はてなキーワード: トロとは
50過ぎたおっさんだがめちゃめちゃわかるぞ。
幼稚園のころ刺身とか大嫌いだった。ご飯を醤油ごはんにする、醤油をつけるハケ扱いしてた。
味覚音痴とか言うやつは、醤油も塩もつけないで食べてもおいしいと思うのかな?
刺身がおいしい味っていうのは「トロ・フィーチャリング醤油」の味じゃなくて「醤油・フィーチャリングトロ」の味でしょ。
大きくなって思春期ぐらいは、家が超金持ちになったので、冷蔵庫になんでもあったのよ。
シャトーブリアン、天然うなぎ、大トロ。すげーおいしかったよ。刺身うまいデビューもしたけど、
今考えてみると、醤油とか塩とかタレがなければそんなにおいしいものじゃないよ。
刺身とか寿司がおいしいっていうのは、親とかメディアとかの洗脳。
幼稚園ぐらいの味覚って一番冴えてる。野菜ぎらいだし。野菜なんてほぼほぼ毒でしょ。それを察知してる。味覚はおっさんになるほど衰える。実感してる。雰囲気とか経験値だけでおいしいとか、マズいとか判断してる。
自分はゲーヲタだと思ってるけど、まず世間のオタク像はアニオタだけっぽいのでオタクって言い出せない。
そして、よく考えたらゲーヲタってどういう基準で語っていいのかわからない。
アニメはゆるい線でいけば現行アニメを5割以上見てたら十分だと思うし、むしろ、現行アニメを3作品ぐらいで名乗っても不思議じゃない。
でも、ゲームって同時進行で3つも出来ない。出来ないことはないが、同じハードだと同時にできない。
そういう事を考えたらトロコンするために半年以上は同じゲームをやりつづけたり、同じゲームのマルチプレイをマッチングが時間掛かるようになるまでやるぐらいのはゲーオタでもなんでもなくてただのゲーム好きでしかないのではないか。
私はオナニーが好きだ。彼氏いないからHはしたことない。専らシコシコとクリオナに励んでいる。
ある日オカズとして選んだAVで女優さんが挿入されてからずっと涎まみれで獣のように喘いで感じている作品があった。右手でクリを触るのも忘れ、食い入るように見てしまった。ふと(クリオナも気持ちいいけどいい歳だし膣中も弄ってみようかな~)と思い立ち、まずはクリイキしてから中指一本、膣に入れようと思った。が、びちゃっと音がする位濡れていても異物感と痛さで動かそうとも思えず、指を入れて気持ち良くないとただがっかりしていた。
でも中イキはしてみたい、そんな気持ちが強くなった。ネットの助けを借り、膣中の感度を上げるにはクリ・膣の二点責めが有効との事で一人暮しの今、大人のオモチャを購入する決心をした。オモチャのサイトで初心者向きとオススメされていたのがオルガスターだった。バイブは多分入らなさそうだし、これなら細そう丁度いいと思い即ポチ。ついでにローションも買った。
届いてから早速使ってみた。先端部分太くない?!やっぱり入らない。膣の入り口が痛い。Hした事ない処女には太くて入らなかった。まずは指でほぐした。1時間以上ほぐした。
すると何かイキはしないけど淡いような気持ち良さが出てきて何となくしめた!と思い、もう一本指を増やし突っ込んだ。
指二本入った事に感動し、そこからまた30分以上ほぐした。これはオルガスターが入る!と確信を覚えローションを付け再度挿入。さっきより痛くないけどまだ入らない。ま○この力を抜いてグイグイと押し込む。
すると先端がつるんと入った。少し痛かったのと一瞬猛烈な尿意を感じた。全部入った。あの痛みは何だったのか痛くないぞ!と感動した。スイッチをONにするとクリの刺激部分がま○こ全体に響き渡るような感じで気持ちよい。予めネットで四つん這いになるとオルガスターが抜けずに更に感じるとの情報を得たのでトライ。ヤバい。ケツ突き出してオモチャを咥えてる体勢がなんかいい感じに良くて連続で何回もイッてしまった。快感が込み上げてイクのが止まらない。スイッチを強弱で自分を苛めていくと何か奥にグイっとくる感触が。急にピンポイントで強烈な快感を感じ、膣をぎゅっぎゅと締め付けずにはいられなかった。締め付けると声もあげられない程気持ちよくなった。これ以上感じると怖いと思い、オルガスターを引っこ抜くと中から温かい愛液がトローリと漏れた。口コミを見てると感じないという意見もあったけど私にはクリにも当たるし抜けない気持ちいいでヤミツキになりそう。
処女なのに中イキ出来て嬉しい。こんな気持ちいいもんだとは。相手が居たらずんずん突いてくれたら気持ちいいのかなー。彼氏が出来るまでどんとん開発しようと思う。
僕らは都内の大学生で、お互いが初めての相手だった。だから最初の頃は緊張からくるマグロ、つまり緊張マグロかと思ったがどうやら本マグロのようで、今でも反応が悪い。
普段のデートでは常に走り回ってないと死んでしまうんじゃないかってくらい元気なのに、ベッドの中ではまな板の上の何とやら…。-50℃の冷蔵庫で保管されてたんじゃないかってくらい体はカチカチ。こっちが必死に動いててもふと顔を見ると死んだ魚のような目をしていたりする。せっかくツナがっているのだからなんとかトロけるような気持ちにさせてあげたい。
本当は友だちにも相談したいのだが、性の話題をヅケヅケと話すのも躊躇われてここに吐き出させてもらった。
僕は一体どうしたらいいのだろう。
本日のWESTival広島昼公演にて、ジャニーズWESTのオタクを一旦休むことにした。
休むといってもCDは買うし、いずれ行われるであろう次のツアーにも参戦するつもりではいる。
じゃあ何が休むんだよって話だけど、休むのは物的な話ではなくて気持ちの話だ。
2016年12月24日、人生初めてのコンサートで「私はずっとこのグループについていこう」と心に決めた。あれ程幸せなクリスマスは後にも先にもないだろうし、あの瞬間に私はいつ死んでもいいと思った。
純粋に彼らのことが大好きで、彼らが眩しかった。このグループを好きでいてよかった、濵田くんのことが好きでよかった、濵田くんの仲間がこの6人でよかったと心底思った。
しかしそんな純粋な「好き」の気持ちはいつのまにか歪んでしまった。
始まりは『おーさか☆愛・eye・哀』発売の頃だったように思う。ジャニーズWESTの並び順が変わったのだ。
それまでは重岡センターや虹色順以外の並びにこれといった決まりはなかったはずなのに、いつのまにか[小瀧・重岡・藤井]の並びが固定化された。また、この『おーさか☆愛・eye・哀』には自担のパートがなく、同三人と神山くんに見せ場となるパートが用意されていた。濵田くんには何もなかった。
それ以来、彼のポジションやソロパートを意識する機会が増えた。元からハモりパートが多い彼だったが、A面でのソロパートはこのシングルを機に少なくなったような気がする。
そんな小さなことで、そんなことを気にするなんて、メンバーみんな好きなんだからそれくらい気にするな、被害妄想じゃないのか、何度自分にそう言い聞かせたかわからない。それでも私はどんどん辛くなっていった。
私は7人一並びのジャニーズWESTが好きだった。勝ち馬しか乗りたがらない私は、適材適所で平等な彼らだからこそ濵田くんを好きになった。だからこそ並び順が変わったこと、固定化されたことが辛かったんだと思う。自分が勝ち馬に乗りたいだけかもしれないけれど。
他のオタクからしたら、自担のことばかり考えてる自分勝手な奴、7人全員を愛してやれよと思われることかもしれない。でも私は無理だった。濵田くんのことが好きなのは変わらないけれど、濵田くんのパートが少ないこと、ポジションが固定化されたこと、実際に濵田くんにあまり人気があるわけではないこと、そんなことが気になって気になって、いつしかそれが歪んだ気持ちを生んでしまった。
最終的に、他の6人に対して嫉妬のような醜い感情を向けてしまうようになった。
濵田くんが好きなあまりというより、自らの承認欲求を満たしたいがためだった気がする。
いずれにせよ、もう2016年12月24日の私はいなくなっていた。
そうなってしまってからは、応援していると気持ちが苦しくなる一方だった。こんな醜い気持ちで応援している自分も嫌になった。幸せそうな他担のツイートも、私と違って純粋に彼を応援している同担のツイートも見れなくなった。
でも、歪んだ感情になってしまっても、彼らを降りることはできない自分がいた。それは濵田くんのことがまだ好きだからだ、と信じたい自分がいる。しかし、「濵田くんが好きな私」というアイデンティティとジャニーズWESTがきっかけで生まれた人間関係のため、そしてここまでかけてきたお金と時間による意地じゃないのか?と言われて完全に否定することができなかった。どこまでも自分の感情は醜かった。
そんな複雑な気持ちを抱えて挑んだ、2月のWESTival宮城公演。生で見ればやっぱり7人全員輝いているしかっこいい。しかしどうしてもあのクリスマスほども盛り上がれない自分がいた。その後の二回の大阪公演でもそれは同じだった。
そして自分の決定的な気持ちの変化に気づいたのは今年の4月1日に入ったSexy Zoneのツアー大阪公演である。純粋に楽しかった。かっこいいケンティを見て自然と悲鳴が出た。その気持ちと悲鳴はジャニーズWESTにはなかった。
「ああ、やっぱりもう好きじゃないのかもしれない」。ちょうどSEVENTEENにハマり始めていたこともあってその気持ちは大きかった。そしてもう彼らのことを純粋な気持ちで見れないこと、好きが歪んでしまったこと、あと単純にジャニーズWESTというコンテンツへの飽きを感じた。明確に彼らと区切りをつけるべきであることを感じさせられた。
しかしそれでも濵田崇裕というアイドルを降りることはできないと思った。自分本位な醜い感情は否定できないけれど、やっぱり「好き」という気持ちが残っているのだろう。
だから私は広島公演を一つの区切りにしようと決めた。広島公演を最後に彼らに対する気持ちを整理しよう、彼らを純粋に楽しめる自分に戻るために一度彼らから離れよう、そう決めたのだ。
明確に終わらせるわけではないけれど、ここで一旦区切りをつけようと決めて挑んだ広島公演は思い出深いものになった。
「最後だからあわよくばファンサもらえねーかな」くらいの気持ちで汚い団扇を作って、まあでも案の定気づかれることはなく、呆気なく終わった1日目。ここで若干燃え尽きたところはあった。
付き合いで仕方なく、という気持ちで入った2日目。もう団扇を持つ気はなかったが、同行の友人が「せっかく作ったんでしょ!私が持つよ」と団扇を持ってくれた。席はスタンドで、スタトロが来た時にもしかしたら、くらいの距離。今まで悉く相手にされなかった私は若干諦めつつも来たら頑張ろうという気持ちだった。
そしていざスタトロが通ったとき、隣の友人の強いアピールに押され、「これが最後だから!!」と私も必死で彼に手を振り名前を呼んだ。少し離れたところに同担がいて濵田くんは彼女の「釣って」団扇に反応。もう無理だろうな、ファンサもらうことなく終わるんだろうな、その一瞬でそう悟ったその時だった。彼の視界に自分が入ったのがわかった。今までに感じたことのない確信があった。
彼は私と団扇を持って来れた友人に向けて手を振ってくれた。周りには必死にアピールするオタクがたくさんいた。それでも私の方だけを見て手を振った。
確信はあったが自身のない私は一瞬戸惑った。しかし彼はそれを察してしっかり頷きながら私に手を振ってくれた。他の同担もいただろうに、私の前を通る時は私にだけ手を振ってくれた。
「ああ、これで心置きなく最後と言える」
一瞬のその時間でそう感じた私の口から出た言葉は「ありがとう」だった。彼に届いたかはわからないけれど、本当にそれしかなかった。Twitterではネタっぽく書いたが、心の底から自然と出た言葉だった。これまで濵田くんを応援できて幸せだったな、出会えてよかったな、という素直で純粋な気持ちが久し振りに帰って来た気がした。
そして最後のコールアンドレスポンス、いつもセンターの重岡が舵をとるおきまりのコーナー。しかしなぜか今回は重岡が濵田くんを指名した。いつもはそんなこと絶対にない。自分を含めたオタクたちの戸惑いをひしひしと感じた。これはいつものネタで重岡が結局やるんだろうな、と思っていたが、本当に濵田くんの掛け声でライブが幕を閉じた。
私はこれが自分への何かしらのメッセージだとしか思えなかった。そんなわけないことはわかっているけれど、濵田くんが、ジャニーズWESTが、こんな私でもまだここにいていいよと言ってくれているように感じた。
それでも、このまま応援し続けたらまた醜い自分が出て来てしまうと思う。彼らに対する飽きが来ていることも否定できない。
だから私は彼らを応援することを休むことにした。どう言うスタンスになったのかを説明することは面倒臭いので省略するが、彼氏が一番気の合う友達になった感覚が一番近いと思う。
これから自分の気持ちが戻るかどうかはわからないけれど、一旦今の気持ちを記した。本当にいい区切りになったと思う。
以下3文絵小説漫画音楽作詞ボカロPCサークル参加者以上全部アマチュアの創作家の長ったらしい愚痴。
先日、インターネット小説を添削し合う会! みたいなもんに参加しました。
ウェブに投稿された小説を下読みして、集団スカイプでよりよいものにするために話し合ったり感想言ったりしよう! という企画でした。
参加者は、年齢幅は若い人が多めだけど中年の人もいる感じの年齢層で、アマチュアで小説を書いているけど、なろう(小説家になろう)とかに投稿してるよ!(つまり、小説家になって! って声がかかればなることも吝かではないということ、という人も中にはいるということ。) という人も多く、顔ぶれは様々でしたん。
そんで、
「これ読んで下さい!」
って提出された文章は、長さ様々ですが、大小様々に10くらいかな。知らんけど。長さの規定なかったし。
そんで、まず一作品目を見ましたん。
オッ! 手書きゥーーーーーー!! 紙(原稿用紙ではない)に手書き原稿ゥー!!!
いや圧が凄いのは確かだった。禍々しかった。
でも、ビッツツツツツツしりと書かれた、手描きでシャーペン?! シャーペンかぁこれぇ?! って感じの丸い文字。
しばらく苦笑いした後に、読みました。
長い(20枚)
終わらない
つまりどういうこと?
タイトル回収どこ? ここ?
(なんやかんやあって)
「安い!」「早い!」「うまい!」
ならぬ
「長い!」「辛い!」「読めなくはない!」
しかも、ここに「読ませる気がない!」が加わってて完璧じゃないですかあー! やだー!! 小説のデスクワトロフォルマッ
で、その後も同じような欠点がある小説を読み、スカイプ当日になり、スカイプに全員が集まりました。
アドバイスを言い合う段になって、皆結構辛口な選評を届けるなか、ワイもその件の手書きの人にアドバイス求められたんです。
ワイ「皆さんに言えることだと思いますが、小説の書き方の指南書を読んで実践してみるといいと思います」
相手「え……? 嫌ですけどなんでですか(半ギレ)」
ワイ「え?」
相手「なんで小説の技法書(笑)なんか読まなアカンのですか(苦笑)読まなきゃアカンのはワイさんでは」
ワイ「はいぃ?」
ワイ「言い過ぎって何が言いすぎなんですか?」
主催「いや、あの……相手さんは書ける人ですよ、それに、相手さんは毎日お話をたくさん書いてますし量もこなしてますよ? ちゃんと小説としての体裁をとってると思うし、なによりそんな、小説の技法書を読んで実践してみろなんてよくそんなひどいこと言えますね、ほんと読まなきゃいけないのはワイさんでは……? 何より、そんなの実践したら個性消えますよ」
(知り合いの誘いでも)二度と乗らんわこんなクソ会
……ハァー(もういちどキーボードに手を伸ばす)
そうだ。物語というものをみんな「紙と鉛筆、またはインターネット環境があれば誰でも簡単に書けるもの」だと思っているのだ。
ワイはそれを忘れていたのだ。だから時折こういう奴が存在する! ものを書く、いや、創作するということ全般をナメてるやつ!
文字単語を並べて、内容もクソもない文章を作って はい小説です! って出してそれが はいベストセラーです!! ってなったら世の中にワナビはいない
下手で洗練されてない、思想もない、絵を並べて はい漫画です! 絵です! って出してそれが はい名画です! ってなれば 世の中に画家とか漫画なんて職業は存在しないし、やっぱりワナビも居ない
最初から曲を作れる人がたくさんいたら、この世にDTMで挫折する人なんて居ないの!! だからワナビも居ない!
だがそういう人たちは言うのだ「でも普通にデビュー作でヒットかましてる人もいるじゃん!」
「みんな創作する人たちは(本当は言いたくて仕方ないけど地道に)努力してるんだよ!!」と言いたくなります。
いい感じの喫茶店とかスタバでコーヒー片手に小説らしき文章を書きながらほくそ笑んでるだけじゃ良い小説は書けません。
机にかじりついて、ウッギィイィィィィィィ!! 書いてやるウゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!!!
って呪詛のように鈍い文句に満ち溢れた私怨に満ちた文章を綴っているだけでは良い小説は書けません。
まあ「人に読ませることを想定していない文章」は出来ると思いますが。
先程の会話劇の話に戻ります。
この会話の参加者たちは、特に小説の技法書を馬鹿にしていて、ワイはそれが許せなかった。
なんで馬鹿にしているのか。それは、彼らが既成観念に囚われているからに他ならない。
・趣味だからいいだろと言いつつなろうに投稿し「声がかかったら小説家になるのもやぶさかではない」気でいる(そういう人もいる)
ぅうーーーーー
小説しか書いたことがない人には、絵やDTMのたとえはピンと来ないかもですが、
絵を描く際は何よりも「基礎画力」と「応用力」と「資料」を大事にします(この3つの言い方は様々あり、足りない人はまとめてデッサンしろとか言われたりします)
基礎画力と応用力と資料は、3つバランスが取れてなきゃいけないんです。
基礎画力が足りなくて、応用力と資料だけあっても、ぐちゃぐちゃが出来るだけですし、資料があってもそれを応用できないとなんじゃこりゃ? ってなぐあいです。
DTMに関してもそうでしょう。音楽の「基礎知識」と、楽曲に応用する「応用力」と、音楽に関する「資料」
・小説の技法書なんて小説書き素人が読むものだと思ってる って人は
・小説を書けると思ってる から下のくだりつながっていくんだよ!!
全部思ってるってだけなんですよね。
量をこなしてても(基礎画力・基礎知識)、応用力と資料がないと意味ないです。
それはただ、「資料も基礎知識もなく、ただなんとなく書いてたらできた小説」です。
あ、でも中にはね、
って人もめっちゃおる
たしかに小説って名前つければ全世界の全ては小説じゃい。じゃあ小説でええやろ!?って?
でも、そういうプロ作家さんの「トリッキーな動き」を真似するには、相当な覚悟と努力が必要なんじゃないでしょうか?
体操教室に通わずに連続バック中したら大体の人は(相当若くて運動神経もよくない限り)骨折りますよ。
絵なら、リアルに骨折れてるって指摘されますよ。DTMなら、聞くに堪えない騒音が聞こえますよ。
そういうのを越えて連続バック中ができるのは、ごくごく一部の天才だけです。
だからワイは言ったんです
なぜって、基礎と応用する力をまとめて叩き込んでくれるんだから。
3冊も読んで、一冊ずつ実践していけば十分なんじゃないでしょうか?
でもねここまで書いたけど、中には
っていう人もいますよね。でもそれはまったく間違いで。
よくそういうことを創作者さんは言われますが、「消える程度なら個性じゃない」です。
個性とは、身の内面からにじみ出てくるものです。書いても書いても決して失われないものです。
意識せずに作り上げて何が個性か。そんな作り上げる個性、よっぽど凄くない限り、骨を折って終わりです。
・趣味だからいいだろ! と言い訳しつつ小説家になろうに投稿しているが、小説家になって! って声がかかればなることも吝かではない。わかって♥
わかんない♥ 甘えるな♥
以上
(じゃあここまで愚痴っといてお前の立場はアマチュアだろ偉そうなこつ言うな! って言われると思うけど
ワイは確かに趣味ですけん、だが趣味の範囲でホンキで取り組んでるからこそ「先人の苦労や知恵の結晶」が馬鹿にされるのが単に許せねーっす)
アニメを見ながらゲームしてるんだけど、これやるとちょっと困った事が起こる。
脳内で全然関係ないアニメと全然関係ないゲームが連結してしまう。
なので何年経ってもABBAのダンシングクイーンが流れると「アストロノーカ」で交配したくなってしまう。
ダンシングクイーンはバラエティなんかでもよく流れるので困ってしまって、結局アーカイブスで購入してVITAに入れてある。
一番困ったのはドラえもんの映画主題歌全集を聴きながらうるし原智の漫画を読んでいたので…わかるだろ。
ってふたつともアニメじゃないなこれ。ごめん。ふたつめに至ってはゲームですらないし。
まぁとにかくアニメーターさんと、ゲームの作曲家さんには悪いなぁと思っている。でもどうしても静かにアニメを見ている事が出来なくて、手を動かしたくなっちゃうんだよね。
https://twitter.com/c_ssk/status/970995446662377473
"「ショイプ・オブ・ウォーター」を見たアセクシャルの友達が「(恋愛映画なのに)理解できたの?」って言われた話が本当につらくて、今これを書くだけでちょっと泣きそうなんだけど、こういうことを問われるのは常にマイノリティだけなんだよね。お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!"
https://twitter.com/c_ssk/status/970995641299042305
"シスヘテロ恋愛ものを見て感動した非シスヘテロは「わかるの?」と問われたり、「わかんないでしょ」と決めつけられることさえあるのに、シスヘテロの観客がLGBTの話に感動したら「これはLGBTの映画じゃない」とか言い出す。いい加減にしろよ。物語を剥奪するな。"
チキささの「アセクシャルの友達」が文字通り「理解できたの?」と言われたのかどうかは不明だが、そのアセクシャルの友達と「理解できたの?」発言の人とは一定の信頼関係があったことは予想できるし(日ごろからアセクシャルであることを誰彼構わず触れ回ってるなら別だが)、真相は「デル・トロといえども恋愛至上主義からは自由ではないんだねぇ」「アセクシャルならこの残念さよくわかるよね」という発言にアセクシャル側が同意を求められ、たまたまデル・トロ好きだったから(日頃の主張も忘れ)不快になった、という程度の話なのではないか。
そもそも、ある物語が住む地域も人種も宗教も違う人々をも感動させるのはそこになんらかの普遍的な要素があるからで、「内観」という、人間が情動を理解する唯一の手段を働かせるという意味での共感性があるからである。かつての権威づけされた芸術作品には貧困層などは排除されており、その作者やその作品の同時代人たちが考える「人間の基本的な条件」が現在よりよほど狭く設定されていたことが普遍の描き方に反映してしまっていた。しかし、現代では大衆化されさまざまなマイノリティ性を含んでもなお、そこに普遍を描くことができ、物語製作は豊かなになってきている。
つまり、「人間なら異性に惚れるのは当たり前だよね」と条件づけられていた「普遍」は、現代の人々が同性愛者の存在を広く認知し尊重するようになったことにより「同性に惚れるのだって人間だよ」というように拡張してきているのである。
ここで「物語からマイノリティを排除するな」という訴えは要するに、「普遍」を描く際の人間の条件からマイノリティを排除するなということであり、「現代社会はアセクシャルを排除している」という訴えは、ほとんど全ての創作物が謳いあげる「普遍」に性愛要素が含まれることを撃っているのである。その意義は大きい。「行け!稲中卓球部」で誤解から卓球の選抜チームに入った前野が、実際には卓球の実力も熱意もないため、卓球の話ばかりする選抜チームの中で退屈さと疎外感から唐突に「サメの話しようぜ」と言い出す滑稽な場面があるが、アセクシャルにとっては行く先どこもに恋愛の選抜チームが結成されている状況であり逃げ場がなく、前野とは違うのである。
ここで「シェイプ・オブ・ウォーター」に戻ると、そもそも恋愛映画であるが登場するのは半魚人である。繰り返すが、人間には情動を理解する手がかりが自分自身にしかないため、動物だけが登場する作品においてさえ、動物は人間が化けたように子の死を嘆き、群れからはぐれれば孤独を感じるように描写される。これは「動物性の剥奪だ」と非難する事すらできるだろう。動物のことはわからないのだから勝手に当てはめるなとも言えるだろう。2008年のディズニー映画「WALL-E」は、荒廃した惑星でただ一体動くロボットが主人公だが、その主人公は物語中で「女性の」ロボットと出会い、彼女との性愛関係を志向するようになる。遠い未来のロボットであってもヘテロセクシャルなのか! と当時ディズニーの物語製作には大いに落胆させられたものである。
「シェイプ・オブ・ウォーター」も物語構造の核としてシスヘテロ恋愛でしかなくこの種の批判は免れない。アセクシャルの友人が批判的コメントを求められることはありそうなことだ。
チキささは「お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!」と言うが、半魚人と付き合ったことなくても、自身のシスヘテ恋愛経験を拡張して半魚人と付き合うことまで理解してしまえるのが「普遍」だし、そこに同時にアセクシャルを排除したシスヘテ至上主義の傲慢もあるのである。
たまたまチキささとそのアセクシャルの友人がデル・トロ贔屓なのかもしれないが(おそらく「パシフィック・リム」においてベケットとマコが最後にキスしなかったことを評価しているクチだろう)、「シェイプ・オブ・ウォーター」は批判するべき作品である。
そもそも「アセクシャルならヘテロ作品わからないでしょ?」なんていう見解は圧倒的少数であり、アセクシャルが戦い、苦悩しているのは「やっぱりヘテロ恋愛には感動しちゃうよね。人を好きになること、これは人類不変の原理なんだよ」というような理路である。実際にそんなリプがついている。こんな藁人形叩きに近いツイートが大きな共感を得ているのは、シスヘテ至上主義の側がこのツイートに「救われている」からである。チキささは無能なアライであることを自覚するべきだ。
子供の頃は寿司といえば贅沢の極みだったけど、大人になった今となっては回転寿司くらいなら気軽に行けるようになった。
よく行く回転寿司屋は100円~400円のレンジの価格帯で大体1食あたり1500円前後で結構腹がいっぱいになるほど食える。
1食1500円は高いという見方もあるけど、寿司に向かって1週間辛いお仕事を頑張って生きて行くのだから1500円なんて割に合った価格だ。
昼に行っても夜に行っても値段も一定だし、昼から夜まで営業しててそんなに混雑してないし落ち着いててよいな。
鉄火巻き→コハダ→ゲソ→アジ→イカ→(気分ネタ)→コハダ→ゲソ→サラダ軍艦
スタートは鉄火巻きで落ち着いて、その後は光り物とイカを中心にしながら好きなものを食って最後はサラダ軍艦でシメる。
回転寿司屋に通いはじめた頃はサーモンとかトロみたいなパワーヒッターばかり食べてたのだけど、やつらはいかんせんパワーが強過ぎておっさんの胃には辛い。
というわけで改良を重ねた結果があれ。