はてなキーワード: 根性論とは
生家は漁師を生業としており、親父は一般的にイメージされるガハハと笑うような快活明朗なタイプで、根性論が大好きだし息子娘問わず鉄拳制裁なんて日常茶飯事だった。
ただ一応は男女の線引きがあったような気はしていて、女兄弟は納屋に閉じ込められる程度の折檻は受けていたものの、男の俺のように木へ吊るされるとか海へぶん投げられるみたいな折檻を受けていたようなことは無かったように記憶している。
親父は子供をハチャメチャに殴り倒すみたいなことは無く、鬼の形相で強力な一撃を食らわし「反省せい!」とか「何やっとるか!」みたいに檄を一言放って作業場や寝室に籠もるというような人だった。
その後にお袋や祖父母が何が悪かったのか説明をしはじめて「お父さんに謝りに行こうね」と説得されて謝りに行くのが常だった。
まぁ冷静に考えると幼児の頃から高校生になるまで常に「強力な一撃」と感じたということは、おそらく年齢や体格に合わせて力加減をしていたのだろうと今なら想像付くが、当時はそんなこと気付かないので、ただただ親父が激怒するほどの大変なことをしてしまったのだなと思っていた。
俺の妻が妊娠したとなったとき、親父は気分が良くなったのか酒の進みが早く酔いが回って口が軽くなったのか「あのイタズラ坊主が」と言っていたのが実に印象深い。
そして「男らしく振るまえ、力の使いどころは考えなきゃいけない」と続いて、最後は「男の暴力は凄く大事なものだ、大切なものなんだ、宝物なんだ、その意味を考えろ」と言った。
はてなで過ごすと暴力なんてものは絶対禁忌で、どんなことがあろうと、例えそれが正義であれ悪であれ行使すべきものではない、何なら暴力は絶対悪と思いたくなるが、俺の親父は「暴力は宝物」と言う。
その価値観の違いに混乱するけれど、親父が亡くなって子供がある程度大きくなった今ならば親父が何を言いたかったのか何となくわかる。
男にとって暴力とは最後の手段なのだ。
大切な人々を最後、極限的に守らなければならないときに行使するのが暴力。自然が先祖が神が人間の男に与えた大事にとっておかなければならないのが暴力なんだ。
だからこそ、暴力をみだりに行使することは非難されるべきであり、だからこそ宝物なんだと俺は思う。
親父が強力な一撃を放ったあと作業場や寝室に籠もってしまったのも今ならわかる。
息子をぶん殴るなんて何と心苦しく、そして愚かな行為なのか。それ以外の選択肢を取れなかった自分が何と情けないことか。
酔った勢いではじめて親父が理想と考えていた男親の姿を知ることが出来た。
親父は折檻を適切な教育とは思ってなかったんだ。ただそれしか方法が思い付かなかったから咄嗟にやっていただけだった。
俺はもしものとき暴力を行使できるのか。
そうならないようにすることが本当に大事だけれど、暴力によって息子を静止し、そして暴力によって息子や妻を脅威から逃がすことができるんだろうか。
たぶん俺の親父は躊躇せずやれるだろうけど、息子である俺はどこか躊躇してしまうだろうと思う。
幼少期に親父が俺へ対して「俺からは力の強さを、お母さんからは優しさを継いだ」と評価してくれたけれど、俺は親父よりも肝っ玉が小さいので優しさというのはオブラートに包んだ表現だったんだろう。
暴力を考えること、暴力の行使とは実に難しい、俺は度々そう感じる。
誤魔化しという体にした大嘘だ。
「連続して休みを取ってる人も居ますよ!(普段休めないので仕事に空白ができたタイミングでまとめて取るしかないですよ。でも有給使い切れている人はメンヘラになって病休な人ぐらいです)」
「上司と気軽にふざけあったりしてますよ!(上司の悪ノリに愛想笑いで付き合わないといけない職場です。楽しいのは権力があって空気が読めない人ぐらいです。空気が読めると権力があってもそういう人達に傷つけられた人のフォローで胃を痛めることになります)」
「入ってすぐに研修がありますよ!(合宿上で根性論を詰め込むだけです。OJTという大義名分のもとに投げ出され、合宿で学んだ根性論で解決しろと丸投げですよ)」
こんな感じで、質問には言葉の上では嘘にならない範囲で答えているが、その裏にあるものを考えると嘘しか言ってないも同然だ。
一人で書類整理をしているときにはこういった誤魔化しの連鎖と風通しの悪さに苛ついていつか告発してやろうと燃えているのだが、いざ人前に出るとヘラヘラと嘘を繰り返すクズ野郎になってしまう。
自分でほとほと嫌になるが、こうでもしないとノルマを達成できないので仕方がない。
仕方がない。
55ぐらいまではほとんどがギリギリなんとか動けたり考えたりできるけれど、
60を超えてくると半分ぐらいは痴呆が入っていたり、体の不調で動けなかったり、そもそも思考と動きが緩慢になったりしてくる。
加えて、近年は技術革新もあって、その世代が持つ知識が不要になっていることも多く、
彼らが唱えることの多くが根性論であり、効率などを放棄している。
(もちろん、代えがたい技術を持っていたりする場合は、別途契約するとよいと思うが・・・)
近々の話をするなら、彼らの年収で新人が2人近く雇えることも多く、
彼らにも生活がある。
年金が払えないなどあるだろうが、彼らより下の世代を見る限り、生涯収入は圧倒的に多く、
そんな使い物にならない彼らの補助がこれ以上必要だろうか?
今最も行わなければならないのは新陳代謝であり、
今まで十分に肥え太った部分を切り捨てることが重要のではないだろうか?
確かにコロナで仕事を失ったり、突然家族を失うって事は辛いと思う。というか、辛い実体験しているだけに余計にわかる。
だけど、いつまでも悲しんでいても仕方ないし『どうせ』って言葉を使って、そのままではいられない。
それを前提に友人と話した内容をここに書く。
きっかけは久々にあった友人との会話だった。
彼はコロナで仕事を失ったわけじゃなく、会社が嫌になったから止めたと理由で無職になった。
彼の親は病気で余命は長くはなかったが、事前に告知があったので慌てることもなく時間は進んでいった。
その彼が会話の中で「コロナで動きづらい」「国は何もしてくれない」「やりたいことができないので生きる気力がない」などと次々と語ってきた。
言っていることはわかる。
コロナであれこれ制限され、国は何もしていないわけじゃないが具体的な解決に繋がる行動はしていない。
だけど、生きる気力はなんとも言えなかった。
やりたいことは何か?と聞けば、スポーツ観戦に行きたい、ライブに行きたい、自由にでかけたいと言う。
どれも出来ないわけではない。
行ける範囲で行ったらどうか?と提案すると、コロナのせいでーと繰り返すばかり。
なら、仕事を始めてコロナが落ち着いたらパーッと使える金でも稼いだらどうか?と提案すると
今は仕事をする気にもならないし、コロナのせいで仕事が見つからないと言う。
コロナのせいで見つからないも何もコロナの真っ最中に退職しているのは、彼だ。
「増田(私の事)は良いよね。なんでも前向きに考えられるから」
別に前向きに考えているわけじゃない。コロナになろうが、自分のルーティンを守っているだけだ。
だから「悲観的になっていないで自分のいつもの事を行っているだけ」と答えたが、どうも彼は納得がいってないらしい。
彼からすれば、私がなんにも変わってないことが強さであると言い、弱い人の気持ちはわかってもらえないと考えているようだ。
「悲観的になっていても仕方ないだろう。それで自分の生活を崩されるのは嫌じゃないか?」と聞けば、
彼は「そういう考えが強い人の言い分なんだよ。弱い人の気持ちなんかわからないよな」と言ってくる。
勝手な強弱のものさしで測られるのは、不快にしか感じられないが彼のものさしで答えるのなら彼自身のものさしがあまりにも短すぎるとしか思えない。
そんなもので測ってもらった所で、彼が私に勝つ事(なんの勝利なのかわからない)は出来ないし、今も毎日苦しみながら低賃金で労働している人たちの誰にも勝てるわけが無い。
そういう事がわかってないようなので、根性論で話すのはどうかと思ったが…一番手っ取り早い言葉で『もう少し根性見せてみたらどうか?』と伝えた。
まあもちろん、自分の中の強さ弱さでしか考えられない人に話が通じるわけもないのだが。
結局の所は「強い人だから言える」と言われて終わった。
まあ予想通りの答えだ。
世の中、自分の杓子定規で考える人は多い。というか、これは全人類が持ち合わせている考えだ。
なので、止めてほしいと思っても無理な話なのだ。
よしんば、理解したように私に同意する人がいたとしても、それは同調しただけでその人の中にもこの考えは植えられている。
それでもやっぱり止めてほしいと思ってしまうのは、人の性なんだろうなあ。
それどころか、今以上の疎外感、劣等感、その他諸々に襲われて立ち直れなくなるんやで。
やる気が出ないんやない、お前が立ち上がろうとしとらんだけや。
努力してるって言っても、それは口先だけや。
努力は結果のためのものであって、努力を誇ってもなんも偉ない。
よくSNSなんかで『逃げても良い』って聞くやろ?
逃げても良い時は絶対あるんや。それは間違いない。
だけどな、何でも逃げていいわけやない。
根性論とか嫌いやけど、気合い入れて踏ん張らないけない時はある。そんな時に逃げるやつは駄目なんや。
たまにいるんや、頑張って生きてる人に頑張れなんて酷いって言う奴がな。
違う、みんなそれぞれ頑張ってんのや。逃げたい時があっても踏ん張って乗り越えて、そんでたまに楽しい事して生きてんのや。
お前一人が頑張ってるんやない。お前の周りも生きるために頑張っとるんやで。
鬱ってな、ホンマ辛いんや。だけどな、鬱は誰も治してくれへんのや。
自分で治す病気や、自然治癒なんか無い。己が治癒させるもんなんや。
こんなもん続けっとたら、ホンマにお前立ち直れないどころかただの穀潰しや。
そんなん家族も見たない。友人知人だってそんなお前を見たない。
お前しか治せへんのや。
「うつは心の病気ではなくて脳の病気だ、心の病気だと言うから怠けや甘えだと思われる」って……
いや、そんな事言ったら胃や腸の病気だって臓器の問題だと認識されているけれど
当人の食生活や運動不足の問題だとして自己責任論で責められてるじゃん
甘えだと言われるかどうかは「心の病気」か「脳の病気」かで左右されるものではないと思うよ
寧ろ「うつは脳の病気」だという認識が広まればなおさら、「薬だけ飲んでいればそれでよし、労働環境や社会の改善は必要無し!」という方向に向かって危険だと思うんだけど。
「うつは甘え」に繋がりやすいのはどう考えても、「うつは心の病気」よりも「うつは脳の病気」の方だと思うし、
ましてや「脳が萎縮して一生治らない」などと言われたら、危険人物として社会から排除する方向になると思う
「心の病気」だからこそ、周囲も優しくしようと思うしいずれ治ると思って受け入れてくれるんだよ
「心の風邪」という言い方で、根性論を押し付ける人が増えたというのも疑問だなあ…そういう人達は身体の風邪に対しても同じ態度なんだろうから、まことに「心の風邪」という言葉の問題ではないのでは?
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。
帰宅部だった自分が言うのもあれだけどブラック部活っていうか何か全国大会がある部活って揃いも揃って勝利至上主義かつ根性論的な考えしかできないんだろうね。そりゃキチガイみたいなやり方したら時々化け物が生まれてくるのは分かるけど、分かりやすいところだとPL学園とかね
部活とは別にスポーツ等をするけど全国大会目指しませんよみたいな同好会っていうものを別に作れたりあるいは同好会しかない学校を作れたりできないのかとも思ったけど少子化だったりだとか金がないとかでできないんだろうね多分
自分は強制部活(※加えてド田舎だったので男が文化部に入ることすら冷たい視線がくるような学校さえあった)が嫌で強制部活のない学校に入ったので助かったからいいようなもののこの部活ノリがブラック企業の社風の要因の一部になっているのかなと思うと部活文化ってめんどくさいなぁと思ったり