はてなキーワード: 南洋とは
Day.0
出発前
3月、人生で2度目の自分で計画した海外旅行に行くことにした。
行き先は香港。
今回も書きながらの旅行としたい。
きっと長くなる。気が向いた人が読んでくれると嬉しい。
あと、誤植は多分沢山あるけど、気にしないで欲しい。
さて、なぜ香港に決めたのかというと、昨年の台湾旅行が自分としてはとても良く、「意外と一人でも海外に行けるものだな」と思ったのと、台湾で現地の料理を食べたことで、香港や大陸の人はどんなものを食べているのか興味を持ったこと、そしてこの界隈で話題になっている、2次元バーコード決済をこの目で見て見たかったからだ。
また、自信を持ったとはいえ、語学の怪しい自分にとって、台湾の次に行きやすい海外はどこかとなった時、香港か韓国くらいしかなさそうだ、というのもあった。
ただ、今回は、現地ガイドが入出国に付き合ってくれた台湾と違い、全くの1人となる。
ハードルは1段、いや2段くらいは上がったと思う。
旅行には達成目標を定めて1個1個クリアして行くタイプだけど、目標のいくつかは低めに設定した。
まずは出国して、空港からホテルにたどり着き、英語か広東語でチェックインすることからだ。
今回の出発便も前回と同じ様に羽田発の早朝便。
旅行になるといつもそうなのだが、夜の移動や待機時間に眠ることができなくて、こういう時に定刻まで眠れる人が羨ましいと思う。
とはいえじっとしているのも辛いので、現地で言葉が通じなかった時のために、メモ帳にイラストを描いたり、簡単な広東語のおさらいをしたりした。
広東語に関しては本を買ったり、3ヶ月間、広州や香港の人のYouTubeを見たり、香港ポップスのMVを見たりしたが、聞き取れるまでに至らなかった。
同じ発音でも発する声の高さで意味が変わる広東語は、単純に「話す、聞く」というフィジカルな部分がとても難しい。
翻訳アプリに広東語を話して翻訳させるという手段で練習したが、どれくらい通じるものか。
広州出身のレイちゃんがYouTubeで教えてくれた「片思いの相手を呼び出して告白する時のシークエンス」を使う機会はなさそうだ。
ところで、深夜の羽田空港国際ターミナルで周囲を見渡すと、共に出発を待つ人達がやけに若い。
ベンチの向こうでは、大学生と思しき男子の一団がUNOらしきゲームをやっている。
Day.1
上晝・晏晝
機内に日本語が飛び交ったせいか、やや弛緩した気分で香港国際空港に到着したのは現地時間で11:15分頃。
長い長い入国審査の列に一瞬うんざりしたが、審査員は列を誘導して次々と人を通して行く。
さすが世界でも有数に人が行き交う空港だけあって、手際がいい。
1.「日帰りで深圳にいき、翌日広州に行くために必要なものはあるか」
3.「オクトパスカードが欲しい」
「我想去深圳一日遊、下個聽日、想去廣州。要乜嘢?」
「◯×◯×◯×…」
しまった、ちょっと懸念していたけど、「決まり文句は話せるのものの、聞き取れない」というのは思った以上に深刻だぞ。
なまじ話せるだけに、向こうもちゃんとした広東語で返してくる。
かなりビビったものの、いかつい面相と違って親切なにいちゃんは、「乜嘢?」と聴き返してくれて、「日本人はビザはいらない」と笑顔で答えてくれた。
しかし次の両替はもう少しハードルが高く、言っていることを聞き取ってもらえなかった。
「港幣」という単語でなんとかクリア。英語の方がまだマシだったかもしれない。
オクトパスカードの購入も一悶着あり、「我想買八達通」と言うと、「いくつかの選択肢があるが何が欲しいのか」と多分言っているであろうことを聞かれ、当然答えられないので、お互い困り顔で天を仰ぐという有様。
「weit here」指さされた列に並び、列に従ってたどり着いたカウンターでなんとか購入することができた。
ちょっと凹むが、一応やりたいことは1つひとつクリアしているのであり、60点くらいのクオリティであると納得するしかないかぁ。
それにしても腹が減った。
昼の時間だ。
一瞬、マクドナルドで済まそうと思った昼食だが、空港を散策すると、チャーハンとか、カレー煮込み的な何かなど、いかにも香港っぽいものを出している店があったので、せっかくなのでそこにする。
「loast goose,milk tea」何より食券売りのお姉ちゃんが怖かったので、無理をせず英語で注文する。
食券を渡してしばらくするとおばちゃんが叫んだ。
「ンーロッパーツァッ」「あ、5687番か、俺だ」数字の読み方勉強しといて良かった。
やはり南洋の中華料理は台湾と似ていて、全体的にあっさりしているらしい。
でも全部食べたら丁度いいような味付け。
下晝
地下の無印良品には日本語のパッケージの商品が並んでいて驚く。
ローカライズされてないんだな。
オクトパスカードを買っているので移動が楽。
日本の気候に合わせてきたので、香港の蒸し暑さに少し参りながら、尖沙咀駅に降り立ち、地上に出ると、その光景に圧倒されてしまった。
香港は狭くて人が多い。
人の多さもその人種も、行き交うスピードもエネルギーも尋常ではない。カオスだ。
平日の昼でこの有様だと、旧正月のようなイベントにどうなるのか想像もできない。
この異常なくらいエネルギッシュな街で暮らすというのはどういうことなのだろうか。
蒸し暑さと人のエネルギーに当てられて少し疲れてきた。
尖沙咀のちょっとだけ外れにあるホテルが今回の宿だったが、実際見てみると思った以上に大きくて驚いた。もう少しアットホームなホテルじゃないかと勝手に思っていたので、少しビビる。
さてここで次の目標、「英語か広東語でチェックインする」だが、レセプションの小柄なお姉さんに広東語がまったく通じない。
それでもカタコト英語でチェックインはできたが、「日本語できる人いますか」さえ通じず、ちょっと凹みつつモチャモチャやってると、50代くらいの女性に声をかけられた。
「何かお困りですか」日本語だ。
「英語部のリーと言います。何かお困りでしたら、お伝えください。」
助かった。
これでシャワーの使い方がわからなくても、失敗して鍵を部屋の中に忘れて閉めてしまってもなんとかなる。
もちろんそんなことがなければ一番だが。
尖沙咀がどんなところかと問われれば「新宿と銀座と青山と道頓堀を配分がどうとか考えずにグチャっと混ぜて、そのまま沖縄に放り込んだような場所」だ。
ヴィトンの斜向かいに怪しいインド系の人達がたむろする巨大な雑居ビルがあり、そのあいだのヤシの木が植えられた大通りを2階建のバスが怖いくらいのスピードで次々と疾走する。
件の怪しい雑居ビル、重慶大厦で両替をしながら「こんな暑いところでこのエネルギーで生きていて疲れないのだろうか」と思った。
それにしても尖沙咀はいままでちょっと記憶にないくらい騒がしい街だ。
ガイドブックによると中環から上環にかけては、ややゆったりしたエリアらしい。
途中、MTRを乗り継ぎ、地上に出る。
どこがだよ、ここも騒がしいじゃねーか。
お茶を買いに行くまで元気が持つだろうか。
メロンパンとの違いが気になっていたパイナップルパンは、クッキー生地をつかっているもののふんわりした食感で、甘さ控えめな代わりにバターががっつり挟まっている。
やはり南洋中華料理は甘さや塩味は優しいが、油は惜しみなくねじ込んでくる。
ちなみに「ビンサッ(アイスで)」と頼んだが、ホットで出てきた。やはり広東語が怪しい。
挨晩・夜晩
台湾と香港では飲まれているお茶が違う。ここ香港でもお茶を買うことにした。
比較的リーズナブルにお茶が買えるという、事前に調べたお茶屋さんに向かう。
件の店は庶民的と紹介されてた割りには綺麗な店構えで、「意外とお高いかもしれないからゆっくり選ぼう」と思ったら、入るやいなや「どのお茶を選ぶの?」とお店の女士。
あまりの出足の速さに面食らってすっかり飲まれてしまいそうになる。
「あ、ちょっと見るから」と止めて一旦ははなれたけど、3分もしないうちに「どれにする?」圧倒的なスピード感だ。
「じゃあ普洱と白牡丹と・・・」初めからある程度決めてなかったら飲まれて鉄観音とか買ってたと思う。
入店から決済まで、あまりのスピードに高かったのか安かったのかさえも判然としない。
路地裏でやっと見つけた静かなバーで、アジア風のサテ風味の麺とビールで夕食をとって、ホテルに戻ることにした。
香港の人はよく食べるというが、なんとなくわかった。
とにかく食べないと、この街のスピードとエネルギーについていけない。
中身は雑貨屋さんで何をパクったのか判然としないが、そんなことを気にしていてはこの街では置いていかれる。
街中に沢山ある両替の店の多くはレート的にはボッタクリであるというが、店もお客もやましい空気は微塵もない。
中環駅のホームでなぜかウェディングドレスを着た女性を見たけど、この街なら何でもありだ。
ホテルに戻る道すがら、漢方茶のカフェで、女性がボーッとしていた。
きっと明日に備えて充電しているのだろう。
食べて、稼いで、友達と騒いで、恋をする。
この街は、人間の欲望の明るさを全力で肯定して前に進む空気に満ちている。
堕天翅族がアトランディアの地(南極)に高度な文明を築いていた(創聖のアクエリオン)
プレデター南極に降り立つ。人類に建築技術を与え神として崇められた
神殿を建造させ100年ごとに成人の儀式のために地球を訪れ、エイリアンの宿主となる生贄を求めた。しかしある時繁殖しすぎたエイリアンによって敗北し、全てをリセットするため自爆装置を用い南極の文明を消滅させた(エイリアンVSプレデター)
全盛期のキスショットが南極大陸から日本に渡る。衝撃で南極大陸を破壊しかける(鬼物語)
アーサー・ゴードン・ピム、友人オーガスタスの協力のもと帆船グランプス号に密航する
様々なトラブルを乗り越え辛くも南洋を目指す貿易船ジェイン・ガイ号に救出される
そのまま南極探検に向かい「テケリ・リ」と鳴く動物に遭遇する(ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語)
ノーチラス号は資材補給のため南極の秘密基地へ向かう。基地は南極の地下にある大空洞に、2万年前に古代アトランティス人が建造した巨大なドックだった(ふしぎの海のナディア)
ミスカトニック大学のダイアー教授率いる探検隊、南極大陸に向かう
生物学者のレイク率いる分隊が狂気山脈を発見。「古のもの」の化石を数体発見するがショゴスの襲撃を受ける。最終的にたった2名の隊員のみが帰還する(狂気の山脈にて)
ナチスの残党が宇宙人との戦闘に勝利し、遺跡から聖杯を手に入れ新たな帝国を南極に築く(ADVANCED WORLD WAR 〜千年帝国の興亡〜、難局!ED)
昭和30年代、敗戦からの復興を進める日本は戦勝国を中心とした国際地球観測年による南極観測への参加を表明する。しかし、他の参加国からは敗戦国であることを理由に罵倒される。そして日本に割り当てられた観測場所は「inaccessible(接岸不可能)」とされていたプリンス・ハラルド海岸であり日本は全く期待されていなかった。その中で倉持たちは日本が世界と肩を並べる時が来たとして南極観測のために尽力する(テレビドラマ「南極大陸 」)
第二次越冬隊を乗せた南極観測船・宗谷が例年にない悪天候と氷河に阻まれ立ち往生してしまう
その4ヶ月後、往生したままの観測船から飛行機が基地に降り立ち本日中に全員が昭和基地から撤退し帰国するよう命令が下る。しかし犬達を連れていくことは許されず、潮田達は苦渋の決断で数日分の餌を与え南極に犬たちを置き去りにして帰国する
犬達は鎖から逃れ、1年後に生き残っていた兄弟犬タロとジロに再会する(南極物語)
南極に生息する怪獣ペギラが南極観測隊の基地を襲撃したが、南極の苔から取れる物質ペギミンHが弱点であることがわかり、それを搭載した気象観測ロケットで迎撃されると黒煙を吹きながらどこかへ飛び去る(ウルトラQ)
イギリスの細菌研究所で開発されたウイルスがスパイによって盗み出されたが、スパイの乗ったセスナはアルプス山中で吹雪のため墜落しウィルスは流出してしまった
ウイルスは全世界に蔓延し半年後には35億人の人類を含み地球上の脊椎動物がほとんど絶滅してしまう
わずかに生き残ったのは南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人と、海中を航行していて感染を免れた原子力潜水艦ネーレイド号やT-232号の乗組員たちだけであった。過酷な極寒の世界がウイルスの活動を妨げ、そこに暮らす人々を護っていたのである。隊員らは国家の壁を越えて「南極連邦委員会」を結成し絶望の中から再建の道を模索する(復活の日)
南極の奥地にある機械の城ネオグラードを拠点とする、メカ人間の帝国「新帝国ギア」が人類への攻撃を開始する(超電子バイオマン)
「私」が氷男と結婚、南極旅行を持ちかける(村上春樹「氷男」)
学会で使うテープを間違って娘たちに送ってしまった江崎教授のために両津勘吉と中川圭一が協力して世界中を駆け巡る。冬子がいた南極で両さんは制服のまま海に落ちたり白熊と格闘する(こちら葛飾区亀有公園前派出所「絵崎教授80時間世界の旅の巻」)
西村淳、昭和基地からも遠く離れた陸の孤島、南極ドームふじ基地に料理人として派遣される(南極料理人)
セカンドインパクトで南極大陸が消滅する(新世紀エヴァンゲリオン)
南極の氷山から生まれた極寒爆竜コンビを、アバレンジャーと正義の爆竜たちが迎え撃つ(爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!)
新人サファーのペンギン「コディ」がサーフィン・ワールドカップで優勝を目指す(サーフズ・アップ)
オルタンス、南極のフランス観測基地で料理人となり1年間の任期を無事に終える(大統領の料理人)
碇ゲンドウ・冬月コウゾウ両名が南極に出向きロンギヌスの槍を回収。NERV本部地下のリリスに零号機によって刺された(新世紀エヴァンゲリオン)
18歳のジン・カイザワは、南極海の氷山曳航を計画するシンディバード号にオーストラリアから密航する。乗船を許されたジンは厨房で働く一方、クルーや研究者たちのために船内新聞をつくることに(氷山の南)
戦士としてヒイロとの決戦を望むゼクス。ノインはヒイロとトロワを連れゼクスの待つ南極へと向かう(新機動戦記ガンダムW 第15話「決戦の場所南極へ」)
自分は(娘だが)父親に「あしながおじさん」を進められたときはこういう恋愛小説に興味がなく、なんでこんな他人(年上のお姉さん)の手紙をえんえんと覗き見などしなければならんのだとおもった。
今となってはもちろん、ツンデレなおじさん(金髪碧眼の若い男性である。執事にジャービス坊ちゃんとかよばれているええとこの子である)がとてもかわいいですねという生ぬるい目で見ることができる。
あと濫読家で妹がうるさい家だったので暇つぶしもかねて小学校中学校の900(日本文学・世界文学)のあたりはありったけ読んだ。
3冊まで借りられたので、シリーズ化してあればなんでも読んだ。(全集でないのは毛色が違う取り合わせになるので選ぶのが面倒)
ねしょんべん物語も落語全集も世界創成童話も南洋一のルパンもシャーロックもSF全集のトリフィドもコバルト文庫の氷室冴子も星新一も、まあ背表紙が同じ色の版型同一の本が棚に並んでいれば(そしてだれかに先に借りられていなければ)すべて読んだ。
しかし他人の「心理」とか「日常」とかを追跡する面白さは大きくなるまでなかなか感じられなかった。夢野久作なんか心の中の話しかしてないけどおもしろいので小学校で読んでたらショックだったかもしれないな。いやそうでもないか。
ルナールさんのにんじん、オチはそれでいいんかい。でも、ちょっとわかってしまった。2chから流行った毒親文学の走りだね。
小公女ポリアンナ、アニメはチャンネル権を主張する妹たちがいたために見ることはなかったけど、成人してから読むと強烈だな。「よかった探し」というミームをつくったのこいつやで。
赤毛のアンはテレビで見れた。今見ると馬車とかやはり宮崎動画だけあって木漏れ日とか子供向けなのにめっちゃがんばってる(そして低予算なのでたぶん子供の時はわかってなかった)
そのあとお小遣いが増えて漫画が買えるようになりSF系少女漫画やコバルト文庫も好きなだけ変えるようになり(少女向けsf漫画の出始め)、ウィングス創刊に立ち会った。ズッコケはたぶん自分が高校ごろでそのあと怪盗ゾロリとかでて自分の子供世代だとゾロリは全巻必修だったのかな。アンパンマンも地味な扱いだったと思う。今みたいなポケモンみたいなアニメ系作画じゃない水彩っぽい絵本がぽつぽつとでてはいた。児童だとバーバパパ、あと長靴下のピッピ、マガーク探偵団(これもなかなか長い)(しかし主人公が不細工で絵も今いち)
子供が特定の本を選ばないのは「長い文章がいやだ」「ふりがながふっていない」「文庫本は字が小さい」「挿絵が怖そうに感じられた」といった些細な理由だと思う。
追記、そういえばクレヨン王国シリーズは妹がたくさん集めていた。自分は誰も知らない小さな国シリーズ出てるだけ読んだくらいだなあ。
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
元増田とは少し考え方が違いますが、選ばれなかった過去という話を明確に打ち出しているので、「あり得たはずのもうひとつの世界」というのは重要な要素だと思います。
原爆で母を失ったヨーコは母の左手を握っていたために助かりましたが、すずさんが「晴美ちゃんのことを左手で引いていたら…」と後悔する際に出てくる映像と重ねることができます。
終盤にあの凄惨な親子のシーンを唐突に挿入する演出も、かなり意図的なものと思います。
もしすずさんが左手で手をつないでいたなら、晴美は助かっていたのかもしれません。
分岐ということで考えるならば、北條周作の求婚以前に水原哲とすずさんが結ばれていたら娘が産まれ、もしかしたら親子は広島で被害を受けたかもしれません。
ヨーコはそうした「ありえたはずのもうひとつの世界」の住人のようにも思えます。
そして、おりんさんという人も、すず=りんという名前から、すずさんのもうひとつのあり得た姿だったのかもと考えられます。
また、もしかしたら兄要一も南洋で生き延びて、ワニのお嫁さんと暮らしていたかもしれません。
それらのあり得た世界が選ばれなかったのは時代や状況のせいで、ただの偶然にすぎません。
無数の可能性から偶然選んだひとつの結果をどう受け止め生きるのか、ということを語った作品なのだと思いました。
そして最後にヨーコという(どこかの世界ですずさんの娘だったかもしれない・もしくは晴美のような)少女がすずさん・周作夫婦と出会います。
昔おりんさんがすずさんから西瓜の赤いところをもらったように、ヨーコはすずさんから海苔巻きをもらって、無数の世界が収束し重なり合います。
このラストは、冒頭で「海苔を巻いた望遠鏡」を覗いて眠ってしまったバケモノ、失くした右手が描いた鬼イチヤンが結んでくれた縁かもしれないね、と考えるととても素敵な結末に思えます。
織田信長がウィッチ(森蘭丸、少女でウィッチ)によって暗殺を免れ、海洋大国として栄えた国。西はインド洋や東南アジアでブリタニア(大英帝国)とドンパチ、東は北リベリオン大陸(北米大陸)に入植するなどのチート国家。
ウィッチが脚に履くストライカーユニットは、1・2期主人公の父親が開発した。
1話にもチラッと出てくる「南洋島」は、太平洋に進出した武士団が発見した無人かつ資源豊富な島で、本土よりも広大。ぶっちゃけ満州。
中国大陸・朝鮮半島は荒涼とした大地が広がっているが、浦塩(ウラジオストク)周辺も勢力圏。
あの世界の少女は「使い魔」と呼ばれる動物と契約することでウィッチとなる。
もともとはユニットを穿かせるにああいうデザインとなったが、作中では若い女の子ならアレが一般的らしく、ナースや村の少女ですらパン……ズボン丸出しである。
スカートのようなものを「ベルト」と呼ぶことがある。タイツのようなものは「ズボンの重ね穿き」。
海軍付属学校の制服故、着水してもいいようにらしい。が、軍属でない女学生も着ている。紺・白の他に臙脂色?も確認されている。
海軍は軍服の下にスク水だが、陸軍は丈の短い巫女装束っぽいもの+ズボン。
公式ではまず有り得ない。
メタな話、キリスト教が(おそらくイスラム教も)存在しない。詳細は省くが、ストライクウィッチーズの世界はカエサルが暗殺を免れたあたりから歴史に手が加えられており、民族紛争や宗教対立のない、または現実よりも悲惨ではないものとなっている。
太平洋戦争時、中島らもの父はインド洋で補給の任にあたっていたという。
補給といっても戦場にいることに変わりはなく、凄惨な場面に幾度となく遭遇したはずだ。
いつもギリギリのところまで話は進むのだが、そこで止まってしまう。
私の祖父もそうだった。
尋常小学校で進級できなかったこと、電化される前のパチンコ、現役時代の仕事の話。
多くの老人が若者に対してするように、取るに足らないことから人生の一大事まで、細大漏らさず語り聞かされた。
まるであの暑すぎる盆は、八月十五日はなかったかのように祖父は振舞っていた。
祖父が戦争を忘れているはずなどなかった。祖父の弟は遠い南洋で戦死しているのだ。
祖父が語る過去は綺麗に漂白されており、一点の曇りもない。幼いながらも、私は血痕なき祖父の半生を震えるような思いで聞いていた。
結局、祖父は弟の白木の箱を抱えたまま冥府にくだってしまった。
映画を観れば分かる。
ベトナム帰還兵ものは掃いて捨てるほどあるが、日本のそれは数えるほどしかない。帝国陸海軍の復員兵は大勢いたのに、だ。
死線をさまよった彼らは、中島らもの父や私の祖父のように、歴史を墓場まで持って行ってしまった。
沈黙は復員兵とその家族に半世紀の安らぎを与え、同時に不安も残した。先の都知事選における田母神への六十万票はその証左だ。
過去は復讐の機会を窺っている。ふと足元を見下げたら、軍靴と脚絆が私たちの足まわりをがんじがらめにしている日が来るかもしれない。
212 :ソーゾー君:2014/01/19(日) 18:33:08 ID:peu9rhDI
タックスヘブンの国は元首がエリザベス女の王怪しい国ってことを隠して必死に隠して低レベルな嘘を平気で吐いてるだろ?
旗みたら解るけど南洋の島国はエリザベス女王が元首だったりスペインの王様が元首だったりする国ばっかなんだぜ?
カナダ、オーストラリア、沢山ある南洋の島国は独立国と思われてるけど違うんだぜ?元首はエリザベス女王なのw
南洋の島国に天皇陛下が滅多に行かないからあまり知られてない事だけどな・・
少し前に天皇陛下がカナダに行ったとき出迎えたのは首相ではなく怪しい女だった・・
何で首相ではなく怪しい大使なの?と思ったらエリザベス女王の代理なんだと・・
「基本的に元首は元首でお出迎えがルールだからネタバレだね・・」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
212 :ソーゾー君:2014/01/19(日) 18:33:08 ID:peu9rhDI
タックスヘブンの国は元首がエリザベス女の王怪しい国ってことを隠して必死に隠して低レベルな嘘を平気で吐いてるだろ?
旗みたら解るけど南洋の島国はエリザベス女王が元首だったりスペインの王様が元首だったりする国ばっかなんだぜ?
カナダ、オーストラリア、沢山ある南洋の島国は独立国と思われてるけど違うんだぜ?元首はエリザベス女王なのw
南洋の島国に天皇陛下が滅多に行かないからあまり知られてない事だけどな・・
少し前に天皇陛下がカナダに行ったとき出迎えたのは首相ではなく怪しい女だった・・
何で首相ではなく怪しい大使なの?と思ったらエリザベス女王の代理なんだと・・
「基本的に元首は元首でお出迎えがルールだからネタバレだね・・」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
よ、今日は専門外だけど飲んでたらオモシロイ話聞いたからタレコムわ
なお、聞いた本人に了承とったけど変に絡まれてもなんだから新規ソースゼロでお届けします。
オレが言ったんじゃないぞ
opiegro32
太田はネタとかじゃなくて本当に腐ってるから「太田が悪い!」とか言って茶化す風潮はやめてほしいなあ。本人の悪質さが薄れるだけだよ 2013/12/04
太田克史さんってのは、偉大な人だよ。
というネタで飲んでたのが発端で、
この対応ってあたりまえっちゃーあたりまえだよねー、ねー、みたいな話をしてた。
んでだ、ハタと思い至った。
これは、フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット、クローズド・サークル全てが含まれているのではないかと。
結論から組み立てた気配のする小説を読んだ時の強烈な既視感が俺を(以下略
だれが、こんなことをしたのか。
ってのは、オレが書かずに既に書かれてるからそっち読んでくれ。
んで、「盗作ではない」という話でこじれてるのはなにか、という話なのだが、
一回ここをハッキリさせとこう。
はい、1番の裁判沙汰にはなりません。両者ともコレはハッキリ認識してる。
盗作の定義ってのは曖昧で、そもそもアイデアは法律の保護対象にはならん。
具体的には『名探偵ドイル』であっても、訴えられて負けたりはしない。
映画ノベライズレベルで同じとかキャラクターが明らかに同じ(二次創作)で無い限り、
もうコレは相当に厳しい。
パクられたと言っている古野まほろの言ってることは突き詰めると
「俺のパクったって言えば許してやるよ」
という事になる。
盗作じゃない盗作じゃないって言ってんのに何度も絡んでるってのは、変だ。
これまで古野について一切、どこかで語ったり、書かれたりしていないのは何故なのか。これらがハッキリすれば、何の問題もないと思います。
自尊心の問題なのよね。
俺を無視するな、と。
そこで、どういう落とし所があり得るか。
ほれ、仁義とかスジとか浮世のギリってヤツ。
さてここで一つの問題が見えてくる。
星海社FICTIONS新人賞で、太田さんイチオシで、CLAMP。
さあ、日程逆算は野暮だからやめておくんだ!
と、いう状況下で、メフィストでデビューしといて他社に移籍した作家のプライドを満たすために何かをするか?
いかにして、それがなされたのか。
コレも俺が言ったんじゃないぞ
brainparasite
さて、高校生で名探偵でって話をしようとして、CLAMP好きそうならどういう"学園"にするだろうか。
普通の高校?そりゃ担任がボディーガードなら無くはないだろう。
ミッションスクール?まあマリア様は見てなくても考証が面倒だろう。
というか、高校ってのは中等教育機関だから、そもそも「伝統的な」高校ってのは難しい。
つうかぶっちゃけた話な、誤解を恐れずに言えば、
明治に諸列強と並ぶ国家にしようと、帝国大学を頂点としたピラミッドを作ったので、
教育機関ってのは、政府か、士族か、パンピーか、みたいな形になった。
慶應義塾を福沢諭吉が立ち上げた時に、政府に対抗した中産階級の教育機関を目指したのは、まあある意味で流れとしては必然だったのかもしれない。
閑話休題。
つまりだ、伝統的な高校で、軍閥のニオイを消しつつ権威を身に纏わせるには、サムライのガッコウってのは、オテガルなわけだ。
古野まほろや太田克史の出身校とか考えると、このへんは興味深いね!
実際に読むと判るけど、中村あきは清涼院流水系の、まあそういう芸風だ。
設定厨って言うよりは、真面目な顔した高校生が賢しらに推理合戦で謙遜しあう、あー、暑くてもぴっちり制服来てんだろうなーっていうそういう感じの話だ。
うっかり私塾からスタートして南洋研究機関を設置した島に移住してたら海軍に施設接収されたり学生総出で米軍に対向するようなおもしろ学園とは根本から違う。
絵は見えてる、書きたい内容もある、ではパッケージをどうしようって時に、誰と誰が相談する?
なにゆえに、それがおこなわれたのか。
別に新人賞でオリジナリティを重視するのはかまわない。むしろ当然である。既に市場に似たような作品があるのならば、多くの読者は新人ではなく実績のある作家の作品を選ぶだろう。
いやー、そうね。
見事に「設定」に関する話しかしていない部分を引いて来ている所にセンスを感じる。
ポイントはね、誰も筆力を話題にしていない所。
高校生で400枚書くのが凄い、という話はしている。
クサしているのは、平たく言えば「見た目」の話。
想像して欲しい。
大日本帝国って名前の世界観で、子爵令嬢の依頼を受けた斬首死体に対面したり、瀟洒なホテルのラウンジで酒かっくらったりするガキどもが右往左往するアニメと、
いちおうは現代社会の公立高校で、女子バスケットボール部の壁写真が無くなったり、体育館でジュース飲んだりするガキどもが右往左往するアニメと、
絵面で観た時に、似ているだろうか?
つまり、星海社にとって芸風というのは、読んで想像した絵面が似ているか否か、だ、
というか、いっちゃなんだがフツーはそうだろう。
完全無欠の生徒会長の号令一下、無理難題を適当に片付けるって書くと「生徒会の一存」も「めだかボックス」も同じになっちまうが、読んで受ける印象は相当に異なる。
判り難かったらこう言い直せばマンガやラノベに詳しくない連中にも伝わるか。
この4作品はいずれもアーサー・コナン・ドイルの描いた誉れも高き史上最高の名脇役がモトネタだけれども、見栄えはずいぶん違う。
勿論、それぞれコナン・ドイル卿には敬意を払ってるが、例えばそれぞれがそれぞれの作品をいちいち上げたりしているだろうか?
(なお、モンタナ・ジョーンズに関してはマルコ・パゴット絡みでセーフ)
星海社に限らず、新人賞ってのは、いちおうは「応募された作品から」って話になる。
ただな、すげえオモシロイとか、ものごっつ読ませるとかじゃ無え。出版できるか、だ。
んだがね、例えば新人賞が出てない回ってのもあるわけで、応募がゼロだったからじゃない。
ほいでだ、「出版すると設定がヤバイ」ってヤツがハイペースで原稿用紙を埋められるとする。
するってぇとだ、
新人賞ってのは、「審査員の考える出版できそうな作品」に与えられる。
別に要件がツマビラカになってるわけじゃねえから、当然応募側はよく判らんで爆死する。
じゃあ、「審査員の考える出版できそうな見栄え」を「見た目で落ちたヤツ」が知ることが出来れば
言ってみれば効率良く新人賞を通過することが出来るってスンポウだ。
ここは、ひらかれていない。
1.選考に関わった全員が『天帝のはしたなき果実』を読んでいないor内容を忘れていた。
2.色々類似点があると気づいていたが、この程度大した類似ではないと考えた。
3.色々類似点があると気づいていたが、読者は類似に気づかないと考えた。
イラストに大御所CLAMPを使っている時点で4番は無いだろう。考えられる可能性は残りの3つ。外野である我々にはどれが真実なのかを判別する術はない。
はたしてそうだろうか。
中村あきのデビュー作、『ロジック・ロック・フェスティバル 〜Logic Lock Festival〜 探偵殺しのパラドックス』の主人公は、『中村あき』だ。
古野まほろのデビュー作、『天帝のはしたなき果実』の主人公は、『古野まほろ』だ。
そりゃあいくら太田さんに縁の深いメフィスト賞たって、50回も近くなりゃあうっかり読んでない作品が合ってもオカシクナイヨネー
って、真顔で言えるだろうか。
そして、そんな作品がぽっと現れた時に、
太田さんが大きく関わる星海社でそれを見逃す編集者が果たしているであろうか?
すべては、めいはくでは、ない。
身も蓋もない話、これが星海社からではなく別の出版社から刊行されていたら、ここまで話題になることもなかったと思うのだが……。
そーねー
登場人物はこれで全部で証拠も全て揃っているので、後は推理するだけでござい、とはならん。
「犯人はおまえだ!」というセリフを一度は言ってみえてモンだが、そうもいかん。
しかしだ、状況を平静な目で見つめた時にだ、
に、世界観だとか設定だとか、小道具の話が入ってないのは、弁護士に相談した結果じゃねぇだろう。
誰が、どのように、何のために、「新本格」推理小説を出版したのかを考えると、
「このページは戦時の強制連行・強制労働についての調査研究を紹介します(竹内)」とのこと
ラバウルヘは軍隊「慰安婦」も連行されていた。全北茂朱郡出身の朴さんはソウルの「職業紹介所」に売られ、野戦病院での洗濯や看護をした。三年働けば借金を返還できるという「慰問団」への参加を持ちかけられ、釜山・下関を経て、ラバウルに連行され、性の奴隷にされた(証言・FAS翻訳史料)。ほかには、「紡績工場への就労」という言葉でだまされ、下関、広島を経てラバウルヘと連行され、二〇人の女性たちと教会に設営された「慰安所」で性奴隷を強要されたケースもある(『ハッキリ通信三』日本の戦後責任をハッキリさせる会、一五~一六頁)。
兵士の証言には、一九四二年ころラバウルには約一〇〇人の慰安婦がいた、一九四三年には大連からラバウルヘと「ウラル丸」で約六〇〇人の女性(韓国、台湾、中国)が連行されたというものある。その実態の詳細は不明であるが、多くの女性がラバウルなどで性奴隷とされていったとみられる。