はてなキーワード: ありすとは
平成に入ってからだと思うけれど、以前島唄という沖縄民謡の作法に則って作られた歌があって、結構売れた。
内容はよくよむと反戦、侵略された側のための内容だ。同じシングルのB面もそんな感じ。
でもまあ、本来の沖縄歌謡の人からは最初、沖縄出身でもないし本来の沖縄民謡でもないから受け入れがたいと嫌がられたんだけどね。
島唄はネットの幼いおばかさんたちに分類させればサヨクの歌、愛国心がない歌と分類されるんだとおもう。
同じく、こないだのあれも愛国心のある歌、ありすぎる軍国的なウヨクの歌と分類されるだろう。
歌にできる個人の思いなんてその場限りのもの、揺れ動いて当たり前のものなんだ。
「みんなの思い」なんてものは幻想にすぎない。あるのは「思惑」くらいだ。
歌を政治的主張(自衛隊をどうするかとか憲法をどうするかとか)で
自説補強につかえる(けどそんなことはさせないゾ)というのがそもそもウヨク、サヨクの思い込みにすぎないよ。
愛国心なんてものはそのときのレッテルにすぎない。(それをうまく歌に落とし込めてないならそれは歌としての問題にすぎない)
逆に目立つから自分のもやもやイライラした気持ちのぶつけ先に利用できると考える、本来の右翼でも左翼でもない人たちならたくさんいるけど。
(もしなるというのなら災害救助を受けている人はみんなせっせと歌うだろうね)
自衛隊なり警察なり救急車なり、国や人を守る制度を動かすのは国会で決まった予算だ。
バカバカしい話だ。
つまり本当の愛国心はお金だ。税金を払う人は愛国心がある、なら言ってもいい。
歌を歌ったところで「愛国心」で救われた人や村や田んぼなんかビタイチ増えないよ。
ただ歌で気持ちよくなってCDを買う人がたくさんいればアーティストが所得税をおさめて「愛国心」を証明できる、てのはあるだろう。
そのためにアーティストはだれかをなるべく気持ちよくさせるような歌をつくる。
それだけのことだ。
1000年経ったら島唄もあれも平成百人一首の中に同時期の歌の例としてならべられてる程度のものだよ。
まあ、歌としてできがよければ、の話。
たぶん自分はトランスジェンダーだけど、パス(見た目の性別と身体の性別をあわせること)することに対してあまり努力をしていないので、
カミングアウトしていない人からは、(異性装的な)中性的な格好を好むシスジェンダーって思われているのだろうなと思っています。
別にこの状態でとりわけ社会生活に苦労はしていないので、別にそれでいいんじゃないかと思っていたんですが、
はっきりさせたほうがいいんでしょうか……。
表面的なコミニュケーションにとどめる相手からはシスジェンダーの異性愛者、
プライベートに仲良くする友人の多くからはシスジェンダーの同性愛者、
あるいは性別という概念に独自の見方を持っている不思議な人、だと思われていますが、
ですので、カミングアウトしましょう、LGBTを受け入れましょう、みたいな風潮になったとして、
それを真に受けてカミングアウトしてしまうと逆にちょっと不利になることが増えそうなんですよね。
というのも、過去に友人の輪でカミングアウトしたときの反応を見る限り、一定数、
「どうしても自然に受け入れるのは無理(警戒してしまう)」というタイプの人はある割合でいるようで、それはそういう個性なんだろうなあとこちらも思っております。
先述のように、こちらから何も恋愛対象や性自認のことに対して述べなくとも仲良くになるにつれ多くの友人は、
「シスジェンダーの異性愛者ではないな」と、雰囲気でそれと察するらしいので、そのあたりからなんとなく世間話的なシスジェンダーの異性愛者としての恋愛話をこちらに振るのは向こうから避けてくれるようになるので、こちらとしてはわりと有り難かったりします。
ただ、そういう状況のそういう場でさえ、「LGBTは異常者に違いない」みたいな偏見が先にありすぎて、
その人だけ、私がないことに気付かないタイプが少数ですがたまにいまして、そういう友人は「周りの全員が私をシスジェンダーの同性愛者としてうっすら認識している場で、私をシスジェンダーの異性愛者と認識したタイプのコミニュケーションをとろうとしてくる」のですが、
それに対して、私は「性別をその人だけ誤解している!」と思うわけではなく、
ああ、友人としてその人なりの最大限の尊重してくれてるんだろうな、と感じるんですよね。
そこで、わざわざ、「私はLGBTです」って明言する意味がどこにあるのだろうか、という疑問がありまして。
そういうところで明言したときの反応として、ほとんどの人にとっては、「知ってた」という感じで特に何か変化が起きることはありません、ただし、その、ごく少数の友人だけ、「信じられない!」みたいな驚き方をされて、そのあとその人と妙な感じになってしまうことはありました。
それを考えると、別に公言するメリットはどこにもないよなーという感じです。
もちろん、公言しないと、自分の認識する性自認のまま振舞うことが許さないタイプのトランスジェンダーの方としては、カミングアウトや社会の受け入れは死活問題だと思います。
自分は、性別で「男はこう」「女はこう」と外から括られてそのように身体の性別に応じた振舞いを要求される分野を避けたので、あまりそのあたりで困ったことはありません。困ったことはあるのかもしれませんが、いつまでも過去の恨みを根に持ってもしょうがないのでだいぶ忘れました。
なのでまあ、中にはこういう人も居ますよーとだけ。
子供の頃から環境があまりよろしくなくて「人は嘘つきで裏切る」って経験したせいか、どうにも人を信じきれない。
些細なことなら笑って許せるんだけど、命に関わる事に嘘をつかれてから不信感しか持てなくなってしまった。
下手をすれば今を生きることも出来なかったんだけど、運良く自力で助かったから今も生きていられる。
でも、人は信じられない。
こんな性格なのでコミュ障と誤解されそうだけど、普通に社交性はもってて友人も仕事仲間も多くいたりする。
付き合っている人もいるんだけど、最近彼女から結婚の話がちらほらでる。
正直な話、結婚は怖くて出来ない。昨今の浮気だ不倫だというニュースを見たら余計にできなくなった。
そもそも人に不信を抱いている状況で人付き合いをしているのだから、結婚などというイベントはできそうにもない。
どこで裏切られるか分からないのだもの。もちろん相手も同じ不信を抱いていれば同様の不安を感じているはず。
起こるかわからないという前提があるし、起こることを考えすぎているという部分もありすぎるとも自分なりに思ってる。
要は考えすぎなんだよなぁ…と結論を出している自分もいるのだから、症状としては手遅れまでには至ってない不信感だとは思うのだけど
どうしても今一歩信じる事ができない自分が居て、今のままだからこの生活が出来ているのでは?とも囁いてくる。
結婚したら「なんとなくイメージと違う」なんて彼女に言われて裏切られるのではないかと思ってしまう。
過去にそういう人と付き合った事があるんだけど、元々素がこんな調子だと言っているのにもかかわらず
1年ほど経ってから「考えてたイメージとちがうんだよね」と言われ二股されていた。これもまた不信が重くなった原因の一つ。
そも、そのイメージとはなんだろうか。付き合っている間にそのような事は言われたことはない。
挙げ句に二股という状況だ。せめてわからないような別れ方をしてくれればよかったのに。
そういう経験が今の不信気味という自分を作り出してしまったので、どうしても人を信じられない。
頑張っても2割信じられたら万々歳だ。
今の彼女とは付き合って3年半。あまり歳を取る前に結婚したいという気持ちもわからないでもない。
だから、結婚はしたいとも思う。けれども、どうしても踏み切れない。
人を信じるってのは、本当は一番難しいのではないだろうか。
実名でやっているブログもツイッターもあるのだが、そこで書くと炎上しそうで怖いため、増田で書くチキン野郎です、どうもすいません。
さて、まずはこのまとめ。
https://togetter.com/li/1244367
ブコメでは江川さんを称賛する声が多い。だが、正直に言えば、麻原の処遇に関して江川さんはわりと冷静さを失う感じがする。
そもそも、精神鑑定に関していえば、「行われていない」というデマが流れているというよりも、「まともな精神鑑定が行われていない」という疑問を呈している人のほうが多いのではないだろうか。
麻原の精神鑑定については、西山詮医師による鑑定が行われ、「訴訟能力あり」ということになっている。しかし、その一方で、正式な鑑定ではないものの、複数の精神科医が面談の結果、訴訟能力なしと主張している事実はある。
(参考)
https://diamond.jp/articles/-/8876?page=2
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/63db65c218a5ee890796ceededb22c87
上記以外で仄聞するエピソードと併せて考えると、麻原の精神が拘禁によって崩壊したのはたぶん事実なのだろうとは思う。「詐病」と判断するには無理がありすぎる。
だが、麻原の精神が崩壊したということになると、とても困る人がいる。それは特定の誰かというより、日本という国家そのものなのだろうと思う。
もし仮に、麻原が「心神喪失」状態に陥ったことを認めてしまうと、法律的に彼の裁判や処罰が難しくなってしまうからだ。
(参考)
刑事訴訟法314条
「被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。但し、無罪、免訴、刑の免除又は公訴棄却の裁判をすべきことが明らかな場合には、被告人の出頭を待たないで、直ちにその裁判をすることができる。」
だが、言うまでもなく、麻原は戦後最大のテロ事件の首謀者だ(個人的にはその点に関して疑いはないし、これ以上の「真相解明」にも正直まったく興味はない)。その麻原を裁けないとなると、日本の法秩序に対する信頼が根幹から揺らいでしまう。いくら「法律的にできない」と言っても、世論はまず納得しないだろう。麻原およびオウムの幹部を処刑することは日本の国家意思だったと言えるのではないか。
「そんな法律は変えてしまえばよい」と言う人もいるだろうが、これは法律における根本的な思想(ルールを理解している者だけが責任や処罰の対象となる/理解できない者は対象とはならない)に関わっている問題なので、そう簡単にはいかないのではないかと愚考する。
ともあれ、上記の刑事訴訟法に抵触することなく、麻原を死刑にするためには、麻原に「訴訟能力」「責任能力」があるということにしておかねばならない。だからこそ、形式的な精神鑑定をやっただけで終わらせた。しかも病気でないことになっているので治療もしない、ということになったのではないか。
ここからは蛇足だが、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会)には、次のような一節がある(p.157)。
自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
要するに、こういうことだ。何か事件が起きたとき、社会には大きなストレスが発生する。誰かに責任をとらせ、「落とし前」をつけることで、そのストレスを軽減させなくてはならない。だから、その誰かには「その事件の原因となる行動をしない自由があった(=したがって責任がある)」ということにしておかねばならない。行動しない自由があったから責任が生じるのではなく、誰かに責任をとらせるために、そのような「自由」があったことにされる、というのが上記の指摘ということになる。
この指摘を今回の件に応用するなら、麻原に「訴訟能力」や「責任能力」があったから裁判で死刑になったという理解は必ずしも正しくない。そうではなく、死刑にしなくてはならないから「訴訟能力」や「責任能力」があったということにされた…という疑念が拭いきれない。
もっとも、その是非については、判断はしない。国家の存続にはそういうフィクションが必要だ、という考えも理解できないではないからだ。ただ、それでもモヤモヤした感は残る。
そういう気持ち悪さが、今回の一件には、ある。
(追記)2018/7/9
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180708-00088579/
江川さんのこの記事で、「詐病」とか言っている人がいるけど、この記事でもやっぱり2000年代初頭の話までしか書かれてない。これ以外の詐病を疑わせる記事も、逮捕当初から2000年代初頭までの時点での話しかない。そこから15年以上の期間があるなかで、麻原の精神状態に変化があったとしてもなんらおかしな話ではない。実際、上でリンクを貼っている加賀さんの面談は2006年のものだ。
上で述べられている刑事訴訟法の規定は、「犯行時点の精神状態」ではなく「裁判や死刑をする時点での精神状態」に関わるもの。したがって、犯行時点において麻原の精神状態に責任能力が認められるものであっても、関係ない。
個人的には日本の法制度がそうなっている以上、麻原の死刑もやむを得ないとは思うが(そうでないと他の死刑囚とのバランスが取れない)、「麻原を死刑にしなくてはならない」という発想から、多くの人の事実認識が若干おかしくなっているのではないか、ということが気にかかるだけの話。
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/c34aa02a0f1770deebaa5ceafe30c3b0
(さらに追加)http://www.aum-shinsokyumei.com/2018/06/03/post-416/
id:blueboy 「詐病」だと言いたがる人は、たとえ命がかかっていようとも、糞尿垂れ流しの強烈な悪臭が漂う空間で、汚物まみれの布団で寝る生活に20年耐えられるかどうかを想像してみれば良い。無論、麻原の「宗教者」としての精神の強靭さがそれを可能にしたと考えることもできようが、それでは麻原を凡庸な俗人とみなす「詐病論」の人物描写との整合性がなくなる。むしろ、麻原が凡庸な俗人だからこそ、長期にわたる収監と死への恐怖によって精神に異常をきたした、というほうが説明としてはよほど合理的だと考える。
昨日
おしいれのもの、去年衝動的に買っちゃったものがたくさんありすぎるから死ぬ前に処分しなきゃと思ってる
プレステとか
でもプレステ1の動作確認と掃除機かけるだけで精一杯でギブアップ
でも一度も頭ぶつけたりおなか殴ったりはしなかった
ただ食欲はない
昼にサラダとコロッケ2個、おやつにわらびもち1パックだけ食べただけ
十分と言われるかもだけど
おなかのあざの色が少し色素沈着っぽくなってきた
でも当初の真っ白ないろにはまだほど遠いけど
2日分くらい
これで晩飯と明日の昼までは何も食べない
ちょっと食べ過ぎたかなと思ったけどよるになっていい感じにお腹もこなれたし空腹感もない
風が異常につよかったのは前兆だったらしい
12V3やって見たかったけどなかなか見れてなかったからよーやく
最初に1話しかない希望編みたらイミフなラスト大団円ってところで見る順番ミスった
新作プレイしたい
もう多分出ないんだろうけど
あさひなきりぎりすき
えのしまじゅんこもすき
ほしいから買ったけど買って満足してる大半のものを処分しなきゃ
悲しい
悲しい
頭の回転遅いし先のこと考えられない考えたくないし死にたいとしか思えない
産業医に話すシミュレートをしてみたけど今そう思ってるってことはまだ治ってないから復職だめですって言われるんだろうな
でも性欲なら薬でコントロールされることは身をもって知ったから、今のこの状態もおなじように薬でよくなってくれることを期待
する気力もない
わきあがるうおおおおおおと思えないのが本当にかなしい
股間がまったく反応しない
でも大丈夫
それまでは死なないから
んであれ
そうやってるうちに気分も多分変わるんだろう
でも自慰できないのがつらくてかなしいなあ
薬のせいとはいえそんなものに屈してしまう自分の性欲が悲しくなる
事情できょうだいもこどもできないしおれがこうなって死んだらほんとに終わりだ
申し訳ないけど
上司には自殺したら軽蔑するぞとかはっぱかけられたけどそういうことじゃないんだよなあ
そういうのは思い込みからきてるうんぬんとかgdgd言われてはげまされたんだろうけど責められてるようにしか聞こえなかったし
一応これまでもなんどかアラートというかSOSは出したつもりだったけどその都度それなりにいいくるめられて結局決壊して耐えられなかった自分の豆腐メンタルがいけない
楽しいと思えるものがなくて迷惑しかかけられないんだったら生きる意味なんてない
それでも生きてる人は強いからすごい
俺は弱いからだめ
この無能感と絶望感ともういなくなったほうがいいというこの感じ、これが病気だとはいまだに信じられない
でも片付け終わるまでは薬のんでしなない
動けてるうちは甘えだと言われるんだろうな
そう俺も思う
ただの甘え、豆腐メンタルなのが悪いと
それで文句ないんだろう
例の事件じゃないけどgdgdくだを巻く前に行動で示す
こうやって思うままかくことでなにかまた気持ちがかわることを期待してもいるけど
とりあえず首吊りを考えてる
家につれるばしょがあるから
そんでおむつを二重ではく
下は新聞紙しく
今はそういうのを考えてるけどまだおむつ買うまでは行ってない
あ、あと決行時は、低い姿勢からきゅうに立ち上がったときにすんごくめまいして現実と夢の区別つかなくなる感じの体質だから、それを利用してできるだけ夢うつつでやるといいかもと思ってる
食欲ないのに空腹でおなかいたくなる感じきついし
ということをなんとなくいつも考えてるけど自分はいたって正常だと思う
自分自身ただの甘えでしかないと思ってるから本当に多方面に申し訳ない
本当にすみません
あともう少しだけ許してください
涙が出てきた
泣く権利なんてないのに
悲しい
悲しむ権利もない
その気になれば人殺して刑務所に入ることなんてなんとも思ってないネットの不特定多数のキ×ガイを煽って
Hagexさんの事件を受けて、彼をまるで聖人みたいに「いい人だった」と言及する記事が増えている。
でも、正直、彼が日常的にやっていた「いじり」は度がすぎていたと思うんですよね。控えめにいっても。
例をあげると、
・田端信太郎氏が梅木雄平さんの出会い系プロフを晒して大げんか
この記事では、一般には非公開の梅木氏の出会い系サイトプロフィールを晒して、嘲笑しています。プロフィールについては、梅木氏本人がが晒された事について抗議もしています。
この記事では「ブロガーがランニングにはまるのは、精力が衰えて、夜の生活が充実していないからだ」といって、嘲笑しています。
・ブログ界の痛快ビッグダディ!? 八木仁平氏とその御家族がブログで活躍
この記事では、以前からhagex氏が言及していた八木仁平氏とあわせて、特に何か悪いことをしたわけでもない彼の家族を「ブログ界の痛快ビッグダディ」といじって、晒して嘲笑しています。
・イケダハヤトさん100円のアフィ報酬欲しさに住宅ローンをdisる!?
イケダハヤト氏の記事にアフィリエイトが貼られていることについて、「100円のアフィリエイト報酬のために住宅ローンをDisっているの?」と悪意あるまとめをしています。
イケダハヤト氏のプライベートなことについて、まとめて一方的に嘲笑しています。
件の低能先生に関しても、『しかし、イケダハヤトさんの煽りって低能先生以下のレベルだよな〜 いや、それは低能先生に失礼か。ゴメンね低ちゃん。』と間接的に低能先生を嘲笑しています。
色々ありすぎて、まとめるのが面倒くさくなったけど、Hagexさんはイケダハヤト氏や梅木氏のような「いじってもいい」存在には、度を超えたいじりをしているように思います。「いじめ」としか形容しようがないような形で。
たとえば、梅木さん本人が嫌がっている出会い系プロフィールについて、さらにブログにまとめて拡散する正当性って、いったいどこにあるんでしょうか?
イケダハヤトさんの仮想通貨買い煽りを糾弾するのはわかるんですが、家庭事情までまとめて嘲笑する正当性ってなんなんですかね?
何も悪いことをしていない八木仁平氏のご家族を「ビッグダディ」みたいに嘲笑う行為って、『いい人』がやる行為だったんですかね?
正直、彼のいじりは度が過ぎたものだったのではないでしょうか。だからといって、殺される理由にはならないけれど。
なんだろう、痛ましい事件ではあるけれど、だからといってHagexさんを無謬の「いい人」みたいに言うのは違和感しかないんですよね。