はてなキーワード: ジェンダーとは
異文化交流として男オタクの立場でいわゆる腐女子と会話をすることがある。
腐女子については攻め受けを考える遊びをする、という理解をしているが、
根っこの部分で自分は強い興味を持てなさそうな遊び・文化だなという気が日々している。
どんなアニメ・漫画の話をしていても、ほぼ必ず誰が攻め誰が受け、どのカップリングが、という話が出てくる、すごい。
(話題にする作品 = 攻め受けを考えるのがメジャーな作品 というフィルタリングをされた上でなのかもしれないが)
作品を見るとき、見たあとの掘り下げとして必ず二次創作を見る、という習慣があるんだろうか。
男性向けでも特定の組み合わせがいい、好き、などの発見があったりするが常に考える習慣が自分はない。
攻め受け、の前に二次創作としての面白みの理解として、雑に言えば本編の延長もしくは本編では見れない場面、やり取りを見たい、というモチベーションがある。
このキャラが〇〇なシーンを見たい、このキャラはこんな側面もある、このキャラはこういうときこんなやり取りをしそう、あるある、わかるの表現。
「解釈違い」はもちろん攻め受けを考えるときだけの表現ではないし、ここ数年でよく見かける表現だ。
「Not for me」と同等の表現のような気もするから言葉のアヤかもしれない
が基本的には解釈をする遊びである、とも考えられそうな気がする。
自分がついて行けない要因として、解釈をするための基本情報が理解できていない、原作の表現を拾えていない、という点はあるのかもしれない。
結局これはハイコンテクストな遊びについて行けないというだけではあるし、腐女子同士の話を聞いているだけ、に近い時間が多いので、前提をわざわざ説明しないのであれば当たり前といえば当たり前。
これはキャラクターの掘り下げではないきがする。
攻め受け遊びの本質ではなく、派生的なものかもしれないが、関係性をパターン化、抽出し、そこに存在するあるあるで遊ぶのが主になってしまっているのだろうか。
男が狩りに出る中、洞窟の中で女性同士でコミュニケーションを取る必要があったから女性はー、とかいう女性脳みたいな話になるんだろうか。
つらつらと書き並べたけど本質的に男に興味ないからかもしれない。
性的な意味で、という意味ではなく、同性として憧れる、とかそういう経験がリアルでもあまりない。
男としてのかっこよさを作るとか、それによる評価をするされる、ということを遠ざけておけば自分が努力も何もしていない状態を直視しなくて済むから、という気はしている。
カッコつける行為が自分はできないからカッコつけている言動なども含めてまるごとアホらしい、とひねくれるためカッコいい男性キャラをそもそもそのまま受け取れていないところはある。
そのため、カッコいい男性キャラの掘り下げをして楽しむ、カッコよさにわくことは、このひねくれものには到底できない。
めちゃくちゃ暴論かもしれないが、逆に考えると攻め受け遊びを楽しめる男は、強いオスである、もしくは強いオスであろうとする男だけとも想定できる。(それほど珍しくもない気もするのでほとんどの男性は攻め受け遊びをできる可能性がある、もさらなる暴論かもしれない)
ジェンダー論を絡めて腐女子語りしてるnoteか何かをチラ見したことはあり、ジェンダー論とかって最近流行ってるなーと特に真に受けていなかったが、あながち無関係ということでもないのかもしれない…
いやぁ、今の時代に30代でこの感覚はキツいなぁ。いしいしんじさんの回答伝わるといいんだけど。10/27読売新聞人生案内。
いしいしんじもこの人も、問題をまるで理解していない。質問者の価値観を「古い」と切り捨てているが、これは明らかに若い世代のきわめて「新しい」感覚を率直に述べたものである。大学でジェンダー問題を教えている教師が、男子学生から同様の授業の感想を受け取ることは、しばしばTwitter上でも報告されている。そもそも本当の「古い」感覚の九州男児は、「女性が羨ましい」などとは口が裂けても言わないだろう。自分の理解でないものを「古い」というカテゴリーに押し込んで、問題から目を背けているだけである。価値観をアップデートできていないのは、いしいしんじのほうだろう。
質問者の言いたいことは、要するに次のことである。「女性に〈女らしさ〉を要求することは現在では差別とされ、バリキャリでも両立でも主婦でもさまざまな生き方が承認されるようになっている。それに対して男性は依然として懸命に働いて家族を扶養するという〈男らしさ〉を現実に要求されており、しかもそのプレッシャーから男性を解放すべきだと言ってくれる人もほとんどいない。男性は、稼ぐ能力がなければゴミクズ扱いをされ、人生を全否定される。そのような男性から見ると、非正規でも無業主婦でも人生を承認されている女性が、正直羨ましく感じる。」
もしこのように理解できるとすれば、どこにも差別主義的で古い価値観は存在しない。質問者は、現代の日本ではきわめてジェンダー平等規範が当然なものとなっているのに、現実に男性に求められる社会的な役割が女性と比べても変化していない、というきわめて新しい感覚を率直に表現している。質問者が現実に存在する女性差別に無知で鈍感というところは確かにあるが、学校や職場で日常的に目にしている女性が、むしろ男性よりも楽しく生き生きとしているように見えるという実感まで否定すべきではない。
よっぽど先天的に恵まれた人以外は、性別移行することによって希望の性になったとしても、その性の中では弱者側になっちゃうからね。
高額稼げる仕事についたり、女からモテモテになったり、子孫をたくさん残す、みたいな強者男性特権は、トランス男性にはだいたい手に入れられないって事実はやっぱきびしいでしょ。
トランス女性の場合、幾分は社会的にも性的にもニーズがあるからちょっとマシなところはある。
ただ、それをやるにはちゃんと女性ジェンダーロールができないと厳しい。化粧して髪伸ばしてコルセットでウエスト締めてパットで胸と尻を盛り、男性に対しては「さしすせそ」、お料理上手できれい好き、ファッションにもうるさいみたいな。
で、かつては、ガチガチ女性ジェンダーロールができる、むしろやりたいタイプのトランス女性が主流だったけど、元増田が指摘するように発達障害系でジェンダー自認が曖昧でトランス女性になっちゃった人が増えてて、そういう人は生きづらいと思う。
マスク着用、とりわけ男性のマスク着用について、私が以前から少し考えていたことを書いていきたいと思うのですが、
昨今のマスク着用について、人の少ない屋外ではマスクはしなくていいよ。といった具合に喧伝が進んでいると思うのですが
それでも私を含め、人通りの比較的少ない屋外でもマスクを着用している人はまだまだ多いという印象です。
私に関してはマスクをしてないとやはり心配という思いと、そもそもマスク着用がそこまで苦ではないといった理由で屋外でも着用しているわけですが。
しかしながら、屋外はおろか屋内、例えば満員電車の中でもマスクを外している人というのもこのところよく見かけるようになりました。
マスクできない理由というものも人ぞれぞれにあるでしょうから、そこは尊重していきたいとは思ってはいるのですが……
そんな中、気づいたことがあるのですが、屋外屋内限らずマスクを外している人には圧倒的に男性が多いということです。
以前からもマスクを着用しない男性が叩かれたりなどはよくニュース記事でも見た記憶があるのですが、
なぜ一部の男性はマスクを着用したがらないのか。逆になぜ女性はマスク着用に抵抗がないように見えるのか。
ここからはあくまで私の推測と観測範囲(と偏見)が大いに絡むのですが、
割とヤンチャというか盛んな男性性を顕示している男性にマスク非着用率が高そうという印象があります。
そういう男性にとって「マスク」というアイテムは自身の弱さを外部に対して晒すというようなそういう印象を持っているのではないか?ということです。
「弱さ」といってしまうと語弊があるかもしれませんが、自身がマスクで外部からの攻撃を防御している姿は「情けなさ」に直結すると思っているのではないか?といいますか。
強いことが美徳と刷り込まれた男性(意識的や無意識的かはさておき、特に男性性を武器に社会をサバイブしてきた男性)にとって、
マスクというのは、攻撃性を外部に晒すことを良しとされてきたのに、生まれて初めて自身の身を守るという防御性を晒すことを求められた経験というか。(そのつらさと規範性についても考える必要は大いにあると思いますが)
その他にも、男性は自身を大切にしない傾向が強いという特性ゆえ、自身を守る・大切にするという象徴でもあるマスクを着用しなくてもいい、
単にめんどくさいから、うっとうしいからなど、さまざまにその理由というのは考えられるのですが(めんどくさいから○○しない。というのはそこに特権性が隠れていると私は思っているのですが、そこは今回は割愛)
マスク着用とジェンダーは実は密接に関わっているのかもしれない。と私は思うようになっています。
逆に女性がマスク着用に抵抗がなさそうなのも、マスク着用などに見るある種の「抑圧」に晒されることは女性にとって慣れっこであって、
そういう抑圧を無意識的に引き受けてしまうという背景もありそうな気はしています。(特権男性は抑圧経験が極端に少ないがゆえにマスクへの抵抗も強いのでは?というのもひとつ考えられます)
あと、女性というのは顔の美醜のジャッジを常に受ける存在でもあり、マスクをしているとそういうジャッシを軽減できますし、そういうのもありそうな気もしています。
とはいえ、単にマスクをしているとメークが簡素で済むなど実利の面での効果も考えられますが。
考えすぎという面も大いにありますし、なんでもかんでもジェンダーに結びつけるのはよい向きではないとは思っていますが、
イケイケのフェロモン強そう系の男性集団になぜかやたらノーマスク率が高いという、私の観測範囲限定ではあるものの、そういう光景を見かけると
群馬大学のアカハラが文集で取り上げられているけど、OBとして個人的お気持ちをつらつら書きたいと思う。
自分は学生時代に非医学部の学生として服部教授の「性と死と家族の倫理学」という授業を履修しており、また2016年にアカハラを受けた学生とも顔見知りである。
個人情報や現在進行中の裁判にもある程度影響しそうな話も知っているので詳細は伏せながら書き連ねたい。
まず、非医学部の学生から見えた服部先生は「気難しくて厳しいけど、面白い先生」という印象であった。
倫理学という観点から自分の中にあった(授業で取り上げられたテーマについての)価値観を切り崩され、また、再確認する機会となった。
あの経験があったことで、より視野が広がり、弱者やジェンダーの問題について考えることが増えたように思う。
あと、授業中に正しいコンドームの付け方を教えてくれたのは結構役に立っている(セクハラのような雰囲気はなかった)
次に人から聞いた、医学部生視点の服部先生の印象であるが、概ね「『医療倫理』の授業に比べたら『性と死と家族の倫理学』の授業の先生は相当優しい」という意見であった。
また、「医療倫理」の授業について、当時は「真面目に授業を聞いて、教授に噛みつかず、圧倒的量のレポートをこなせば単位はもらえる」という声が多数であったと思う。
噛みつく学生や変に拘りの強い学生、頭の硬い多浪生は単位を貰いずらく、また、生徒と先生が対立すると授業が進まないから険悪なムードが漂うことがあったと言う話も聞いた。
ちなみに、「医療倫理」授業は医学部生だけでなく、医学系の院生も必修に入っているため履修していた友人がいたが、その人曰く「医学部の学部生」以外にはゆるい評価である、とのことであった。
(個人的には「医療倫理」の授業では外部講師も招くことが多く、ジェンダーの観点で生き証人のような研究者が招かれていたのでモグリをしたかった)
記事にもある通り、単位が降りるのが厳しいため、病院実習が始まるまで(群大医学部では病院実習が始まると卒業まで難なくこなせるという風潮があった)の各学年におけるマイルストーンとなっていた授業の一つだった。
いずれにしても、当時の服部先生は賛否両論はあれど、個人的には一番もう一度授業を受けたい先生と思っていたので、どうしてこのようになってしまったのかという思いが強い。
あと、群大内で(学外に出ないものも含めて)やらかしが多いのは決まって医学部である(今回や前回のアカハラ、「私は学長です」事件・論文不正、附属病院であるが腹腔鏡の医療ミスなど)、という風潮があった。
そういった風潮は、(私が学生であった当時は)新入医学生が医学部の教授会に自己紹介を兼ねた一発芸を披露する必要があり、女子医学生も含めて一部は裸踊りに近いものを披露することがある、と聞いていたので、
醸されていったのだろう。そのような「昭和な雰囲気」が、医学部が不祥事の温床となる風土を作り出しているのだと思う。
医学部が大学としての稼ぎ頭であるのはわかるのだが、いちOBとしてちゃんとした風土改革が必要だと思う。他学部の方では「医学部だけ県立福祉大と合併すればいい」、「医学部以外宇都宮大学に合併すればいい」などといったジョークが出ることもあった。
そういったブラックジョークがなくなることを願う。
自分の身を守るため、名誉毀損や誹謗中傷にならないように、あえて肯定的なことと無難な伝聞や組織体制へのお気持ちしか書いていないから、擁護をするように読める文になってしまったけれど、書かれていない批判的なことが本当は知ってほしいことだってのは、読み取ってくれとは言わないけど、(立場を)理解してくれたら嬉しい。
群大の医学部は年齢差別が酷い、のような言説があるけど、むしろ医学部への再チャレンジが開かれたの大学だよ。
国立大医学部で編入制度のあるところがまず少数な中で、弘前大の20名についで15名受け入れている。
私に良くしてくた医学部の先輩複数名も編入組で、年齢もバラバラだった。
年齢差別裁判以後は変わったんじゃないかと思う(裁判以前を知らないからそこは語れない)
一発芸の話は私もドン引きしたし、当時は医学部に未練が残っていたけど、そんな気持ち一気に吹き飛んだよね。
今でも医療現場の人間関係の話聞く度に、医療職にならなくてよかったと思ってしまう。
ちなみに、私は授業中に(授業妨害にならないレベルで)噛み付いた側の学生だったけど、普通に(2ch文化のようなものではないちゃんとした)「論破」をしてくれたし、それによって下げられるようなこともなく良い成績で単位は貰えた。
最近の漫画の男キャラは見た目ジェンダーレス化された男(宝塚の男役のような感じ)にしか見えないので
で、主題の女は楽か?だけど、日本には宗教警察が無く、宗教の影響も薄いから、そりゃ "楽" でしょうよ
というかジェンダーロールをシカトしても肉体的に女じゃなくなるわけでは別に無いので、本来なら女から降りるも何も無いんだけどな
ついでに本来なら全ての国でそうあるべき
それに対して男が女みたいに日本で役割ロールを降りれるか?と言えば非常に困難を伴う
人にあーだこーだ言われる🥺は、知らねぇよシカトしとけ で終わるが "仕事" な
例えば、新卒採用やプロパーの配置転換ならともかく、中途で男性事務や男性高齢アシスタントなんてまず雇わないでしょ
というか自分もたぶん雇わない
父子家庭だと自己申告があったり・障害者枠なら男性を雇うけど、独身・健常者なら女性を雇う
性別で能力が変わるわけではないので修正されるべき不合理だけど、
日本には、男は家族を養うべく職業経験を積むべき、女は低賃金でテキトーに働いてもOKという風潮があるからだ
男性事務や男性高齢アシスタントを雇ったとこで、給与に不安を覚えるからやめるとかスキルを身につけたいのでやめるとか言われても困る
仕事がどうたら以前にそもそもセックスから自己選択出来ないから
オタク女子、特に腐女子らに顕著なんだけど、セックスは、自己決定で望んで楽しくするものでは無くて、
"恋人" や "妻" という肩書きを得る為に、直球で "(理解ある彼くん等に) 養って貰うために"
『させてあげるもの』だと思ってるからな。あるいは一方的に暴力的に第三者に強制されるものとかね
ここから既にコケている逃げているのに女性の社会進出もなにもねーのである
実際、はてブでヤベー言動をしている腐女子ブクマカを眺めていると、当たり前のように男に縋るしか無い思考であり経済レベルもヤバければ自己実現も他者任せだ
自己選択を楽しむ・責任を持つという発想がなく、当たり前のように化粧をすべき・化粧を強いられているとかなら年がら年中やっている
あと、子育てに時間取られる私かわいそうとか平然と育児放棄・公共の場で迷惑をかけることを開き直ったりもしてる
そのくせ、『自分が死ぬ代わりに子供が幸せな人生歩むことが保障されるボタンがあるなら間違いなく押す(https://anond.hatelabo.jp/20220127095204#)』とか
キッショいことも言ってる
「処女航海(maiden voyage)」「処女作(maiden work)」といった言葉に苦言を呈するフェミの方々が現れると、決まって「『船』や『ペン』が女性名詞だから『処女』が付くだけなのにそんなことも知らないのか」と得意げに反論をする人たちが出てくるのだが、はたしてこの「女性名詞説」は本当に正しいのだろうか。
Etymology
From Middle English mayden, meiden, from Old English mæġden (“maiden, virgin, girl, maid, servant”), diminutive of mæġþ, mæġeþ (“maiden, virgin, girl, woman, wife”) via diminutive suffix -en, from Proto-West Germanic magaþ, from Proto-Germanic magaþs (“maid, virgin”). Equivalent to maid + -en.
中世英語の「mayden」「meiden」は、古英語「mæġden」(「未婚の若い女性」「処女」「少女」「女中」「召使い」)に由来し、それは「mæġþ」「mæġeþ」に指小語尾「-en」がついた指小辞であり、それは西ゲルマン祖語の「magaþ」に由来し、さらにはゲルマン祖語の「magaþs」にまで遡る。「maid + -en」に相当する。
maiden (adj.)
c. 1300, "virgin, unmarried," from maiden (n.). The figurative sense of "new, fresh, untried; first" (as in maiden voyage) is by 1550s. In horse-racing (1760) it denotes young horses that have never run before.
13世紀。「処女の」「未婚の」。maiden(名詞)から。1550年代には「新しい・新鮮な・試されていない・最初の」という比喩的な意味(「処女航海」のように)で使われるようになった。競馬では(1760年)一度も走ったことのない若い馬を表す。
つまり、古英語(5世紀から12世紀ごろ)からあった「maiden(処女)」という名詞が、13世紀ごろに「maiden(処女の)」という形容詞としても使われるようになり、さらに1550年代になって比喩的に「maiden(最初の)」といった意味の形容詞としても使われるようになった、ということだ。
そして、古英語のころにはあった男性名詞・女性名詞の区別が、中世英語(11世紀から15世紀ごろ)では失われていることから考えると、1550年代に生まれた「『最初の』という意味の形容詞maiden」が女性名詞にしか使えなかったとは考えにくいだろう。
当たり前の話だが、同じ意味の単語でも、それが男性名詞か女性名詞かは、言語によってバラバラである。英語「ship」と独語「schiff」は共にゲルマン祖語に由来するようだが、どちらも中性名詞である。仏語「navire」と伊語「nave」はどちらも羅語「navis」に由来しているのだろうが、ラテン語とイタリア語では女性名詞なのに、フランス語では男性名詞となっている。
女性名詞説の人たちはしばしば「『船』はラテン語で女性名詞だったから」などと言うのだが、仮に英語の「maiden」が女性名詞に付くとしても、なぜ古英語などではなく、いきなりラテン語が基準になるのだろうか。「maidenは女性名詞に付く」という結論ありきで、「船」を女性名詞とする言語を探してきているだけではないのか。
女性名詞説の「処女作は『ペン』が女性名詞だから」というのもおかしな話で、普通に考えれば「作品」や「本」が女性名詞かどうかを考えるべきだろうに、なぜ「ペン」を持ち出してくるのかといえば、ラテン語で「ペン」が女性名詞だったことを探してきたからだろう。
女性名詞説の人たちがもうひとつ頼みとするのが「英語でも船をsheと呼ぶ」ということである。つまり「船をsheと呼ぶのは船が女性名詞だったことの名残である」というのである。
これについては以下のページに詳しい。
これは古英語にあった文法性とは無関係です.乗り物や国名を女性代名詞で受ける英語の慣習は中英語期以降に発生した比較的新しい「擬人性」というべきものであり,古英語にあった「文法性」とは直接的な関係はありません.そもそも「船」を表わす古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞でしたし,bāt (= boat) にしても男性名詞でした.古英語期の後に続く中英語期の文化的・文学的な伝統に基づく,新たな種類のジェンダー付与といってよいでしょう.
「OED によると船を受ける代名詞としての she の初例は1375年である」らしいが、最初にも述べたとおり、英語に男性名詞・女性名詞の区別が残っていたのは古英語(5世紀から12世紀ごろ)までである。また、これも先述のとおりだが「古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞」というのだから、女性名詞説の人たちの主張はまったくの誤りということになるだろう。
1. 英語の「maiden」は、そのあとを受ける名詞が男性名詞か女性名詞かに関係なく、「新しい」「最初の」という意味の形容詞として使われている。
2. その「新しい」「最初の」という形容詞としての用法が生まれたのは、英語から男性名詞・女性名詞の区別が失われた後のことである。