。
もちろんA、Bに立脚した論の部分もしっかりしていたのだと思います。
ただ、Cの論の部分のすぐ背後には、2ch的なノリが隠然とあった。
もしかしたら、解釈部分のBにも批判された様なバイアスがあったかもしれない。
要するにBからCにかけてのプロセスには論者の主観が入り込む余地がある。
ただ、もしかしたら史料を読み込んで論を立てる場合においては、ミソジニー的、あるいは安い弄りを繰り返す的な性向は顔をのぞかせない可能性もある。
だから声望を得られる。
呉座さんの研究に疑問を投げかける人がいる。あるいは、「どこまで信じたら」というようなコメントを書く人もいる。
引く史料と、そしてその読み方の精確さは信じてもいいのではないか、というのが私の考えだ。
今回はその基本的なところからあまりに遊離した部分での性向が露見した。
史料に基づかない頭でっかちな部分が露わになった。そこは批判されるべきだし、職場からも然るべき譴責を受けるべきだろう。
だが、見てきた通り連続しているとはいえ、史料を読み込んで解釈して室町時代の民衆がどのようであったか組み立てていく作業は、そことは一線を引いても、間違いではないのではないか? そこは呉座さんを信じてもいいのではないか。
私たちはもちろん今後『応仁の乱』を読む時は、今まで通りには読めない。けれども、史料とその解釈は変わらずにそこにある。その学術的正しさを論及することはまた行うべきだが、そこに論者の性向を過度に見るべきではない、というのが私の意見。
こんなあたりに、研究と作者の性向とを隔てる線引きがあると思っている。要するに、史料をしっかり用意して読み込む、ってのが肝だ、ということだ。
また、やらかしが露見して大変なことになってしまった呉座さんだが今後も人生は続いていくわけで、大変だけれども頑張っていかなくてはならない。明日も明後日も来るし、出勤停止と何ならない限り職場に行かなくてはならない。
きっとそんな時に大切になるのは、やっぱり史料とその読みなのではないだろうか。偉そうな意見を学者にするのはなんだかアレだが、ひたすらこれを積んでいくしかねーんじゃねーかって思う。一発アウトになりやすい中世と違って人生が長く続く現代だが、史料と向き合い、史料に沈潜してこれからも頑張って欲しい。