はてなキーワード: 威信とは
「北朝鮮がそんなに良ければ行って暮らせ」高位当局者が卑劣な言葉
政府高位当局者が「(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁政権を崩すことはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか」と発言した。この高位当局者は先週、ベトナム・ハノイ出張中、北朝鮮の追加挑発可能性に対する記者たちの質問を受け「ずっと北朝鮮に攻撃されながらもどうか大目に見てくれと北朝鮮に言わなければならないのか」と問い返した後「若者らが“戦争なのか平和なのか”について“ハンナラ党を取れば戦争、民主党を取れば平和”と言うようなそんな精神状態で国は維持できない」とこのように言った。
また「(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って“首領”と暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮を擁護するのか」と述べた。
また「国としてのメンツがあって、威信があって、品格がなければならないのに、どうして民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮の擁護をするのか。以北に行って暮らせ」と発言した。
(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁政権を崩すことはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか
若者らが“戦争なのか平和なのか”について“ハンナラ党を取れば戦争、民主党を取れば平和”と言うようなそんな精神状態で国は維持できない
(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って“首領”と暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮を擁護するのか
国としてのメンツがあって、威信があって、品格がなければならないのに、どうして民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮の擁護をするのか。以北に行って暮らせ
あちらの軍人さんにもこちらと同じようなフラストレーションがあるんだなあと、あちこちでネトウヨ呼ばわりされている僕は思い、少しこの人に同情しました。終わり。
1 イケメンという言葉が使われ始めて以来、この言葉がいわゆるイケメンと呼ばれる人々に対し、恋愛をはじめ、政治的、経済的、社会的人間関係における特権ともいうべき地位が付与されるに等しい機能を発揮するようになり、平成22年時点で、いわゆるイケメンとそれ以外の人々との間に著しい利益格差を認めることができるから、イケメンという言葉は、表現自体は憲法21条の保障の範囲内にあるが、この言葉の用いられ方によって利益格差を生んでいる部分を解消しなければ、そのような表現は21条ひいては14条1項に違反するというべきである。
2 具体的には、イケメンという言葉は、社会の大多数の人々に対し、容姿による差別感情や優劣感情を惹起するおそれが非常に高く、容姿により人間が差別されてはならないという憲法上の利益を害し、特定の文脈においては、イケメンという言葉を発することは、社会の許容限度を超えて国民の人格利益を傷つけるものとして、不法行為を構成する場合もあるというべきである。
3 この点、大多数の大人にとっては、イケメンという言葉の意味は人格にとってさほど重要ではなく、不法行為というに及ばないという反論がありうるが、イケメンという言葉は主として若者の間で使用されるところ、若者も国民であり、イケメンという言葉が若者社会において何らかの重大な差別感情や優劣感情を惹起していれば、それは憲法が保障する平等権の侵害であり、大人社会において利益の侵害とはいえないからといって、国民全体において利益の侵害が生じていないということはできない。
4 また、イケメンと同様に高学歴という言葉も差別に当たるという意見がありうるが、高学歴の場合はそれに見合うだけの努力をしてきており、高学歴かどうかも一般人の主観的評価ではなく、試験など学術機関における高度に専門的な評価により定まっている確実なものであるのに対して、イケメンという評価は、生まれつきの容姿といった偶然の事情や、髪型服装を工夫したというだけのことで得られてしまい、しかも高学歴に勝るとも劣らない不当な社会評価を受けているのであるから、学歴による社会差別はいわば合理的な差別として例外的に許容しうるのに対して、ほとんど見るべき努力を伴わないイケメンを高学歴と同様に扱うことはできず、高学歴という社会差別が行われているからイケメンという社会差別も容認されるべきだという意見は失当というべきである。
5 さらに、このようにイケメンをもてはやす傾向は、しばしば高学歴とイケメンが対抗関係に立つことからも分かるように、十分な努力の上に形成された高学歴という地位を、大した努力に基づかないイケメンという地位によって容易に毀損しているという不道徳も生じており、イケメンを全面的に違憲違法として高学歴を救済しなければ、著しく正義に反する事態を生じることになる。
6 なお、イケメンは高学歴に刺激を与え、長期的な意味で高学歴に利益を還元するという考慮に基づくものだという意見があるが、少なくともイケメンという言葉が用いられるようになった平成12年前後において、高学歴の対抗勢力であるイケメンを強く支持しなければ高学歴が息を吹き返さないほどの危篤状態に陥っていたという事実はなく、むしろ平成12年前後でも昔と同じように学歴に威信を感じて努力していた者も相当数いたはずであって、この機会にイケメンを強く支持し、学歴を貶めたとしたならば、高学歴の権威は著しく失墜し、それを支える者の努力も減殺され、極めて不道徳な事態を生じさせたということになる。要するに、平成12年前後にイケメンという言葉を登場させたのは政治的に極めて不当な判断であり、この10年におけるイケメンの猛威と高学歴の威信の失墜は、異常な利益の不均衡状態であり、違憲違法なのである。
僕は時々、道を歩いていてクスっと笑う事がある。
と、思うと嬉しさが込み上げてくる。
激烈な競争を勝ち抜き伊藤忠商事に入社して3年。企業の威信をかけた戦いが始まっている。
僕は伊藤忠商事の者として、将来の日本を背負っていく使命を帯びているのです。
しかし先輩方は僕に語りかけます。
『いいかい?君が母なる伊藤忠商事に何を成すかを問うてはならない
君は選ばれし神だと言う自覚を持ち、いかに伊藤忠商事に貢献出来るかを問いたまえ。』
僕は責任感の重さに胸が熱くなり、武者震いを禁じ得ませんでした。
でもそれは、伊藤忠商事を造り上げてきた先輩始め先達からの深い慈愛なのでしょう。
近い将来、この美しい企業を牽引してゆく僕たち社員の熱き誇りなのでしょう。
こうして僕たち伊藤忠商事の学生は、伝統と栄光を日々紡いでゆくのです。
嗚呼、何と素晴らしき伊藤忠商事哉。
余計な説明は一切いらない。
ただ、周りの人に『どちらの企業ですか?』と問われ
『ITOCHUです』と答えるだけで尊敬のまなざしが、更に『繊維部門です』の一言で憧憬のまなざしが注がれます。
美しい人妻から投げ掛けられる甘濡れた視線。
そして、2ちゃんに来る度に味わう圧倒的優越感。
ITOCHUに入れて良かった。
伊藤忠商事に入社出来て本当に良かった。
あぶれた7割の男性の間で残り4割の女性とイケメンのおこぼれを奪い合う、
現代はそんな哀しい状況なのだ。
結論が惜しいと言うか、20年前の認識だな。
(プライドとか、食わなくても死にやしないと気付いたとか)
情報化は宮台が指摘するとおり恋愛の流動化と繁栄をもたらしたけど
すぐ次に来る破局局面も胎生させていたんだよ。
パラリンピックっていいと思うんだよ。障害者の生きがい、という点で悪くない。引きこもって医療費がかかるくらいなら、身体を鍛えて、身の回りのことをできるだけ自分でやり、仕事してお金を稼ぎ、参加する。それに国や自治体がいくばくかの補助をする。障害者の自立を考える上でなかなか良いと思うのだ。
だけどね、商業的にはうまく回るわけがない。普通の人はパラリンピックの結果など気にしないし、どんな種目があるのかさえ知らない。一般の人に注目しろと強制できる話でもない。そんな状態だからスポンサーはつかないし、メディアの報道も「パラリンピックやってます」程度で、しかもある種の義務感でやってるだけ。競技を中継しても商業的にはペイしない。
だからといって、スポンサーもメディアも、悪いわけじゃない。商売でやってるのだから、商売にならないものにお金を使う必要はないと思うんだ。どうせ続かないからな。商売にならないことに金を使うってのは、本当に自由な気持ちで喜捨するようなものでなければいけないし、それは多数の人が利害関係を持つ会社がやることではなく、個人がやることだ。
国が税金を投入するにしても限度があるだろう。障害者福祉、自立の観点から、ある種の補助はあっていいけど、それを超えるのは問題だと思う。あくまでも自立がキーワード。それ以上の税金投入はすべきではない。例えば、渡航費の一部を負担する程度が限度だと思う。報奨金はやりすぎ。パラリンピックの選手に対して、国の威信のために金メダルを取って来い的な期待をすることが間違ってる。国を代表するって形式自体が間違ってる。報奨金の額がオリンピックと比べると安いと問題視する筋もあるけど、パラリンピックに対して国が報奨金を出してること自体がおかしい。
報奨金の話は例えばの話なんだけど、結局、何が言いたいかというと、パラリンピックとオリンピックは絶対的に違うものであって、それを同一視してパラリンピックとオリンピックの差を上げて、何でもかんでも同じにすべきだっていう主張は間違ってるってこと。そもそもの目的も違うし、国民の関心の度合いも違うのだ。それを同じにしろ、ってのは無理筋だと思うんだよ。どうかね。
まさに国家権力対国家権力のガチンコの威信をかけた戦いが繰り広げられている。
小沢に付くのは今のところ殆どない。唯一頼みだった世論が流されているからだ。
小沢に付いていれば選挙に通ると思っていたのが、小沢についていくと落ちるとなればついていくものはいなくなる。
様子見。だんまりを決め込む。
この段階で、いままであれば小沢が政治の表舞台から消えて終了だろう。
自身も直前に喧嘩を売られたからかもしれない。
今回の一連の詳細を少しでも追うと、”関係者”談なるものから漏れ伝わる言い分もかなり疑問で、4億円、4億円という数字だけが印象的におどらされている。
虚偽記載に落とし込みたいようではあるが、その4億円がなぜ虚偽記載になるのか、きちんと説明できるものはいないかもしれない。
角栄、金丸の時とは時代が違う。
検察は近年いささか博打を打ちすぎなのではないかと思う。
鳩山政権が交代するのは構わないが、検察にもその機能をチェックする特別検察が必要だと強く感じる。
時代ですね。
>物価が上がっても賃金に反映されるとは限らない。アメリカでは企業の利益を再配分する
これほんと?アメリカでも労組はかなり弱体化していると聞くけど。
(引用)
アメリカの労働組合が、その勢力も、威信も、市民の意識のなかでも、どれほど衰退してしまったのか、これはどんなに語っても大げさすぎることはないだろう。(中略)組合に入っているのは、アメリカの労働者の12.1%に過ぎず、民間部門では7.5%と、1901年以来、最低の加入率となった。(出典)スティーブン・グリーンハウス、曽田和子訳(2008=2009)『大搾取』文藝春秋、p.312
>失業不安を抱えた国民は散在よりむしろ貯蓄する。インフレ期待で消費というのは将来ずっと金に困らない人の発想。
アメリカにも失業不安を抱えた人や金に困っている人は大勢いそうなんだけど、アメリカ人はもともと貯蓄性向が低くて、将来のことなんか気にせずにお金をバンバンつかうのに対して、日本人は心配性なのでたとえインフレになりそうな気配でも貯蓄してしまうということなんだろうか。だとすれば、プラザ合意からバブル崩壊までの日本人はたまたま発狂していただけの話で、これからの日本の内需はただただ縮小していくのみなんだろうか…
開き直りじゃないですよ。ある道徳心を持ち合わせていない相手にその道徳を理由とした言説が通用しないのは、無神論者に神の威信が通じないのと同じです。意味がわからない、場合によっては馬鹿馬鹿しくさえ思える。
今回の場合だと、「自分がされると嫌でしょう?だから、相手にもしちゃいけない」。だからって、よく考えればおかしいと思いませんか? ここには暗黙の「嫌なことをすると、相手に仕返しされる」という言葉が入るはず。だったら、仕返しされないなら別に問題ない。
自分が嫌だと思うだけで、他人がどうかしてくれると思うのがおかしいんです。或いは、そういう期待は、自己の責任の元に行うべきもので、他者が責を負うべき類のものじゃないです。本当に嫌なのを止めさせたいなら、金を握らせるなり制裁を下すなり、止めてくれるように働きかけないと。
可能性で言えば段違いだと思うが。
かたや「別に日本に落ちても構わない」「衛星だと言い張ってるけどミサイルの発射実験だから落下するのが前提」「同系統のロケット(ミサイル)は過去2回打ち上げ失敗している」のと、「ガチで衛星打ち上げ前提のロケット」「落下したら国家の威信に関わる」とでは全然違うんじゃないか?
それに、「破壊したら戦争だ!」なんて韓国政府は言い出さないだろう。いやまあ、あちらのネチズン(笑)とやらは言い出すだろうけどさ。
それに、仮にこちらに被害が出た際の対応も北朝鮮と韓国じゃあ雲泥の差があるのは当然だろう。北朝鮮の場合「衛星は無事軌道に乗っている!残骸が落ちてきたというのは日本側のねつ造だ!」とか言いだしかねん。
貯金されてもその期間にすくなくともそれだけの金額は使われることは確実なんだから、定額給付金よりはいい。
硬貨は政府発行だっけ?たしかコイン流通総額は5兆円分もなかったきがする。
500円だまを銀行にもっていくと1000円札と交換してくれるとか。
昭和以前のコインを政府が倍で引き取るとかさ、昭和64年の硬貨は政府が10倍の価値で買い取るとかさw
相続税逃れがいるとかいうのも旧札を交換するさいには身分証明を求めるだけでいいはずなんだ。
旧札がでてきたら税務署に連絡するのを義務化するだけでいいんだから。
100万ぐらいだったら庶民でももってるかもしれないけど脱税は1000万以上とかだろ、どうせ。
パッとおもいついてやれそうなこともあるのに、腰も重たければ頭も固いよね。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5494032
中央の威信にかけて絶対許さないだろうけど。
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm
しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、
http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm
とおっしゃっておられるようであり、
「近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm
という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。
見出しの引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。
古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫、山室信一編、吉川弘文館、2001年、をPDF・HTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。
http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html
まず、日露戦争後の日本の中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。
日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年(大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年(昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。
清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。
後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。
それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊が存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約はロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。
先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。
このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。
日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者は日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道を商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春・旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。
実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年(明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本の警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月に陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実を押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。
上記のような「条約よりも既成事実を押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。
軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。
軍だけに責任を負わせることはできません。
安奉線が朝鮮半島と満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本の希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道を建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。
つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権の拡張を図ることは不可能になっていたと言える。
ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。
つづいて、中華民国期に入ります。
ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注:辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見を外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国の首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日的地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部や関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝粛親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。
ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。
この間〔引用者注:革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍の威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・
漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。
まず、陸軍少尉が中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。
軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償と利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。
古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍の威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。
交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。
つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。
第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属地経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動を組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注:内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社の経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツの軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。
ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣が採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国はベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。
そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。
対中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約に規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。
このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。
しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係を確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。
それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制的意識が形成され、大衆を呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権の独立と、国内における大衆的中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。
ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本の大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。
さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史の勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実は小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。
ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆的中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見は百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。
その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。
しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本のマスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動の対象であったわれわれ外国の研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか
(江田憲治「民衆運動とナショナリズム―1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf)
私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。
またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。
別に、専門外のものを理解しろというつもりはない。ただ、理解できているか理解できていないか、そのくらいの自覚は持って欲しいものだが。
こないだの見た?「核=危険」みたいな刷り込みしてないし、冷静だったし、ワイドショーみたいな民放ニュースよりはましかと思ったけど。
そういう問題じゃないでしょ。原子力発電であれ、核兵器であれ、その仕組みを厳密に理解するためには最低限量子力学を理解しなければいけないってことは知ってる?そのためには物理学と数学を大学入学以降2??3年みっちり勉強しなければいけないってことも知ってる?それを知っていれば、どれほどよくできたニュース番組であろうと、それぐらいで原子力が理解できるなんて思いこみはしないはずだけど。
そもそもあなた、原子力発電が学問分野で言うと化学だと思ってるようだけど、分野的にはどう考えても物理だからね。
だが、たとえば発電所の核燃料を盗み出せばすぐ核兵器ができるかというとそんなことは無理で、大がかりな施設を作らなければそんなことはできない。
なんでそう一足飛びするのよ。「大がかりな施設」を作れば核兵器が作れてしまうってことだよ。特に、日本みたいに技術力がある国だったらね。もっとも、日本にIAEAが来てるのは正直癒着だと思うがね。特殊法人天下りと同じような、閑職なのに名誉と報酬だけは高いってやつ。もっとも、業界関連団体ってのはたいていそういうもんでしょ。要は、北朝鮮とかイランみたいなDQNをちゃんと取り締まってれば誰も文句を言わないってこと。
知らん。そもそも、テポドンを発電所敷地内ならともかく、原子炉に命中させるなんてことが可能とは俺にはとても思えないが。
もし石油が無尽蔵にあり、なおかつ温暖化なんて問題がなければ世の中には火力発電所しかないと思うよ。だって、原子力発電所作るよりよっぽど簡単なんだから。逆に、それだけのデメリットを支払ってでも原子力発電所を作るかということを考えた方がよい。要するに、火力発電所の方が長期的には「ぶっそう」だと専門家は判断したということだよ。
その発電目的には不必要なほどの純度や量にしてないかとかは査察しとかないとわからない。
核爆弾のような大爆発を起こす核分裂連鎖反応とかは純度が高くないと起こせない。
原発に普通のミサイルぶち込んでも広島長崎のようなきのこ雲ができるってことはない。
原発に限らず工場でも車でも刃物でも物騒なのはいくらでもある。
結局はメリットデメリット比べてコストパフォーマンスよさそうなのをやってるってこと。
こないだの見た?「核=危険」みたいな刷り込みしてないし、冷静だったし、ワイドショーみたいな民放ニュースよりはましかと思ったけど。
高校では文系だったんだよ。水兵リーベ僕の船とか燃料電池の原理とかくらいまではわかる。高校時代自体がすでにはるか昔だが。
あの、六角形がつながってるみたいなのは、正直に言えばマジわかんねえ。
もちろん、発電用核燃料を精製して純度を上げて核兵器を作ることは原理的には可能だ。だが、たとえば発電所の核燃料を盗み出せばすぐ核兵器ができるかというとそんなことは無理で、大がかりな施設を作らなければそんなことはできない。
そうなのか。「太陽を盗んだ男」って映画を真に受けてしまった。作った主人公は毛が抜けまくってたけど。
するとNPTやらIAEAの査察やらがこだわるのはなんだろう。「大国の威信」?
原発反対派として気になるのは、「柏崎刈羽原発にテポドン(核抜き)ぶちこまれたら俺ら死ぬの?」ってところなんだよ。
制御がきかなくなった時どうなるの?っていう。テポドン当たったところだけの被害なのか、周囲へも広がるのか。
大地震も台風も疫病も予防と対策は重要だろうけど、そのへんは天災じゃん。人間にはどうしようもない部分あるじゃん。
原発とか、わざわざ人間の手でぶっそうなものを建てる必要があるのかと。発電だったらもっと他の方法でやれよと。
地元に建てるとかの話になったら、そう思うよ。