はてなキーワード: ドラクエ3とは
こういうタイミングになると、親父のこの話を思い出す。
うちの親父は、2児の父になってもゲームが好きで、子供にねだられる前に人気のタイトルを買ってくるような人だった。
そんな人だったから、当然ながらドラクエもやり込んでいて、ドラクエ3もやる気まんまんだった。
発売日の1週間前。
当時、デパートのおもちゃ売り場に知り合いがいたらしく。そいつに頼めば並ばずに買えるだろと、取り置きの電話をかけた。
どんな関係かは知らんけど、この人に頼みを断られたことがないとかで、OKしてもらう前提での連絡だった。
しかし、返事は予想に反してNO。
「いくら増田さんの頼みでも、今回ばかりは用意ができません……」
聞けば、ドラクエ3の当日発売分の数が少なく。その全部をお客様に売るため、社員には購入禁止令まで出たらしい。
上司に「たとえ店長が来ても売るな!」と厳命されたとかで、絶対無理ですって断られてしまった。
あー、予約しておけばよかったって後悔したけど、もうどこも予約なんて締め切ってる。
で、当日。
朝起きてテレビつけたら、世間はドラクエフィーバーの真っ只中。
ニュースを見て、親父も完全に出遅れたのを悟ったらしいが、休みまで取ってるから諦め切れず。朝飯もそこそこに大急ぎで支度して、東京のおもちゃ売り場を巡りまくった。
だけど、やっぱり遅かった。
どの店も売り切れで、あんなに伸びていた行列すら、もうどこにもなかった。
それでもないから、さすがに諦めて家に帰ることにした。
疲れ切ってたのがいけなかったのか。
それとも、凹んでたのが悪かったのか。
親父は、なぜか帰りに乗るバスを間違えた。
うわ、最悪だと思いながら、とりあえず家に一番近いバス停で降りて、はたと近くにあるハローマックの存在を思い出した。
最後の賭けで行ってみるか……?
一瞬悩んだけど、やっぱり諦めて家に帰ることにした。
行かなくても、絶対に売り切れてるっていう確信があったんだとか。
すっかり日が暮れた道を、トボトボ歩いてたら、帰り道にさびれたおもちゃ屋さんがあった。
ここは通学路だったから自分も覚えてるけど、流行遅れのおもちゃが、ほこりまみれになって置かれてるような店だった。
そんな店のガラス戸に、朝入ったチラシを裏返して書きましたって感じの張り紙がしてあった。
は、嘘だろ?
こんなちっこい店にドラクエあったの?
……まあ、あったとしても、もうとっくに売り切れてるだろ。
そうは思うものの、親父の気持ち的には、まったく諦めがついていなかった。
で、いっそ介錯してもらうつもりで、その店に飛び込んだらしい。
「あのー、ドラクエ3があるって……」
本当ですか? と聞く前に、じいさん店長が答えた。
「あるよ」
「え、本当に!?」
「あるよ。うちね、1個だけ仕入れたんだ」
「それ残ってます?」
「うん、ここに。お兄さん、これ買う?」
親父は速攻で「買う!」と宣言して、ほとんど引ったくるように袋を受け取ったらしい。
この話はもう30回は聞いてるけど、他のどうでもいい昔話と違って、何度聞いてもおもしろくて好きなんだ。
とっくに還暦過ぎたジジイが、「あの店にドラクエがあったって知ってるのは、近所でも俺くらいなもんだw」って言ってるのがおかしくて、ちょっとうらやましい。
いいなあって思うんだよ。
欲しくて欲しくてたまらなかったゲームを、偶然見かけて手に入れるってさ、きっと最高だと思うんだ。
絶対にダメだって言われただろうけど、連れてってって言ってみればよかった。
そんで、あっちっこっちの店巡ってさ、2人で凹みながら帰ってきて、バス間違えてあの店に入るんだ。
あーもう、なんで親父と一緒に行かなかったんだろ。
分かる。自分もそういう気持ちを持っている。でもそういう嫌いと思う気持ちが救われることは自分が生きている間は来ないとも思っている。生まれてくる時代が300年早かったか、生まれてくる星を間違えた。
あと、元増田は違うかもしれないけど、自分の場合は自分の現状が酷いので、何も考えてなさそうな人たちは何も考えていなくても自分より恵まれた人生をのほほんと送っているんだろうな羨ましいなみたいな嫉妬の感情も持っている。
また同時に、中学生だった頃スーパーファミコンでドラクエ3のリメイクが出て最初の勇者の性格が頭脳明晰になった時に言われた内容が脳裏をよぎったりもする。⇒http://anond.hatelabo.jp/20080926094443
神経質な自分を改善できるなら、そっちの方が手っ取り早い。その余地は自分の場合は、まだある。
など。こんな現状に陥っているのは自業自得なところも多分にある。沢山ある中から一つ挙げると、去年まで酒飲みの誘いにはなるべく断らないでいたから貯金はできなかった。他は惨めすぎてここにすら書けない。
去年の10月から500円玉貯金を始めたり、会社に弁当を持参するようになったり(これは今はサボってるけど)、今年は一年禁酒を宣言したりして、たぶん来月末には500円玉が10万円貯まる貯金箱を満たしそうである。一時期は年金も滞納しがちで郵便受けにピンクの紙で警告が来たりしていた。その頃よりはだいぶ回復した。
10万円貯まったら寝具を一式新調する。敷布団?にも穴が開いて綿が露出していたり酷い。その後は歯医者に通う。16年使っている冷蔵庫が壊れなければいいのだが。
その後はこれを書いているPC(Windows XP)を買い換える。普通にインターネット使うのも罪悪感あるし、一応会社ではWeb制作をやるので、色々試してみたいことがある。自分含め、会社の技術レベルが低い。バージョン管理をファイル名でやって全部FTPでやるし。レビューとかテストとか何それ?みたいな。元々趣味でWeb制作やってたけど、4年以上やってる仕事を通して趣味以上にレベルが上がったみたいなのが、期待していたのと比べると遥かに少ない。レベルが低すぎて恥ずかしくて転職活動もできない。
実家にいる両親のことも気がかり。親戚関係が全く無ければ貧乏でも不健康でもレベルが低くても困るのは自分だけだから、もうちょっと気楽に生きれるのに。両親がいるうちは間違っても自殺だけはしないとは思っているので、仕送りもせず帰省した時に逆に小遣い貰うダメな息子だけどそれでなんとか許してほしい。
あとこれも自分の改善の余地かもしれないけど、怒りを感じたときに、自分の歩く姿勢や自分の呼吸に意識を持っていくようにしている。猫背になっていたり口呼吸になっていたりする。天気が良いときは空の青さに注目するのもいい。オカルトめいているけど、街路樹にテレパシーで愚痴ってみるのも最近試している。万が一植物に意識があってフィンドホーンみたいな奇跡があるなら助けてもらえるかもみたいな妄想をしつつ。植物的には自分みたいな腹黒い人間は嫌いなのかもしれないが。
せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分のブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。
ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECのPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称が統一されていなかった時代でもある。記録媒体はカセットテープ。ゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとでロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。
市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。
当時はまだ、パソコンのメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーのパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だから、NECのパソコンのソフトがシャープのパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001はPC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者のプログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。
その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンはPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチのフロッピーディスクになり、一瞬でセーブやロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。
せっかくの新マシンではあったが、やはり用途はゲームだった。雑誌に掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。
なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANやアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響カプラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。
中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコンで受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤーは経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲームと勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである。
高校に入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまったからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。
ちなみに、ぼくとほぼ同年代の英国人ライター、スティーブン・プールには『トリガー・ハッピー』(2001年)というテレビゲームの歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代にゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。
しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPGの製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。
技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲームの目標を大学合格に切り替え、パソコンのメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムやイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3を受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである。
1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京の私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京の学生はポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通の学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。
入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京の進学校の出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生のあいだでポケベルが流行っているというのも別世界の話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。
その一方で、大学に入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話は重要なツールだったのではなかろうか。
あるとき、風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。
ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったから1994年のはずだ。日本でもインターネットの商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学のパソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。
大学2年生の終わりごろ、ゼミの選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。
しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話・PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。
当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモの携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。
他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年、ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口に膾炙していった。大学のパソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念を理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。
ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネットに接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットでホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブで自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである。
もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信の時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。
ぼくが参加していたのは朝日ネットのフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネット上からはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信のログに残っていることを主人公が発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。
その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネットの時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねる」である。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。
…と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。
SFCドラクエ3はすばらしかったが、その後に出たGBCドラクエ3は、それはそれで狭い画面でモンスターが躍動し、クリア後ダンジョンも追加され、愛嬌あるドット絵とFCとは違う味のあるピコピコ音源で文句のつけようがなかった。
PSのドラクエ4も賛否ある第六章を含めてもなお優良リメイクだし、PS2のドラクエ5リメイクは文句付ける人を探すのが難しいぐらいよくできている。
ところが、DSあたりのリメイクからしょうもなさが目立つようになった。4は大して変わらないし、5は嫁や仲間モンスターが増えたというが嫁はともかく仲間モンスターはなんでこんなの増やしたというようなものばかり。6にいたっては情報解禁時から「コレじゃない」感がすごかったし、実際「劣化」と断言する人は多い。しょうがないね。仲間モンスター大幅削減だしね。バーバラはテリーが好きだなんて誤報飛ばすしね。
で、3DSの7も、3D化はともかくとしてはなすコマンドの大幅削減と最初の神殿の簡略化(というか、削除同然)などやってくれる。転職システムはインフレしすぎたものを抑えるなどありいい点として認められるが、最初の神殿は簡略化ではなく「馬鹿でもコレなら分かるだろ?」的な雑さが目立ち、結局コレじゃないとなってしまっている。
スライム系最弱といわれる、スライムやぶちスライムなんかにはほぼ確実に1ダメージ喰らう事をご存じだろうか。
これが一対一だったら勝ったり、危うければ逃げれば大丈夫だけど、
集団相手の場合、不利でしかも逃げた時万が一回り込まれた場合の対処が間に合わない可能性が高いだろう。
その意味において、最強のはぐれメタルですらも最弱のスライムには勝てない。
そう考えた時、最強ってなんだろうなと思う事がある。
昔ドラクエ3でドラゴラム覚えたらメタルスライムを一掃できるというのがあった。
ドラクエ6だか7だかでレベルが40以上だと、このドラゴラムが習得できたはずで、
要するにレベルさえ上がればスライムは、メタルスライムクラスのモンスター相手に善戦する可能性が高くなるだろう。
問題は、レベルさえ上がればなんだけど、というのもスライムは最弱だから、他のモンスターを倒してその経験値でレベルアップする事は
正直至難の業なんじゃないのか、と常日頃疑問に思っていた。
はぐれメタルが何で最強なのかというと、結局レベル上げしてなくても硬質が凄く硬いから、基本的には危なくなれば逃げればいい話だけど、
スライムはピンチになっても自力で脱出する事は出来ないし、じゃあ結局レベルを上げるのはほぼ出来ないから、最弱なんだという結論なのだ。
最もそんな雑魚モンスターでも集団であれば、例えば3匹以上のスライムであったら、ドラクエ3のアリアハン出発直後の勇者をフルボッコしてその経験値で以って
レベルアップが出来て、最終的に脱最弱、汚名返上と相成るわけだけど、個々で戦った場合は十中八九レベル1の勇者にすら勝てない。
例えばチート補正か何かで勇者の攻撃が1とか2しかダメージを与えられないという条件のもとに戦ったら、あるいは勝てるかもしれないが。
ところで、スライムは何故雑魚モンスターでありながら、最強の防御力と回避力を誇るはぐれメタルに勝利する可能性があるのかというと、
はぐれメタルは自分よりもレベルの高い、あるいは雑魚ではモンスター相手には極端なまでに「逃げる」を選択するものだ。
肝心なのははぐれメタルにとって、歯牙にも掛けない存在は逃げる必要がないと言う事で、スライムは基本的にレベル1だから、
はぐれメタルにとっての脅威ではありえない。
そのため、舐めプのスタンス(あるいはAI)ではぐれメタルはスライムと相対するのかもしれない。
そもそもはぐれメタルには普通の攻撃だけでなく、グループ攻撃が可能なギラをほぼMP無限で繰り出す事ができるわけだ。
最悪それを放てば勝つ見込みは100%になるかもしれないが、ごく稀にそれを放たず攻撃一辺倒になる場合がある。
その場合に限っては、スライムはひらりと交わしたり、攻撃が外れたりしたりして、何百回分の1の確率でもしかしたら
偶然が重なってはぐれメタルに勝利するかもしれない、という事である。
しかもスライムには特筆すべき裏補正があって、防御力255であっても何百分の1かの確率で1ダメージ以上を与えられる防御無視の攻撃特性が備わっているのだ。
すなわちはぐれメタルのHPは一桁だから、スライムの1ダメージが万が一続くようであれば、これによってはぐれメタルはスライムに負ける可能性がある、という事である。
編注:ちなみにつぶやき人はゲイなのでそれを前提に読み進めてください。
それからしばらくして、ドラクエ5がリメイクされた。思春期を過ぎた頃だ。懐かしくて、ワクワクを思い出したくて買った。ところが、予期せぬことが起こった。どーしてもフローラかビアンカか選べないわけだ。
選べないんじゃない、選びたくないんですね。ドラクエというのは、主人公は自分の分身として扱うゲームなのです。そんな自分が、女性を好きになり、結婚して、子どもを生み育てる。それが苦痛で仕方がなかった。(そして、その筋書きもやる前にわかっているわけで
何でそこまで考えるのかなあ?
ドラクエ3をやる人は16歳になったとき、王様のところへ行って魔王を倒すために旅立つ覚悟ができてる人なの?
ドラクエ4をやる人はある日突然自分の村がモンスターに襲われて幼馴染や村の人達が殺される覚悟ができてる人なの?
違うよね?
現にあなたはそこには突っ込んでないよね?
なのになんでドラクエ5にだけ、現実のセクシュアリティ云々を適用しようとするのか。
こういうダブルスタンダード的な発言をすると、セクシャルマイノリティでない人はどう思うか。
表面上は「なるほど、そういう考え方もあるんですね。勉強になります」と賛同してくれても、
腹の内では(うわあ、めんどくさい人。関わらないでおこう)と嫌悪感が醸成される。
こうしていつまでたっても、セクシャルマイノリティへの偏見が根本的になくならないのだ。
その曲の1分20秒のところとかがドラクエ3のダンジョン(http://www.youtube.com/watch?v=VpvrV7Pm94s)っぽいような気はまあしないでもないが