はてなキーワード: 小説家とは
noteをザッピングしていると、ある作家志望の人の記事が出てきた。
今までフルタイムの高校教師をやっていたが、今年からパートタイムの教師になり、作家を目指すというのだ。
まあ作家を目指すことじたいは別にいいのだが、びっくりしたのがその動機。
今の高校生が小説を読まないから、高校生に小説を読ませるために、自分が小説を書いて小説家になりたい。
私が今まで見てきた作家ワナビーというのは、好きなことを仕事にしたい、お金持ちになってタワマン住みたい、有名になってちやほやされてオフパコしたい、とかの「自分が何々したい」という人たちばかりだっだ。
普通の市民社会で生きていて、自分が何々したい、なりたいとの欲望を持つことは普通だし、それが資本主義の原動力になっていると思うが、人に何々させたいとの欲望を抱くことはほとんどないんじゃないかと思う。
また作家になるためには出版社主催の新人賞を取ったり、小説投稿サイトでランキング上位になったりすることが必要だが、そのためには、選考委員や読者の趣味嗜好を分析しつつ、楽しんでもらえるためにはどうしたらいいか、相手の欲望に自分が合わせることが重要になる。
教師をやっているような人たちは、人に何々させたいとの欲望を当然のように持っていて、それは生徒に指示命令することを仕事でやっているからそうなったのか、もともと歪んだ人が教師になるのか、どちらにしろ教師は人間が歪んでいるなあと思った。
村上春樹が海外で売れるまでの経緯は彼の職業観や執筆スタイルについて書かれたエッセイ「職業としての小説家」についてよく書かれている。
ちなみにこのエッセイはビジネス書としての評価が高く、文学や村上作品に全く興味のない人でもまあまあ面白く読めると思う。
それによると、バブル期の日本(「金が余ってるので予算無制限で適当に旅行エッセイでも書いてくれませんか?」と出版社から言われたり、どこへ行っても「いくら稼いだか」と金の話しかされない)に嫌気がさし、一時期アイルランドやスコットランドなど当時の日本人があまり訪れていないスポットに逃げて執筆活動をしていたらしい。その中で講談社のアメリカオフィスに訪れるようになり、アメリカの作家と同様自ら翻訳者やエージェントを探して出版するようになったらしい。
最初はイマイチだった反応が何かの権威ある文学雑誌で評価されて以来注目されるようになり、一気に人気になったというよりは徐々に火がついていったとのこと。
村上春樹が欧米で評価されてるから村上春樹がすごいということにはならないと思う。
評価のために読まれるには翻訳されなきゃいけないが、まさか売り込みもなしにこれだけ「層の厚い」日本の小説コンテンツにおいて、外国の方からピンポイントで作家を見出して「翻訳版出してくれない?」なんて声がかかることはないだろう。そも翻訳版ない状態ではほとんどの外国人にとってどの作品が翻訳に値するか内容を理解することができない鶏卵の構造なのだが…
多分村上春樹の場合も出版社側がこれは欧米でも通用するとの自己判断で翻訳版を出したのだろう。逆に作家本人がどう思っていても出版社が認めない限り著作権の関係で自費出版もかなわないのだから、翻訳してもヒットしてた可能性があるものも出版社の意向のせいでその道が断たれてる作品だってあると考えるのが普通だ。
さきほど層が厚いと言ったが、これほどまで物書きじゃなくても小説を書く人がいてそうやって趣味で書いてたのが高じてプロにジョブチェンジする事例を豊富に抱える土壌を持った国は他にないと思う。
海外はブロガー文化で評論家的なことを書く人はたくさんいるが物語を書くことにここまで国中が夢中な国はないんじゃないか
そのなかで小説書いてたらノーベル賞に選ばれるのと、圧倒的に小説を書く人が多いこの国だとどんなにいい作品を書いてもそれに比肩する作品がごまんとあるような状況から抜け出せないであろうこの国で目立つことができないために翻訳版が出されずノーベル賞が取れないのと、どっちの方が小説家として実力が上なのか単純に比較できないと思う
「漫画家になりたい」という息子(無職)の将来を心配した親から相談され、「完成した作品を見せて」と答えたら「もっと初心者向けのアドバイスを」と言われた漫画家の話 - Togetter https://togetter.com/li/2238018
この件で書きたくなったので
自分は漫画を描いたこともないし、描きたいと思ったこともないです
ひとより多く長く読んでるとは自負してます
以下の文章は誰かへの返答というわけでもないです
では本文
・絵を描く能力
点2つを描いて下に線をひけば人の表情です
それを丸で囲むと人の顔です
どこかの誰かの書いた話を書いていけばいいのですから
鬼を退治する話を書きたい
こういうのを書けばいいんです
いまなら異世界に転生してチート能力を持って可愛い女の子とイチャイチャしていたら魔王を退治して英雄になったでいいんです
問題はこの次です
これが難しい
なんなら1番難しい
数多ある漫画家と呼ばれるひとがそのために血反吐吐きながら努力して苦労しているのです
そしてこの作業は漫画を1作描きあげないと判断ができないのです
絵も物語もたいしたことないのにこのひとはマンガ家として食べていけている
漫画家ではなくイラストレイターや小説家などを目指すとまたちがう能力が必要とされるのでしょうが
絵は描かなくてもいいからコマ割りと吹き出し(中のセリフも)と書き文字などをできる限り再現して模写してもらいます
それはタブレットなどを使ったとしてもかなりかったるい作業だと思われます
とくにはじめて描くならなおさらです
次に同じものを締め切りを設定して書かせる
絵と物語を結合させる能力がある程度判断することができるからです
そうなると次の指示もできます
たぶん9割のひとが最初の模写で「こんな面倒くさいことやってられん!」と投げると思います
俺みたいに!
レザークラフトとか、フルートとかを趣味でやるのとは違う世界で
でもなければ、同人誌即売会なんてもんが成立するほどの供給を維持できないよ
もちろん、即売会への参加者は全員プロ目的とかじゃないけれども
バイトしながら漫画家目指してる、みたいなのが下支えしてたはずなんだよ
漫画家とか小説家とか、そういうワナビを生み出す職業(餌)に支えられたイベントだけども
それが、萌文化への抵抗が減るにつれて、妙な盛り上がりを見せただけだと思うんだよね
AI絵が社会に受け入れられたら半分以上ごっそりといなくなるだろうし
昔の規模さえ維持できずに自然消滅的に消えるような気がしてる
趣味のレザークラフトのバザーで全国イベント10万人とかできないべ?
イラスト描いたりマンガ書いたりするのは、そのうちそういう趣味に落ち込んでしまうと思う
実際、もっと小規模なイベントで平和にやったほうが楽しいねって人も増えてるしな
話を戻すと
イラストとかで成功したい人間にしてみりゃ「絵の巧さ」は大事なポイントなんだよ
人の目を集め、自身の名を成すために
趣味で草野球やりたいやつと、プロ選手になりたいやつで、意識違って当然って思うべ?
それなら楽勝じゃね?
その日、コーヒーを作るのに完全に失敗したせいで泥水のような味になった。
「ここまで泥水っぽいコーヒーは逆に凄いな」と感動しながら飲んでいうちにカップ一杯分を飲み切ってしまった。
そういえば作り方は覚えてない。
教訓とかあったほうがそれっぽいか。
まあええわ。
これでとりあえず俺は一作書き上げたわけだが、果たして俺が他の誰かと比べて「小説家になるのに大きく近づいた」と言えるのか?
俺は微塵もそうは思わないが。
つうか漫画なんて誰もがノートの隅っこにちょびっと描いたことあるだろ。
あれを一作カウントすれば誰もが何作も書き上げたことがあることになるが?
「一作書き上げる」の基準ってなんなんだろうな。
まずそこが分からないと話にならん。
「漫画賞の募集要項を満たせること」が条件なら、まあ分かるが。
俺も小説大賞の募集要項を満たす長さなんて中身のない小話でよかろうが書き上げられる気がしねえわ。
途中でぜってー飽きる。
小説家志望は、まず小説の書き方を学ぶ。最近はインターネットもあるし、脚本術の本なんかも出てるし、書き方の作法についてはいくらでも学ぶ機会がある。
そして、書いた小説はネットの投稿サイトで気軽に人の目に触れるところに出せる。
小説家志望としては、作品を完成させて投稿できたところで合格である。
次に小説家志望は、人に読まれないとか評価されないとかで悩むことになる。ここからは茨の道である。試行錯誤。
感想はほとんどもらえないし、ほとんどの投稿サイトでは批判するような感想は書いてはいけない。コンテストや公募では選考に落ちた理由を教えて貰えない。
なぜ自分の作品がだめなのか、どこが悪いのか、誰も教えてくれない。相手は答えを持っているはずなのに環境的に自分には教えてくれないのである。
信頼できる創作仲間、理解ある家族や友人、才能を認めてくれる編集者。運良く巡り会えたものだけが次のステージに進むことができる。
だからと言って、批評家気取りで小説家志望に辛辣な意見を伝えてはいけない。お互いのリスペクトがなければ攻撃になってしまう。小説家志望は繊細なのだ。たとえそれがよかれと思ったものだとしても。
主人公がバスに轢かれて事故に合うことで異世界に転移するという、
ただ、いくつか異なる点がある。
そのひとつは「ビートルズ」が存在しなかった世界線ということだ。
幼馴染の女性マネージャーに告げたその夜に事故にあいビートルズが居ない世界へと転移する。
主人公はビートルズのいない世界で、ビートルズの楽曲を自身の作であると偽り発表して世界的な名声を得ていくことになるが……果たして?
というのが序盤のあらすじである。
事故にあって(トラックではなくてバスだが)世界線を移動する、
というのはやはり日本のアニメの影響があるんだろうか?とか思いながら見ていたんだけど、
ふと思った。
果たして、ビートルズがいない世界でも、音楽の世界は現代の音楽シーンと同じものとなるのだろうか?
映画にはエド・シーランが本人役で出ていて、本人の歌を本人がそのまま歌っている。
つまりビートルズがいないことの影響を受けていないことを読み取ることが出来なくもない。
でも、これって多分無理じゃないか?
進化ツリーみたいなものが割りとハッキリとしてる世界じゃない?
(わかりやすくいうとバッハとかモーツァルトがいないとしたら?ということ)
その中で「ビートルズ」の不在が果たして全く音楽シーンに影響を与えないことなんてあるのか?
ということが映画よりも気になり出し始めたところで、はたと気づいた。
これはあれだ、キリスト教原理主義みたいな考え方で回避すべき疑問なのだ。
映画の中でも、一言二言だがだがこの転移が神の奇跡であることを示唆するセリフがさりげなく入れられている。
つまり、これは神が世界を創造した時に人間が聖書の中の記述と食い違うような考古学的発見をするような世界を創造されたということだ。
ダーウィンの進化論が導き出されるような世界をなぜか(なぜなんだろう?)神様は天地創造の時にお作りになった。
と同じことで、神様はビートルズがいないにも関わらずビートルズがいたのと全く変わりなく音楽が発展した世界を創造されたのだ。
別の世界線に。
そういうことで納得した。
色々とビートルズの小ネタたくさん詰め込まれている映画なのだろうが筆者はあいにく詳しくなくてほとんどわからなかった。
それにしても、もしも君たちが同じ立場だったらどうする?
とても有名で君には馴染み深い作品が存在しない世界線に飛ばされたら?
君が売れない小説家をしていて、村上春樹がいない世界線に飛ばされたら?
君が漫画家をしていて、ハンターハンターが存在しない世界線に飛ばされたら?
どうするんだろう。